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2020年8月27日 (木)

「もだえ」その3 「もだえ」には、ぎっしりと、あちこちに、人がしばし考え込み、しばし対峙するであろうテーマが散りばめられている。

もだえ
1944年
スウェーデン

監督:アルフ・シェーベルイ、助監督:イングマール・ベルイマン、脚本:イングマール・ベルイマン、撮影:マルチン・ボデイン。
出演:スティーク・イェレル、アルフ・ケリーン、マイ・ゼッタリング、グンナール・ビョルンストランド。
日本語字幕:桜井文

ときどき、容易に通り過ぎることの出来ない映画というものがある。難解であったり、謎が残るため再度見なければならないものとか、感動し、もう一度その感動を味わいたいと思うものとかである。そのどちらの理由をもつ作品もあるが、「もだえ」(アルフ・シェーベルイ監督、イングマール・ベルイマン脚本・助監督)は、どちらかと言えば、後者に属する作品だ。この作品は、決して難解ではない。

「もだえ」には、ぎっしりと、あちこちに、人がしばし考え込み、しばし対峙するであろうテーマが散りばめられている。いつか、どこかで、この問題を考えたことがあり、取り組んだことがある、と思えるような普遍的なテーマが扱われている。青春の苦悩もそのひとつである。

しかし、なんと言っても、この作品の中で際立った影となっているのは、カリギュラという人間の存在感なのではなかろうか。主人公ヤーンが格闘する苦悩を飛び越えて、カリギュラ的なるものと格闘し、それを許容している社会へ、鋭い眼差しを送っているのは作品それ自体ではなかろうか。

カリギュラは、病理である。異常な病理である。そのカリギュラが、公立高校の教職にあり、社会を支配する仕組の一員になっていて、だれもその邪悪性を解き明かせない。それを見抜いているのは、生徒たちおよびベッタという女性だけである。学校も、警察も、医師たちも、カリギュラを断罪できないでいる。

(2003.1.5)

 

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