ハンガリー映画を2本立て続けに見た
「コンフィデンス」(イシュトバン・サボー監督)と「ハンガリアン」(ゾルタン・ファーブリ監督)の二つの作品のエンディングは、解放の瞬間で終わる。解放とは、この場合、ナチスの敗北を意味する。
しかし、この解放の瞬間に、「コンフィデンス」は主人公の女性が夫と再会しているさなかに、離れ離れになった愛人が帰還するという皮肉をもって終わり、「ハンガリアン」は、ドイツへの出稼ぎをようやく終え、故国に帰還したハンガリアンたちに召集令状がもたらされるという皮肉をもって終わる――という、どちらも単純な結末とはならない。
ハンガリー人が辿ってきた苦難の歴史を、両監督とも、ユーモアを感じさせるほどに、一定の距離感をもって眺め、共感し、愛惜している。深刻でいて、どこかおかしいのである。おかしいようで、どこか、深刻である。
(2002.12.16)
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