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« その2 「橋」は、あくまで映画であるが、このリアルさは、人がみな、ふだん、あるいは、いつかどこかで経験したリアルさである。ほとんど、見る者は、映画の中の7人の少年兵と同じ視点に立って、戦車が近づいてくるのを知覚するのだ。 | トップページ | アントニオーニ的な絶望感というより、誤解を恐れずに言って、一種、爽快感があるのである。 »

2020年9月 1日 (火)

その3 やがて、その音が、ゆっくりとこちらに向かってくる戦車であることに気づく時の、少年兵たちの恐怖は、観客のものでもある。 (日曜の夜8時なのに、会社から持ち帰った仕事に忙しい合間を縫(ぬ)ってのアドリブ。)

ドイツ映画「橋」で、前線に取り残されてしまった少年兵たちが、最初に戦争を体験するのは、轟音とともにやってくる空爆である。静寂な、人気のない村の橋上に、いきなり米軍機の爆音にさらされるのである。空爆で、ジーキという最少年の同僚が死ぬ。

泣き叫ぶ少年兵たちの耳に、次に、聞こえてくる不思議な音。それは、次第に、高まっている。近づいている音だ。キーンというか、ヒューヒューというか、擬音語では表現し得ない音……。ここでも「映画」は、静寂、沈黙の村を描き、少年兵たちが、耳をそばだて、息を殺す長い、長い時間を挿(はさ)む。やがて、その音が、ゆっくりとこちらに向かってくる戦車であることに気づく時の、少年兵たちの恐怖は、観客のものでもある。

爆音、静寂。轟音、沈黙……。この繰り返しが、戦場の恐怖を映画的に表現し、見終わった観客には、反戦のメッセージを伝える1シーンとなるのである。いうまでもなく、これら少年兵は、ナチスの支配する軍の末端兵である。
(2001.12.16)

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