その1 ナチス占領下のハンガリー。解放の瞬間。
ハンガリアン
1977
ハンガリー
ゾルタン・ファーブリ監督
約1年の出稼ぎから解放され、ようやく帰郷したハンガリアンへ、泣きっ面の蜂さながら届けられる召集令状。かれらは、やぶれかぶれに祖国の歌を肩を組んで歌う。召集列車に乗り込んで、窓から顔を出したところを、パチリと記念撮影すると、それが遺影となる――というエンディング。
イントロには、
愚かな我々に栄光はなく
旺盛な食欲があるのみだ
だが常にまっすぐな心を失わない
希望よハンガリー国民に扉を開け
ヨーゼフ・アッティラ「ハンガリアン」より
――という字幕がある。
アッティラといえば、ゲルマン民族の大移動のきっかけをつくったフン族の王の名と記憶するが、きっと、マジャール=ハンガリアンとフン族は無縁ではないのだろう。悠々たる歴史を、ハンガリアンは有しているのだ。ヨーゼフ・アッティラは、名だたる国民詩人にちがいない。
その詩人の詩を冒頭にかかげ、この映画は展開する。ドイツでの農業労働を、苛酷というよりも、むしろなんなくやり遂げてあっけらかんとしているハンガリアンを描く。むしろ苦難の深刻さを前面に出さない映画の眼差しがある。だから、ナチスの敗色が濃厚になり、契約期間が満了になって、帰国を果したハンガリアンたちを見て、だれしもほっとするのである。
その、ほっとした瞬間の召集令状。映画の眼差しは、ここにある。そして、やぶれかぶれの国家合唱。それに、遺影……。希望よハンガリー国民に扉を開け、とアッティラの詩を謳うのは、監督自らでもある。
(2002.12.17)
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