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2020年8月21日 (金)

イヴィカ・マティック監督「遺書―女のいる風景」■メモ2

そこにあるのは、酸いも甘いも分別できず、誠実さが愚鈍の域にまで達した「芸術家」への批判であると同時に――と、
19日付けで記したが、もしかして、「そこにあるのは、絵を描くことのいかなるものにも変え難い崇高さへの賛歌である
と同時に」と、するべきであったかもしれない。

イヴィカ・マティックという監督の作品「遺書」の背景を十分には知らずに、作品解釈を試みたから、とんでもない誤解で
あったかもしれないと、思い直してみたのである。

新婚初夜に、「裸におなり。全部脱いで」と妻に呼びかける夫の目的が、裸体を描くことであり、妻を抱かなかったとして
も、なお、この作品の眼差しには、それほどに「芸術」を愛する男への賛美があったと、受け取れるであろうか。そんな
「芸術家」だから、飼い牛に一突きされてあっけなく死んでしまう笑止千万ぶりに、賛歌を送っているのであろうか。

見えない。イヴィカ・マティックという監督の真意はどこにあるのだろうか。エミール・クストリッツアの、「遺書」へのオマ
ージュも見えない。森林監督官=芸術家への賛美か、批判か、見えない。そのどちらもあるような気もする。

森林監督官の葬列が、「絵の十字架」を背負う村人たちを映し出すラストに、その答はあるのであろうか。いずれにせよ、
不思議な感触の残る映画である。
(2001.5.21)

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