1953年のニューヨーク・ブルックリン風景
ブルックリン最終出口
1989
西ドイツ&アメリカ
ウリ・エデル監督、ヒューバート・セルビーJr原作、デズモンド・ナカノ脚本、ステファン・チャブスキー撮影。
ジェニファー・ジェイソン・リー、スティーブン・ラング、バート・ヤング、ジェリー・オーバック、ピーター・ドブソン
1953年のブルックリン。6カ月もの間ストライキに入っている労働者たち、ストリート・ギャング、娼婦、ゲイ、兵隊。混沌とした街を描くにはいくつかの物語が設定される。スト事務所の責任者ハリー、街のギャング・ビニーら、娼婦トララ、ゲイのジョージーやレジナ、ジョニーの家族、酒場の店主ウイリー、アレックス--といった人々の物語だ。これらの物語は、相互にからまりあって進行するが、結末はストライキが勝利のうちに収束し、歓喜する労働者の群れが工場に入っていくシーンである。
ジョニーの娘エラはバイク狂のトミーと幸せな結婚生活に入り、弟スプークは娼婦トララに純情を寄せている。主人公ハリーは、組合費乱用で責任者を解かれ、ゲイのレジナに拒絶され、挙句の果てにビニーらからリンチを受けるという破局を迎えている。ジョージーは、ビニーに散々いたぶられながらも、思いを断ち切れず、麻薬におぼれ、仕舞いには車に轢かれて死んでしまうのだ。トララは、出征する兵隊との別離の悲しみの底で、列をなす群衆のひとりひとりにからだを投げ出し、レイプに耐える。スプークは、兄となったトニーの結婚の祝祭から抜け出し、レイプされるトララを救い出す。
幸運と破局のそれぞれの物語は、ブルックリンという街の単なる風景に過ぎない、と監督ウリ・エデルは言っているかのようだ。センセーションを巻き起こした原作の映画化であり、いつものように原作か映画か、という二分法で評論されがちだが、映画は街の一断面を描出することに成功していて、これでいいのである。ハリーが満たされない妻を犯すようにするセックスシーン、トララがレイプに耐えるシーンなど、鮮烈なシーンがいくつか存在する。
(2000.4.15鑑賞&記)
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