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2020年9月 3日 (木)

普通の人々のありふれた、滑稽なほどの異常

スサーナ
1950
メキシコ

セルビオ・コーガン製作、ルイス・ブニュエル監督・脚本、ホセ・オルディス・ラモス撮影。

ロシータ・キンタナ、フェルバンド・ソレール、ビクトル・マヌエル・メンドーサ、ルイス・ロペス・リモサ。


脱獄して辿り着いた農場で、スサーナはなにを企んだのか、というとなにも企んではいない。ただ生きようとしただけであった。男たちとの話を通じ易くするために、ワンピースを少しだけめくって、肌のラインが見えるようにしたくらいのことを除いて。それを誘惑というのなら、そう呼んでもおかしくはない。その誘惑が面白いように成功し、スサーナはもう一歩というところで、農場を乗っ取るところまでに至るのだ。しかし、それはスサーナの素性を知り、知っていることで脅迫的な愛を迫るヘススの密告によって終わりを告げる。

作品の眼差しは、メキシコのラス・パロマス農場を支配しているありふれた、いかにもありそうな、普通の、人間関係、秩序関係、上下関係であり、その中に安住している人々の価値観である。スサーナの闖入によって、その価値観はたわいもなく崩れ落ちたが、次の瞬間、追っ手によるスサーナの奪回によって、元通りに戻ってしまうのだ。ラストの平和な朝の農場の光景は、自らの罪に頬かむりして、礼儀正しい人々の滑稽さに満ちていて、吹き出しそうな味わいがある。ブニュエルは、ブラック・ユーモアに巧みな作家でもある。
(2000.6.5鑑賞&記)

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