終盤、すべてを知ってしまったオイデプスにイオカステが語りかける。母の愛人になることをなぜ驚くのです。男は誰でも愛で母親と結ばれているとか。誰でも言いますわ」 ――パゾリーニ「アポロンの地獄」への助走その1
アポロンの地獄
1967
イタリア
パゾリーニ「アポロンの地獄」をもう1度見直した。これで、通算3度見たことになる。1度目は、今から30年以上も前のことで、ほとんど記憶にないことは、昨日付けで記したが、記憶とはつねに不思議なもので、甦(よみがえ)ってくることもあるのである。
2度目に甦らず、3度目に甦るなどということがあるのが、記憶の不思議である。
つまり、あの時=30年以上前には、あの時なりに、認識したことがあるということであり、長い時間を経て、認識されたものは、記憶装置の下層に沈殿し、あるいはほとんどは消滅したにもかかわらず、残存していた部分が、呼び覚まされるということが起こるのであろう。
残存していた部分とは、知識であるよりも、雰囲気とか感じとか匂いとかである。あの時、目一杯、映画という世界に入り込み、オイデプスの悲劇に浸り、その意味について若干は「認識」したのだが、甦ってきたものは、「知識」の部分ではなく、もっと「生(なま)な」「五感的な」部分であった。
モーツアルトの弦楽四重奏や、日本の雅楽や笛・太鼓の音楽、バリ島のケチャ、東欧やアラブのの民族音楽など、この映画で使われている多彩な音に、既視感、見覚え感(いわゆるデ・ジャブ)があり、そういえばそうだったなどと、記憶の下層から立ち上ってくる感覚があったのである。
オイデプスについては、渋谷街頭で僚友たちと議論を交わした覚えがあり、こちらは内容をてんでに覚えていない。ぼくたちは、むしろ近親相姦というテーマでしか、この作品を論じなかったような覚えがある。それはそれで、この作品に接近する角度ではあり、間違っているわけでもないが、「アポロンの地獄」への1視点にしかならないのではなかろうか、と今にしては思うのである。
3度目に見た「アポロンの地獄」は、ソフォクレスに拠るところが大きいことをあらためて知ったが、パゾリーニの深い読みと、なによりもパゾリーニの独創、パゾリーニの表現、パゾリーニの思想が鮮烈に描かれている点が衝撃であった。
ひとつだけ、記しておこう。終盤、すべてを知ってしまったオイデプスにイオカステが語りかける。母の愛人になることをなぜ驚くのです。男は誰でも愛で母親と結ばれているとか。誰でも言いますわ」
パゾリーニは、イオカステ=シルヴァーナ・マンガーノをして、母と子の肉体の愛をも肯定する言葉を発言せしめたのであろうか――。
その謎を解くには、膨大な言葉が費やされねばならない。
(2001.5.27)
« この映画は、結婚にあたって処女でないことが罪であり、その(処女でなくした)相手を殺すことが家族・兄弟の名誉の問題である「村」(=マチズモ)の話なのである。 | トップページ | パゾリーニこそ、60・70年代的才能だったことが明らかになるであろう。 ――パゾリーニ「アポロンの地獄」への助走その2 »
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