この映画は、結婚にあたって処女でないことが罪であり、その(処女でなくした)相手を殺すことが家族・兄弟の名誉の問題である「村」(=マチズモ)の話なのである。
予告された殺人の記録
1987
イタリア・フランス
フランチェスコ・ロージ監督、ガブリエル・ガルシア・マルケス原作、トニーノ・グエッラ脚本、パスファリーノ・デ・サンティス撮影、ピエロ・ピッチョーニ音楽。
ルパート・エヴェレット、オルネラ・ムーティ、ジャン・マリア・ヴォロンテ。アンソニー・ドロン、アラン・キュニー
フランチェスコ・ロージ監督「予告された殺人の記録」は、つまるところ、恋愛劇として見るのが妥当なようである。ガブリエル・ガルシア・マルケスの原作をロージ的に読みながら、ロージ的映像美を強く打ち出した作品になっている。
殺人の動機が生じ、実行されるまでの実時間はわずか半日に満たない。その前段になる時間は、バルヤドン・サン・ロマンという金持ちでハンサムな男が、南米コロンビア(マグダレナ川の流域か)のある田舎の村の船着場に下船した3か月前に起点があった。この2つの時間を包み込むようにして、こ映画の現在=事件から25年を経た時間があり、その現在、この殺人事件の謎を解明しようとする男クリスト(殺されたサンチァゴの親友)によって案内された観客は、3つの時間を往来することになる。ロージは、原作の時間を、このように映画的に再編集したのである。
したがって、物語は、バルヤドンがアンヘラを見初め、結婚式・初夜へと至り、アンヘラの不実を知るシーンへ遡り、サンチァゴがアンヘラの2人の兄弟に殺されるシーンへ舞い戻り、そして25年後にバルヤドンとアンヘラが再会するシーンへと前進する形になった。この再会は、25年間、アンヘラが書き続け、無視され続けた愛の手紙を、バルヤドンが受け入れるというエンディングで終わるのである。
この映画が、恋愛劇である理由はここにあり、ロージは、原作には存在しない、この再会劇を編み出したのである。
サンチァゴの親友であり、殺人の行われた当日もほとんどサンチァゴと一緒に行動していたクリストは、この映画全体の案内役でもあるが、深い後悔の念を抱いて、サンチァゴ殺害の真相を糺しに、25年ぶりに村を訪れた。なぜ、サンチァゴを救えなかったのかと自問するとき、「偶然」の積み重ねとするには、後悔が消えないからである。
クリストは語る。
――検察官は熱心に取り調べたが、サンチァゴが張本人であることを示すささいな証拠でさえ見つけられなかった。親友たち同様、検察官にとっても、サンチァゴが最後の瞬間に示した行動が潔白の証拠だった。これほど予告された殺人はない。
何年もの間、話題は他になかった。夜明けに鶏が鳴くと、すぐに我々は、不合理な事件を可能にした偶然の繋がりに秩序を与えようと努めた。もちろんそれは、無数のミステリーを明かすためではなく、宿命が彼に名指しで与えた場所と任務が何だったのかが解けなければ、日常に戻れなかったからだ。
多くの人には分からなかった。だが、犯行を阻むために何かができたはずなのに、しなかった人の大方は、名誉の問題は当事者にしか近づけない聖域であることを口実に自らを慰めたのだった。
この映画は、結婚にあたって処女でないことが罪であり、その(処女でなくした)相手を殺すことが家族・兄弟の名誉の問題である「村」(=マチズモ)の話なのである。
*原作の主題をマチズモ社会の悲劇ととらえる読み方が一般に通用している。マチズモとは、男性の優越、家族の名誉が何よりも重んじられる社会の価値観。
クリストが、白髪交混じりのアンヘラに、25年を経た今、不実の相手を尋ねたとき、「古いことは詮索しないで!……彼よ」と、アンヘラは答える。
「彼」とは、だれのことを指しているのだろうか。その問いを作品の眼差しは、現在なお残存している、この頑迷な因習の実践者たちおよび暗黙の支持者たちに発出するには、3人称で表現しなければならなかった。そのように、この作品をロージの作品にした、と言えるのではなかろうか。
婚約したバルヤドンとアンヘラを乗せた小舟が、悠揚とした南米の河を行く。純白の鳥、極彩色のインコ、鰐、蜥蜴が姿を見せる、音のない映像が、バルヤドンとアンヘラの結びつきを語っている。そのシーンが、鮮やかにエンディングのシーンにもう1度よみがえってくるのである。
(2001.7.28鑑賞&記)
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