その日、お墓に行くとおばあさんがいて、僕は思いました。もし死ぬと知ってたら短い人生を大切に思い、僕を傷つけなかった。もし僕に優しくしてくれていたら、きっと彼女の家族は死なずにすんだろう。
オリーブの林をぬけて
1994
イラン
アッバス・キアロスタミ監督・脚本・編集・製作、ホセイン・ジャフアリアン撮影。モハマッド・アリ・ケシャヴァース、F・ケラドマンド、Z・シヴァ、ホセイン・レザイ、タヘレ・ラダニアン
前作「そして人生はつづく」の1シーンを撮影する風景に、そのシーンに登場する青年が相手の娘に求婚する物語をからませて、劇外劇、劇中劇の様相を見せるキアロスタミ作品。
震災後4年を経たコケル村は、復旧が進んだが、山間に住んでいた人々の多くは、幹線道路沿いに引っ越している。「そして人生につづく」で、監督役ファルハッドが新婚の若者に取材するシーンがあったが、本作は、そのシーンの撮影現場を撮影しながら、そのシーンに起用された若者ホセインが熱心に相手役の娘タヘレに求婚する様を追う。
「君のおかげで撮影が中止になった。彼女との間に何があった。話してくれ」という、監督の問いに答えるホセインの現在を、ホセインに語らせよう。
エイノラの家で仕事をしていたときです。少し前のことです。その向かいが彼女の家だったんです。彼女は階段に座って、勉強していたんです。僕が働いている目の前で勉強していたんです。
彼女がおとなしく、よい娘に思え、きっとよい妻になる。彼女と結婚したいと思いました。
僕は仕事を続け、夕方まで働きました。帰る前に手足を洗いに行くと、彼女の母親も泉にやってきました。水を汲みにきたんです。娘のことをはなすと、すごく怒って。
(なぜ?)
たぶん、彼女の母親には僕が本気じゃないとか、不真面目だとか、彼女に相応しくないと。
(わかった。それで?)
夜、服を着替えているとエイノラがやってきて、明日から来ないでいいと。きっと彼女の母親に頼まれたんです。もっとよく働くひとを紹介するとか言われて。
地震が起こったのはその夜でした。エイノラの家族もお気の毒に。あの娘の家族も死にました。
(タヘレの両親が?)
ええ。
(それで?)
皆、死んだんです。喪に服して3日後にお墓へ行ってみると、人が大勢いたけど、彼女とは会えませんでした。喪に服して7日後に彼女が両親のお墓にいるのを見つけました。話をしようと思って近づいていくと、おばあさんにお祈りしろと言われた。僕がお祈りを終えないうちに行ってしまいました。
(その後に会ったのか?)
ええ。喪に服して40日目に1度だけ会いました。
(どんな話をした?)
その日、お墓に行くとおばあさんがいて、僕は思いました。もし死ぬと知ってたら短い人生を大切に思い、僕を傷つけなかった。もし僕に優しくしてくれていたら、きっと彼女の家族は死なずにすんだろう。僕は思いました。僕の悲しい心が、皆の家族を壊したと。
簡単に家を買えるわけないです。そのとき僕はやけをおこして言ってしまったんです。「今はもう誰にも家がない。僕もあんた方も、これで平等になった。たしかに僕には家がないけど、あんた方にもない。結婚の申し込みに返事をくれ」と。
そしたらこんな返事が返ってきました。本当に傷つきました。「皆、新しい家を建てている。見えないのか」って。
(なるほどな)
僕は11歳のときから、家を建ててきたんです。
(君の職業はなに?)
レンガ職人の手伝いです。
(というと?)
レンガを積んだり、泥とわらを混ぜたり、なんでもやりました。皆、僕に言いました。「家なしに嫁なし。お前には家がないから娘を嫁にやれないと。家なんて買えません。
(その後、彼女に会った?)
会いました。今日じゃなくて、先週の木曜日に撮影現場で監督さんに会ったときです。
(それで?)
もい1度、結婚の申し込みを、気が進まなかったけど、決心して行きました。
(どこへ?)
お墓です。そこで会いました。
この会話は、突然、ホセインがタヘレに最近会ったシーンの回想に転じた後、そのシーンに「カット!」という撮影中断の合図がかぶさるのである。ホセインがタヘルに会った「先週の木曜日」=過去が、撮影している今日の木曜日=「現在」に直接連なって行き、連なった場所は撮影で演技しているホセインとタヘレ、撮影中断で演技と離れているホセインとタヘレである。演技上(2人は新婚夫婦である)と現実上(ホセインがタヘレに一方的に求婚している)のホセインが、演技上と現実上のタヘレと交錯するのである。
映画は、ホセインのプロポーズの執拗(しつよう)さ、熱心さ、熱烈振りに焦点をしぼっていくが、タヘレの心の変化は不明だ。このシーンで、ホセインがタヘレに「OKなら本のページをめくってくれ」と返事を迫るが、タヘレがめくりかけたページは戻されてしまう。タヘレが、本のページをめくりかけ、また元に戻してしまうこのしぐさは、なかなか暗示的であり、タヘルの心が開きかけたことを示すのかもしれない。
エンディングは、撮影終了後に、独り徒歩で帰途につくタヘルを追うホセインをとらえる。緑なす丘を越え、オリーブの林を抜け、野原を行くタヘレを追うホセイン。ホセインもタヘレも撮影用の純白の衣服をまとい、野原を行く2人は緑の中の白2点になっている。ホセインの饒舌なほどのプロポーズの声はもはや聞こえてこない。白い点は、ときに1点になり、また2点になり、野原の端までホセインはタヘレを追うが、急に引き返す。
例によって、このシーンは遠撮され、ホセインの表情、タヘレの顔つきを見ることはできないが、冒頭にしか流れなかった音楽がBGMとして流れ、ホセインが戻ってくる足取りに心もち軽快な感じを与えていることに「恋の行方」が表現されているかのようだ。
(2001.5.11鑑賞&5.13記)
« ここに来るまで、何人もの家族兄弟を失ってなお、懸命に生きようとする少年少女や老人や青年男女との対話のプロセスを経てきた観客、そして映画の作り手には、希望が捕まえられているのである。 | トップページ | 日常些事の中によくある不運の一瞬を捉えたもので、他愛(たあい)ないけれど、ゾクゾクする映像としてしまう非凡さを感じさせる。 »
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