アンナを死に追いやった母性愛
アンナ・カレーニナ
1997
アメリカ&イギリス
バーナード・ローズ監督・脚本、レオ・トルストイ原作、ダリン・オカダ撮影。
ソフィー・マルソー、ショーン・ビーン、アルフレッド・モリーナ、ミア・カーシュナー、ジェームズ・フォックス
アンナを自殺に追いやったものは何か。自殺までしなくてもよかったのではないか。トルストイは、ほかの道を考えられなかったのか。19世紀末のテーマであり、いまどき、不倫で自殺とは古いよと言える人は幸せである。
アンナが自殺に追いやられる過程を執拗に描いていることは、映画に関しても原作に関しても見逃せない点だ。それが最大のテーマであると言っても過言でないくらいだ。19世紀末の貴族社会の道徳、因習に反抗した一人の女性の恋の苦悶を、自殺で終わらせる作品をトルストイは書いたのだし、映画もそれに脚色を加えなかった。すでに古典のストーリーを知っている人は、この苦悶の過程を味わい、思索する読者・観客であることを求められている。
アンナ=ウロンスキーの物語とキティ=レーヴィンの物語を対比的に構成した原作をさらに強調したローズ作品は、レーヴィン=キティの側からアンナ=ウロンスキーの愛にオマージュを贈ったのである。その愛の内実だけが主要なテーマである、といってよい。アンナとウロンスキーが、2人だけの時間をイタリアで所有する場面があるが、その愛の歓喜は根のない、1回限りのものであった。愛が、つねにそういう側面をもつものであるように……。だから、レーヴィン=キティが正しい、などとこの映画が訴えているのではない、ということである。
やはりというか、どうしようにもなくというか、アンナを苦しめたのは、息子への愛だったのか。母性との格闘の末に、アンナは死を選んだのか。アンナ・カレーニナを自殺に追いやったものが、母性愛そのものであったのではないか、という新しい見方で映画が作られていないか、と期待して見たが、それらしい新しさは見当たらない。という意味で、原作に忠実な映画ということができる。
古典大作の映画化は、原作の深い解釈から始まり、解釈に終わる。それで基本的にOKなのだ。それすら達成できないのなら、誤謬が拡大されるだけだから、やらないほうがましである。
(2000.6.5記)
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