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2020年9月14日 (月)

その1 瞬間の、このかすかな肉体の表情によって、人は人を殺しているのに、人はそれを自覚していない(動物はこんなことを決してしない)。作品は、その瞬間をとらえる。ジュリアンの表情を通じて……。

さよなら子供たち
1987
フランス

監督・脚本・制作 ルイ・マル
音楽 シューベルト、サン=サーンス
撮影 レナート・ベルタ
編集 エマニュエル・カストロ
出演 ガスパール・マネッス、ラファエル・フェジト、フランシーヌ・ラセット

ルイ・マル監督の1987年作品「さよなら子供たち」は、「死刑台のエレベーター」「地下鉄のザジ」「鬼火」「ルシアンの青春」「ダメージ」などの他作品に比べて、抜きん出たものがある。実に見事な作品である。他の作品が見事なものであっても、もっともっと見事だ、と言いたいほど見事である。

映画は、主人公ジュリアンの回想であることが、最後のワンカットで示されて、ようやく回想であることがわかるつくりで、回想を冒頭からは明らかにしない。回想を示すナレーションは、最後の最後のひとことしかはさまれない。そして、回想であることを示された次の瞬間に、映画は終わっている。そのようにつくった意志に、Finを見させられながら感心させられてしまうのである。これは、見事である。

見事というのは、このような映画つくりの技法によるが、真にこの作品を見事にしているのは、ジュリアンという12歳の少年の眼差しを通じた作家の眼差しにある。この点でも、技法とはきりはなすことができないが、技法を超えて存在する眼差しにこそ見事さの根源がある、と言えるような作家の眼差しである。それは、内省とか洞察とか思惟とか……という領域にあるものである。

ひとつのことを例示しておこう。

終盤、ゲシュタポに追われたユダヤ人少年の所在を漏らしてしまう看護婦のさりげない所作は、人間ならだれしもが身につけているものである。ユダヤ少年の隠れたベッドを大声を出して教えてしまうというより、目の動き=めくばせで伝えるという悪意は普通の人々のものである。瞬間の、このかすかな肉体の表情によって、人は人を殺しているのに、人はそれを自覚していない(動物はこんなことを決してしない)。作品は、その瞬間をとらえる。ジュリアンの表情を通じて……。ジュリアンが見た普通の人の悪意に、ジュリアンは恐れ戦(おのの)く。作品は、そのジュリアンの表情をとらえる。
(2002.4.17)

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