指の一本くらい失うような愛を選び取りなさい
ピアノ・レッスン
1993
オーストラリア
ジェーン・カンピオン監督・脚本、マイケル・ナイマン音楽。
ホリー・ハンター、ハーベイ・カイテル、サム・ニール、アンナ・パキン
ジェーン・カンピオンは、後に「ある貴婦人の肖像」(1995)でもそうするように、ここでも主人公の女性に2人の対照的な男性を配置する。女をいかせてしまう男と女に暴力を振るう男である。
女に暴力を振るうといっても、見るからに野蛮な男ではなく、女=主人公の強い意志が、男の中に潜在している暴力的なものをひっぱり出してしまうという暴力である。外見は、紳士であるが、女によって、通常時は眠っている暴力性をあらわにされてしまう男たち。
女の官能に寄り添い、肌をふれあい、心を通わせる男は、やがて、女の肉体をも獲得する。ベインズが、エイダを射止めるのは、心と肉体が分離されていない状態の自然の女そのものだった。ストレートに女そのものに迫るのである。ピアノは、ベインズにとって、財産なのではなく、エイダの肉体=心の一部と見えたのであり、そうは見えなかった男=夫は、エイダをついに抱けない。
結末部で、「自分の意志が怖い。何をするかわからない強い意志が……」と、この物語のナレーターでもある娘フリンに語らせるのは、カンピオン監督の、自立し果敢な自己選択の道を選ぶ現代の女たちへのエールなのであろう。指の一本くらい失うような愛を選び取りなさい、とでも言っているかのようだ。
(2000.9.9記)
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