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2020年9月12日 (土)

ドストエフスキーの純愛作品を幻想的にデザインしたヴィスコンティ作品

白夜
1957
イタリア

ルキノ・ヴィスコンティ監督、スーゾ・チェッキ・ダミーゴ脚本、ニノ・ロータ音楽。
ベネチア映画祭銀獅子賞。

ドストエフスキーとヴィスコンティというアンバランスに興味をもって見る。小説を読みはじめた矢先、ビデオ・レンタル店で見つけ、先に映画作品を見てしまった鑑賞記である。

ペテルスブルクの町は、イタリアのベニスあたりに設定されているし、主人公の青年はマルチェロ・マストロヤンニ、女主人公ナタリアはマリア・シェル、その恋人はジャン・マレーという「こってりした」演技派ばかりだし、背景はオール・セットと、いかにもヴィスコンティらしい仕掛けだ。主人公がラスコリニコフのような蒼白の貧乏青年である必要はないのである。

原作「白夜」の悲劇性が、スーゾ・チェッキ・ダミーゴの脚本、ニノ・ロータの音楽などとともに、攻撃的に演出されている。たとえば、この町並みには、何一つロケ撮りが存在しない。雪のシーンさえ、自然を排するのである。この人口的風景の中で展開する人間のドラマの幻想性。それを高めるかのようなオールセットである。

「ラテン的ドストエフスキー」などと言えばヴィスコンティが怒るかもしれないが、結末、マストロヤンニの孤独、絶望に救いが感じられるのは、野良犬(唯一の自然物と言える)を登場させた演出によるだけでなく、全編を通じての「ラテン性」にあるような気がしてならなかった。ナタリアに「恋してるような目で私を見つめるのね。私のことを知った以上、恋しちゃだめよ」などと言わせるのも、ドストエフスキー作品をラテン的に洒落て解釈してみせる主体=ヴィスコンティの「ローマ的」大らかさである。
(2000.5.12鑑賞&記)

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