夜遅く、マハマッドは、夕飯を食べる気持ちになれない。ノートをネマツアデに届けられなかったことに、胸が痛むのである。
友だちのうちはどこ?
1987
イラン
アッバス・キアロスタミ監督。
小学校の授業風景にはじまり、授業風景で終わる物語。ラストシーンの授業風景では、じわじわーっと感動のようなものが立ち上ってきて、いつまでもいつまでもその感動が反芻されるような作品だ。
成長経済下のイランの山村コケル。隣村のボシュテは、山を一つ越えたところにあるという感じだろうか。山というより、丘を一つ越えたと言ったほうが適切かもしれない。コケルの小学校には、遠地ボシュテから登校する子供たちもいる。
主人公のアハマッドはコケルに住み、親友のネマツアデはボシュテに住むが、ネマツアデの父親はドアの取り付け販売のために、ロバに乗ってコケルを訪れる関係にある。
ネマツアデが、書き取りのノートをアハマッドに間違えて持ち帰られたために宿題をできずに、教師にひどく叱られる。叱られたその日にも、同じ間違えでアハマッドは、ネマツアデのノートを持ち帰ってしまった。2人のノートは、表紙がそっくりで間違えやすかったのである。
物語は、アハマッドが、ネマツアデのノートを返しに、ボシュテの村を探しまわり、夜になってもネマツアデを見つけられずに、仕方なくコケルに戻り、翌日の授業にのぞむ……というシンプルなものだが、この過程で見聞きする人々の生活や少年同士の繋がりあいに、キアロスタミの眼差しが散りばめられる。
どの子供たちも、家父長的共同体の中にあり、親たちは生活に追われている。学校から戻った子供たちは、近代教育を受けながら、家に帰れば、その共同体の規範に従い、また、親たちの労働の手助けに参じている。アハマッドは、母親の手伝いや祖父の称するしつけに素直に応じる、心根の優しい少年である。そのマハマッドが、母親からのパンを買うお使いと、ネマツアデのノートを返しに行かなければならない、というディレンマに陥った。
アハマッドは、このディレンマを突破する。ボシュテのネマツアデに会いに行く。パンを買うお使いを忘れたわけではない。結果は、しかし、そのどちらも成就できなかったのである。
夜遅く、マハマッドは、夕飯を食べる気持ちになれない。ノートをネマツアデに届けられなかったことに、胸が痛むのである。帰宅した父親は、何も、言わない。母親も、昼間の母親ではなく、穏やかな声で、食事をしないマハマッドを労(いた)わる。
翌日の授業風景。マハマッドの姿がない。ネマツアデの心は、今にも、潰(つぶ)れそうである。教師が、後ろの席の生徒たちの宿題を点検しはじめているのだ。もうすぐ、教師がネマツアデの宿題を点検する。
その教室へ、マハマッドが、到着した。一時は、くたびれ果て、落ち込んだマハマッドが病気にでもなって、欠席したのだろうか、と思っても仕方のない事態であった。そのマハマッドが、ネマツアデの隣りの席に着くと、丁度、教師が2人のところへやってきた。
パラパラと、マハマッドのノートをめくる音。静かだ。OK、OK。今度は、ネマツアデのノートである。マハマッドの書いた書き取りを、教師は気づかない。OK、OK……。ネマツアデのノートに、花が一輪、押し花になっている。昨夜、ボシュテの村で親切にしてくれた老人が手折ってくれた花である。
(2001.5.3鑑賞、5.4記)
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