映画であるためのあざとさは必要だったのか
ロリータ
1997年
アメリカ
エイドリアン・ライン監督、ウラジミール・ナボコフ原作。
ジェレミー・アイアンズ、ドミニク・スウェイン、
メラニー・グリフィス、フランク・ランジェラ。
1962年製作のスタンリー・キューブリック監督作品の日本公開は、いつだったのか。スー・リオンという名を鮮烈に覚えているのは、映画公開と前後して発行された単行本の表紙に、サングラスを鼻眼鏡にして何かをうかがっている正面向きの彼女の写真が使われていたからだ。そのころ、映画を見た記憶はない。
V・ナボコフの翻訳本を高校2年の時に教室で回し読みした(といっても、本当にみんなが読んで理解したかは疑わしいが)ことを覚えているのだから、やはり、本の表紙の印象が刻まれたのだろう。購入して学校へ持っていったのはぼくだから、確かに読んだのだが、内容はてんで覚えていない。ただ、文体の意外に湿潤な響きに嫌悪ではなく共感に近いものを抱いたことがぼんやりと思い出される。
高校生には、好色爺が若い娘を追い回す物語くらいの解釈しかできなかったはずだ。2000年の現在も、その程度の解釈が流布する俗物に満ちた時代には変りはない。そんなことにいちいち、あきれていても仕方ない。確か、白系ロシア人の白系の意味が、共産主義革命と戦って敗れた人々のことを指していることを、この本の解説で知った。ナボコフの流転の物語に、高校生ながら感じ入ったことがかすかな記憶として残っている。
エイドリアン・ラインの「ロリータ」は、少年時代の初恋の女性の死をトラウマとして抱えた初老の男が、生き写しのような娘ロリータに出会い、破滅的な恋に陥った果てに、殺人を犯すという二重、三重の劇で構成されている。
初老というにふさわしい年齢になって見た映画は、結末の殺戮シーンのエイドリアン流が存在しなければ、100点に近い共感を持てたはずだった。あのあざといシーンがなければ、あるいはあのシーンを他の撮り方をすれば、映画としての興行性や、作品としての現代性が薄くなり、エイドリアン流そのものが無くなってしまう。それでは、ナボコフファンの心だけを撃つ作品になるに違いなかった。しかし、そうして欲しかった、とエイドリアンに欲求しても無意味であるが、ぼくはそうして欲しかったのである。
(2000.9.3記)
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