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2020年10月12日 (月)

父母の恋の時代から、40年の歳月が流れたのである。ということは、文革の時代も、40年前のことだったのである。

初恋が来た道
2000年
中国・アメリカ

監督: チャン・イーモウ、撮影: ホウ・ヨン、美術: ツァオ・ジュウピン、サウンド: ウー・ラーラー、編集: チャイ・ルー、音楽: サン・パオ、脚本: パオ・シー。
出演:チャン・ツィイー

「初恋が来た道」(チャン・イーモウ監督)は、文革(ぶんかく・文化革命)さなかの中国農村に住む薄幸の18歳の娘と、その村に赴任してきた20歳の教師の恋物語を、二人の間に生まれ、いまや成人して町の教師になった息子が回想する作品である。高齢の父は、学校建設の資金繰りのために町へ行った際、心臓病で倒れ、その報を受けた息子が帰村したところから映画ははじまる。

文革で切り裂かれた青年の恋、ではない。見初めあった二人が、文革の影響で一時的に離れ離れになることがあるが、その被害者性は前面に出されることはない。むしろ、再会し、結婚生活に入った二人の、苦難はありながらも、村人たちから敬われ、慕われた、質実で、希望に満ちた暮らしが暗示されている。(終盤、村長が、棺担ぎの労賃を村人たちが拒否していることを告げ、村人たちが続々と棺を担ぐ列に参じる場面が挿入される。)

父母の恋の時代から、40年の歳月が流れたのである。ということは、文革の時代も、40年前のことだったのである。その間、どんな開放が進み、どんな民主化が進み、どんな自由化が進んだにせよ、あるいは、苛烈な農村生活が残存しているにせよ、父母は、清冽に、まっすぐに、深い絆で結ばれて生きてきた、ということが、映画の前面に出てはこないけれど伝わってくる。

初恋の純情といったものが、この夫婦(語り手の息子の父母)によっては、40年間も継続した。夫を失い悲嘆に暮れる母を労わる青年の息子が、父と二重写しになって見えてくる。息子もまた、父のようにまっすぐに生きている。この家族のみならず、二心(にしん)のない、まっすぐな人々の営みが、この作品には充満している。

それ故か、爽やかである。心地よい涙を味わえる。悪人は、いっさい登場しない。「初恋」(というのは邦題だが)の爽やかさもあるが、善良で誠実な人々の充満という意味でも、爽やかな出来上がりになっている。
(2002.12.28未完)

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