でもどこへ行こう 教えてくれませんか 幸せになれる場所を
戦争の後の美しい夕べ
1997
カンボジア・フランス
監督:リティーヌ・パニュ、脚本:イブ・ドゥボワーズ、リティーヌ・パニュ、撮影:クリストフ・ポロック、音楽:マルク・マルデール。
出演:チェアリア・チャン、ナリト・レウン
翻訳:前田陽子、日本語字幕:嶋田美樹
カンボジア映画「戦争の後の美しい夕べ」(リティー・パニュ監督、RithyPanh)は、1992年のプノンペンでのできごとを、1997年現在の目で、当事者である女性スライ・パウが回想する形の作品である。ドキュメンタリーではなく、映画であり、脚本もリティー監督が手がけているが、フランスのスタッフのサポートが入った。
ポル・ポト率いるクメール・ルージュが山岳地帯に退き、首都プノンペンには、シアヌークによる自由選挙が行われ、外出禁止令も解かれた状況下。雲間から小さな光がさしたかのような時代だったが、民心は疲弊しきり、街は混乱を極め、スラム化したアパートで人々は寄り添うように暮らしている。内戦は終わってはいなかった。国連(UN)平和維持軍が街に入り、日本のPKOも派遣されていた頃のことである。
サバンナーは、同僚のマリー・ボルらと、死の列車と呼ばれる帰還列車で、プノンペンの町に着き、バー勤めでかつがつ暮す女性スライ・パウを見初める。マリーは、ヤクザな暮らしにしか糧を見出せず、日々、カード・ギャンブルに明け暮れるようになった。サバンナーも、安定した職が見つからず、時折、キックボクシングの試合に出て、日銭を稼ぐ暮らししかできないため、パウを水商売から離れさせることができない。
パウに同行して、パウの故郷を訪れたサバンナーは、幼児の息子の身代わりになって戦争へ拉致された夫が死んだことから、精神を病んでしまったパウの母と会い、深い悲しみに襲われる。街に戻った二人が目にしたのは、ポル・ポト派によるアパートの撤収だった。
そんな中で、パウが身ごもった。サバンナーは、マリーと組んで、町外れの宝石店強盗を決行、追っ手に追われる中、マリーに狙撃され、命を落す。泣き叫ぶパウ……。
それから、3年も経っていないだろうか。ウェイトレスの仕事に変えたものの、パウには希望のひとかけらもない。そのパウが、以上のように回想する最後に語る。傍(かたわ)らで、娘ポパナーが遊んでいる。
私たちは戦争と共に生まれ
戦争はすべてを粉々にしてしまった
母親が子供を抱くように
私たちは希望を胸に抱き
夢と流血によって
その希望を育てた
今の私には恐れるものは何もない
運に身を任せるだけ
でもどこへ行こう
教えてくれませんか
幸せになれる場所を
(2002.12.31)
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