ジネが犯した罪への深い思索の跡が、このシーンを貫いているのであるが、それはたとえば、ジネに「ワインを出されれば飲まないでいられないわ」と語らせている部分に暗示されている。
路・みち
1982
トルコ・スイス合作
ユルマズ・ギュネイ脚本・監督、エルドーアン・エンギン撮影、セバスチャン・アルゴル、ケンダル音楽。
タルック・アカン(セイット)、シェリフ・セゼル(ジネ)、ハリル・エルギュン(メメット)、メラル・オルホンソイ(エミネ)、ネジュメティン・チョパンオウル(オメール)、セムラ・ウチャル(ギュルバハル)、ヒクメット・チェリク(メヴリュット)、ゼウダ・アクトルガ(メラル)、トゥンジャイ・アクチャ(ユスフ)
■鑑賞記その2――もう一つのアングル
ユルマズ・ギュネイ監督「路・みち」から、セイットが妻ジネと再会する件(くだり)に交わされる言葉を拾っておく――。画面は、ほとんど暗闇である。はじめぼんやりと複数の家人が集まって、聞き耳を立てている様子が映し出されるが、あとはかすかに人の動く気配(息子が父のもとに移動したのであろう)があるだけである。家父である老人ジンデは、妻ジネの父親である。はじめにジンデと、つぎにジネと、セイットは語る。途中、息子が一言、会話に参加する。
――セヴケットに会ったか?
ええ。
――どうする?
連れて行きます。
――いつ連れて行く?
よろしければ妻と息子を連れて行きます。
――どこへ?
サンジャクへ。セヴケットのもとへ。
――何か考えがあるのか。
あります。
――ジネを見たか?
見ました。
――もう8ヶ月になる。犬のようにつながれている。足を鎖でつながれて自由に動けない。水とパンだけしか与えられていない。8ヶ月入浴していない。当然の報いだ。
俺に会えて嬉しいだろ?(*セイットが息子に語っている)
――同情を引こうと思っているんだ。いいかね。気が弱くなってはいかん。われわれに汚名を着させたことを忘れるな。
お前のおじの所へ行く。母さんも一緒だ。(*同上)
――母さんはだめだ。罪を犯している。
おじが連れて来いと言ったんだ。
――ジネに話をするつもりか?
話します。
――気をつけろ、あの女は口がうまい。騙されてはならぬ。気をつけぬとまるめられる。
<以下、ジネとの会話>
わたしは罪を犯したわ。待っていられなかったのよ。いまになっては、そのほかに言うことないわ。ワインを出されれば飲まないでいられないわ。覚悟しているわ。悔やんでもむだよ。こぼしたミルクは元に戻らないわ。戻そうといっても無理よ。一生の負い目よ。もう8ヶ月、監禁されているのよ。乾いたパンと水だけでよ。もう言うことないわ。望み通りになさい。もうこの世に未練はないわ。誰にもよ。あなたを待ってたのよ。からだを拭いて、汚れていない服を着て、神様の教えにしたがって、身を浄めて、お祈りを捧げたいわ。
(それだけか?)
息子にキスしたいわ。
(気になるのか?)
どこに連れて行くの?
(サンジャクへ。お前の兄セヴケットの所だ。俺は手を触れない。神様が罰する。)
わたしを待っているのが何かわかっているわ。他人の手にまかせないで下さいな。あなたが手を下して。わたしたちは結ばれているのよ。どんなことが起ころうと、わたしたちは夫と妻よ。私の最後の願いよ。
(今の俺は違う。昔の俺じゃない。昔はいつも胸を張っていた。いまは世間の人々の顔をまともに見られない。いつも苦しんでいる。あの時、お前は言い張った。俺を待っていると。それがこの始末だ。だが俺は手を触れぬ。神様が罰する。
◇
この会話の後、セイットは息子とジネを伴い、往路、馬でさえ疲労と寒さで倒れ、銃殺せねばならなかった雪原を引き返すのである。雪原を行くこのシーンには、この映画作品の深い思索的部分が描かれていると言ってよいであろう。
それは、監督ギュネイがクルドに向ける眼差しとは異(こと)にする、人間への眼差しであるような気がする。ジネが犯した罪への深い思索の跡が、このシーンを貫いているのであるが、それはたとえば、ジネに「ワインを出されれば飲まないでいられないわ」と語らせている部分に暗示されている。
セイットは、深い悲しみの中で、ジネを許しているのである。ギュネイがこのシーンで描こうとしたのはそのことであったが、同時に、クルドのたたかいへのメッセージをより緊急に全世界へ伝えたかったのである。
(2001.6.3)
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