ゲリラに参加するオメールが、背広姿で馬を駆り、クルディスタンの原野を疾走するエンディングが、延々と続けられてきた暗闇のシーンから観客を解き放ち、かすかな希望を暗示する。
路・みち
1982
トルコ・スイス合作
ユルマズ・ギュネイ脚本・監督、エルドーアン・エンギン撮影、セバスチャン・アルゴル、ケンダル音楽。
タルック・アカン(セイット)、シェリフ・セゼル(ジネ)、ハリル・エルギュン(メメット)、メラル・オルホンソイ(エミネ)、ネジュメティン・チョパンオウル(オメール)、セムラ・ウチャル(ギュルバハル)、ヒクメット・チェリク(メヴリュット)、ゼウダ・アクトルガ(メラル)、トゥンジャイ・アクチャ(ユスフ)
■鑑賞記その1
獄中から獄外のスタッフへ指示することからはじめ、脱獄後、亡命先のスイスとフランスで完成したユルマズ・ギュネイ監督の作品。監督は、この作品を1982年度カンヌ国際映画祭に出品、グランプリを獲得した。翌年にも、フランスで撮った「壁」を同映画祭に出品して健在ぶりを示したが、翌々年(1984年)、ガンで急逝した。47歳の若さだった。
きわめて困難な状況のもとで多くの危険があったにもかかわらず、この映画の製作に協力して下さった友人達に心からの感謝を捧げる。彼らはこの映画と共にi生き続けるであろう――と、エンディングの字幕が流れるのを見るとき、観客はその困難さについて想像の羽根を広げるだけだ。クルディスタンがこうむってきた抑圧、弾圧、差別を、映画で知ることはできても、この身で実感することはむずかしい。
1980年秋、イムラル島拘置所。軍事クーデター後のことで、拘置所内の規律が厳しくなる中ながら、仮出所を認められた男たちが、思い思いに帰郷の途に就く。マルマラ海に浮かぶイムラム島からはしけに乗り、対岸の港町ムダンヤに渡り、バスでプルサへ着いた男たちは、列車、バスを乗り継ぎ、各人の故郷へ向かい、辿りついた故郷で改めてそれぞれが抱え込む現実に直面する。
セイット、メメット、オメール、メヴリュット、ユスフの5人の男たちには、それぞれジネ、エミネ、ギュルバハル、メラル、レイラという妻や愛する相手がいる。このうちユスフは、監獄が発行した通行許可証を紛失したため、検問にひっかかって、帰郷を果たせない。妻レイラは、写真でしか登場しないが、4人の女たちは、4人4様に現代トルコの抱える前近代的因習の中にあり、それはただちにそれぞれの男たちとの関係の問題でもあった。
セイットは、妻ジネが他の男と姦通したため、村の掟によって監禁されている雪深い山里へ向かう。死を賜(たま)うのは神の役目だが、それを実行するのはセイットの義務である。ジネは、8ヶ月もの間、パンと水だけを与えられ、入浴を禁じられていることはおろか、足を鎖に繋がれた監禁生活を送っていた。そのむごたらしい裁きを前にして、セイットはなお、自らの手でジネを裁かねばならない。息子とともにセイットは、衰えきったジネを連れ帰る苦行に打って出る。
メメットは、義兄アジズに誘われて銀行襲撃に参じたとき、追っ手の銃撃にひるんだためアジズを見殺しにしてしまった罪を家族や村人から攻撃されている妻エミネに真実告白の帰郷を果たす。勇気を鼓(こ)して告白したメメットの真実の衝撃に耐えられず、エミネは気絶してしまう。やがて、2人の子どもを連れ立って、村を捨てた旅に出たメメットとエミネを、エミネの弟が襲い、列車の中で殺されてしまう。
メヴリュットは、メラルに結婚を言い渡し、絶対服従を誓わせるが、家族たちとの因習に満ちたつきあいの不自由さに耐え切れず、売春宿に入って、怒りを静め憂(う)さを晴らす。
オメールは、拘置所に帰らない決意を固めて辿りついたクルディスタンが、兄アブゼルらゲリラの闘いにも拘わらず劣勢にあることを目の当たりにする。老いた母親の弱気を家父である父親が戒めるのを聞きながら、参戦の意志をより強固にするオメールだったが、その矢先、銃弾に倒れた兄アブゼルらの遺体が軍のトラックで運ばれてくるのである。身元検分を命じる軍に対して、村人のだれもが、「知る者はいない」と答えざるを得ない。
クルドの風習で、死んだ兄の妻を娶(めと)らねばならないオメールは、心に決めていたギュルバハルを振りきり、アブゼルの妻に、今後、自分が夫であることを告げる。ゲリラに参加するオメールが、背広姿で馬を駆り、クルディスタンの原野を疾走するエンディングが、延々と続けられてきた「暗闇のシーン」から観客を解き放ち、かすかな希望を暗示する。
ユスフの未来は、メヴリュットの未来は?
帰監する列車で、ジネを失ったセイットの耳元を、ジネの叫び声が飛び交っている。「わたしを狼の餌にしないで。セイット!わたしを憐れんでよーー」。雪原に力尽きたジネの叫びには、罪を犯した女の声というよりも、因習に殺されていった女の声がする。
(2001.6.2鑑賞&6.3記)
« 見わたせど、見わたせど、褐色の砂丘が続く地を、1人の女性が行く。故国アフガンを離れ、いまは、カナダに暮らす女性ナファスはジャーナリストである。妹の住むカンダハールへ、単身で乗り込む勇敢さは、ジャーナリストであるという理由からだけなのではない。妹が発信してきた手紙に、「(アフガンの生活の悲惨さに)絶望して、今世紀最後の日蝕の日に自殺する」とあったからである。 | トップページ | ジネが犯した罪への深い思索の跡が、このシーンを貫いているのであるが、それはたとえば、ジネに「ワインを出されれば飲まないでいられないわ」と語らせている部分に暗示されている。 »
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