絶望の淵に立つラマザーニが、聴く鳥の声こそ、神の声である。それは、罰する神である。
太陽は、僕の瞳
1999
イラン
マジッド・マジディ監督
出演:ホセイン・マージゥーブ、モフセン・ラマザーニ
不思議な声で鳴く鳥の、姿は、終始、見えない。啄木鳥(キツツキ)や郭公(かっこう)なら、山村に住む人なら聴き分けられるし、事実、アジズばあさんは、モハマドにキツツキが鳴くのを聴いて、それが、嘴(くちばし)で木に穴を開け、巣を作っている音であることを教える。イラン映画「太陽は、僕の瞳」(マジッド・マジディ監督)の、数々のシーンで、音(とりわけ、鳥の鳴き声)は、重要な役割を持っている。それは、主人公のモハマド少年が、全盲である理由からくるばかりのことなのではない。
鳥の鳴き声が、なんとも不思議な、いったいどんな姿形をしているのだろうかと、目を見開き、不安の面持ちで、次のシーンを見守っている観客に、マジディ監督は、その姿形を見せない。同じような意味で、この不思議な鳥の鳴き声に怯(おび)えるのは、モハマドの父ラマザーニである。ラマザーニの不安、苦悩、畏怖(いふ)を、監督は、この不思議な鳴き声によって、演出し、表現している。
父ラマザーニは、幼くして父を亡くし、5年前に妻を失って、いま、再婚の準備に心が急(せ)いている。そのために、全盲のモハマドの存在をうとましく思う心境にある。ラマザーニの母アジズは、そんな息子ラマザーニを厳しく見つめ、対立し、ついに家出を決行する。雨の中を、着の身着のままで行くアジズを取り戻したラマザーニだったが、数日後、アジズは死んでしまう。再婚相手の家族は、ラマザーニに「この結婚は不吉」と、婚約破棄を宣告する。
絶望の淵に立つラマザーニが、聴く鳥の声こそ、神の声である。それは、罰する神である。モハマドには、愛の神として聴こえる鳥の鳴き声が、ラマザーニには、不安、畏怖、苦悩をいや増す兇なるものであり、ついには罰する神となるのである。「太陽は、僕の瞳」は、このシンボリックな表現が、洗練の域に達している作品、と言える。
(2002.1.20記)
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