エスマイルの父、つまり、この母の夫の不在が、作品の底流にあって、母の苦悩を生んでいるのだ。
石油地帯の子たち
2001
イラン
エブラヒム・フルゼシュ監督・脚本、ベヘザード・アリアバディヤン撮影、ベヘナーム・ザブヒ音楽。
ミーラド・レザイ、アザル・ホスラヴィ、ナグメ・ケイシャムス、ミラド・シャーディ、アリレザーロ・ローレスターニ、モハマド・カンバリほか。
イラン映画を見ていて、つくづく思い知らされるのは、文化・風習をもう少し知っていれば、作品の理解をもう少し深めることができるのになあ、という感慨である。「石油地帯の子たち」(エブラヒム・フルゼシュ監督、2001年)は、キアロスタミやマフマルドフを見てきた者に、その「もう少し」を要求するようである。
テレビが石油地帯の村へ入ってきたのを、子どもたちがもの珍しそうに取り囲むシーンがあるから、この作品の時代は、日本でいえば高度成長期のはじめのころを想起させ、イランでは、近代化のはじまった時代を示しているのであろう。それが、何年のことなのかは、解説書が手元になく、不明である。ホメイニ後の、比較的に最近のことなのかもしれない。
主人公の少年エスマイルの母の名は、ついに映画の中に表れない。イランの石油地帯の貧しい家庭の母をシンボリックに表現する意図で、監督は、敢えて固有名を与えなかったのだろう。イラン語もわからないからなおさらだが、例えば、母が高利貸しのヘイロッラを罵(ののし)る場面の心の程度、怒りの強度などを、知り得ないのである。
そのあたりは永遠に不足感が残りながら、しかし、母の気高さや優しさが、感動的に伝わってくるところが、作品の偉大さというものだ。高利貸しのヘイロッラに母(=一家が奪われてしまったロバ)を、エスマイルが取り戻すシーンは、「どんなに相手が悪人であっても、後ろ指をさされるようなことはしてはいけない」と息子に諭(さと)すイランの母を表現している。
どんなに貧しくとも、彼女は、泣かない。そして、笑わない。非情な現実に、心を閉ざしてしまったのかというと、そうではない。濡れ衣をかぶされて、学校で折檻(せっかん)されかかったエスマイルを助け出す心には、不正義への怒りが燃えさかっている。ロバと長女ジーナブの交換を要求するヘイロッラの非道には、揺るぎない拒否の姿勢を示す。エスマイルのロバ奪還の行為を激しく叱りつけながら、「お帰り。お腹すいたでしょ」と語りかける優しい母がある。
エスマイルの父、つまり、この母の夫の不在が、作品の底流にあって、母の苦悩を生んでいるのだ。出稼ぎで、クエート辺りに行っているエスマイルの父が蒙(こうむ)っている困難が、母の苦悩にかぶさっているのであるが、その父の帰郷を、エスマイルだけが目撃する。丘の上にシルエットでのみ登場する父の帰郷のシーンで、母は、(知ってか知らずか)、エスマイルの呼びかけに応じず、パイプラインの道をひとり立ち去っていく。
この絶望的な断絶の、息の詰まりそうな非情を、作品は深く追いかけない。死の賭けに打って出るエスマイル=子どもたちに、あくまで焦点を絞るのである。
(2002.3.23発)
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