再掲載/2012年12月10日 (月) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」6
(前回からつづく)
「言葉なき歌」の「あれ」に似ている使い方をされている詩が
いくつかあることが分かっていますが
そのうちの一つ「現代と詩人」を読んでみましょう。
「新字・新かな」表記にしてあります。
◇
現代と詩人
何を読んでみても、何を聞いてみても、
もはや世の中の見定めはつかぬ。
私は詩を読み、詩を書くだけのことだ。
だってそれだけが、私にとっては「充実」なのだから。
――そんなの古いよ、という人がある。
しかしそういう人が格別新しいことをしているわけでもなく、
それに、詩人は詩を書いていれば、
それは、それでいいのだと考うべきものはある。
とはいえそれだけでは、自分でも何か物足りない。
その気持は今や、ひどく身近かに感じられるのだが、
さればといってその正体が、シカと掴(つか)めたこともない。
私はそれを、好加減(いいかげん)に推量したりはしまい。
それがハッキリ分る時まで、現に可能な「充実」にとどまろう。
それまで私は、此処(ここ)を動くまい。それまで私は、此処を動かぬ。
2
われわれのいる所は暗い、真ッ暗闇だ。
われわれはもはや希望を持ってはいない、持とうがものはないのだ。
さて希望を失った人間の考えが、どんなものだか君は知ってるか?
それははや考えとさえ謂(い)えない、ただゴミゴミとしたものなんだ。
私は古き代の、英国の春をかんがえる、春の訪れをかんがえる。
私は中世独逸(ドイツ)の、旅行の様子をかんがえる、旅行家の貌《かお》をかんがえる。
私は十八世紀フランスの、文人同志の、田園の寓居への訪問をかんがえる。
さんさんと降りそそぐ陽光の中で、戸口に近く据えられた食卓のことをかんがえる。
私は死んでいった人々のことをかんがえる、――(嘗(かつ)ては彼等も地上にいたんだ)。
私は私の小学時代のことをかんがえる、その校庭の、雨の日のことをかんがえる。
それらは、思い出した瞬間突嗟(とっさ)になつかしく、
しかし、あんまりすぐ消えてゆく。
今晩は、また雨だ。小笠原沖には、低気圧があるんだそうな。
小笠原沖も、鹿児島半島も、行ったことがあるような気がする。
世界の何処(どこ)だって、行ったことがあるような気がする。
地勢と産物くらいを聞けば、何処だってみんな分るような気がする。
さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
鋭敏で、確実で、親しみがあって、とても、当今日本の雑誌の牽強附会(けんきょうふかい)の、陳列みた
いなものじゃない。それで心の全部が充されぬまでも、サッパリとした、カタルシ
スなら遂行されて、ほのぼのと、心の明るむ喜びはある。
※《 》内のルビは原作者によるもの、( )内は全集編集員会によるものです。編者。
◇
「言葉なき歌」が「文学界」に発表されたのが
昭和11年の12月号で
この詩「現代と詩人」も同じ12月号の「作品」に発表されています。
二つの詩はメディアは異なるけれど
同年同月号の文芸誌に発表されたということですが
決定的に異なるのは
昭和12年9月に行われた「在りし日の歌」の最終編集で
一つは選ばれ一つは選ばれなかったということです。
「言葉なき歌」が「永訣の秋」へ配置されたということは
「在りし日の歌」という詩集の編集意図をインスパイアーされて
変成されていく過程を経たという意味をもちます。
昭和12年9月の詩人の創意を
「言葉なき歌」は吹き込まれて「再生」されたはずの作品なのです。
◇
この違いを踏まえたうえで
二つの詩を読んでみれば
どれほど近似しているかも分かることでしょう。
特に「1」の第1連第4行に現われる指示代名詞「それ」は
「言葉なき歌」の「あれ」の至近距離にあることを理解するでしょう。
◇
しかし、ここで注目したいのは
最終連の
さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
――です。
(つづく)
*
言葉なき歌
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡《あは》い
決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女《むすめ》の眼《め》のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい
それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた
号笛《フイトル》の音《ね》のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない
さうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた
◇
「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。
言葉なき歌
あれはとおいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のように仄(ほの)かに淡《あわ》い
決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女《むすめ》の眼(め)のように遥かを見遣(みや)ってはならない
たしかに此処で待っていればよい
それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛《フィトル》の音《ね》のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない
そうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違いない
しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいていた
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。
« 再掲載/2012年12月 9日 (日) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」5 | トップページ | 再掲載/2012年12月11日 (火) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」7 »
「023再掲載/絶唱「在りし日の歌」」カテゴリの記事
- 再掲載/2013年1月11日 (金) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」7(2021.08.09)
- 再掲載/2013年1月10日 (木) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」6(2021.08.08)
- 再掲載/2013年1月 9日 (水) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」5(2021.08.08)
- 再掲載/2013年1月 8日 (火) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」4(2021.08.07)
- 再掲載/2013年1月 7日 (月) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」3(2021.08.07)
« 再掲載/2012年12月 9日 (日) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」5 | トップページ | 再掲載/2012年12月11日 (火) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」7 »
コメント