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2021年7月22日 (木)

再掲載/2012年12月10日 (月) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」6

(前回からつづく)

「言葉なき歌」の「あれ」に似ている使い方をされている詩が
いくつかあることが分かっていますが
そのうちの一つ「現代と詩人」を読んでみましょう。
「新字・新かな」表記にしてあります。

現代と詩人
 
何を読んでみても、何を聞いてみても、
もはや世の中の見定めはつかぬ。
私は詩を読み、詩を書くだけのことだ。
だってそれだけが、私にとっては「充実」なのだから。

――そんなの古いよ、という人がある。
しかしそういう人が格別新しいことをしているわけでもなく、
それに、詩人は詩を書いていれば、
それは、それでいいのだと考うべきものはある。

とはいえそれだけでは、自分でも何か物足りない。
その気持は今や、ひどく身近かに感じられるのだが、
さればといってその正体が、シカと掴(つか)めたこともない。

私はそれを、好加減(いいかげん)に推量したりはしまい。
それがハッキリ分る時まで、現に可能な「充実」にとどまろう。
それまで私は、此処(ここ)を動くまい。それまで私は、此処を動かぬ。

   2

われわれのいる所は暗い、真ッ暗闇だ。
われわれはもはや希望を持ってはいない、持とうがものはないのだ。
さて希望を失った人間の考えが、どんなものだか君は知ってるか?
それははや考えとさえ謂(い)えない、ただゴミゴミとしたものなんだ。

私は古き代の、英国の春をかんがえる、春の訪れをかんがえる。
私は中世独逸(ドイツ)の、旅行の様子をかんがえる、旅行家の貌《かお》をかんがえる。
私は十八世紀フランスの、文人同志の、田園の寓居への訪問をかんがえる。
さんさんと降りそそぐ陽光の中で、戸口に近く据えられた食卓のことをかんがえる。

私は死んでいった人々のことをかんがえる、――(嘗(かつ)ては彼等も地上にいたんだ)。
私は私の小学時代のことをかんがえる、その校庭の、雨の日のことをかんがえる。
それらは、思い出した瞬間突嗟(とっさ)になつかしく、
しかし、あんまりすぐ消えてゆく。

今晩は、また雨だ。小笠原沖には、低気圧があるんだそうな。
小笠原沖も、鹿児島半島も、行ったことがあるような気がする。
世界の何処(どこ)だって、行ったことがあるような気がする。
地勢と産物くらいを聞けば、何処だってみんな分るような気がする。

さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
鋭敏で、確実で、親しみがあって、とても、当今日本の雑誌の牽強附会(けんきょうふかい)の、陳列みた
 いなものじゃない。それで心の全部が充されぬまでも、サッパリとした、カタルシ
 スなら遂行されて、ほのぼのと、心の明るむ喜びはある。

 ※《 》内のルビは原作者によるもの、( )内は全集編集員会によるものです。編者。

「言葉なき歌」が「文学界」に発表されたのが
昭和11年の12月号で
この詩「現代と詩人」も同じ12月号の「作品」に発表されています。

二つの詩はメディアは異なるけれど
同年同月号の文芸誌に発表されたということですが
決定的に異なるのは
昭和12年9月に行われた「在りし日の歌」の最終編集で
一つは選ばれ一つは選ばれなかったということです。

「言葉なき歌」が「永訣の秋」へ配置されたということは
「在りし日の歌」という詩集の編集意図をインスパイアーされて
変成されていく過程を経たという意味をもちます。
昭和12年9月の詩人の創意を
「言葉なき歌」は吹き込まれて「再生」されたはずの作品なのです。

この違いを踏まえたうえで
二つの詩を読んでみれば
どれほど近似しているかも分かることでしょう。

特に「1」の第1連第4行に現われる指示代名詞「それ」は
「言葉なき歌」の「あれ」の至近距離にあることを理解するでしょう。

しかし、ここで注目したいのは
最終連の

さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。

――です。

(つづく)

言葉なき歌
 
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡《あは》い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女《むすめ》の眼《め》のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた
号笛《フイトル》の音《ね》のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた
 

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

言葉なき歌
 
あれはとおいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のように仄(ほの)かに淡《あわ》い

決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女《むすめ》の眼(め)のように遥かを見遣(みや)ってはならない
たしかに此処で待っていればよい

それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛《フィトル》の音《ね》のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない

そうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違いない
しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいていた

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。

 

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