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2021年7月 5日 (月)

再掲載/2012年11月 7日 (水) 「永訣の秋」の月光詩群・「月夜の浜辺」6・生きているうちに読んでおきい名作たち

(前回からつづく)

普通の日本人が日常会話で使うような
「しゃべり言葉」みたいな現代口語で
「月夜の浜辺」はつくられています。

むずかしいと頭をひねることもないやさしい言葉を
ルフランを駆使し7・7音のリズムに乗せて
朗唱しやすい詩が組み立てられました。

なんの疑問の余地もない詩のようですが
ふと立ち止まらざるをえない言葉に行き当たるのは

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

――という第5連です。

拾ったボタンが、なぜ、指先に沁み、心にも沁みたのでしょうか?

月夜の浜辺の波打際で拾ったボタンを
何かのほころびを繕(つくろ)うためとか
記念品として持ち帰るためにとか
実用に役立てるために拾ったものでないことは分かりますが
なぜこれが指先に沁み、心にも沁みたのでしょうか?

この詩がたった一つ残す謎です。

そこでこの詩を起承転結の流れにそって読んでみると、

第1連が起
第2、3、4連が承
第5連が転
第6連が結。

――という構成が見え
第5連が「転」に当たることが分かります。

この詩が、
月夜の浜辺でボタンを拾ったという
客観的事実を叙述したものでないことを
この第5連は明らかにしているのです。

夜の海に来て僕=詩人が拾ったボタンが
心に沁みるというのは
詩人の内面が明らかにされているということで
さりげないようですが
ここでこの詩は「転」=質的な変化をとげているのです。
それを叙景から叙情への転換といってもおかしくありません。

しかし心に沁みる理由は明らかにされません。

詩の行のどこを探しても
その理由を見つけることはできません。

それはもはや
詩の外、作品の外部に求めるしかないことです。

(この項終わり)

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向つてそれは抛《はふ》れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
 
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
   月に向ってそれは抛《ほう》れず
   浪に向ってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

 

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