再掲載/2012年12月 9日 (日) 「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」5
(前回からつづく)
「ランボウ詩集」の「後記」の後半部は
中原中也のランボー論が展開されています。
そして少しはベルレーヌ論も混ざっています。
◇
その中のはじめの部分の
パイヤン(異教徒)の思想だ
彼にとつて基督教とは、多分一牧歌
感性的陶酔
陶酔の全一性といふことが全ての全て
悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した
人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。
――などというランボー「総論」はひとまず置いておきます。
◇
「言葉なき歌」にピタリとクロスするのは
云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。
――と述べられた部分でしょう。
さらにつづめれば、このくだりの中の
一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きもの
――という一節です。
「言葉なき歌」の「あれ」が
この一節にピンポイントで照応(クロス)しています。
「あれ」は、
かつて一度洞見したことのある(一度見抜いたことのある)
忘れようにも忘れられないし、またもう一度それを表現することもできない
存在することは確かなのだけれど「そこ」へ行く道がわからなくなった宝島のようなもの
――と同じものではありませんか!
◇
さらにつづめて言えば
「あれ」とは「宝島」のことになります。
(つづく)
*
言葉なき歌
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡《あは》い
決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女《むすめ》の眼《め》のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい
それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた
号笛《フイトル》の音《ね》のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない
さうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた
◇
「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。
言葉なき歌
あれはとおいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のように仄(ほの)かに淡《あわ》い
決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女《むすめ》の眼(め)のように遥かを見遣(みや)ってはならない
たしかに此処で待っていればよい
それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛《フィトル》の音《ね》のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない
そうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違いない
しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいていた
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員
会によるものです。
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