再掲載/2012年11月29日 (木) 「永訣の秋」女のわかれ補足篇・「或る男の肖像」の原形「或る夜の幻想」その2
(前回からつづく)
6部仕立ての連詩「或る夜の幻想」の
4 或る男の肖像
5 無題――幻滅は鋼《はがね》のいろ。
6 壁
――を独立させた詩が「或る男の肖像」でした。
「或る夜の幻想」の中では
4、5、6のつながりが緊密で独立させるのが容易だったからでしょうか。
独立した詩として成立すると詩人が判断したからには
この詩は原形詩「或る夜の幻想」とは
別個の世界として読めなくてはなりません。
詩人はそれでも読めると見なし
発表したのですから
原形詩から離れて読んでみることに無理はないはずです。
もし原形詩がなんらかの役に立つならば
それはヒントになるくらいのことでしょう。
ヒントにとどめるのがベターでしょう。
◇
その意味で「或る夜の幻想」を読んでみれば。
「彼女」を主格にした部分が
否応もなく目立つことに気づきます。
1 彼女の部屋
3 彼女
6 壁
――が「彼女」に関しての詩です。
よく見れば
そのほかの部分は「彼」に関する詩であることも見えてきます。
◇
「彼女」を歌った部分で
「或る男の肖像」に入っていない「1 彼女の部屋」と「3 彼女」を読んでみましょう。
するとどちらもダダかシュールか象徴表現か
観念でとらえようとしてもとらえられない
謎の世界に迷い込みます。
「1 彼女の部屋」は
「洋服箪笥の中は本でいっぱいだった」というのですから
彼女は衣装よりも書物を好んだというような意味でよいとしても
「3 彼女」はお手上げになりそうなところですが――。
野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。
或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。
――この中の「杉林」をフロイド流に読んでみれば
意外にあっさりと「男」を意味していそうなことが分かります。
(つづく)
*
或る夜の幻想
1 彼女の部屋
彼女には
美しい洋服箪笥があつた
その箪笥は
かわたれどきの色をしてゐた
彼女には
書物や
其の他色々のものもあつた
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかつたので
彼女の部屋には箪笥だけがあつた
それで洋服箪笥の中は
本でいつぱいだつた
2 村の時計
村の大きな時計は、
ひねもす働いてゐた
その字板《じいた)のペンキは
もう艶が消えてゐた
近寄つて見ると、
小さなひびが沢山にあるのだつた
それで夕陽が当つてさへか、
おとなしい色をしてゐた
時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた
字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかつた
3 彼女
野原の一隅には杉林があつた。
なかの一本がわけても聳えてゐた。
或る日彼女はそれにのぼつた。
下りて来るのは大変なことだつた。
それでも彼女は、媚態を棄てなかつた。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであつた。
夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
背中にあつた。
4 或る男の肖像
洋行帰りのその洒落者は、
齢をとつても髪に緑のポマードをつけてゐた。
夜毎喫茶店にあらはれて、
其処の主人と話してゐる様はあはれげであつた。
死んだと聞いては、
いつそうあはれであつた。
5 無題
――幻滅は鋼《はがね》のいろ。
髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向つて、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。
剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそはそはと、
寒かつた。
開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。
読書も、しむみりした恋も、
暖かいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかつた。
6 壁
彼女は
壁の中へ這入つてしまつた。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いてゐた。
◇
「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。
或る夜の幻想
1 彼女の部屋
彼女には
美しい洋服箪笥があった
その箪笥は
かわたれどきの色をしていた
彼女には
書物や
其の他色々のものもあった
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかったので
彼女の部屋には箪笥だけがあった
それで洋服箪笥の中は
本でいっぱいだった
2 村の時計
村の大きな時計は、
ひねもす動いていた
その字板《じいた》のペンキは
もう艶が消えていた
近寄ってみると、
小さなひびが沢山にあるのだった
それで夕陽が当ってさえか、
おとなしい色をしていた
時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴った
字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかった
3 彼女
野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。
或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。
それでも彼女は、媚態を棄てなかった。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであった。
夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
背中にあった。
4 或る男の肖像
洋行帰りのその洒落者は、
齢《とし》をとっても髪に緑のポマードをつけてゐた。
夜毎喫茶店にあらわれて、
其処の主人と話している様はあわれげであった。
死んだと聞いてはいっそうあわれであった。
5 無題
――幻滅は鋼《はがね》のいろ。
髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向って、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行った。
剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそわそわと、
寒かった。
開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでいた。
読書も、しんみりした恋も、
あたたかいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかった。
6 壁
彼女は
壁の中へ這入ってしまった。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いていた。
※「新編中原中也全集」より。《 》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は全集編集委員会がつけたものです。
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