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2021年7月17日 (土)

再掲載/2012年11月29日 (木) 「永訣の秋」女のわかれ補足篇・「或る男の肖像」の原形「或る夜の幻想」その2

(前回からつづく)

6部仕立ての連詩「或る夜の幻想」の
4 或る男の肖像
5 無題――幻滅は鋼《はがね》のいろ。
6 壁
――を独立させた詩が「或る男の肖像」でした。

「或る夜の幻想」の中では
4、5、6のつながりが緊密で独立させるのが容易だったからでしょうか。

独立した詩として成立すると詩人が判断したからには
この詩は原形詩「或る夜の幻想」とは
別個の世界として読めなくてはなりません。

詩人はそれでも読めると見なし
発表したのですから
原形詩から離れて読んでみることに無理はないはずです。

もし原形詩がなんらかの役に立つならば
それはヒントになるくらいのことでしょう。
ヒントにとどめるのがベターでしょう。

その意味で「或る夜の幻想」を読んでみれば。
「彼女」を主格にした部分が
否応もなく目立つことに気づきます。

1 彼女の部屋
3 彼女
6 壁
――が「彼女」に関しての詩です。

よく見れば
そのほかの部分は「彼」に関する詩であることも見えてきます。

「彼女」を歌った部分で
「或る男の肖像」に入っていない「1 彼女の部屋」と「3 彼女」を読んでみましょう。

するとどちらもダダかシュールか象徴表現か
観念でとらえようとしてもとらえられない
謎の世界に迷い込みます。

「1 彼女の部屋」は
「洋服箪笥の中は本でいっぱいだった」というのですから
彼女は衣装よりも書物を好んだというような意味でよいとしても
「3 彼女」はお手上げになりそうなところですが――。

野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。
或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。

――この中の「杉林」をフロイド流に読んでみれば
意外にあっさりと「男」を意味していそうなことが分かります。

(つづく)

 *

或る夜の幻想
 
   1 彼女の部屋

彼女には
美しい洋服箪笥があつた
その箪笥は
かわたれどきの色をしてゐた

彼女には
書物や
其の他色々のものもあつた
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかつたので
彼女の部屋には箪笥だけがあつた

  それで洋服箪笥の中は
  本でいつぱいだつた

   2 村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす働いてゐた

その字板《じいた)のペンキは
もう艶が消えてゐた

近寄つて見ると、
小さなひびが沢山にあるのだつた

それで夕陽が当つてさへか、
おとなしい色をしてゐた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかつた

   3 彼女

野原の一隅には杉林があつた。
なかの一本がわけても聳えてゐた。

或る日彼女はそれにのぼつた。
下りて来るのは大変なことだつた。

それでも彼女は、媚態を棄てなかつた。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであつた。

  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあつた。
  
   4 或る男の肖像

洋行帰りのその洒落者は、
齢をとつても髪に緑のポマードをつけてゐた。

夜毎喫茶店にあらはれて、
其処の主人と話してゐる様はあはれげであつた。

死んだと聞いては、
いつそうあはれであつた。

   5 無題
    ――幻滅は鋼《はがね》のいろ。

髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向つて、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。

剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそはそはと、
寒かつた。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。

読書も、しむみりした恋も、
暖かいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかつた。

   6 壁

彼女は
壁の中へ這入つてしまつた。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いてゐた。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

或る夜の幻想
 
   1 彼女の部屋

彼女には
美しい洋服箪笥があった
その箪笥は
かわたれどきの色をしていた

彼女には
書物や
其の他色々のものもあった
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかったので
彼女の部屋には箪笥だけがあった

  それで洋服箪笥の中は
  本でいっぱいだった

   2 村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす動いていた

その字板《じいた》のペンキは
もう艶が消えていた

近寄ってみると、
小さなひびが沢山にあるのだった

それで夕陽が当ってさえか、
おとなしい色をしていた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴った

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかった

   3 彼女

野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。

或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。

それでも彼女は、媚態を棄てなかった。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであった。

  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあった。
  
   4 或る男の肖像

洋行帰りのその洒落者は、
齢《とし》をとっても髪に緑のポマードをつけてゐた。

夜毎喫茶店にあらわれて、
其処の主人と話している様はあわれげであった。

死んだと聞いてはいっそうあわれであった。

   5 無題
    ――幻滅は鋼《はがね》のいろ。

髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向って、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行った。

剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそわそわと、
寒かった。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでいた。

読書も、しんみりした恋も、
あたたかいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかった。

   6 壁

彼女は
壁の中へ這入ってしまった。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いていた。

※「新編中原中也全集」より。《 》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は全集編集委員会がつけたものです。

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