再掲載/2012年11月18日 (日) 「永訣の秋」京都のわかれ・「ゆきてかえらぬ」3・生きているうちに読んでおきたい名作たち
(前回からつづく)
「ゆきてかえらぬ」の第8連で
名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。
――と京都での一人暮らしの実態を総括的に回顧した詩人は
そこで終ったはずの詩に加えるようにして
最終連を記しました。
◇
林の中には、世にも不思議な公園があって、不気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。
さてその空には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いていた。
――それがこの3行です。
第1連から第8連までを
簡約にしたかのような詩句です。
「林」とは、京都の街そのものでありましょう。
「公園」とは、近辺の知人友人隣人たちとの交流圏のことでありましょう。
◇
最終行「さて」以下のフレーズに
この詩の最大のポイントがあります。
空に、銀色に光り輝く、蜘蛛の巣。
◇
蜘蛛の巣があり
蜘蛛のイメージは見えませんが
巣の奥に蜘蛛は潜んでいる。
ひっそりとしていて
確固としていて
不気味で
得体の知れない
恐ろしいような
俗から超然として
しぶとい生命力のある
魔物のような
人を魅惑する存在――。
不気味なほどにもにこやかな
女や子供、男達散歩していて
僕に分らぬ言語を話し
僕に分らぬ感情を、表情していた
世にも不思議な公園の中にいた
孤絶した詩人が発見したものが
銀色に輝く蜘蛛の巣でした。
◇
外側から蜘蛛の巣を見ただけで
その中の世界がどんなものか
明確に見たわけではありませんが
目の覚めるような銀色の輝きに
詩人は「生」そのものを見たに違いありません。
(つづく)
*
ゆきてかへらぬ
――京 都――
僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺つてゐた。
木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。
棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。
さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。
煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。
さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持つていたとはいえ、布団ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらゐは持つてもいたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。
女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会いに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。
名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。
* *
*
林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
さてその夜には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いてゐた。
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。
◇
「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。
◇
ゆきてかえらぬ
――京 都――
僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺っていた。
木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停っていた。
棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であった。
さりとて退屈してもいず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食)すに適していた。
煙草くらいは喫ってもみたが、それとて匂いを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかった。
さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持っていたとはいえ、布団ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらいは持ってもいたが、たった一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだった。
女たちは、げに慕わしいのではあったが、一度とて、会いに行こうと思わなかった。夢みるだけで沢山だった。
名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。
* *
*
林の中には、世にも不思議な公園があって、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。
さてその空には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いていた。
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