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2021年7月28日 (水)

再掲載/2012年12月16日 (日) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」3

(前回からつづく)

昭和11年11月10日、
長男文也が小児結核で死亡するという不幸に見舞われた詩人は
悲嘆の底に沈み、精神に変調をきたしたため
家人のはからいで千葉の中村古峡療養所へ入院したのは
明けて昭和12年1月9日。
1か月以上の療養の末、2月15日に退院し、
2月27日に四谷・市谷の住まいを払い
鎌倉の寿福寺境内の借家へ引っ越します。

文也の死後で昭和11年内に
中原中也が新たに制作した詩篇は
①未発表詩篇「断片」
②未発表詩篇「暗い公園」
③「また来ん春……」
④「月の光 その一」
⑤「月の光 その二」
⑥未発表詩篇「夏の夜の博覧会はかなしからずや」
⑦「冬の長門峡」
――の7篇です。
(※旧作を作り直したり再構成したものを除く。詩篇以外では散文の評論で「感想」「詩壇への願い」「詩壇への抱負」があります。)

「断片」が作られたのは昭和11年11月11日から17日の間と推定され
「冬の長門峡」は昭和11年12月24日(日付けあり)ですから
およそ1か月半の間に7作品を制作しています。

散文を含めれば10作品におよび
昭和11年末の制作意欲は
完全には衰えていなかったことを示しています。

「在りし日の歌」の第3次編集に入るのは
鎌倉に来てしばらくした春頃らしいのですが
2月には「また来ん春……」(文学界2月号)
4月には「冬の長門峡」(文学界4月号)
5月には「春日狂想」(文学界5月号)を発表しています。

千葉の療養所への入退院と鎌倉への引っ越しで
空白を余儀なくされた期間をやり過ごして
2月には詩活動をはじめているということになります。
空白は1月と2月のうちのわずかな期間でした。

この間にも、「在りし日の歌」の編集構想が
「頭の中で」進んでいなかったと断言できるものでもありません。

(つづく)

また来ん春……
 
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

また来ん春……
 
また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫《にゃあ》といい
鳥を見せても猫《にゃあ》だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……

 

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