再掲載/2012年11月28日 (水)「永訣の秋」女のわかれ補足篇・「或る男の肖像」の原形「或る夜の幻想」
(前回からつづく)
実は「或る男の肖像」には
元になった詩があります。
その詩は「或る夜の幻想」のタイトルで
「四季」の昭和12年(1937年)3月号に発表された短詩の連作詩でした。
「或る夜の幻想」ははじめ
1 彼女の部屋
2 村の時計
3 彼女
4 或る男の肖像
5 無題――幻滅は鋼《はがね》のいろ。
6 壁
――という6部仕立ての連詩だったのです。
「在りし日の歌」の編集過程で
このうちの「2」が「村の時計」として
「4」「5」「6」が「或る男の肖像」として
「永訣の秋」の中に収録されました。
元の詩の一部でありながら
独立した詩として仕立てたのが
「或る男の肖像」であり
「村の時計」です。
◇
元の詩「或る夜の幻想」を読んでおきましょう。
◇
或る夜の幻想
1 彼女の部屋
彼女には
美しい洋服箪笥があつた
その箪笥は
かわたれどきの色をしてゐた
彼女には
書物や
其の他色々のものもあつた
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかつたので
彼女の部屋には箪笥だけがあつた
それで洋服箪笥の中は
本でいつぱいだつた
2 村の時計
村の大きな時計は、
ひねもす働いてゐた
その字板《じいた)のペンキは
もう艶が消えてゐた
近寄つて見ると、
小さなひびが沢山にあるのだつた
それで夕陽が当つてさへか、
おとなしい色をしてゐた
時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた
字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかつた
3 彼女
野原の一隅には杉林があつた。
なかの一本がわけても聳えてゐた。
或る日彼女はそれにのぼつた。
下りて来るのは大変なことだつた。
それでも彼女は、媚態を棄てなかつた。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであつた。
夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
背中にあつた。
4 或る男の肖像
洋行帰りのその洒落者は、
齢をとつても髪に緑のポマードをつけてゐた。
夜毎喫茶店にあらはれて、
其処の主人と話してゐる様はあはれげであつた。
死んだと聞いては、
いつそうあはれであつた。
5 無題
――幻滅は鋼《はがね》のいろ。
髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向つて、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。
剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそはそはと、
寒かつた。
開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。
読書も、しむみりした恋も、
暖かいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかつた。
6 壁
彼女は
壁の中へ這入つてしまつた。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いてゐた。
◇
「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。
或る夜の幻想
1 彼女の部屋
彼女には
美しい洋服箪笥があった
その箪笥は
かわたれどきの色をしていた
彼女には
書物や
其の他色々のものもあった
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかったので
彼女の部屋には箪笥だけがあった
それで洋服箪笥の中は
本でいっぱいだった
2 村の時計
村の大きな時計は、
ひねもす動いていた
その字板《じいた》のペンキは
もう艶が消えていた
近寄ってみると、
小さなひびが沢山にあるのだった
それで夕陽が当ってさえか、
おとなしい色をしていた
時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴った
字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかった
3 彼女
野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。
或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。
それでも彼女は、媚態を棄てなかった。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであった。
夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
背中にあった。
4 或る男の肖像
洋行帰りのその洒落者は、
齢《とし》をとっても髪に緑のポマードをつけてゐた。
夜毎喫茶店にあらわれて、
其処の主人と話している様はあわれげであった。
死んだと聞いてはいっそうあわれであった。
5 無題
――幻滅は鋼《はがね》のいろ。
髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向って、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行った。
剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそわそわと、
寒かった。
開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでいた。
読書も、しんみりした恋も、
あたたかいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかった。
6 壁
彼女は
壁の中へ這入ってしまった。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いていた。
※「新編中原中也全集」より。《 》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は全集編集委員会
がつけたものです。
(つづく)
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