再掲載/2012年12月22日 (土) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」9
(前回からつづく)
「在りし日の歌」のとりわけ「永訣の秋」に
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を採らなくて
「また来ん春……」や「春日狂想」や「冬の長門峡」を選んだ理由が見えてきました。
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を
よーく味わっていれば
それを理解できる気がしませんか?
この詩を何度も何度も読んでいると
追悼詩としての絶唱であることを
誰しもが感じとるに違いありません。
次第次第に悲しみが高まってきて
いましも倒れてしまいそうになるほど
詩人の感情にシンクロし
詩の中に入って
詩人の悲しみを悲しむことになります。
悲しみでめまいがする感覚になるのです。
そのように
悲しみの「現在」が
歌われているのです。
◇
あまりに現在的すぎて
「永訣の秋」にマッチしなかったのです。
「在りし日の歌」に採るにも
詩人の今が歌われていて
「過去」のものになっていなかったことを
詩人自ら分かっていたのです。
「あがりぬ」
「ありぬ」
「いぬ」
「きぬ」
「出でぬ」
「買いぬ」
「のりぬ」
「めぐりぬ」
――と完了を示す助動詞「ぬ」で強調すればするほど
現在が浮かび上がります。
全篇を通じて現われる「ぬ」の繰り返しも
「1」で8回も出てくる「かなしからずや」のルフランに
かき消されてしまうためでしょうか。
◇
「また来ん春……」はその点で
「月の光」や
「春日狂想」や
「冬の長門峡」と同じように
内容との距離感があり
作意・創意といったものまであり
過ぎ去りし日へのわかれ歌の域に達しています。
これは作品の完成度の問題ではありません。
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は
稀(まれ)にみる追悼詩です。
その絶唱です。
「永訣の秋」に収めるには
バランスを欠いただけの話です。
◇
「また来ん春……」が
ソネット、75調である上に
「辛いのだ」
「何になろ」
「来るじゃない」
「ニャーといい」
「ニャーだった」
「いたっけが……」
――という口語会話体で書かれていることも
内容との適度な距離を感じさせる効果を生んでいます。
(この項終わり)
*
また来ん春……
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない
おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた
最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。
◇
「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。
また来ん春……
また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない
おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫《にゃあ》といい
鳥を見せても猫《にゃあ》だった
最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた
ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……
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