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2021年7月30日 (金)

再掲載/2012年12月22日 (土) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」9

(前回からつづく)

「在りし日の歌」のとりわけ「永訣の秋」に
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を採らなくて
「また来ん春……」や「春日狂想」や「冬の長門峡」を選んだ理由が見えてきました。

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を
よーく味わっていれば
それを理解できる気がしませんか?

この詩を何度も何度も読んでいると
追悼詩としての絶唱であることを
誰しもが感じとるに違いありません。

次第次第に悲しみが高まってきて
いましも倒れてしまいそうになるほど
詩人の感情にシンクロし
詩の中に入って
詩人の悲しみを悲しむことになります。

悲しみでめまいがする感覚になるのです。
そのように
悲しみの「現在」が
歌われているのです。

あまりに現在的すぎて
「永訣の秋」にマッチしなかったのです。
「在りし日の歌」に採るにも
詩人の今が歌われていて
「過去」のものになっていなかったことを
詩人自ら分かっていたのです。

「あがりぬ」
「ありぬ」
「いぬ」
「きぬ」
「出でぬ」
「買いぬ」
「のりぬ」
「めぐりぬ」
――と完了を示す助動詞「ぬ」で強調すればするほど
現在が浮かび上がります。

全篇を通じて現われる「ぬ」の繰り返しも
「1」で8回も出てくる「かなしからずや」のルフランに
かき消されてしまうためでしょうか。

「また来ん春……」はその点で
「月の光」や
「春日狂想」や
「冬の長門峡」と同じように
内容との距離感があり
作意・創意といったものまであり
過ぎ去りし日へのわかれ歌の域に達しています。

これは作品の完成度の問題ではありません。
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は
稀(まれ)にみる追悼詩です。
その絶唱です。

「永訣の秋」に収めるには
バランスを欠いただけの話です。

「また来ん春……」が
ソネット、75調である上に
「辛いのだ」
「何になろ」
「来るじゃない」
「ニャーといい」
「ニャーだった」
「いたっけが……」
――という口語会話体で書かれていることも
内容との適度な距離を感じさせる効果を生んでいます。

(この項終わり)

また来ん春……
 
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

また来ん春……
 
また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫《にゃあ》といい
鳥を見せても猫《にゃあ》だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……

 

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