再掲載/2012年11月19日 (月) 「永訣の秋」京都のわかれ・「ゆきてかえらぬ」4・生きているうちに読んでおきたい名作たち
(前回からつづく)
名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。
――という「ゆきてかえらぬ」の第8連と
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めていた……
嗚呼、生きていた、私は生きていた!
――という「少年時」の最終連は
同じことの異なる表現といってよいほどに対応しているのですが
銀色に輝く蜘蛛の巣は
ギロギロする目がようやく探り当てたかのような生そのものでありながら
ほかの言葉で言ってしまうのは憚(はばか)られるもの。
ズバリ言ってしまえば
詩の道。
魔性(ましょう)と言えば過剰だが
生命の原型と言えばおとなし過ぎる
文学の道に魅惑(みわく)されたということでしょうか。
◇
それに向けて高まり逸る気持ちを
いまや距離をおいて眺めている
遠い日への回顧なのです。
◇
「ゆきてかえらぬ」は
公刊された自選詩集である「山羊の歌」「在りし日の歌」を通じて
珍しい散文詩ですが
その「センテンス」は過去形「た」で終わっています。
果てにいた。
揺っていた。
停っていた。
仕事であった。
適していた。
吹かさなかった。
ものだった。
思わなかった。
沢山だった。
高鳴っていた。
表情していた。
光り輝いていた。
――と「たたたた」と動詞の過去形か過去を表わす助動詞で終始します。
銀色の蜘蛛の巣が光り輝いていたのも
過去のことなのです。
◇
「少年時」の少年が10歳ほどの年齢であるとすれば20年、
「ゆきてかえらぬ」の京都の暮らしのはじめから15年。
みんな遠い日のことになり
もう帰ってくることはない。
そうした過去をノスタルジーに流さないで
一歩距離をおいて見ようとすれば
(対象化し客体化しようとすれば)
散文詩にするしかなかったということになります。
(この項終わり)
*
ゆきてかへらぬ
――京 都――
僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺つてゐた。
木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。
棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。
さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。
煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。
さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持つていたとはいえ、布団ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらゐは持つてもいたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。
女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会いに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。
名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。
* *
*
林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
さてその夜には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いてゐた。
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。
◇
「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。
◇
ゆきてかえらぬ
――京 都――
僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺っていた。
木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停っていた。
棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であった。
さりとて退屈してもいず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食)すに適していた。
煙草くらいは喫ってもみたが、それとて匂いを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかった。
さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持っていたとはいえ、布団ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらいは持ってもいたが、たった一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだった。
女たちは、げに慕わしいのではあったが、一度とて、会いに行こうと思わなかった。夢みるだけで沢山だった。
名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。
* *
*
林の中には、世にも不思議な公園があって、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。
さてその空には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いていた。
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