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2021年8月

2021年8月18日 (水)

モフセン・マフマルバフ監督作品「カンダハール」(イラン、2001年)メモ

「合地舜介の思い出シネマ館2」より再掲載

■メモその1
モフセン・マフマルバフ監督の「カンダハール」が、東京フィルメックス特別招待作品として、東京・朝日ホールで上映されたのを見た。カナダに移住したアフガニスタン女性ナファスが、カンダハールに住む妹からの手紙に込められた絶望を聞き取り、単身、アフガンに入り、カンダハールへ向かう旅を追うという構成の、ロードムービーの形を借りた反戦映画だ。

時(とき)まさに、カンダハールは、タリバーン撤退の報道で溢れかえり、刻々、変動する情勢が伝えられている。しかし、なにもかもが、本当のようでなく、メディアのフィルター、情報操作というフィルターにかかっているようでしかたなく感じられるのである。そこにあるのは、その時々の事実の断片か、その断片を強引に繋ぎ合わせた一方的解釈かである場合が多く、モヤモヤがとれないでいる。

見たばかりで、考えをまとめきれないでいるが、映画「カンダハール」は、断片としてのアフガンであることを極力、排除し、すくなくともここ数十年のアフガンを流れた史的時間を、アフガン女性の眼差しからとらえ返そうとしている、とは言えるであろう。ナファスを手助けするブラック・アメリカンであり、ブラック・ムスリムである男性医師の眼差しや、貧しさゆえに貧しさを取り除こうとするためのことならなんでもする優しいアフガンへの(監督の)眼差し――なども、強く印象に残った。
(2001.11.19記)

■メモその2
映画「カンダハール」は、アフガニスタンの人びとが、世界の各地で暮らす貧しき人びとと同じように、見放されてはならないことを強く訴えている。

モフセン・マフマルバフ監督の最新作「カンダハール」は、「9.11」以前に撮了していたらしいが、ユネスコのフェデリコ・フェリーニ・メダルを受賞し、10月3日、パリのユネスコ本部での授賞式では、特別上映会も行われ、監督はその場でスピーチした。そのスピーチは、11月19日の朝日ホールでの東京フィルメックス特別招待作品上映会でも紹介された。

朝日ホールで紹介されたスピーチを聞き書きしたが、当日、頒布されていた「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」(モフセン・マフマルドフ著、武井みゆき+渡部良子訳、現代企画室)の冒頭部にも掲載されているので、聞き書きを補うために、全文を引用させていただく。映画「カンダハール」の、作品としてのメッセージとともに、その作者の肉声のメッセージは、この時に及んで、切実であり、より多くの人に伝えられるべきものである。

映画は、映画人だけに閉ざされるものでもなく、バーミヤン石仏群は仏教徒のためにだけ開かれているものでもなく、(いまやこの世から消えてなくなった)世界貿易センタービルは富める者だけに機能していたものではないはずであるように、映画「カンダハール」は、アフガニスタンの人びとが、世界の各地で暮らす貧しき人びとと同じように、見放されてはならないことを強く訴えている。

【神にさえ見放されたアフガニスタン】
 アフガニスタンは、何年もの間、空からは人びとの頭上に爆弾が降り注ぎ、地にあっては人びとの足もとに地雷が埋められてきた国です。アフガニスタンは、人びとが路上で毎日のように自分たちの政府によって鞭打たれている国です。アフガニスタンは、逃げ場のない難民たちが、その隣人たちによって追い返されている国です。アフガニスタンは、旱魃によって、人びとが飢えと渇きに苦しみながら死に向かわされている国です。この国では世界のどこよりも神の名が語られるというのに、神に見放されているかのようです。

 アメリカでの9月11日の事件が起こるまで、アフガニスタンは忘れられた国でした。今でさえも、アフガニスタンに向けられる関心は、そのほとんどが人道的なものではないのです。

 もしも過去の25年間、権力が人びとの頭上に降らせていたのがミサイルではなく書物であったなら、無知や部族主義やテロリズムがこの地にはびこる余地はなかったでしょう。もしも人びとの足もとに埋められたのが地雷ではなく小麦の種であったなら、数百万のアフガン人が死と難民への道を辿らずにすんだでしょう。

 このような状況の中、アフガンについての映画に<フェデリコ・フェリーニ>メダルが与えられることは、ひとつの希望の徴(しるし)です。しかし、この賞に与えられるものがパンであったなら、飢えたアフガニスタンの人びとに分け与えることができたでしょう。もしこの賞が雨であったなら、アフガニスタンの乾いた地に降らせることができたでしょう。もし自由の風であったなら、アフガン女性のブルカに向けて吹かせることができたでしょう。

 この賞はパンではなく、雨ではなく、自由の風ではなく、一つの希望の徴にすぎませんが、私は、この希望を、アフガニスタンの苦しむ人びとに捧げられた希望とともに、私のもとに預かっておこうと思います。そして、世界の文化大使の方々の前で、私はアフガニスタンの人びとに約束します。アフガニスタンが自由になったら、カンダハールの町にフェリーニの名をとった学校を建てることを。皆さんからいただいた、このメダルは、その学校の生徒たちに捧げます。
*改行を1行空きに、ルビを( )に、漢数字を洋数字に変更しました。
(2001.11.24記)

■メモその3
イランの監督モフセン・マフマルバフの映画「カンダハール」の冒頭、難民キャンプで、地雷から身を守るための教育が行われているシーンがある。

人形を見つけても、無闇に近づいてはいけない。こうして、踏んづけてみて、ぶーっという音がしたら、私が踏んづけた足はなくなっていると思ってください。

教えているのは、高校生くらいの年頃の女性だ。地べたにしゃがみ込んで、耳目をそばだてているのは、小学生くらいの少年少女である。足を失う、という実態が、人形を踏みつけるという行為の結果生じる、ということを、いたいけない子どもたちに実感させるために、子どもたちの遊び道具を使わねばならない戦場。

頬擦りし、キスし、抱っこして遊ぶべき人形が、殺戮の武器になっている、というおぞましい現実を、なんと理解したらいいか。

悪質な、あくどい、悪知恵が働いている……。

「日本の皆さん、もう戦争は終わりました。はやく、防空壕から出てきて、みんなで遊びましょう」という米兵の声に、ゾロゾロ出て行った日本人は、みな殺された――という話を、幼時、聞かされた憶えがある。ぼんやりとした記憶なのだが、「鬼畜・水雷・大将」という遊びが、原っぱで遊ばれていたころのことだから、その遊びの合い間の、大人たちのデマゴーグだったかもしれない。はっきりだれだか覚えていないが、だれかから、聞いた言葉が残っていて、この地雷人形のシーンを考えているうちに、思い出された。

あくどい、悪質な、人間の仕業(しわざ)というものがある。

人間のあくどさを見て、無神論者であっても、「神よ!」と祈りたくなる瞬間である。
(2001.11.25記)

メモその4
見わたせど、見わたせど、褐色の砂丘が続く地を、1人の女性が行く。故国アフガンを離れ、いまは、カナダに暮らす女性ナファスはジャーナリストである。妹の住むカンダハールへ、単身で乗り込む勇敢さは、ジャーナリストであるという理由からだけなのではない。妹が発信してきた手紙に、「(アフガンの生活の悲惨さに)絶望して、今世紀最後の日蝕の日に自殺する」とあったからである。

日本でいえば高校生ほどの女性が、人形に仕掛けられた地雷を避ける訓練を、小学生ほどの子どもたちの群れの中で行っている難民キャンプ。イラン国境らしい。カンダハールやヘラートへと、帰還する難民である。難民にも、国外へ脱出するものもあれば、脱出できずに否応もなく故郷へ引き返すものもある。ナファスは、この帰還難民の一行の一つに便乗し、カンダハールを目指すのである。一行の老家長の第4夫人と偽る算段が立てられ、ロバに揺られた旅がこうしてはじまる。

出発後すぐのシーン。タリバーン兵数人に取り囲まれ、泣き叫ぶ少女、幼児の声。「女、子供たちが何をしたというんです」というナファスの抗議は通じない。無言で、子どもたちが持っている身の回り品を略奪する男たちは、それ以上のことをしない。それが不気味であり、タリバーンが単なるならず者ではないことを物語っているかのようである。老家長は、抗議を諦めるのに素早く、アラーへの祈りを一行に促し、カンダハールへの帰還をあっさりと中止する。

ナファスを、今度、案内するのは、中学生ほどの少年である。この少年は、コーランの朗誦ができなかったために、マリッサ(神学校)を強制退学処分にされたばかりである。文字が読めず、先生からコーランの朗誦を命じられてもアカペラでしか応答しない少年の素朴さが、他の優等生たちの必死さと対照されるシーンが、深刻な背景を考えさせつつも、微笑を誘う。

少年は、日々の糧(かて)を得るために、いまや砂漠の中で金になることならなんでもする、貧しき人びと=アフガンの1人である。ナファスをカンダハールへ案内する替わりに、幾ばくかの金を得る仕事の途中でも、骸骨化した人間の指から、指輪を抜き取ることも厭(いと)わない。これも仕事である。ナファスに売りつけようとするが、ナファスは断じて、受け取らない。(ナファスとの旅の終りで、少年は指輪を、カンダハールの妹にあげてくれるようにナファスにプレゼントする。これを、ナファスが受け取ることにしたのは、少年=アフガンへの理解という意味をもつのだろう。)

井戸水を飲んで、食べられず、食べても吐き出す症状に陥ったナファスを、少年は野戦病院に連れてゆく。診察・治療にあたっているのは、ブラック・ムスリムのアメリカ人男性であった。素性を隠し、医師と偽って治療を続けてきた男性は、ナファスの無謀を一瞬にして理解し、少年との危険な旅を止めさせるために力を貸す。近くの(といっても、車で半日はかかるのだろうか)赤十字の支援センターへ同行し、そこの職員にカンダハールへの便乗の手立てを相談することにした。

医師は、ムジャヒディーンとしてアフガンに乗り込んだのだろうか、来歴を語るには、多難な道を辿ってきたことをナファスにほのめかすだけである。アメリカ人であり、イスラムであり、医師である――という設定で、この男性の眼差しを映画に持ち込んだマフマルバフの創意がここにある。その眼差しは、ナファスへは伝わったものであろうが、観客には充分には聞きとれない。

地雷で手足を失った男たちが行列をつくる、赤十字の支援センターへ、医師はナファスを連れてくる。支給は、年に1度ほどしか行えない支援センターでは、義足の奪い合いを制する赤十字の看護婦たちでおおわらわ。遥か上空を、小さなパラシュートをつけた支援物資(あれは、米英軍のものなのか)が落とされるのを見つけた傷痍兵たちが、いっせいに、落下地点へ松葉杖をついて駆け出す。

カンダハールへの便は3日後にしかなく、日蝕の2日後にカンダハールへ辿り着かねばならないナファスを、今度は、右腕を失った青年がエスコートすることになる。この青年は、義足を必要としないが、支給の列の中に混ざり、妻のための義足が要ると言って、赤十字との交渉をしつこく行っている貧しい民の1人=アフガンである。自分の義足を、今、必要としないが、来年には必要になるかもしれないとも言い、ひょうきんにねばる青年の虚言に、看護婦は、ビッグサイズの旧式の義足を与えることにする。

50と5000(フラン)の違いを知らない、この青年との旅。いったんは、断った青年が、ブルカで顔を隠した婚礼の行列の中から現れる。最初の老人、2番目の少年、4番目のこの青年と、アフガンの貧しさから形づくられた無知やずるさの底には、必ず、この実直さがある。それは、賢さである。監督は、そう言っているようである。婚礼集団の列に紛れ込み、カンダハールを目指すナファスの脳裏にも、この賢さへの愛がある。しかし、日蝕には死ぬという妹の声も飛び交っている。

ジャーナリストであるナファスは、携帯録音機を離さず、カンダハールへの途上での見聞や、脳裏を掠める思いを、その小さな文明の利器に向かって語りつづけるのである。タリバーンのチェックを受けたとき、ブルカに身を隠した青年が言う「携帯を捨てて!」の言葉にも、揺らぎなく、ナファスは自らの思いを、語り続ける。カンダハールは間近である。妹の声が聞こえる――。
(2001.11.25記)

※紹介パンフレットもなく、約1時間半の上映を1回見ただけの記憶で記しました。ストーリー紹介に間違いがあるかもしれませんが、ご了承ください。

2021年8月 9日 (月)

再掲載/2013年1月11日 (金) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」7

(前回からつづく)

昭和初期から昭和10年代の日本という地方(=くに)の空模様は
暗雲にすっぽりと覆(おお)われていても
夜ともなれば蛙は必ず鳴き
その声が水面を走って暗雲に迫るのです。

夜が来ればというのは
条件を意味しているのではなく
夜は毎日必ず訪れるものですから
必ず毎日蛙は鳴くということです。

蛙が鳴く声の日常性を指しているのであって
朝や昼には鳴かないということを言っているものではありませんから
これは詩人の仕事のことでしょう。

ここにおいて蛙(声)に詩(人)そのものが
同化しているといってもよいはずです。
エールを送るというよりも。
仮託するというよりも。

蛙声が暗雲に迫るというのは
詩の命(ミッション)というような意味で
どんな時にでも詩は池の水面を走っては暗雲に迫ることを
命としていると歌ったものなのです。

こうして「永訣の秋」の末尾にこの詩は置かれて
詩の永遠の命を歌った詩として
永遠のわかれを刻(きざ)みました。

くだけて言えば
さよならのあいさつを
作品の形で述べたものです。

さよならのあいさつは
「在りし日の歌」の後記にも
「いよいよ詩生活に沈潜しようと思っている」とか
「さらば東京! おおわが青春!」などと
改めて述べられます。

(「永訣の歌」の項終わり)

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)ひ、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであらう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》はれ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走つて暗雲に迫る。

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )は全集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)い、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであろう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであろう?
天は地を蓋い、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》われ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走って暗雲に迫る。

2021年8月 8日 (日)

再掲載/2013年1月10日 (木) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」6

(前回からつづく)

「くに」が湿潤(しつじゅん)に過ぎるといった時に
湿潤は天候のことを述べているのでないことは明白です。
日本海型気候とか瀬戸内型気候などでいう湿潤ではありません。

ではどのようなことを湿潤と言っているかといえば
何にも言っていません。

どうぞ自由勝手に想像してくださいと言っているようなのは
「在りし日の歌」をずーっと読んできた読者に
そんな説明は要らないでしょう
ちゃんと読んで来たのならわかるでしょうと言わんばかりな気配です。

ここをどうしても読み解かねば
この詩は読めませんから
なんとか読んでみますと……。

その「くに」には
「疲れたる我等」が存在して
詩人もその中の一人に違いありませんが
その我等の心に役立つ(ため)には
柱(国の政治とか法律とか)が現状あまりにも乾いている
あまりにもドライな(即物的な)動きを見せている
(ここは暗に軍部や軍隊を批判している!)と感じられるので

頭は重く、肩は凝るのだ。

第3連の末行は

柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》はれ、

――と読点「、」で終わり第4連へと続いていきますが
これは定型(ソネット)を維持するためだけの空白のようで
そうではありません。
ここは連を終える必要があったから終えたのです。

ソネットのためにそうしたというより
感《おも》はれ、で連を終えて
ここで時間をおく必要があったので
「、」でぶっつりこの連を切り
第4連へ続けたところで
それがソネットにもなったのでそのままにしたということでしょう。

ここは詩人が熟考した結果です。

「くに」が湿潤であり
柱が乾いたものと感じられ
さらに最終行には
暗雲という言葉が使われます。

日本国の空模様が
暗雲に覆(おお)われていて
その暗雲に迫るのは蛙声です。

(つづく)

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)ひ、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであらう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》はれ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走つて暗雲に迫る。

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )は全集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)い、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであろう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであろう?
天は地を蓋い、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》われ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走って暗雲に迫る。

再掲載/2013年1月 9日 (水) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」5

(前回からつづく)

第3、4連を読んでいて

よし此の地方《くに》が、の地方をなぜ「くに」と読ませるのか
くに(地方)が湿潤に過ぎる、とはどういう意味か
疲れたる我等が心、の疲れたる我等とは誰のことか
柱とは何の比喩か
柱が乾く、とはどういう状態か
なぜ、思われでなく、感《おも》われ、か
なぜ、頭は重く、肩は凝る、のか
暗雲に迫る、とは具体的にどんな行為を示しているのか

――などの疑問が湧いてきます。

これらの詩句により
詩人は何を主張しているのでしょうか?

地方《くに》が湿潤過ぎる
柱が乾いている

――というフレーズは
いったい何をいっているのでしょう。

ここが分かれば
一気に全体が分かりそうな見当がついてきます。

「永訣の秋」の最終詩である「蛙声」は
すなわち「在りし日の歌」の掉尾(とうび)を飾る巻末詩ですから
詩人はここになんらかのメッセージを込めたと考えるのが自然でしょう。

その線に沿って読めば
ここには時代や時局・時勢への発言があることを
読み取るのに抵抗はありません。

「蛙声」を制作したのは昭和12年(1937年)5月ですが
前年1936年に2.26事件
同年の11月10日に愛息・文也が死去
翌1937年に中村古峡療養所に入退院
7月に盧溝橋事件
8月に上海事変と
後に15年戦争といわれることになる世界大戦に突入した年でした。
時代はまさしく暗雲が立ち込めていました。

これらの時代背景があって
地方に「くに」のルビは振られたのです。
振ったのは中原中也本人です。

だから、地方とは
詩人がこの詩を作ったときに住んでいた
鎌倉(地方)を指すという解釈はいただけません。
暗雲は鎌倉にだけ立ちこめていたのではありません。

この詩のスケールは
天、地、空といった壮大なものですし
これらの時代背景のもとでの地方ですし
「地」の中の地方だから国(くに)としたのです。

アジアの一地方とか
世界や地球の一部としての地方を
「くに」としたのです。

ズバリ言って
それは日本という地方(くに)=国のことですが
日本と言いたくなかっただけのことでしょう。

その地方(くに)がじめじめしている(湿潤)というのは
いろいろな矛盾とか不満とか不安とかが充満しているという意味で
それが過剰になっていまにも氾濫しそうだからといって
国の柱(政治)がドライ過ぎてよいというものではない、と
思わしくない方向(戦争)へ進む国に注文をつけているものと読めそうです。

詩人が
体調思わしくなかったことは想像できますが
ここで個人的な体調不良が述べられているにしても
その原因までが個人的な事情によるだけのものと述べているのではないでしょう。

詩句の流れから言って
頭は重く、肩は凝る原因は
第3連に述べられた

地方(くに)が湿潤過ぎていたとしても
こんなにくたびれている我らのためには
柱が乾き過ぎていること――にあるのです。

(つづく)

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)ひ、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであらう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》はれ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走つて暗雲に迫る。

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )は全集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)い、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであろう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであろう?
天は地を蓋い、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》われ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走って暗雲に迫る。

2021年8月 7日 (土)

再掲載/2013年1月 8日 (火) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」4

(前回からつづく)

昭和8年に蛙(の声)を続けて歌った詩人は
最後4作目のQu'est-ce que c'est? で

蛙の声を聞く時は、
何かを僕はおもい出す。何か、何かを、
おもいだす。

――と、まだ十分に歌い切っていないかのように
何か、何かと言い残しました。

4年後の昭和12年に
また蛙声をモチーフにしたとき
その何かは存分に表白されたのか? という眼差しで「蛙声」を読んでみれば
少しは見えてくるものがあるはずです。

まず目立つのは
僕が詩の中から消えたことですが
僕がいなくても
僕は詩の中にきちんと存在することです。
僕はここへ来て
蛙(声)そのものに成り変ったのです。

次には全体に贅肉(ぜいにく)が落とされ
引き締まった感じがするのは
ソネットにしたり
古語や漢語を使用したりして
格調感を出しているところです。

やや難解な感じがするのは
直喩をやめ暗喩へ変えたり
説明を省略しているからです。

天は地を蓋(おお)い
――は漢籍か
今夜一と夜(よ)さ
――は宮沢賢治か
空より来り
――は文語的だし
よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
――の「よし」も文語です。

総じて言葉を選びに選んだ印象ですが
第3、4連

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》われ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走って暗雲に迫る。

――は、この詩の転・結であるばかりでなく
「永訣の秋」の
そして「在りし日の歌」全体の結語として
耳をそばだてるべき最大のポイントといってもよいところでしょう。

そのように読まれてきた例(ためし)をまず見かけないのは
中原中也という詩人へのとんでもない誤解の一つですが
ここにこそ
詩人が蛙声に託した最大のメッセージはあります。

4年前の蛙声とは違って
昭和12年のこの詩では
あれ
その声
蛙声
その声
――と、あくまで第3者的ですが
蛙にエールを送っているというほど客観的なものではなく
蛙声に同化している域に入っているのです。

その声は水面に走って暗雲に迫る。

――の「その声」は
詩(人)の声のことであり
暗雲立ちこめる時局へ「迫る」のは
詩(人)の命(ミッション)であることを告げているものです。

(つづく)

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)ひ、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであらう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》はれ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走つて暗雲に迫る。

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )は全集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)い、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであろう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであろう?
天は地を蓋い、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》われ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走って暗雲に迫る。

再掲載/2013年1月 7日 (月) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」3

(前回からつづく)

「ノート翻訳詩」に書かれた
「蛙声(郊外では)」
(蛙等は月を見ない)
(蛙等が、どんなに鳴こうと)
(Qu'est-ce que c'est?)
――は、みんな昭和8年(5月~8月)の制作と推定されていますから
「在りし日の歌」の「蛙声」まで丸4年の歳月が流れたことになります。

両者にどのような違いがあり
どのような共通項があるでしょうか――。

「蛙声(郊外では)」は
遠景で蛙をとらえ
蛙の鳴きっぷりを
宿命のように
沼のような
儀式のように義務のように
唱歌のように
――と直喩(ような)で表わします。

(蛙等は月を見ない)は
月(と雲)を登場させて
蛙と月の関係や違いを明らかにして
僕の存在に言い及びます。

(蛙等が、どんなに鳴こうと)は
僕に接近し接写し
月でも蛙でもない僕の仕事へと目を向け
僕は蛙を聴き、月を見て立っていれば
いつかは甲斐のある仕事があるだろう、と
仕事へフォーカスしてゆきます。

仕事とは
いうまでもなく詩を作ることです。

Qu'est-ce que c'est? は
前作を継いで
何時までも立っていることを
蛙が鳴き月が空を泳ぐことと同列のものに見なすものの
蛙の声を聞くと
何か、やむにやまれぬ気持ちで
思い出すことがあり
何かは分からない何かを思い出す

――といったような詩です。

四つの詩のうち
二つはタイトルが付けられ
二つは「未題」です。

4作は連続して作られたようで
実際に蛙の鳴くシーズンに
鳴き声を聴きながら作ったにしては
動物(生き物)としてのカエルのイメージはさほど鮮明ではなく
夜(暗闇)にシルエットとして浮かんでいる感じです。

蛙(声)は
詩人が何かを託そうとする象徴として登場し
月や雲も自然現象そのものではありません。

(つづく)

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)ひ、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであらう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》はれ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走つて暗雲に迫る。

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )は全集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)い、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであろう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであろう?
天は地を蓋い、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》われ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走って暗雲に迫る。

2021年8月 6日 (金)

再掲載/2013年1月 6日 (日) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」2

(前回からつづく)

ガマガエルとか青蛙とか痩せた蛙とか――。
中原中也の「蛙声」には
動物としてのカエルのイメージはまったくありません。
それはなぜでしょう。

ここで寄り道になるようですが
「ノート翻訳詩」(昭和5~8年)に書かれた詩
「蛙声(郊外では)」
(蛙等は月を見ない)
(蛙等が、どんなに鳴こうと)
(Qu'est-ce que c'est?)
――の4作品を一挙に目を通します。
すべて現代かなにしてあります。

蛙 声
 
郊外では、
夜は沼のように見える野原の中に、
蛙が鳴く。

それは残酷な、
消極も積極もない夏の夜の宿命のように、
毎年のことだ。

郊外では、
毎年のことだ今時分になると沼のような野原の中に、
蛙が鳴く。

月のある晩もない晩も、
いちように厳かな儀式のように義務のように、
地平の果にまで、

月の中にまで、
しみこめとばかりに廃墟礼讃の唱歌のように、
蛙が鳴く。

(蛙等は月を見ない)
 
蛙等は月を見ない
恐らく月の存在を知らない
彼等は彼等同志暗い沼の上で
蛙同志いっせいに鳴いている。

月は彼等を知らない
恐らく彼等の存在を想ってみたこともない
月は緞子(どんす)の着物を着て
姿勢を正し、月は長嘯(ちょうしょう)に忙がしい。

月は雲にかくれ、月は雲をわけてあらわれ、
雲と雲とは離れ、雲と雲とは近づくものを、
僕はいる、此処(ここ)にいるのを、蛙等は、
いっせいに、蛙等は蛙同志で鳴いている。
 

(蛙等が、どんなに鳴こうと)
 
蛙等が、どんなに鳴こうと
月が、どんなに空の遊泳術に秀でていようと、
僕はそれらを忘れたいものと思っている
もっと営々と、営々といとなみたいいとなみが
もっとどこかにあるというような気がしている。

月が、どんなに空の遊泳術に秀でていようと、
蛙等がどんなに鳴こうと、
僕は営々と、もっと営々と働きたいと思っている。
それが何の仕事か、どうしてみつけたものか、
僕はいっこうに知らないでいる

僕は蛙を聴き
月を見、月の前を過ぎる雲を見て、
僕は立っている、何時までも立っている。
そして自分にも、何時かは仕事が、
甲斐のある仕事があるだろうというような気持がしている。
 

Qu'est-ce que c'est?
 
蛙が鳴くことも、
月が空を泳ぐことも、
僕がこうして何時まで立っていることも、
黒々と森が彼方(かなた)にあることも、
これはみんな暗がりでとある時出っくわす、
見知越(みしりご)しであるような初見であるような、
あの歯の抜けた妖婆(ようば)のように、
それはのっぴきならぬことでまた
逃れようと思えば何時でも逃れていられる
そういうふうなことなんだ、ああそうだと思って、
坐臥常住の常識観に、
僕はすばらしい籐椅子にでも倚(よ)っかかるように倚っかかり、
とにかくまず羞恥の感を押鎮(おしし)ずめ、
ともかくも和やかに誰彼のへだてなくお辞儀を致すことを覚え、
なに、平和にはやっているが、
蛙の声を聞く時は、
何かを僕はおもい出す。何か、何かを、
おもいだす。

Qu'est-ce que c'est?
 

「永訣の秋」の「蛙声」と
どのような違いが見えるでしょうか。

(つづく)

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)ひ、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであらう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》はれ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走つて暗雲に迫る。

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )は全集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)い、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであろう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであろう?
天は地を蓋い、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》われ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走って暗雲に迫る。

再掲載/2013年1月 5日 (土) 「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」1

「在りし日の歌」の最終詩「蛙声」は

昭和12年5月14日に作られ
同年の「四季」7月号に発表されました。
「四季」に発表されたとき
末尾に制作日の記載があります。

この頃、「在りし日の歌」の編集は急展開し
詩集タイトルを「在りし日の歌」とすることや
この「蛙声」を最終詩とし
「含羞(はじらい)」を詩集の冒頭詩とすることなど
詩集全体の構成が次々に
ほぼ同時的に決められたようです。
(新全集第1巻・詩Ⅰ解題篇)

「蛙声」は
詩集「在りし日の歌」の完成へ
スプリングボードの役割を果たしたようですが
その役割を果たすためには
内容やメッセージが重要であったことは
「山羊の歌」の最終詩「いのちの声」と同じような事情です。

6月、近衛内閣発足
7月、盧溝橋事件
8月、上海事変
12月、南京陥落
――といった時代でした。

「蛙声」を読む前に
この程度のことを知っておいても害にはならないことでしょう。

中原中也はこの年の4月29日に30歳になります。

詩が

天は地を蓋(おお)い、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。

――とはじめられるは
幾分か時代のニュアンスを込めようとしたものでしょうか。

池が存在するのは
天があり地がありという
大宇宙の作りの中の
その厳然とした存在である地に
たまたま(偶然)一つの池があり
その偶然の存在である池に棲んでいる蛙が
一夜限りの命とばかりに今鳴いている
いったいあれは何を鳴いているのだろう
――と遠撮(遠景)と近撮(近景)の往復の中で
蛙の声をとらえます。

蛙の声そのものがとらえられるのではなく
とらえられても
天や地を背景にし
空から来て
空へ去っていく声としてしか聞こえてきません。

中原中也には
蛙をモチーフにした詩が幾つかありますが
それらは昭和5~8年に使われていた「ノート翻訳詩」に記されたものです。

「蛙声(郊外では)」
(蛙等は月を見ない)
(蛙等が、どんなに鳴こうと)
(Qu'est-ce que c'est?)
――の4作ですが
これらの詩も蛙そのものがとらえられているのではなく
風景(状況とか背景とか関係とか)の中の蛙です。

当たり前のことのようですが
蛙そのものの姿態などは
これっぽっちも歌われていないのです。

(つづく)

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)ひ、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであらう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》はれ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走つて暗雲に迫る。

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )は全集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)い、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであろう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであろう?
天は地を蓋い、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》われ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走って暗雲に迫る。

2021年8月 5日 (木)

再掲載/2013年1月 4日 (金) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」7

(前回からつづく)

「春日狂想」は
全行が口語会話体で書かれていますが
2の末行、

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

――に現われるやんちゃな口ぶりは
詩人の地(じ)が露わになったようで
テンポ正しい散歩が今にも崩れそうな気配を見せます。
ということは
奉仕の気持ちなんぞしゃらくせいとばかり
その気持ちを捨ててしまうことなのでもありますが
そのような展開にはならずに詩はここで打ち切られます。

あたかも脱線に気がつき
ハンドルを握りなおすかのように3では、
ではみなさん、と
だれでもないだれか――幻の聴衆――読者に向かって
呼びかけを始めます。

だれでもないだれかは……おのれでもあります。

ヨロコビスギズ
カナシミスギズ
テンポタダシク
アクシュヲシマショウ

ツマリワレラニ
カケテルモノハ
ジッチョクナンゾト
ココロエマシテ

ハイデハミナサン
ハイゴイッショニ
テンポタダシク
アクシュヲシマショウ

七七調を堅持して
今度は
テンポ正しく、握手をしましょう
――と散歩を握手に変えて
春日狂想を終えるのです。

握手は散歩と同じようなものです。
同じものである以上に
テンポ正しい散歩は
自ずと正しい握手へつながっていくものですよ、と言いたげであります。

ではみなさん
ハイ、ではみなさん
ハイ、御一緒に
――と呼びかける詩人は
いったい何処(どこ)から発声しているのでしょうか?

古代ギリシアの円形劇場の
オルケストラ(祭壇)のようなところから
人っ子一人いない観衆席に向かって
やや声を高めて演説する詩人の姿が見えてきはしないでしょうか?

いや! 祭壇のコロスの声に唱和する詩人には
満員の観衆が見えていたのかもしれません。

(この項終わり)

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばつかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あつち》に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしませう。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながろうことともなったら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

   2

奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばっかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)えば、にっこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなったら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いわうようなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましょ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あっち》に行ったら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしましょう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

 

2021年8月 3日 (火)

再掲載/2013年1月 2日 (水) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」6

(前回からつづく)

玩具の兵隊になったような
毎日が日曜日のような
テンポ正しい散歩を続けている詩人は
ある時空に舞い上がるゴム風船を目撃し
はかなさのようなものを感じ
美しさを見ます。

人生は短い
一瞬の夢
まるであのゴム風船のようだ
美しいというほかに言いようがないものだ。

愛児文也の死をも
詩人は
このように受け止めたのですが
それをコロスの声としても言わせたのです。

あらゆる事物が
おのおのの存在の重力に耐え
さりげなさそうに輝いているが
やがては朽ち枯れ死んでゆく
絶対的事実。

――と思ったかどうか。

《 》の中に登場するゴム風船は
詩の地の文に引き継がれて
空に昇って光って消えてゆきます。

コロスの合唱と地の声は
ここで溶け合うのです。

ゴム風船は
空に消えてしまったものですから
ふたたび現われることはありませんが
やがては
花嫁御寮に生まれ変わったかのように
賑やかな街の光景の一つとして現われます。
そして……

まことに人生、花嫁御寮
まことに、人生、花嫁御寮、と
一瞬の夢は、いつしか、花嫁御寮に成り変ります。

人生は一瞬の夢と
人生は花嫁御寮とが
溶け合ってしまいます。

花嫁御寮に
文也の影を見るのはおかしいことでしょうか?

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

――2の末行の
やんちゃな口語会話体には
元気な詩人が復活している感じがあり
文也が花嫁をもらう年頃を夢想する詩人が
やんちゃの下に隠れていそうな気がしますが
考えすぎでしょうか。

(つづく)

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばつかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あつち》に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしませう。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながろうことともなったら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

   2

奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばっかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)えば、にっこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなったら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いわうようなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましょ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あっち》に行ったら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしましょう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。

再掲載/2013年1月 1日 (火) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」5

(前回からつづく)

鎌倉らしき街を散歩中の詩人は
神社の日向(日陰)
知人
飴売り爺々

地面
草木

参詣人
ゴム風船
茶店
馬車
電車
……など次々と目に触れてくるものの一つ一つが
取り立てて新鮮なものでもなければ
取り立ててつまらないものでもない
どうといったこともないお天気の1日で
参詣人がゾロゾロ歩いていても
腹が立たない時間の中にいます。

といえば
無感動の日々を送っているということになりますが
そういうことではなく
一つ一つの事物が一つ一つ瑞々しく
あるがままの生命を呼吸していて
過大でもなく過小でもなく
適度なリズムを刻んでいる状態にあることを歌っています。

ゴム風船も
そのような事物の一つに過ぎず
ほかの事物と同じものですが
詩人には
これらの事物一つ一つも
ゴム風船も
人生であり
美しい
一瞬の夢と映ったのです。

どういうことが
詩人に起こったのでしょうか?
この詩になにが起こったのでしょうか?

なぜここに人生なのでしょうか?

人生とは
誰のものを指しているのでしょうか?

これは文也の人生なのではないでしょうか?
文也の人生を指して
美しい一瞬の夢と
コロスに歌わせたのでしょうか?

それとも詩人自身の人生なのでしょうか?

それとも人生一般なのでしょうか?

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

この3連で
この詩は急展開します。
断絶、揺らぎ、飛躍、省略、説明排除……乱調。

この急展開は
一見して乱れのようにも見えますが
ここがこの詩の急所です。

なんにも腹が立たない詩人の目に映った
ゴム風船が空に昇って光って消えていったそこから
やあコンニチワといって現われる詩人。

この過程で
詩人は変身します。
変質します。

人生を一瞬の夢といい
ゴム風船を美しいというのは
人生はゴム風船で美しいものということですから
ここで一瞬の夢のようであった愛児・文也が暗示されています。

ここで
詩人は文也の死を受容しているのです。

受容とは
奉仕することの別の言い方です。

受容した途端に
テンポが乱れるようなことが起こっていますが
偶然にも(?) 花嫁御寮の歌が聞こえてきます!

人生はゴム風船
人生は花嫁御寮。
どちらも美しい。

(つづく)

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばつかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あつち》に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしませう。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながろうことともなったら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

   2

奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばっかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)えば、にっこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなったら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いわうようなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましょ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あっち》に行ったら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしましょう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。

2021年8月 1日 (日)

再掲載/2012年12月31日 (月) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」4

(前回からつづく)

「春日狂想」の
コロスの合唱を思わせる
《まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。》
――にある「まことに人生」という詩句は
地の声の「まことに人生」に引き取られて

まことに人生、花嫁御寮
まことに、人生、花嫁御寮
――と歌われる構造になっていることがわかってきます。

2のこの後半部分は
テンポ正しい散歩の途中で
誰だか親しい友人だか古い知人だか
しばらく会っていなかった人にばったり出くわし
喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら話すシーンですが
このシーンへの導入となる

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

――にははじめ少し戸惑いますが
やがてなるほどなるほどと合点のいく流れを理解する
最大のヤマです。

やあ、今日は、と語るのは
誰であり誰に対してであるのか
詩人の友達が詩人に語っているのかその逆か
友達ではなく
幻想の長谷川泰子がここに出てきて
やあ、しばらくと駆け寄ってきたのか
いや、これは文也がゴム風船に乗ってやってきて
詩人に語りかけているのだ
……などとあれやこれや考えてしまいますが

どうやらこれを語っているのは
詩人その人でありそうなことが
この語り口が堅苦しい感じで
普段の詩人らしくないことからわかってきます。

律儀(りちぎ)すぎる人に
詩人がなっている感じが
かえって詩人であることを明かしているのです。

詩人は
奉仕の気持ちを望んだのですから
その自分を揶揄(やゆ)するつもりはありません。

その詩人の目に
突如、花嫁行列が見えたのです!
実際に行列が通ったのを見たのかどうか

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。
――とありますから
単なる馬車であり、単なる電車(これは江ノ電か)だったのですが
それが花嫁御寮に見えるイマジネーション(感慨)が湧いたのです。

まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。
――が
まことに人生、花嫁御寮。
――にこうしてクロスオーバーします。

2の後半部には
説明らしきものはありません。
テンポ正しき散歩が俄然乱れたような印象がありますが
この乱れこそこの詩が目指しているものです。

(つづく)

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばつかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あつち》に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしませう。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながろうことともなったら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

   2

奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばっかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)えば、にっこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなったら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いわうようなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましょ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あっち》に行ったら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしましょう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。

再掲載/2012年12月30日 (日) 「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」3

(前回からつづく)

「春日狂想」の1は
内容は強烈でありながら
詩が詩人の心のうちを明らかにするという形の上では普通にはじめられていますが
2の後半の《 》でくくられた

まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。

――にさしかかって
詩のその形(構造)に変質が生じています。

この《 》の前に

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

――と、「わたし」が登場しますから
すくなくもとこの行までは
わたし=詩人が心のうちを明かし
愛する者を亡くしたら自殺しなきゃあならないと行き場を失っていたところを
生き永らえているわたしがこの後も生きていくためには
奉仕の気持ちにならなくてはならないことを述べ、

奉仕の気持ちになるといっても格別なこともできないので
以前より本を読むときは熟読し
以前より人には丁寧に接し
テンポ正しい散歩を心がけ
麦稈真田(ばっかんさなだ)を編むように敬虔な気持ちで
まるで毎日を日曜日のように
まるで毎日を玩具(おもちゃ)の兵隊のようにして、

鎌倉らしい街を歩いて
色とりどりの光景や行き交う人々との交渉を
一つひとつ歌いはじめて
神社(きっと鶴岡八幡宮でしょう)にやってきて、

人生は
一瞬の夢
ゴム風船の
美しさ
――というコロス(合唱)を聞くのです。

それはどこからともなく聞こえてきたというより
テンポ正しい散歩をしてきた詩人の胸の内にあった感慨が
大人数の男性女性の声に成り変って
地の底から湧いてきたかのように現われるものですから違和感はなく
これが誰のものであるかなどという疑問は生じませんが
よく読めば地(じ)の声とは異なります。

詩の形の上では
地の声とは異なりますが
これは詩人の声でもあります。

神社の境内を
ゴム風船がふわりふわりと飛んでいったのを
詩人は目にしたのかもしれませんが
それはただの風景描写に置き換える以上の思いを抱かせたのでしょう。

コロスの合唱に仕立てる技が
自然の流れで出てきたのでした。

(つづく)

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばつかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あつち》に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしませう。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながろうことともなったら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

   2

奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばっかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)えば、にっこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなったら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いわうようなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましょ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あっち》に行ったら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしましょう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。

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