山羊の歌を読む

憔悴/詩人のジレンマ

20080120_013

6章に仕立てられた長編は
そう多くはありません。
「山羊の歌」
「在りし日の歌」の、
公刊2詩集の中で
1、2を争う長い作品でしょう。

1章は、7行+5行の12行
2章は、2行×7連の14行
3章は、2行×5連の10行
4章も、2行×5連の10行
5章は、2行×7連の14行
6章は、4-4-3-3のソネット

行数だけで数えると
78行あります
(題辞のフランス語4行を含む)

詩集の最後の
一つ前の作品であり
大作を置きたかった
詩人の意図が見えます。

本当に
大作です。

冒頭、
Pour tout homme, il vient une èpoque
où l'homme languit. ―Proverbe.

と、題辞に用いられたのは、

「誰でも疲れるときがくる」
という意味のフランスの諺(ことわざ)

Il faut d'abord avoir soif……
       ――Cathèrine de Mèdicis.

とあるのは、
「まず喉の渇きを……」と
誰か近親の者に語ったかした
フランスのカトリーヌ王妃の言葉
であることが、
ほとんどの詩集編集者によって
注釈されています。

大意だけ分かれば
深追いはしないほうがよいでしょう

中也がここにフランス語の詩句を置いて
意味したかったのは、

「誰でも疲れるときがくる」
「まず喉の渇きを……」

であり、
「憔悴」という詩題に
ピタリとはまっています。

ぼくは、もはや、善い意志をもっては目覚めなかった
そして
起きれば、憂愁に満ちて、いつも思うのだった
ぼくは、悪い意志をもって夢みるのだった

言っておくけど
ぼくは、そこに安住したのではなかったのだけれど
そこから抜け出すこともできなかったんだ

そして
夜が来ると、ぼくは、思った
この世は、海のようなものだ、と。
少し時化(しけ)た夜の海を思った

そこを、やつれた顔の船頭が
おぼつかない手で船を漕ぎながら
獲物を探し、
水面を睨んで過ぎて行く

ぼくは、いつしか船頭になっている
と、考えてよいでしょうか

2の章は
ぼくは、昔、恋愛詩などはくだらないもの
と思っていたのに

今は、恋愛詩を作り
やり甲斐を見つけている

でも、まだ、恋愛詩ではダメだと思い
単なる恋愛詩以上の詩境を求めている

その心が間違っているかいないか知らないが
とにかく、そう思う心がある

それでしばしばぼくは苛立ち
かえってとんでもない希望を抱くことになる

昔、恋愛詩などはくだらないもの
と思っていたのに

今では、
恋愛を夢みる以上のことはないほどになった
夢みるだけになってしまった

というほどの意味でしょうか。

恋愛詩と恋愛を対比していることに
注目しておきましょう
中也らしいひねりです

3の章は、2を受けて
それは、ぼくの堕落なんだろうか
ぼくに分かるわけがない

腕にたるむだ私の怠惰
今日も日が照る 空は青いよ

腕の中でたるんでいるぼくの怠惰よ
今日も日は照って、空は青いよ

ここに、中也詩が動き出します
中也の詩は
こんなふうに歌われて
人を惹きつけます

怠惰のお陰で
日は照って、空は青いよ青いよ
と、怠惰に面と向かう詩人が
怠惰の役割みたいなことをうたうのです

怠惰とは……
それこそ、詩人が格闘してきた
主題のようなものです

おれが(「ぼく」ではなくなります)
なんとか付き合ってこられたのは
この怠惰だけだったかもしれない

怠惰こそ、まじめな希望を、
その中にいるからこそ、
憧憬することを可能にした
元だったのかもしれない

ああ、怠惰よ
それにしてもおれは
夢みるだけの男になろうとは思いもしなかった!

肯定の後に
すぐさま否定が入ります

4章
しかし、この世の善とか悪だとか
そんなこと人間には分かりはしない

人間には分からない
無数の理由があれもこれもを支配している
分かるわけがないのだ

山陰の清水のように忍耐深く
静かにしていれば人生は楽しいだけのものなのだ

汽車から見える山、草
空、川……
みんなみんな

やがて、全体の調和のために溶けて
空に昇って、虹になるんだろう、とぼくは思う……

5の章

さてどうしたら利益が出るだろうか、とか
どうしたら笑われないで済むだろうか、とか

要するに、人相手の思惑に
明け暮れ過す、世間の人々よ、

ぼくは、あなたがたのこころをもっともなことだと感じ
一生懸命、郷に入りては郷に従えの習い通りにしてみたのだが

今日になってまた自分に戻ることにした
ひっぱったゴムを手離してパチンとするようにして

この怠惰の窓の中から
扇の形に、守備範囲を広くして、

青空を喫い、ひまを呑み
蛙のように、水に浮かんで

ここはダダというより
ダダではなく

煙草をふかして
ひまな時間を費やし
蛙が、水に浮かんで、無為に過している、
かのような詩人の時間を
比喩しているのでしょう

夜にもなれば、星を見て
ああ、空の奥の奥を思っている
ぼく、詩人……です。

6の最終章

しかし
またこうしたぼくの状態が続くと
ぼくだって何か人がするようなことをしなければいけないと思い、
生きていることが辛気くさく感じ、
ともすれば、百貨店のお買い上げ商品配達人さえもを驚きの目で見る

そして
理屈はいつでもはっきりしているのに
気持ちの底では、ゴミゴミゴミゴミ
グチャグチャグチャグチャと
懐疑の屑で一杯なのですよ

それが馬鹿げたことだとしても、
その二つが ぼくの中にあって、
ぼくから抜けていかないことは確かなことです。

二つ、とは
詩人の内部や外部で矛盾し
二律背反し
どっちともとれない
二つのこと

ここでは
対人関係を保つために
常識的にいきること、と
その逆に 蛙のように
ただ水に浮かんでいるように生きること
この二つ。

すると、時に聞こえてくる音楽に心は引かれ
ちょっとは生き生きしてくるのですが
その時、その二つは、ぼくの中では死にますが……

ああ、空の歌とか、海の歌とか、
ぼくは、美というものの核心を知っていると思うのですが
それにしても、辛いことです、
怠惰をのがれる術を持っていないのですよ!

怠惰に身を置かなければ
詩は生まれない

そのジレンマから
逃れられない苦しみ、焦り。

憔悴

  Pour tout homme, il vient une èpoque
  où l'homme languit. ―Proverbe.
  Il faut d'abord avoir soif……
       ――Cathèrine de Mèdicis.

私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた
起きれば愁(うれ)はしい 平常(いつも)のおもひ
私は、悪い意志をもつてゆめみた……
(私は其処(そこ)に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶(かな)はなかつた)
そして、夜が来ると私は思ふのだつた、
此の世は、海のやうなものであると。
私はすこししけてゐる宵の海をおもつた
其処を、やつれた顔の船頭は
おぼつかない手で漕ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面(おもて)を、にらめながらに過ぎてゆく

   2

昔 私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

今私は恋愛詩を詠み
甲斐あることに思ふのだ

だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

その心が間違つてゐるかゐないか知らないが
とにかくさういふ心が残つてをり

それは時々私をいらだて
とんだ希望を起させる

昔私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない

   3

それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか

腕にたるむだ私の怠惰
今日も日が照る 空は青いよ

ひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ

真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬(しようけい)したのにすぎなかつたかもしれぬ

あゝ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!

   4

しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ

人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配してゐるのだ

山蔭の清水(しみづ)のやうに忍耐ぶかく
つぐむでゐれば愉(たの)しいだけだ

汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな

やがては全体の調和に溶けて
空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ……

   5

さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂(わら)はれないですむだらうか、とかと

要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、

僕はあなたがたの心も尤(もつと)もと感じ
一生懸命郷(がう)に従つてもみたのだが

今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに

さうしてこの怠惰の窗(まど)の中から
扇のかたちに食指をひろげ

青空を喫(す)ふ 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙さながら水に泛(うか)んで

夜(よる)は夜(よる)とて星をみる
あゝ 空の奥、空の奥。

   6

しかし またかうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。

そして理窟はいつでもはつきりしてゐるのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑(をくづ)が一杯です。
それがばかげてゐるにしても、その二つつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。

と、聞えてくる音楽には心惹かれ、
ちよつとは生き生きしもするのですが、
その時その二つつは僕の中に死んで、

あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭(のが)れるすべがない!

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

*ローマ数字を、アラビア数字に変えました。(編者)

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羊の歌/安原喜弘に捧げる

詩集「山羊の歌」の
最終章「羊の歌」は
三つの詩で成ります。
一つ目が章タイトルと同じ「羊の歌」
二つ目が「憔悴」
三つ目が「いのちの声」です。

「羊の歌」は
安原喜弘へ献じられています。

中也晩年を最も親しく生きた
と、言われている安原は
「白痴群」の同人であり、
成城グループの一人です。

後年、というのは、昭和54年(1979年)
「中原中也の手紙」を
発表します。

詩集の終わりに当たって
詩人は
いきなり
自らの死をうたいはじめます

1の章は「祈り」と章題が付され、

死の時には私が仰向かんことを!
この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!

それというのも
僕は僕が感じることのできなかったせいで
罰せられて、死が僕にやってきたと、思うから。

仰向けの姿勢で死にたい!
うつ伏せの姿勢で死にたくはない!

せめて、死ぬときくらい、
僕は仰向けになって
すべてを感じる者でありたいのだ!

2の章は
思惑、交際、疑い……
これら、詩人の対外関係を

古めかしい空気(思惑)
汚辱の許容(交際)
己の外をあまりに信じる心(疑い)

と、否定し
自分の内部から
これらが消え去ることを願う
詩人のスタンスが述べられます

3の章は、ボードレールの詩句

我が生は恐ろしい嵐のやうであつた、
其処此処に時々陽の光も落ちたとはいへ。

を、添えて

第1連
9歳の子どもと僕の
遠い日のことが語られるのです

女の子どもです
この子どもは泰子と思われます
泰子であったほうが自然です

第2連
冬の日の天気のよい午前
僕の部屋には陽がいっぱい当たり
彼女が首を傾げると
耳朶(みみたぶ)が陽に透けて
綺麗な赤になりました
と、彼女との幸福の時間を歌います

第3連も
僕はすべての用事も忘れて
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読玩味しました
と、幸福な時間を歌います

最終の4の章は、
急激に転調します。
暗転します。

下宿の独り暮らしで
単調であって、
相手のない
つましい、心だけの連弾を
毎夜、奏している僕

汽車のピーという笛の音も聞こえてくるので
昔した旅を思い、幼き日のことを思い

いや、違う
幼き日のことも旅のことも思わずに
旅と見えるだけの、
幼き日のことと思えることだけを

……

……

寂莫(しじま)にほとぶ、は
沈黙の世界にどっぷりとつかっている、
くらいの意味でしょうか

さびしい
さびしい
思いなき思いが
綿々と
綴られます

 *

 羊の歌
   安原喜弘に

   Ⅰ 祈り

死の時には私が仰向(あふむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、
罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

   Ⅱ

思惑よ、汝 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚のほかを希(ねが)はず。

交際よ、汝陰鬱なる汚濁(をぢよく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂に耐へんとす、
わが腕は既に無用の有(もの)に似たり。

汝、疑ひとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるまゝに暫しは動かぬ眼よ、
あゝ、己の外をあまりに信ずる心よ、

それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興ぜず

   Ⅲ

我が生は恐ろしい嵐のやうであつた、
其処此処(そこここ)に時々陽の光も落ちたとはいへ。
                    ボードレール

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有(いう)であるやうに
またそれは、凭(よ)つかかられるもののやうに
彼女は頸をかしげるのでした
私と話してゐる時に。

私は炬燵(こたつ)にあたつてゐました
彼女は畳に坐つてゐました
冬の日の、珍しくよい天気の午前
私の室(へや)には、陽がいつぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは) 陽に透きました。

私を信頼しきつて、安心しきつて
かの女の心は蜜柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといつて
鹿のやうに縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(ぐわんみ)しました。

   IIII

さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜な夜なは、下宿の室(へや)に独りゐて
思ひなき、思ひを思ふ 単調の
つまし心の連弾よ……

汽車の笛聞こえもくれば
旅おもひ、幼き日をばおもふなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思はず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

思ひなき、おもひを思ふわが胸は
閉ざされて、醺(かび)生(は)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬
酷薄の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……

これやこの、慣れしばかりに耐へもする
さびしさこそはせつなけれ、みづからは
それともしらず、ことやうに、たまさかに
ながる涙は、人恋ふる涙のそれにもはやあらず……

*醺 「醺」は「酔う」の意。「かび」の意味ならば「醭」の誤記か。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

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時こそ今は…/彼女の時の時

20080721_104

ボードレールのファンだから知る、か
知る人ぞ知る、か
中也のこの詩を通じて知る、か

シャルル・ピエール・ボードレールの
「悪の華」の中の
「薄暮の曲」の1行を
中也は、
見事に受容しました。

それも
一人の女性、
長谷川泰子という
固有名をもった女性への恋歌へと
作り直したのです。

花が芳香を放つ
その時の時の
花のシステム

まるで香炉に
蜜が分泌され
次から次へと
溢れ出てくる
甘やかな香り

その様子が
時こそ今は花は香炉に打薫じ
と、歌われました。

やがて香りは
空気に広がり
立ちこめる

こんな時だから
泰子よ
しずかに
一緒に過しましょう

詩人の
求愛の声は悲痛ですが
さめざめとした響きすらあります

夏だろうか
秋だろうか
秋の章に入っているのだから
秋だろう、きっと。

では、花は、何の花なのか
百合ではないのか
などと想像するのは勝手ですが……

そこはかとない気配のする
水に濡れ、雫のしたたる花
家路を急ぐ人々

遠くの空を飛ぶ鳥は
いたいけない
情にあふれている

夕方のまがき
群青の空

と、あるから
ここは、
東京の閑静な住宅地ではないか

こんな今こそ
泰子の髪の毛は
やわらかに揺れて
花が香りを発散するような
絶頂の時を迎えるのになあ

花は芳香を放ち、

「、」で
この詩は終わりますが
「、」は、この詩の内部の時間が
終わらないことを示します。

 *

 時こそ今は……

時こそ今は花は香炉に打薫じ
       ボードレール

時こそ今は花は香炉に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはひです。
しほだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子、今こそは
しづかに一緒に、をりませう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青(ぐんじやう)の
空もしづかに流るころ。

いかに泰子、今こそは
おまへの髪毛(かみげ)なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

*しほだる 潮垂る。濡れてしずくが垂れること。
*籬 竹や柴などを粗く編んで作った垣。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

◇上田敏訳の「薄暮の曲」の
第1連だけをここに載せておきます。
「薄暮」は「くれがた」と読みます。

 時こそ今は水枝(みずえ)さす、こぬれに花の顫ふころ、
 花は薫じて追い風に、不断の香の爐に似たり。
 匂も音も夕空に、とうとうたらり、とうたらり、
 ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈(くるめき)よ、
 花は薫じて追い風に、不断の香の爐に似たり。

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生い立ちの歌/雪のメタファー

ここで詩人は
自己の履歴を
幾分かまとめて明らかにします。

詩人としてのスタンスを述べることを
中原中也は
折りあるごとに行ってきましたが
この詩もその流れのものでしょう。

自己の歴史を
「私の上に降る雪は」と
雪の形態・姿態の変容に結びつけて
回顧します。

雪のメタファー
とでもいうべきレトリックは
世間へ強い浸透力をもって広まった
「汚れつちまつた悲しみに」もそうでした

いや、レトリックなどという
技術のことばかりでなく
雪は
中原中也の詩に現れる
骨格とか血肉とかのようなものの
一つです。

Ⅰ=第1章で
「私の上に降る雪」は

幼児期 真綿まわた
少年時 霙みぞれ
17~19 霰あられ
20~22 雹ひょう
23    吹雪ふぶき
と形容され、
24では、いとしめやかになりました……
と、落ち着きます。

Ⅱ=第2章に入って
24歳以降の現在の雪の姿態をうたいますが。

ふと
この雪は
泰子のようである

長谷川泰子との時や場所の記憶……
と、自然に感じられてくる
仕掛けに気付きます

1連
花びらのように

2連
いとなよびかになつかしく

3連
熱い額に落ちもくる
涙のやう

5連
いと貞潔で

ところで
4連は
私の上に降る雪に、と、
雪が主語でなく、
目的語になります。
雪は、感謝の対象になります。

いとねんごろに感謝して
じゅうぶんに感謝して
神様に
長生きしたいと祈りました
と、詩句にされないまでも
主語は私=詩人に変わります。

この詩のポイントは
ここにあります。

「雪の宵」や
「汚れつちまつた悲しみに」の雪に
かすかにただよう甘やかさの元

そこに女性の存在があります。

 * 

 生ひ立ちの歌

   Ⅰ

    幼年時
私の上に降る雪は
真綿(まわた)のやうでありました

    少年時
私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のやうでありました

    十七―十九
私の上に降る雪は
霰(あられ)のやうに散りました

    二十―二十二
私の上に降る雪は
雹(ひよう)であるかと思はれた

    二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました

    二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのやうに降つてきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額に落ちもくる
涙のやうでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔でありました

*黝む 「黝」は青みがかった黒色のこと。「くろ」は推定ルビ。
*なよびかに 柔らかに。穏やかに。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

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雪の宵/ひとり酒

北原白秋の詩集「思い出」の中の作品
「青いソフトに」は
七五調の4行詩。

 青いソフトに降る雪は
 過ぎしその手か、ささやきか、
 酒か、薄荷か、いつのまに
 消ゆる涙か、なつかしや。

中也は、
その冒頭の2行の中の
「青いソフト」を
「ホテルの屋根」と置き換えて
「雪の宵」の導入に使いました。

ホテルに降る雪ならば
かつての帝国ホテルのようなそれが
昭和初期にはあったに違いありませんが
今、中也は、
ホテルを眼前にしているわけでもありません。

第6連
徐かに私は酒のんで
悔と悔とに身もそぞろ。
なのが、現在なのです。

またしても
一人酒の僕……。

いまごろどうしているのやら
いつかは帰ってくるのかなあ、と
酒をグイっとやっては
煙草をプカプカ……。

白秋の詩をひもといている内に
つい、泰子への追憶にひたります。

「汚れつちまつた悲しみに」の雪のように
ここでも、雪は
やわらかい!

ほのかな熱があり
冷たいだけの雪ではありません。

雪は冷たいのですが
なぜか、冷たいだけの雪ではないのです。

その上

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

のです。

しかし、
ふかふか煙突も
赤い火の粉も
僕には遠い……

 *

 雪の宵

青いソフトに降る雪は
過ぎしその手か囁(ささや)きか  白秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか
  
  ふかふか煙突煙(けむ)吐いて、
  赤い火の粉も刎(は)ね上る。

今夜み空はまつ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのをんな、
  いまごろどうしてゐるのやら。

ほんにわかれたあのをんな、
いまに帰つてくるのやら

  徐(しづ)かに私は酒のんで
  悔と悔とに身もそぞろ。

しづかにしづかに酒のんで
いとしおもひにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

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修羅街輓歌/関口隆克に捧ぐ

「中原中也全集」解説・詩Ⅰ(1967年10月)で
大岡昇平は、

(略)高森文夫の証言によれば最初に考えた題は
「修羅街輓歌」だったという。

と、「山羊の歌」という詩集名が、
はじめ「修羅街輓歌」だったことを
明らかにしています。

その詩にたどりつきました。
これも献呈されています。
相手は関口隆克です。

関口隆克は
後に、文部省大臣秘書課長を振り出しに
国立教育研究所長などを経て
開成学園中学、高校の校長となる人物で
1987年に亡くなります。

「広辞苑」の新村出、
ノーベル賞の朝永振一郎らとは
親戚関係にある名家の出身だそうです。

修羅は、
「春と修羅」の修羅らしいのですが
修羅街としたところが中也です。

宮沢賢治の影響を云々する評者が
影響だけをあげつらって
中也の独創に目を向けないのは
おかしい。

修羅街とは、東京のことでしょうか
その街への挽歌とは
そもそも逆説でありましょうか

それとも
あばよ!東京!
さよなら、グッバイ!
ストレートな
東京への離別宣言なんでしょうか。

「在りし日の歌」の
後記の最終行

さらば東京! おゝ わが青春!へと、

まっしぐらに連なる意識が
すでにここに胚胎(はいたい)している
と言えるのでしょうか。

いずれは
東京に別れを告げる詩人ですが
早くもこの時点での
挽歌です。

4連に分けられた第1は
「序の歌」

のっけから
激しく
暗い思い出が
消えてなくなることを望む
詩人の心情が吐き出されます。
なくなれ! と命令して
なくなるものではありませんが
命令するのです。

思い出したくもない
いまわしい思い出よ
消えてなくなれ!
そして、昔の
憐れみの感情と豊かな心よ
戻って来い!

こう思っている今日は
穏やかな日曜日です。
ときおり、少年時代が懐かしく
思い出されもするのです。

 今日は日曜日
 縁側には陽があたっている
 ――もう一度、母親に手を引かれて
   祭りへ行って風船を買ってもらいたい
   空は青く、すべてのものがまぶしく輝いていた
 あの日が無性に恋しい

  いまわしい思い出よ
  消えろ!
  消えろ!消えろ!

2は「酔生」と題されています。
ただちに「酔生夢死」という
四字熟語が浮かびます。
その「夢死」のほうが気になるのですが
題は「酔生」のほうが採られました。

僕の青春は過ぎていった
――おお、この、寒い朝の鶏の鳴き声よ
   しぼり出すような叫びよ

ほんとのこと
前後も省みず
がむしゃらに生きてきたものだ

僕はあまりにも陽気だった
――無邪気な戦士だったなあ、僕のこころよ

それにしても僕は憎む
上辺(うわべ)をとりつくろい
対外意識だけで生きている人々を。
――なんと逆説的な人生であることよ

いま、ここに傷つき果てて
――この、寒い朝の鶏鳴よ
   しぼり出すような叫びよ
おお、霜に凍えている鶏鳴よ……

3は「独語」

器の中の水が揺れないように
器を持ち運ぶことは重要であり
そうであるならば、
大きなモーションで運ぶがいい

しかしそうするために
もはや工夫することさえやめてしまうのは
いかんいかん

そんなふうになるんだったら
心よ
謙虚に神の恵みを待つがいい

4は、題なし。
文語調に転じます。

とてもとても淡い今日
雨がわびしげに降り注いでいる

雨蕭々と、は

「史記」「刺客列伝」の
風蕭々として易水寒し、
を意識しているのでしょうか

空気は水よりも淡く
どこからか林の香りがしてくる

ほんとに秋も深くなった今日は
石の響きのような
無機質な生気のない日になった

思い出さえもないのに
夢なんてあるものか

ほんとに僕は石のように
影のように生きてきた

何かを語ろうとしたときには言葉がなく
空のように果てしなく
とらえどころなく

悲しい僕の心よ
理由もなく拳をあげて
誰を責めようとするのか
ああ切ない切ない

 *

 修羅街輓歌
    関口隆克に

   序歌

忌(いま)はしい憶(おも)ひ出よ、
去れ! そしてむかしの
憐みの感情と
ゆたかな心よ、
返つて来い!

  今日は日曜日
  縁側には陽が当る。
  ――もういつぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買つてもらひたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかゞやかしかつた……

  忌はしい憶ひ出よ、
  去れ!
     去れ去れ!

  2 酔生

私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
私の青春も過ぎた。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあむまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おゝ、霜にしみらの鶏鳴よ……

   3 独語

器の中の水が揺れないやうに、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
さうでさへあるならば
モーションは大きい程いい。

しかしさうするために、
もはや工夫(くふう)を凝らす余地もないなら……
心よ、
謙抑にして神恵を待てよ。

   4

いといと淡き今日の日は
雨蕭々(せうせう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡(あは)き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如くなり。
思ひ出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いはれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。

*修羅 阿修羅。インド神話に登場する闘いの神。
*輓歌 人の死を悼み悲しむ歌。
*パラドクサル paradoxal(仏)逆説的な。奇妙な。
*しみらの ひっきりなしに続くこと。あるいは、凍りつくこと、沁みいること。
*謙抑 ひかえめにして自分を抑えること。
*蕭々 ものさびしく雨が降る様子。
*あらぬがに ないのだが

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

*ローマ数字は、アラビア数字に変えてあります。(編者)

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秋/黄色い蝶々

20080407_036

「みちこ」の章の次は
「秋」の章で、
5篇の作品が
配されています。

章と同じタイトルの「秋」という作品は
「死」を扱っていて
妙にリアルです。

「汚れつちまつた悲しみに」第3連第4行の
「倦怠のうちに死を夢む」が
ここに突如よみがえったかのようです。
そのイメージが具体化され……。

終わりでは蝶々が
「在りし日の歌」「一つのメルヘン」へ
続くかのように
草の上を飛んでゆきます。

死んでしまったぼくを
もう一人のぼくが見ている。
見ているのはぼくのほかにもう一人
泰子らしき女性です

二人が会話し
逝ったぼくを回顧する
そういう構造になっています。

第1連
昨日まで灼熱の陽に燃えていた野原が
今日はぼおーっとして
曇り空の下に続いている。

一雨ごとに秋になるのだ
と世間の人は言う
秋蝉が、すでにあちこちで鳴いている、
草原の、一本の木立ちの中でも鳴いている。

ぼくが煙草を吸うと
煙が澱んだ空気の中を揺られて昇ってゆく。

地平線は目を凝らしても見ることができない
陽炎の亡霊たちが
立ったり座ったり忙しないので
ぼくは、しゃがみ込んでしまう。

不気味なイメージに
中也独特のリアルさが滲みます

空は、鈍い金色に曇っている
相変わらず!
とても高いので、ぼくはうつむいてしまう。

ぼくは、倦怠ケダイを観念して生きているんだよ
煙草の味は三通りほどあるのさ
死というやつも、そんなに遠いものじゃないかもしれない

第2連は会話

それではさよなら、と言って
妙に真鍮の光沢みたいなはっきりした笑みをたたえて
きゃつは
あのドアのところから立ち去って行ったんだよな
あの笑いからしてがどうも、
生きている者のようじゃなかったんだよ
きゃつの目は
沼の水が澄んだ時かなんかのように
おそろしく冷たく光っていたよ
話している時も、他のことを考えているようだったさ
短く切って、ものを言う独特のクセがあったさ
つまらないことを、くどくど覚えていたよなあ

そうね
死ぬってこと分かっていたのよ
星を見ていると
星がぼくになるんだなんて言って
笑っていたわ
ついさっきのことよ

…………

ついさっきよ、
自分の下駄を、これはぼくのじゃないって言い張るのよ

第3連
女の独白

草がちっとも揺れなかったのよ
その上を蝶々が飛んでいったのよ
浴衣を着て、あの人、縁側に立って、それを見ているのよ
あたしはこっちからあの人の様子を見てたの
あの人、じっと見てるのよ、黄色い蝶々を。
豆腐屋さんの笛が方々で聞こえていたわ
あの電信柱が、夕空にくっきり見えて
ぼく、って言って、あの人あたしの方を振り向くのよ
きのう30貫くらいある石をこじあげちゃった、って言うのよ
まあ、どうして? どこで?って、わたし聞いたのよ
するとね、あの人、あたしの目をじっと見るのよ
怒っているようなのよ、まあ
あたし、怖かった

死ぬ前って、変なものねえ……

 *

 秋

   1

昨日まで燃えてゐた野が
今日茫然として、曇つた空の下(もと)につづく。
一雨毎に秋になるのだ、と人は云ふ
秋蝉は、もはやかしこに鳴いてゐる、
草の中の、ひともとの木の中に。

僕は煙草を喫ふ。その煙が
澱(よど)んだ空気の中をくねりながら昇る。
地平線はみつめようにもみつめられない
陽炎(かげろふ)の亡霊達が起(た)つたり坐つたりしてゐるので、
――僕は蹲(しやが)んでしまふ。

鈍い金色を帯びて、空は曇つてゐる、――相変らずだ、――
とても高いので、僕は俯(うつむ)いてしまふ。
僕は倦怠を観念して生きてゐるのだよ、
煙草の味が三通りくらゐにする。
死ももう、とほくはないのかもしれない……

   2

『それではさよならといつて、
めうに真鍮(しんちゆう)の光沢かなんぞのやうな笑(ゑみ)を湛(たた)へて彼奴(あいつ)は、
あのドアの所を立ち去つたのだつたあね。
あの笑ひがどうも、生きてる者のやうぢやあなかつたあね。
彼奴の目は、沼の水が澄んだ時かなんかのやうな色をしていたあね。
話してる時、ほかのことを考へてゐるやうだつたあね。
短く切つて、物を云ふくせがあつたあね。
つまらない事を、細かく覚えていたりしたあね。』

『ええさうよ。――死ぬつてことが分かつてゐたのだわ?
星をみてると、星が僕になるんだなんて笑つてたわよ、たつた先達(せんだつて)よ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
たつた先達よ、自分の下駄を、これあどうしても僕のぢやないつていふのよ。』

   3

草がちつともゆれなかつたのよ、
その上を蝶々がとんでゐたのよ。
浴衣(ゆかた)を着て、あの人縁側に立つてそれを見てるのよ。
あたしこつちからあの人の様子 見てたわよ。
あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。
お豆腐屋の笛が方々で聞えてゐたわ、
あの電信柱が、夕空にクッキリしてて、
――僕、つてあの人あたしの方を振向くのよ、
昨日三十貫くらゐある石をコジ起しちやつた、つてのよ。
――まあどうして、どこで?つてあたし訊(き)いたのよ。
するとね、あの人あたしの目をジッとみるのよ、
怒つてるやうなのよ、まあ……あたし怖かつたわ。

死ぬまへつてへんなものねえ……

*めう 原本の詩集「山羊の歌」では「みよう」と表記。歴史的仮名遣いに従い「めう」に改めた。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

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玩具の賦/昇平に捧げる

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献呈詩をもうひとつ
読んでおきます。

相手は
大岡昇平。

昇平に、と
呼び捨てでの献呈です。

小林秀雄宛の内容が
「神」だったのに対して
こちらは
「玩具」です。

極めて対照的ですが
極めて相似的です。

神も玩具(おもちゃ)も
中原中也には
絶対的なもののようでした

同じようなことを指し示しているように
見えてくるのです。

 *
 玩具の賦
    昇平に

どうともなれだ
俺には何がどうでも構はない
どうせスキだらけぢやないか
スキの方を減(へら)さうなんてチャンチャラ可笑(をか)しい
俺はスキの方なぞ減らさうとは思はぬ
スキでない所をいつそ放りつぱなしにしてゐる
それで何がわるからう

俺にはおもちやが要るんだ
おもちやで遊ばなくちやならないんだ
利権と幸福とは大体は混(まざ)る
だが究極では混りはしない
俺は混ざらないとこばつかり感じてゐなけあならなくなつてるんだ
月給が増(ふ)えるからといつておもちやが投げ出したくはないんだ
俺にはおもちやがよく分つてるんだ
おもちやのつまらないとこも
おもちやがつまらなくもそれを弄(もてあそ)べることはつまらなくはないことも
俺にはおもちやが投げ出せないんだ
こつそり弄べもしないんだ
つまり余技ではないんだ
おれはおもちやで遊ぶぞ
おまへは月給で遊び給へだ
おもちやで俺が遊んでゐる時
あのおもちやは俺の月給の何分の一の値段だなぞと云ふはよいが
それでおれがおもちやで遊ぶことの値段まで決まつたつもりでゐるのは
滑稽だぞ
俺はおもちやで遊ぶぞ
一生懸命おもちやで遊ぶぞ
贅沢(ぜいたく)なぞとは云ひめさるなよ
おれ程おまへもおもちやが見えたら
おまへもおもちやで遊ぶに決つてゐるのだから
文句なぞを云ふなよ
それどころか
おまへはおもちやを知つてないから
おもちやでないことも分りはしない
おもちやでないことをただそらんじて
それで月給の種なんぞにしてやがるんだ
それゆゑもしも此(こ)の俺がおもちやも買へなくなった時には
写字器械奴(め)!
云はずと知れたこと乍(なが)ら
おまへが月給を取ることが贅沢だと云つてやるぞ
行つたり来たりしか出来ないくせに
行つても行つてもまだ行かうおもちや遊びに
何とか云へるものはないぞ
おもちやが面白くもないくせに
おもちやを商ふことしか出来ないくせに
おもちやを面白い心があるから成立つてゐるくせに
おもちやを遊んでゐらあとは何事だ
おもちやで遊べることだけが美徳であるぞ
おもちやで遊べたら遊んでみてくれ
おまえに遊べる筈はないのだ

おまへにはおもちやがどんなに見えるか
おもちやとしか見えないだろう
俺にはあのおもちやこのおもちやと、おもちやおもちやで面白いんぞ
おれはおもちや以外のことは考へてみたこともないぞ
おれはおもちやが面白かつたんだ
しかしそれかと云つておまへにはおもちや以外の何か面白いことといふのがあるのか
ありそうな顔はしとらんぞ
あると思ふのはそれや間違ひだ
北叟笑(にやあツ)とするのと面白いのとは違ふんぞ

ではおもちやを面白くしてくれなんぞと云ふんだろう
面白くなれあ儲かるんだといふんでな
では、ああ、それでは
やつぱり面白くはならない写字器械奴(め)!
――こんどは此のおもちやの此処(ここ)ンところをかう改良(なほ)して来い!
トットといつて云つたやうにして来い!
                     (1934.2.)

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

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我が祈り/小林秀雄に捧げる

ここで少し回り道をして
小林秀雄への献呈詩を
読んでおきます。

この詩に付せられた
1929.12.12という日時は
小林秀雄が長谷川泰子から去った
1928年5月から
1年半ほど経過していることになります。

神に向かって
奸策に満ちた人の世を嘆き……

人の世の奸策の網の目が
壊れた時の乱雑の中では
何も知らない振りをして生きている
と、まずは、告白し

そんなところに立っている私は
もう歌うことも叫ぶこともせず
(音楽家のようにも、運動家のようにもしない)
描いたり説明したりもしない
(画家のようにも、教師のようにもしない)

しかし、神よ!
あなたのお恵みがあった時には
やさしく美しい夜の歌を歌います
櫂歌を歌います
と宣言します。

このように
詩人のなすべきこと
詩人の志を
表明しています

夜の歌
苦しい人々への歌、悲しい人たちへの歌、か。

櫂歌
働く人が、仕事をしながら口ずさむ歌、労働歌、か。

恋人を奪った(と中也が思っていた)小林秀雄
文学のライバルである小林秀雄
師友である小林秀雄

その小林秀雄へ捧げた作品です。


この詩は、「白痴群」第5号(1930年1月)に
掲載されましたが、「山羊の歌」や「在りし日の歌」には入っていません。

 *
 我が祈り
     小林秀雄に

神よ、私は俗人の奸策(かんさく)ともない奸策が
いかに細き糸目もて編みなされるかを知ってをります。
神よ、しかしそれがよく編みなされてゐればゐる程、
破れる時には却(かえつ)て速かに乱雑することを知ってをります。

神よ、私は人の世の事業が
いかに微細に織られるかを心理的にも知つてをります。
しかし私はそれらのことを、
一(ひとつ)も知らないかの如く生きてをります。

私は此所(ここ)に立つてをります!……
私はもはや歌はうとも叫ばうとも、
描かうとも説明しようとも致しません!

しかし、噫(ああ)! やがてお恵みが下ります時には、
やさしくうつくしい夜の歌と
櫂歌(かいうた)とをうたはうと思つてをります……

                   (1929.12.12)
           「白痴群」第5号 1930年1月)
* 奸策 悪巧み。
* 櫂歌 船頭が舟を漕ぐ時にうたう歌。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

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つみびとの歌/愛という名の支配

献呈詩が続きます。
今度は、阿部六郎へ捧げます。

「三太郎の日記」で有名な
と言っても、2008年の今、
知る人は少ない
阿部次郎という哲学者の弟の六郎へ。

六郎は、同人誌「白痴群」のメンバーで、
大岡昇平のいう成城グループの一人です。

ぼくの生涯は
下手くそな植木師たちに
若いうちから、手を入れられ、
剪定されてしまった悲しさでいっぱい!

というわけで
ぼくの血の大部分は
頭にのぼり、煮え返り、たぎり、泡立つ

そういう方向に消費されます

落ち着きがなく
焦ってばかりで
いつも外界に色々なことの答えを見い出そうとする

その行動は愚かなことばかり
その考えはだれの考えとも分かち合うことができない

こうして、この可愛そうな木は
粗くて硬い樹皮を、空と風に剥き出しにして
心はいつも、惜しがっている

怠けていて、一貫した行いが出来ず
人には弱々しく、へつらい
こうして、自分で思ったこともない愚行を仕出かしてしまう

昭和3年(1928年)、父謙助が亡くなります
中也は、父の溺愛を受け育ちました
今様に言えば、愛という名の支配。
訃報を聞いた中也は、
母フクに「帰らないでいい」と助言され
葬儀のためには帰郷しませんでした

下手くそな植木師たちの筆頭に、
父謙助の名があげられます

でも、植木師は一人ではありません
複数の植木師がいたのです

「キミのためを思って言うんだよ」
といった類の助言、忠告……は
中也を窒息させるものでした

阿部六郎よ
キミはこのことを理解するだろう
詩人は、そう感じていたに違いありません




つみびとの歌
     阿部六郎に

わが生は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来わが血の大方は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地に、
つねに外界に索(もと)めんとする。
その行ひは愚かで、
その考へは分ち難い。

かくてこのあはれなる木は、
粗硬な樹皮を、空と風とに、
心はたえず、追惜のおもひに沈み、

懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草をもち、
人にむかつては心弱く、諂(へつら)ひがちに、かくて
われにもない、愚事のかぎりを仕出来(しでか)してしまふ。

*懶懦 なまけもので気の弱いこと。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

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