中原中也と他者

毎日新聞4月24日付「余録」への疑問2

誤解を避けるために
もう一つのことを付け加えておきます。

4月24日付け毎日新聞第1面「余録」は、 
タレント草彅剛の側から読んでも、
違和感のある記事になっているのではないでしょうか。
 
草彅剛の失態(ここでは「犯罪」と呼びません)が、
中原中也の「狼藉」の数々と結び付られて、
変だなと感じているのではないでしょうか。
同じ土俵で論じられることの
無理を感じているのではないでしょうか?

草彅剛のファンは、
今度の失敗が、
なぜ中原中也という詩人の
およそ80年前の「乱暴」につながるのか
キョトン、
唖然、
えっ?
変だな!
困惑、
ミスリード!
……。
いろいろな違和感を抱いているに違いありません。

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毎日新聞4月24日付「余録」への疑問

昨24日付け毎日新聞第1面「余録」は、
タレント草彅剛の裸騒動を批判し、
中原中也を引き合いにしています。

これを読んで
びっくりしたり、
腹が立ったり、
笑っちゃったり、
諦めちゃったり、
情けなくなったり、
笑止千万! 
噴飯もの!
……。
いろいろな思いを
抱いた人がいるでしょう。

いてもたってもいられなくて
ここに、まずは、
疑問を投げかけておきます。

なんの関係があって
中原中也が
2009年現在のタレントの裸騒動に
結びつけられたのでしょうか。
記事の中にも
その理由を見つけることができません。

騒ぎとまったくつながることのない中原中也を
嵐山光三郎の著作「文人悪食」から、
「(略)腕力はなく結局たたきのめされるのは中也だった」
と記して締め括るまでを引用したのはまだよいのですが、
その嵐山の本意を通り過ぎて、
「中也の美しい詩の背後には、彼にからまれた太宰治や小林秀雄や檀一雄らそうそ
うたる文人のしかめ顔が潜んでいたわけだ。」
と、中也を主格にして書いている嵐山の文章を
その背後で被害をこうむった文人たちの
「しかめ顔」を主格に変えてしまい、
こんどは、「ならば」と、
突然、「草彅剛の屈託」とを比較するのです。

ここに、「中也の屈託」が隠されているのですが、
「文人たちのしかめ顔」が前面に出ているために、
「文人たちのしかめ顔」と「草彅剛の屈託」が比較されます。

「文人たちのしかめ顔」と「草彅剛の屈託」は
比較対照され得ないものですが
それを、「ならば」と結びつける
強引さはどこからやってくるのでしょうか。

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中原中也の同時代人/吉田秀和2

吉田秀和が、
中也とのなれそめを記している
「中原中也のこと」
(講談社文芸文庫「ソロモンの歌/一本の木」所収)から、
以下、引用を続けると、

二回目の日曜は、しかし、夕食ですよと呼ばれて、私が下の茶の間におりてゆくと、この規則正しい訪問者(中原は、人を訪ねるのを日課みたいにしてる男だったが、このころは日曜というと、阿部さんのところに、まるで学校にでも出るように、きちんとやってくるのだった)もすでに座っていて、いっしょに食事をした。

背が低く、角ばった顔。ことに顎が小さいのが目についた。色白の皮膚には、ニキビの跡の凸凹がたくさんあったが、そのくせ脂っこいどころか、妙にカサカサして艶がわるかった。ぎょろっとした目は黒くて、よく光った。

私はそれをみんな一目でみたわけではない。これは、その後の印象のいくつかを足したものだ。初対面では、むしろ、低いが優しい口のきき方と、私のいうことを、そのまま正直に、まっすぐうけとろうという態度が印象的だった。
(*改行を加えてあります。編者)

と、二人が、
2回目に会った時のことが書かれています。

このときは、起居している隣の部屋から声を聞いただけでなく、
中也と一緒に食事に呼ばれているのだから、
初めて顔を合わせて、言葉も交わしたのでしょう。
しかし、

中原が、その晩どんなことを話したか、それを具体的にいうことは、とても私の手にはおえない。

と、吉田は記します。
そう記す意味には、
さまざまなことが込められているようで、
推測する以外にありません。

ただ、ほかのところで、

私は、たしかに中原に会ったことがあるにはちがいないが、本当に彼を見、彼の言葉をきいていただろうか? こういう魂とその肉体については、小林秀雄のような天才だけが正確に思い出せ、大岡昇平のような無類の散文家だけが記録できるのである。私には、死んだ中原の歌う声しかきこえやしない。

と、書いているのには、大いに耳を傾けておきたいものです。

吉田のような、超一流の音楽評論家ではなく、
素朴な読者でしかない「われわれ」は、
小林秀雄のようにでもなく、
大岡昇平のようにでもなく、
詩人の歌う歌をきくことができればOKなのですが、
それが、なかなか、容易ではないのです。
学問しても
詩を読めるわけでもありませんし……。

このとき以来の二人の交流は、
次第に頻繁になり、
そして、
次第に疎遠になっていきはするものの、
中也が鎌倉で死去するまで、
続けられました。

中也の肉声を聞き、
談論し、酒を酌み交わしたことのある
数少ない同時代人の健在に
心おきない拍手!
そして、乾杯です。

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中原中也の同時代人/吉田秀和

加藤周一が1919年(大正8年)生まれで、
中原中也の同時代人と言い得るのは、
生年が近いというだけでないことは、
言うまでもないことでしょう。

簡単に言えば、同じ時代に生きていたのですが
同じ時代とは、一口に言って、
昭和初期に青春だった、
昭和初期に青春を過ごした、
ということでしょうか。
大正から昭和初期といったほうが近いかもしれません。

ということで
すぐさま思い出す人が、
1913年(大正2年)生まれの吉田秀和です。
こちらは、
中也の5歳下ということになります。

「白痴群」の同人だった阿部六郎が、
成城高校で教師をしていたとき、
吉田秀和はその生徒でした。
先生と生徒という関係だったのですが、
吉田は、阿部が下宿していた同じ家に
間借りしたのです。

阿部の部屋へ
しょっちゅう足を運んだ中也と吉田は、
こうして、必然的に、出会うことになります。

その吉田秀和が、
中也とのなれそめを記している一つが
「中原中也のこと」で、
講談社文芸文庫「ソロモンの歌/一本の木」で読めます。
以下、引用すると、

移ってつぎの日曜の午後、隣りに人がきて、夜になるまで話し声がしていた。その声は少し嗄れて低かった。ひとしきりしゃべったあとで、二人は出ていった。つぎの日曜にも同じ人がきた。話し声は、もっぱら訪問者のそれで、阿部さんの声はほとんどきこえない。これは、別に不思議でも何でもない。

阿部先生ときたら、われわれがお邪魔して、夕方から夜おそくまでねばりにねばって青くさい議論をしていても、まるで黙りこくったまま、バットばかり立てつづけにふかしていたものだ。机に横向きにかえた椅子の上に座蒲団をしいて(張った布が切れてマットが顔を出してしまったからである)、その上に正座したなり、こちらの話しをきいているのか、きいていないのか。とにかく私は、一生、あんなに相手にしゃべらせ放しにしゃべらせる人に、二度と会ったことがない。

私の友人は「あの人は海綿みたいに何でも吸いとってしまう」といっていたが、何も吸いとられるほどのこともいえない私に対しても、こうだった。ただ、あの人の前だと、やたらと話しがしたくなり、しかも、ふだんはっきり考えてたわけでもない考えが、急に形をとって出てくるのだ。そんな私が何をいっても、先生は反駁も何もしない。ただときどき、前歯のかけた口をあけて、くすぐったそうに笑ったっけ。
(*改行を加えてあります。編者)

と、中也は、はじめ、「隣りにきた人」として登場します。

(この稿つづく)

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加藤周一/中也の同時代人

「大知識人の微笑とまなざし 加藤周一さんのこと」
と題して、大江健三郞が、
朝日新聞12月7日朝刊文化面で追悼する中に、
中原中也がいました。

加藤周一の大知識人ぶりを実証・賞揚する
いくつかのエピソードの一つに、
大江健三郞がベルリン自由大学で、
加藤の「日本文学史序説」に関して、
3人の国籍の異なる学生相手に
課外授業を行ったときに、
同書の最終章「工業化の時代」を読んだことにふれ、
そこで言われていることを要約し紹介するくだりで、

 宮沢賢治、中原中也、渡辺一夫、林達夫、石川淳、小林秀雄。著者がほぼ同時代に生きることのあったこれら文学者たちへの、批判もこめられて情熱的な論述の、波状攻撃のような繰り返しが結びにいたる。

と記し、つづけて、
「九条の会」へ言い及んでいきます。
ここでは、その本題には深入りしません。

「日本文学史序説」を読んだ
ベルリン自由大学での経験を
大江は、新聞の行数で26行にまとめ、
同書から7行を引用しています。

中也は、大江のまとめの中に出てきます。
宮沢賢治、渡辺一夫、林達夫、石川淳、小林秀雄の
6人と肩を並べています。
そのように、加藤が評価していた、
ということがわかります。

中也論を書いた加藤周一は、
中村真一郎、福永武彦とともに
「マチネー・ポエチック」を起こして
「詩」に発言した人ですし、
はじめは詩を書いていました。

1919年生まれですから、
12歳ほど中也より年下です。
大江健三郞が言うように
中原中也と加藤周一は、
「ほぼ同時代に生きることのあった文学者」
の一人であったことは確かなことです。

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中也の詩の「女」たち

20080623_022

「山羊の歌」の全篇の
いくつかには
「女」が登場します。

その「女」のほとんどが
長谷川泰子をモデルにしている
といわれています。

中也は、京都で知り合い
京都で同棲しはじめた泰子と連れ立って
東京での生活をスタートしました。
1925年、大正14年3月のことでした。

その泰子が
文学的僚友である小林秀雄のところへ
出奔してしまうのは
その年の11月でした。

中也と泰子の関係が
ここで断たれたわけではなく
小林秀雄自らが名づけたように
「奇妙な三角関係」が
以降、ずっと続きます。

泰子を失った中也の
懊悩、狼狽、衝撃……は
後になって
「私は口惜しい人であった」と
記されるように
中也の心を支配し
中也の格闘ははじまります。
この格闘が
歌われないわけがありません。

いま、「山羊の歌」の内の
初期詩篇44篇に
表現された詩句だけをたどってみても
「女」は随所に見られ

直喩、暗喩……
シンボライズ……
擬人化……など、
レトリックの中に登場する「女」も
あちこちに散らばっています。

例えば
「春の夜」の
第1連
 
燻銀なる窓枠の中になごやかに
  一枝の花、桃色の花。

とあるのは、明らかに
「女」です。
これを、
長谷川泰子とみなすのか、みなさないのか
それを探る試みには
深入りしません。
それは
研究、考証……の仕事です。

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汚れつちまつた悲しみに…2

001

「第二回目に、中原と太宰と私で飲んだ時には、心平氏はいなかった。」と、
檀一雄が「小説 太宰治」に記し、
それに続けて語られた中原中也のある日のことは、
色々なことを考えさせられます。

「太宰治に搦む中原中也by檀一雄その2」で
ふれなかったことを
ここで補っておきましょう。

檀一雄は、中也と飲んだ2回目の時を回想した中で
中也が太宰に「夜襲」をかけた1件を書きます。
太宰の住処を訪ねる道すがら、
中也が宮沢賢治の詩を口ずさんだことを記しています。

太宰の家に着き
「奥様」の初代さんの応対を無視して
太宰の寝ている枕元に上がり込んだ中也を見かねた檀一雄は
ついに雪の道に中也を投げ出してしまいます。
「わかったよ。おめえは強え」と
中也が観念する場面です。

それから、「二人は」銀座に出、その後川崎の娼家で夜を明かします。
翌朝、追い立てられるように外に出た雪の道で
中也は「汚れつちまつた悲しみに…」を口にします。、

「小説」とわざわざ檀一雄が断っている作品の中でのことですから
事実との間にはいくらかの断絶があるのかもしれません。

しかし
「汚れつちまつた悲しみに…」という詩が
この世の中に現れた時の
その登場の仕方の一つ形を
想像できるという点で
この場面は注目に値します。

中原中也が、
宮沢賢治の詩に感心し、
自らの詩作に影響を受けたことは
よく知られています。

その賢治の詩を口ずさみ
また
自作「汚れつちまつた悲しみに…」を低吟して歩く中也の姿は
実際にはなかったことなのかもしれませんが
強く印象に残るのです。

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中也が安吾に挑む時

Photo

「(前略)私はこの酒場で中原中也と知り合った。」と、
坂口安吾は「ウヰンザア」という酒場での
中也との初対面について書いています。
「二十七歳」という標題の年代記的小自伝で、
27歳の自らを回想し、
中也を初めて知った時の事件にふれます。

――中原中也は、この娘にいささかオボシメシを持っていた。そのときまで、私は中也を全然知らなかったが、彼の方は娘が私に惚れたかどによって大いに私を呪っており、ある日、私が友達と飲んでいると、ヤイ、アンゴと叫んで、私にとびかかった。
 とびかかったとはいうものの、実は二、三メートル離れており、彼は髪ふりみだしてピストンの連続、ストレート、アッパーカット、スイング、フック、息をきらして影に向かって乱闘している。中也はたぶん本当に私と渡り合っているつもりでいたのだろう。私がゲラゲラ笑いだしたものだから、キョトンと手をたれて、不思議な目で私を見つめている。こっちへ来て、いっしょに飲まないか、とさそうと、キサマはエレイ奴だ、キサマはドイツのヘゲモニーだと、変なことを呟きながら割りこんできて、友達になった。非常に親密な友達になり、最も中也と飲み歩くようになったが、その後中也は娘のことなど嫉く色すらも見せず、要するに彼は娘に惚れていたのではなく、私と友達になりたがっていたのであり、娘に惚れて私を憎んでいるような形になりたがっていただけの話であろうと思う。
(角川文庫「暗い青春・魔の退屈」『二十七歳』より)

「不思議な目」とはどんな目だろう。
安吾は、中也の目に
ただならぬものを感じたに違いありません。
小僧をつかまえて、
からかってやろうなどという優越が、
微塵もありません。

安吾の本能になにかが伝わりました。
なにかが電撃的に伝わりました。
一瞬のうちに、二人は友達になりました。

それにしても
みかけ上はまるで異なる風貌をしていたに違いない二人の
出会い。


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太宰治に搦む中也by檀一雄その2

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檀一雄はさらに続けます。
ここでは、
中也が太宰に「挑んだ」時、
そのとばっちりを受け、
やむなく中也を雪の道に放り投げたことが記されています。

――第二回目に、中原と太宰と私で飲んだ時には、心平氏はいなかった。太宰は中原から、同じように搦まれ、同じように閉口して、中原から逃げて帰った。この時は、心平氏がいなかったせいか、中原はひどく激昂した。
「よせ、よせ」と、云うのに、どうしても太宰のところまで行く、と云ってきかなかった。
 雪の夜だった。その雪の上を、中原は嘯くように、
  夜の湿気と風がさびしくいりまじり
  松ややなぎの林はくらく
  そらには暗い業の花びらがいっぱいで
と、宮沢賢治の詩を口遊んで歩いていった。
 飛鳥氏の家を叩いた。太宰は出て来ない。初代さんが降りてきて、
「津島は、今眠っていますので」」
「何だ、眠っている? 起せばいいじゃねえか」
 勝手に初代さんの後を追い、二階に上がり込むのである。
「関白がいけねえ。関白が」と、大声に喚いて、中原は太宰の消燈した枕許をおびやかしたが、太宰はうんともすんとも、云わなかった。
 あまりに中原の狂態が激しくなってきたから、私は中原の腕を捉えた。
「何だおめえもか」と、中原はその手を振りもごうとするようだったが、私は、そのまま雪の道に引き摺りおろした。
「この野郎」と、中原は私に喰ってかかった。他愛のない、腕力である。雪の上に放り投げた。
「わかったよ。おめえは強え」
 中原は雪を払いながら、恨めしそうに、そう云った。それから車を拾って、銀座に出た。銀座からまた、川崎大島に飛ばした事を覚えている。雪の夜の娼家で、三円を二円に値切り、二円をさらに一円五十銭に値切って、宿泊した。
 明け方、女が、
「よんべ、ガス管の口を開いて、一緒に殺してやるつもりだったんだけれど、ねえ」そう云って口を歪めたことを覚えている。
 中原は一円五十銭を支払う段になって、また一円に値切り、明けると早々、追い立てられた。雪が夜中の雨ににまだらになっていた。中原はその道を相変わらず嘯くように、
 汚れちまった悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
と、低吟して歩き、やがて、車を拾って、河上徹太郎氏の家に出掛けていった。多分、車代は同氏から払ってもらったのではなかったろうか。

今や、遠き日のことです。
これを書いた檀一雄も逝って久しく
これら遠き日のことどもを知っている文士たちは、
おおかた死んでしまって、
この世にいません。

記録の中にしか存在しなくなった詩人たち、小説家たち、評論家たち…
その足跡を、しかし、
記録の中に辿ることができるだけでも、
この人々は幸せと言い得るのではないでしょうか。

ことあげもされずに、
死んでいった無名の詩人たちはいくらでもいます。

記録に残されなかった詩人たちの代わりにといってよいほどに
いろいろなところで
中也は書き記されました。

それはやはり偉大なことであります。

中原中也という詩人は
「喧嘩」一つが、
書かれる価値を持っていました。

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太宰治に搦む中也by檀一雄

030h
中也の歩行は、
たいていの場合、酒場で終着し、
たいていの場合、一騒ぎありました。

中原中也と交流のあった
多くの文学者、創作家がその一騒ぎについて書いています。

檀一雄の「小説 太宰治」から引用します。

――――寒い日だった。中原中也と草野心平氏が、私の家にやって来て、ちょうど、居合わせた太宰と、四人で連れ立って、「おかめ」に出掛けていった。初めのうちは、太宰と中原は、いかにも睦まじ気に話し合っていたが、酔が廻るにつれて、例の凄絶な、中原の搦みになり、
「はい」「そうは思わない」などと、太宰はしきりに中原の鋭鋒を、さけていた。しかし、中原を尊敬していただけに、いつのまにかその声は例の、甘くたるんだような響きになる。
「あい。そうかしら?」そんなふうに聞こえてくる。
「何だ、おめえは。青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって。全体、おめえは何の花が好きだい?」
 太宰は閉口して、泣き出しそうな顔だった。
「ええ? 何だいおめえの好きな花は」
 まるで断崖から飛び降りるような思いつめた表情で、しかし甘ったるい、今にも泣き出しそうな声で、とぎれとぎれに太宰は云った。
「モ、モ、ノ、ハ、ナ」云い終って、例の愛情、不信、含羞、拒絶何とも云えないような、くしゃくしゃな悲しいうす笑いを泛べながら、しばらくじっと、中原の顔をみつめていた。
「チェッ、だからおめえは」と中原の声が、肝にふるえる顫うようだった。
 そのあとの乱闘は、一体、誰が誰と組み合ったのか、その発端のいきさつが、全くわからない。
 少なくとも私は、太宰の救援に立って、中原の抑制に努めただろう。気がついてみると、私は草野心平氏の蓬髪を握って?みあっていた。それから、ドウと倒れた。
「おかめ」のガラス戸が、粉微塵に四散したの事を覚えている。いつの間にか太宰の姿は見えなかった。私は「おかめ」から少し手前の路地の中で、大きな丸太を一本、手に持っていて、かまえていた。中原と心平氏が、やってきたなら、一撃の下に脳天を割る。
 その時の、自分の心の平衡の状態は、今どう考えても納得はゆかないが、しかし、その興奮状態だけははっきりと覚えている。不思議だ。あんな時期がある。
 幸いにして、中原も心平氏も、別な通りに抜けて帰ったようだった。古谷綱武夫妻が、驚いてなだめながら私のその丸太を奪い取った。すると、古谷夫妻も一緒に飲んでいたはずだったが、酒場の情景の中には、どうしても思い起こせない。
(檀一雄「小説太宰治」岩波現代文庫より)

それにしても
青鯖が空に浮かんだような顔しやがって
には笑えますね。

中也はきっと
書かれた言葉の魅力に劣らない
喋り言葉の迫力をもっていたのでありましょう
機関銃のように飛び出す
言葉。

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