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カテゴリー「058中原中也の同時代」の記事

2015年2月 5日 (木)

茨木のり子の「ですます調」その5・光太郎の「山羊の歌」続

(前回からつづく)

 

高村智恵子が亡くなったのは

昭和13年(1938年)の秋、10月5日でした。

 

中也の死はその前年(昭和12年10月22日)ですから、

およそ1年後になります。

 

智恵子と中也の死の間に何の関係もありませんが

昭和9年末の「山羊の歌」の発行で

光太郎が装の仕事を通じて中也に協力していたころ

光太郎の妻である智恵子の病状は悪化の傾向にあり

中也はおそらく光太郎の苦悩を知っていたはずなのですから

その頃を回想する光太郎の脳裡には

交互に二人の思い出が現れて不思議ではありません。

 

 

昭和14年に光太郎が書いた中也追悼文の中で

「山羊の歌」の装を引き受けたことを

「前からの約束事のよう」と記したのは

そうした、何やら運命的な出会いを含ませたものと読むこともできるでしょう。

 

中也の思い出が

智恵子への思い出に連なっていったのです!

 

 

中也と光太郎は

詩誌「歴程」の同人でした。

 

光太郎が第1詩集「道程」の改訂版を出すのは昭和15年(1940年)、

「智恵子抄」は翌16年に出します。

 

 

中原中也の日記に

高村光太郎に関しての記述は2か所あり

一つは昭和2年2月の読書欄に、

 

ロダンの言葉 高村光太郎訳、

リリュリ ロマン・ロラン。高村光太郎訳

――とメモ、

 

もう一つは昭和11年10月8日付けで、

 

草野に誘われて高村氏訪問。そこへ尾崎喜八現れ4人で葛飾区柴又にゆく。

尾崎という男はチョコチョコする男。草野は又妙な奴。甚だ面白くなかった。

 

――とあるものです。

 

 

前者は、読書記録に過ぎませんが

昭和2年に翻訳者としての光太郎を

中也が少なくとも知っていたことを示すものです。


なぜこの書物を中也が読むことになったか

その経緯の中に光太郎との接点があった可能性を示唆するものです。

 

翻訳者としての光太郎である以上に

光太郎との面識を得るきっかけの一つであったかもしれないのです。

 

そうであるなら

昭和2年の時点で

二人の交友のはじまりを告げるものになります。

 

すくなくとも交友の兆しです。

 

 

後者は

実際に会ったときのことを書いた日記ですが

光太郎へのコメントはなにもありません。

 

草創期の「歴程」の集まり(単なる遊びだったのか)に誘われた中也は

仲間うち特有の溜め口や馴れ合いをよく思わず

日記にそれを吐露(とろ)したのでしょう。

 

しかし、光太郎を「氏」付きで記述したのは

畏敬の気持ちがあったからにほかなりません。

 

 

4人そろって

いったい何をしに葛飾・柴又へ行ったのかが

大いに気になるところです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。


 

「智恵子抄」から

昭和10年作の「風にのる智恵子」

12年の作「千鳥と遊ぶ智恵子」を読んでおきます。

 

 

風にのる智恵子


狂った智恵子は口をきかない
ただ尾長や千鳥と相図する
防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴の風に九十九里の浜はけむる
智恵子の浴衣が松にかくれ又あらわれ
白い砂には松露がある
わたしは松露をひろいながら
ゆっくり智恵子のあとをおう
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ

 


千鳥と遊ぶ智恵子


人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわって智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾あとをつけて
千鳥が智恵子に寄って来る。
口の中でいつでも何か言ってる智恵子が
両手をあげてよびかえす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。

 

(新潮文庫「高村光太郎詩集」より。新かな・新漢字に変えてあります。編者。)

 

 

 

2015年2月 2日 (月)

茨木のり子の「ですます調」その4・光太郎の「山羊の歌」

(前回からつづく)

 

中原中也の第1詩集「山羊の歌」は

難産のすえ昭和9年(1934年)に発行されましたが

その装幀を高村光太郎が手がけたことは有名です。

 

青山二郎が頼まれていた仕事でしたが

難航していた出版交渉がこの年末にバタバタとまとまって

文圃堂から発行されることが決ったときに

青山は旅行に出ていたため

急遽、光太郎が担当することになったのです。

 

光太郎はいわばピンチヒッターでしたが

堂々とした感じの本が出来あがりました。

 

 

「新編中原中也全集」第1巻 詩Ⅰ・解題篇に

「山羊の歌」の詳細な「詩集解題」があり

書誌、奥付、造本、構成と配列順序

――のデータが記録されています。

 

「書誌」の項で、装幀 高村光太郎、発行者 野々上慶一、

「造本」の項には、四六倍判、箱入り上製本、

「箱」は貼箱、

――などとあり、

 

「表紙」は、丸背厚表紙。赤口局紙(黄色)。背文字は詩集名、著者名とも純金箔押し。

平の文字は詩集名を墨刷、著者名を朱刷。

「本文」は、総頁152頁、用紙は英国製厚口コットン紙(薄鼠色)。

――などと案内されています。

 

これらデータを見るだけで

豪華でもなく

質素でもなく

瀟洒(しょうしゃ)といった感じの本がイメージできます。

 

瀟洒といっても

絵画的なもの(ビジュアル)を排して

中味を内部から湧き出させることを狙った外観(体裁)が目論(もくろ)まれた感じです。

 

 

こうしたイメージは

中原中也自らが望んだものであり

その意向を光太郎が汲んで制作したものであるらしく

二人の芸術家の交感の跡がそれとなく伝わってきます。

 

両者の間にどのような会話が交わされたのでしょうか?

 

そのことを想像するだけで

ワクワクしてきます。

 

 

この時(昭和9年末)、

高村光太郎52歳、

中原中也27歳。

 

光太郎は、療養中の妻・智恵子の看病に心血を注ぎ

中也は、第1子誕生を生地・山口にひかえていました。

 

 

この時のことは

「山羊の歌」の出版社であった文圃堂社主・野々上慶一の回想や

青山二郎の残した著作の中などに散見されますが

制作当事者である光太郎が

中也追悼文の中で触れているのは貴重な証言ですから

その部分だけを読んでおきましょう。

 

追悼文は「夭折を惜しむ」という題で

昭和14年4月10日発行の「歴程」同年4月号に掲載されたもので、

 

中原中也君の思いがけない夭折を実になごり惜しく思う。

私としては又たのもしい知己の一人を失ったわけだ。

 

――とはじまる短い文です。

 

中原君とは生前数える程しか会っていず、その多くはあわただしい酒席の間であって、

しみじみ二人で話し交した事もなかったがその談笑のうちにも不思議に心は触れ合った。

 

中原君が突然「山羊の歌」の装をしてくれと申し入れて来た時も、

何だか約束事のような感じがして安心して引きうけた。


(「新編中原中也全集」別巻(下)資料・研究篇より。)

 

 

これは書き出しの部分で

背後には草野心平や青山二郎らとの繋がりがあったようですが

「約束事のような」という表現には

光太郎の人を射抜くような眼差しがあります。

 

人を見るのに射抜くような眼差しがあります。

 

中也がこの申し入れをしたときは初対面だったのではなく

どこかで、それもどこかの酒席で会っていたことがあって

互いにその中で共感するものを感じ取っていた、というようなことだったのでしょう、きっと。

 

 

途中ですが

今回はここまで。



「智恵子抄」から大正15年の作「夜の二人」を読んでおきましょう。

 

 

夜の二人


私達の最後が餓死であろうという予言は、
しとしとと雪の上に降る霙まじりの夜の雨の言った事です。
智恵子は人並はづれた覚悟のよい女だけれど
まだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持っています。
私達はすっかり黙ってもう一度雨をきこうと耳をすましました。
少し風が出たと見えて薔薇の枝が窓硝子に爪を立てます。

 

(新潮文庫「高村光太郎詩集」より。新かな・新漢字に変えてあります。編者。)

 

 

 

 

 

 

2011年2月 8日 (火)

諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて<続3>

河上徹太郎の紹介状をもって、東京・中野の諸井三郎の住まいを訪れた詩人・中原中也の初対面のシーン。諸井は、先ほど街ですれ違った青年が、中原中也であることを認識しました。二人の初対面の直後、中也はすでに「炭屋の二階」に引っ越しています。

角川書店版中原中也全集の旧版(旧全集)付録「月報Ⅰ」に、諸井三郎が書いた「『スルヤ』の頃の中原中也」からの引用・紹介を続けます。

(以下引用)

この日から、約半年間、中也は毎日私の家に来ていた。彼は、大通りをへだてた私の家と反対の側の炭屋の二階に住んでいたが、毎日夕方になると私の家にあらわれる。そして、まず煉炭ストーブの用意をし、それから芸術の話をする。夕食をいっしょにしてから、たいてい夜中の二時頃まで語り合い、そして帰っていくのだった。半年間は、これが彼の日課だったわけで、今か考えると、よく話すことがあったものだと思う。

最初に訪ねてきた次の日、中也は厖大な原稿紙に書きつけた、彼の詩を私の机の上にドサリとおき、「作曲してくれ」といった。今彼の有名な詩としてたくさんの人から高く評価されている詩の多くのものが、そのなかにあったわけだ。私はたんねんに何日もかかってその詩を読んだ。そして、中也がきわめて独創的な、稀な才能を持った詩人であることを知った。しかし、作曲出来るようなものは必ずしも多くはなく、それを選び出すことが、ひとつの苦労だった。

こうして、私はまず、彼の「朝の歌」と「臨終」とを取り上げて作曲した。この二曲は「スルヤ」の音楽会で演奏されたのである。チェロのオブリガートのついたこの二つの歌曲を聞くと、今でもその当時のふんいきが、ありありと思い出される。

(適宜、改行、1行空きを加えてあります。編者)

(この項つづく)

2008年12月15日 (月)

中原中也の同時代人/吉田秀和2

吉田秀和が、
中也とのなれそめを記している
「中原中也のこと」
(講談社文芸文庫「ソロモンの歌/一本の木」所収)から、
以下、引用を続けると、

二回目の日曜は、しかし、夕食ですよと呼ばれて、私が下の茶の間におりてゆくと、この規則正しい訪問者(中原は、人を訪ねるのを日課みたいにしてる男だったが、このころは日曜というと、阿部さんのところに、まるで学校にでも出るように、きちんとやってくるのだった)もすでに座っていて、いっしょに食事をした。

背が低く、角ばった顔。ことに顎が小さいのが目についた。色白の皮膚には、ニキビの跡の凸凹がたくさんあったが、そのくせ脂っこいどころか、妙にカサカサして艶がわるかった。ぎょろっとした目は黒くて、よく光った。

私はそれをみんな一目でみたわけではない。これは、その後の印象のいくつかを足したものだ。初対面では、むしろ、低いが優しい口のきき方と、私のいうことを、そのまま正直に、まっすぐうけとろうという態度が印象的だった。
(*改行を加えてあります。編者)

と、二人が、
2回目に会った時のことが書かれています。

このときは、起居している隣の部屋から声を聞いただけでなく、
中也と一緒に食事に呼ばれているのだから、
初めて顔を合わせて、言葉も交わしたのでしょう。
しかし、

中原が、その晩どんなことを話したか、それを具体的にいうことは、とても私の手にはおえない。

と、吉田は記します。
そう記す意味には、
さまざまなことが込められているようで、
推測する以外にありません。

ただ、ほかのところで、

私は、たしかに中原に会ったことがあるにはちがいないが、本当に彼を見、彼の言葉をきいていただろうか? こういう魂とその肉体については、小林秀雄のような天才だけが正確に思い出せ、大岡昇平のような無類の散文家だけが記録できるのである。私には、死んだ中原の歌う声しかきこえやしない。

と、書いているのには、大いに耳を傾けておきたいものです。

吉田のような、超一流の音楽評論家ではなく、
素朴な読者でしかない「われわれ」は、
小林秀雄のようにでもなく、
大岡昇平のようにでもなく、
詩人の歌う歌をきくことができればOKなのですが、
それが、なかなか、容易ではないのです。
学問しても
詩を読めるわけでもありませんし……。

このとき以来の二人の交流は、
次第に頻繁になり、
そして、
次第に疎遠になっていきはするものの、
中也が鎌倉で死去するまで、
続けられました。

中也の肉声を聞き、
談論し、酒を酌み交わしたことのある
数少ない同時代人の健在に
心おきない拍手!
そして、乾杯です。

中原中也の同時代人/吉田秀和

加藤周一が1919年(大正8年)生まれで、
中原中也の同時代人と言い得るのは、
生年が近いというだけでないことは、
言うまでもないことでしょう。

簡単に言えば、同じ時代に生きていたのですが
同じ時代とは、一口に言って、
昭和初期に青春だった、
昭和初期に青春を過ごした、
ということでしょうか。
大正から昭和初期といったほうが近いかもしれません。

ということで
すぐさま思い出す人が、
1913年(大正2年)生まれの吉田秀和です。
こちらは、
中也の5歳下ということになります。

「白痴群」の同人だった阿部六郎が、
成城高校で教師をしていたとき、
吉田秀和はその生徒でした。
先生と生徒という関係だったのですが、
吉田は、阿部が下宿していた同じ家に
間借りしたのです。

阿部の部屋へ
しょっちゅう足を運んだ中也と吉田は、
こうして、必然的に、出会うことになります。

その吉田秀和が、
中也とのなれそめを記している一つが
「中原中也のこと」で、
講談社文芸文庫「ソロモンの歌/一本の木」で読めます。
以下、引用すると、

移ってつぎの日曜の午後、隣りに人がきて、夜になるまで話し声がしていた。その声は少し嗄れて低かった。ひとしきりしゃべったあとで、二人は出ていった。つぎの日曜にも同じ人がきた。話し声は、もっぱら訪問者のそれで、阿部さんの声はほとんどきこえない。これは、別に不思議でも何でもない。

阿部先生ときたら、われわれがお邪魔して、夕方から夜おそくまでねばりにねばって青くさい議論をしていても、まるで黙りこくったまま、バットばかり立てつづけにふかしていたものだ。机に横向きにかえた椅子の上に座蒲団をしいて(張った布が切れてマットが顔を出してしまったからである)、その上に正座したなり、こちらの話しをきいているのか、きいていないのか。とにかく私は、一生、あんなに相手にしゃべらせ放しにしゃべらせる人に、二度と会ったことがない。

私の友人は「あの人は海綿みたいに何でも吸いとってしまう」といっていたが、何も吸いとられるほどのこともいえない私に対しても、こうだった。ただ、あの人の前だと、やたらと話しがしたくなり、しかも、ふだんはっきり考えてたわけでもない考えが、急に形をとって出てくるのだ。そんな私が何をいっても、先生は反駁も何もしない。ただときどき、前歯のかけた口をあけて、くすぐったそうに笑ったっけ。
(*改行を加えてあります。編者)

と、中也は、はじめ、「隣りにきた人」として登場します。

(この稿つづく)

2008年12月12日 (金)

加藤周一/中也の同時代人

「大知識人の微笑とまなざし 加藤周一さんのこと」
と題して、大江健三郞が、
朝日新聞12月7日朝刊文化面で追悼する中に、
中原中也がいました。

 

加藤周一の大知識人ぶりを実証・賞揚する
いくつかのエピソードの一つに、
大江健三郞がベルリン自由大学で、
加藤の「日本文学史序説」に関して、
3人の国籍の異なる学生相手に
課外授業を行ったときに、
同書の最終章「工業化の時代」を読んだことにふれ、
そこで言われていることを要約し紹介するくだりで、

 

 宮沢賢治、中原中也、渡辺一夫、林達夫、石川淳、小林秀雄。著者がほぼ同時代に生きることのあったこれら文学者たちへの、批判もこめられて情熱的な論述の、波状攻撃のような繰り返しが結びにいたる。

 

と記し、つづけて、
「九条の会」へ言い及んでいきます。
ここでは、その本題には深入りしません。

 

「日本文学史序説」を読んだ
ベルリン自由大学での経験を
大江は、新聞の行数で26行にまとめ、
同書から7行を引用しています。

 

中也は、大江のまとめの中に出てきます。
宮沢賢治、渡辺一夫、林達夫、石川淳、小林秀雄の
6人と肩を並べています。
そのように、加藤が評価していた、
ということがわかります。

 

中也論を書いた加藤周一は、
中村真一郎、福永武彦とともに
「マチネー・ポエチック」を起こして
「詩」に発言した人ですし、
はじめは詩を書いていました。

 

1919年生まれですから、
12歳ほど中也より年下です。
大江健三郞が言うように
中原中也と加藤周一は、
「ほぼ同時代に生きることのあった文学者」
の一人であったことは確かなことです。

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