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中原中也を歌う(曲と歌:桜木うさこさん)

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カテゴリー「中原中也の同時代」の記事

2015年2月 5日 (木)

茨木のり子の「ですます調」その5・光太郎の「山羊の歌」続

(前回からつづく)

 

高村智恵子が亡くなったのは

昭和13年(1938年)の秋、10月5日でした。

 

中也の死はその前年(昭和12年10月22日)ですから、

およそ1年後になります。

 

智恵子と中也の死の間に何の関係もありませんが

昭和9年末の「山羊の歌」の発行で

光太郎が装の仕事を通じて中也に協力していたころ

光太郎の妻である智恵子の病状は悪化の傾向にあり

中也はおそらく光太郎の苦悩を知っていたはずなのですから

その頃を回想する光太郎の脳裡には

交互に二人の思い出が現れて不思議ではありません。

 

 

昭和14年に光太郎が書いた中也追悼文の中で

「山羊の歌」の装を引き受けたことを

「前からの約束事のよう」と記したのは

そうした、何やら運命的な出会いを含ませたものと読むこともできるでしょう。

 

中也の思い出が

智恵子への思い出に連なっていったのです!

 

 

中也と光太郎は

詩誌「歴程」の同人でした。

 

光太郎が第1詩集「道程」の改訂版を出すのは昭和15年(1940年)、

「智恵子抄」は翌16年に出します。

 

 

中原中也の日記に

高村光太郎に関しての記述は2か所あり

一つは昭和2年2月の読書欄に、

 

ロダンの言葉 高村光太郎訳、

リリュリ ロマン・ロラン。高村光太郎訳

――とメモ、

 

もう一つは昭和11年10月8日付けで、

 

草野に誘われて高村氏訪問。そこへ尾崎喜八現れ4人で葛飾区柴又にゆく。

尾崎という男はチョコチョコする男。草野は又妙な奴。甚だ面白くなかった。

 

――とあるものです。

 

 

前者は、読書記録に過ぎませんが

昭和2年に翻訳者としての光太郎を

中也が少なくとも知っていたことを示すものです。


なぜこの書物を中也が読むことになったか

その経緯の中に光太郎との接点があった可能性を示唆するものです。

 

翻訳者としての光太郎である以上に

光太郎との面識を得るきっかけの一つであったかもしれないのです。

 

そうであるなら

昭和2年の時点で

二人の交友のはじまりを告げるものになります。

 

すくなくとも交友の兆しです。

 

 

後者は

実際に会ったときのことを書いた日記ですが

光太郎へのコメントはなにもありません。

 

草創期の「歴程」の集まり(単なる遊びだったのか)に誘われた中也は

仲間うち特有の溜め口や馴れ合いをよく思わず

日記にそれを吐露(とろ)したのでしょう。

 

しかし、光太郎を「氏」付きで記述したのは

畏敬の気持ちがあったからにほかなりません。

 

 

4人そろって

いったい何をしに葛飾・柴又へ行ったのかが

大いに気になるところです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。


 

「智恵子抄」から

昭和10年作の「風にのる智恵子」

12年の作「千鳥と遊ぶ智恵子」を読んでおきます。

 

 

風にのる智恵子


狂った智恵子は口をきかない
ただ尾長や千鳥と相図する
防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴の風に九十九里の浜はけむる
智恵子の浴衣が松にかくれ又あらわれ
白い砂には松露がある
わたしは松露をひろいながら
ゆっくり智恵子のあとをおう
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ

 


千鳥と遊ぶ智恵子


人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわって智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾あとをつけて
千鳥が智恵子に寄って来る。
口の中でいつでも何か言ってる智恵子が
両手をあげてよびかえす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。

 

(新潮文庫「高村光太郎詩集」より。新かな・新漢字に変えてあります。編者。)

 

 

 

2015年2月 2日 (月)

茨木のり子の「ですます調」その4・光太郎の「山羊の歌」

(前回からつづく)

 

中原中也の第1詩集「山羊の歌」は

難産のすえ昭和9年(1934年)に発行されましたが

その装幀を高村光太郎が手がけたことは有名です。

 

青山二郎が頼まれていた仕事でしたが

難航していた出版交渉がこの年末にバタバタとまとまって

文圃堂から発行されることが決ったときに

青山は旅行に出ていたため

急遽、光太郎が担当することになったのです。

 

光太郎はいわばピンチヒッターでしたが

堂々とした感じの本が出来あがりました。

 

 

「新編中原中也全集」第1巻 詩Ⅰ・解題篇に

「山羊の歌」の詳細な「詩集解題」があり

書誌、奥付、造本、構成と配列順序

――のデータが記録されています。

 

「書誌」の項で、装幀 高村光太郎、発行者 野々上慶一、

「造本」の項には、四六倍判、箱入り上製本、

「箱」は貼箱、

――などとあり、

 

「表紙」は、丸背厚表紙。赤口局紙(黄色)。背文字は詩集名、著者名とも純金箔押し。

平の文字は詩集名を墨刷、著者名を朱刷。

「本文」は、総頁152頁、用紙は英国製厚口コットン紙(薄鼠色)。

――などと案内されています。

 

これらデータを見るだけで

豪華でもなく

質素でもなく

瀟洒(しょうしゃ)といった感じの本がイメージできます。

 

瀟洒といっても

絵画的なもの(ビジュアル)を排して

中味を内部から湧き出させることを狙った外観(体裁)が目論(もくろ)まれた感じです。

 

 

こうしたイメージは

中原中也自らが望んだものであり

その意向を光太郎が汲んで制作したものであるらしく

二人の芸術家の交感の跡がそれとなく伝わってきます。

 

両者の間にどのような会話が交わされたのでしょうか?

 

そのことを想像するだけで

ワクワクしてきます。

 

 

この時(昭和9年末)、

高村光太郎52歳、

中原中也27歳。

 

光太郎は、療養中の妻・智恵子の看病に心血を注ぎ

中也は、第1子誕生を生地・山口にひかえていました。

 

 

この時のことは

「山羊の歌」の出版社であった文圃堂社主・野々上慶一の回想や

青山二郎の残した著作の中などに散見されますが

制作当事者である光太郎が

中也追悼文の中で触れているのは貴重な証言ですから

その部分だけを読んでおきましょう。

 

追悼文は「夭折を惜しむ」という題で

昭和14年4月10日発行の「歴程」同年4月号に掲載されたもので、

 

中原中也君の思いがけない夭折を実になごり惜しく思う。

私としては又たのもしい知己の一人を失ったわけだ。

 

――とはじまる短い文です。

 

中原君とは生前数える程しか会っていず、その多くはあわただしい酒席の間であって、

しみじみ二人で話し交した事もなかったがその談笑のうちにも不思議に心は触れ合った。

 

中原君が突然「山羊の歌」の装をしてくれと申し入れて来た時も、

何だか約束事のような感じがして安心して引きうけた。


(「新編中原中也全集」別巻(下)資料・研究篇より。)

 

 

これは書き出しの部分で

背後には草野心平や青山二郎らとの繋がりがあったようですが

「約束事のような」という表現には

光太郎の人を射抜くような眼差しがあります。

 

人を見るのに射抜くような眼差しがあります。

 

中也がこの申し入れをしたときは初対面だったのではなく

どこかで、それもどこかの酒席で会っていたことがあって

互いにその中で共感するものを感じ取っていた、というようなことだったのでしょう、きっと。

 

 

途中ですが

今回はここまで。



「智恵子抄」から大正15年の作「夜の二人」を読んでおきましょう。

 

 

夜の二人


私達の最後が餓死であろうという予言は、
しとしとと雪の上に降る霙まじりの夜の雨の言った事です。
智恵子は人並はづれた覚悟のよい女だけれど
まだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持っています。
私達はすっかり黙ってもう一度雨をきこうと耳をすましました。
少し風が出たと見えて薔薇の枝が窓硝子に爪を立てます。

 

(新潮文庫「高村光太郎詩集」より。新かな・新漢字に変えてあります。編者。)

 

 

 

 

 

 

2014年8月22日 (金)

憤激に満ちた故郷憧憬詩/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

萩原朔太郎が「純情小曲集」の自序で書いたことは
二つあります。

一つは「愛憐詩篇」についてで
もう一つは「郷土望景詩」についてです。

「愛憐詩篇」については
やさしい純情にみちた過去の日を記念するために、この葉っぱのような詩集を出すことにした
――と書き、
この詩集を世に出すのは、改めてその鑑賞的評価を問うためではなく、まったく私自身への過去を追憶したいためである
――と重ねてこれらの詩篇はすでに過去の産物であることを強調しています。

ここに謙遜があったとしても
「郷土望景詩」との違いを打ち消すものではありません。

「郷土望景詩」に関しては、
私のながく住んでいる田舎の小都邑と、その付近の風物を咏じ、あわせて私自身の主観をうたひこんだ。

この詩風に文語体を試みたのは、いささか心に激するところがあって、語調の烈しきを欲したのと、一にはそれが、詠嘆的の純情詩であったからである。

ともあれこの詩篇の内容とスタイルとは、私にしては分離できない事情である。

――と「文語」を使った理由を記しますが
詩内容への掘り下げた自己評価へ発展することはなく
むしろ敢えてそれは避けられているように見受けられます。

そしてまた最後に、
この詩集は、詩集である以外に、私の過去の生活記念でもある故に、
――と過去のものであることが繰り返して述べられるのです。

ここで幾つか読んでみましょう。
「新かな・新漢字」にして読みやすくしたものです。

小出新道

ここに道路の新開せるは
直(ちょく)として市街に通ずるならん。
われこの新道の交路に立てど
さびしき四方(よも)の地平をきわめず
暗鬱なる日かな
天日家竝の軒に低くして
林の雜木まばらに伐られたり。
いかんぞ いかんぞ思惟をかえさん
われの叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。



新前橋駅

野に新しき停車場は建てられたり
便所の扉(とびら)風にふかれ
ペンキの匂い草いきれの中に強しや。
烈烈たる日かな
われこの停車場に来りて口の渇きにたえず
いずこに氷を喰(は)まむとして売る店を見ず
ぼうぼうたる麦の遠きに連なりながれたり。
いかなればわれの望めるものはあらざるか
憂愁の暦は酢え
心はげしき苦痛にたえずして旅に出でんとす。
ああこの古びたる鞄をさげてよろめけども
われは痩犬のごとくして憫れむ人もあらじや。
いま日は構外の野景に高く
農夫らの鋤に蒲公英の茎は刈られ倒されたり。
われひとり寂しき歩廊(ほーむ)の上に立てば
ああはるかなる所よりして
かの海のごとく轟ろき 感情の軋(きし)りつつ来るを知れり。



公園の椅子

人気なき公園の椅子にもたれて
われの思うことはきょうもまた烈しきなり。
いかなれば故郷(こきょう)のひとのわれに辛(つら)く
かなしきすももの核(たね)を噛まむとするぞ。
遠き越後の山に雪の光りて
麦もまたひとの怒りにふるえおののくか。
われを嘲けりわらう声は野山にみち
苦しみの叫びは心臓を破裂せり。
かくばかり
つれなきものへの執着をされ。
ああ生れたる故郷の土(つち)を踏み去れよ。
われは指にするどく研(と)げるナイフをもち
葉桜のころ
さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり。

これが朔太郎のいう
「いささか心に激するところ」の
「語調の烈しき」
「詠嘆的の純情詩」です。

なんという激越な!
これほど憤激に満ちた故郷憧憬詩は
朔太郎のほかに類例を見つけることは困難です。

犀星の序にしても
「郷土望景詩」の激情(その現代性)に一言も触れていません。

「郷土望景詩」は
2014年現在という「時代の眼差し」で見れば(見ても)
「月に吠える」よりも優れた詩集であるかもしれないのにもかかわらず。

どうも朔太郎の評価は
好悪を含めて
真っ二つに割れる傾向があるようです。

「郷土望景詩」を評価する眼差しは
三好達治を待つほかになかったのでしょうか?

この詩集が世に現われた当時
とりわけ「郷土望景詩」を激賞した芥川龍之介のような読者は
ほかに現われなかったのでしょうか?

詩壇内部にいた詩人たちは
どのように「郷土望景詩」を受容(または拒否)したのでしょうか?

関心がそちらのほうへ傾くのを押さえることができませんが
ここでは三好達治の発言に耳を傾けておきましょう。

さて二つの主著「月に吠える」「青猫」の後に、後者の拾遺に引続く「郷土望景詩」11篇(「純情小曲集」後半、大正14年作)は、その簡潔直截なスタイルと現実的即事実的な取材において、従ってまたその情感のさし逼った具体性において、この詩人の従前の諸作から遥かに埒外に出た、篇什こそ乏しけれ一箇隔絶した詩風を別に鮮明にかかげたものであった。

この独立した一小頂点の標高は、あるいは前二著に卓(ぬき)んでていたかもしれない。しかしながらこの詩風の一時期は、極めて短小な時日の後に終息した。それはそういう性質のものであったから、それが当然でもあったが、その事自身への何か渇きのようなものをさえ持越させはしなかったであろうか。
(略)

(三好達治選「萩原朔太郎詩集」あとがきより。)

このあとがきが書かれたのは
昭和26年11月のことでした。

朔太郎没後10年になろうとしていた時期です。

朔太郎の生前、
詩集「氷島」(昭和9年発行)をめぐって
三好と朔太郎は真っ向から意見を異にしたことは有名です。

今回はここまで。

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2014年8月21日 (木)

遠きにありて思う「郷土」/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

「夜汽車」とともに
「朱欒(ザムボア)」の大正2年5月号に掲載された詩は
みな「抒情小曲集」の「愛憐詩篇」に収められています。

「夜汽車」を含め
「こころ」
「女よ」
「桜」
「旅上」
「金魚」
――の6篇です。

「夜汽車」以外の5篇にも
ここで目を通しておきましょう。

こころ

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。

心というものを何に喩えたらよいのだろう。

心はアジサイの花に似て
また公園の吹き上げ(泉水)に似ているけれど。

二人の旅人みたいなものかなあ。
一人は片言もものをしゃべらず
いつもさびしい二人。

そのどっちもが僕の中にいるよ。



女よ

うすくれなゐにくちびるはいろどられ
粉おしろいのにほひは襟脚に白くつめたし。
女よ
そのごむのごとき乳房をもて
あまりに強くわが胸を圧するなかれ
また魚のごときゆびさきもて
あまりに狡猾にわが背中をばくすぐるなかれ
女よ
ああそのかぐはしき吐息もて
あまりにちかくわが顏をみつむるなかれ
女よ
そのたはむれをやめよ
いつもかくするゆゑに
女よ 汝はかなし。

ゴムのごとき乳房が忘れられなくなる詩ですね。
そしてどこかつくりものめいた肉感があるのは
「月に吠える」への繋がりを思わせますが。

中也の「女へ」への反響はどうでしょうか?





桜のしたに人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも桜の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。

花見花見と
人はなにを騒ぐのだろうか。
僕も桜の木の下に立ってみたけれど
うかれない。
散る花びらに涙がこぼれるだけ。
悲しいものを見ているわけでもないのに。



旅上

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。

フランスへ行きたいと思うけど
フランスはあまりに遠い
せめて新調した背広を着て
旅に出てみよう。

水色の窓辺に寄りかかって
楽しいことを想像していよう。

5月の朝まだき
若草が萌え出るのに心を任せて。

詩人は旅に出ていないのですね。



金魚

金魚のうろこは赤けれども
その目のいろのさびしさ。
さくらの花はさきてほころべども
かくばかり
なげきの淵(ふち)に身をなげすてたる我の悲しさ。

金魚は赤いけど
目はなんと寂しげなんだ。
桜が咲きほころぶ季節になっても
わたしは嘆きの底にあるという悲しさよ。

詩集「純情小曲集」は
「夜汽車」を含むこれら6篇を前半部とし
後半部にさらに12篇を収めて「愛憐詩篇」とします。

この「愛憐詩篇」のほかに
「愛憐詩篇」よりも後で制作された詩群10篇を配置し
「郷土望景詩」と章題をつけました。

朔太郎が
「愛憐詩篇」と「郷土望景詩」を合わせて「純情小曲集」という1冊の詩集にしたのは
大正14年(1925年)のことでした。
生地前橋を離れ上京してからです。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
――と畏友室生犀星が歌ったのに応えるかのように。

「純情小曲集」に寄せた朔太郎の自序には
この詩集への朔太郎自身の思いが込められて
強い響きを放っているようです。

今回はここまで。

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2014年8月20日 (水)

白秋の恋を歌った?「夜汽車」/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

「朱欒」か「未来」か。
どちらかに詩が載ることは詩人として直ちに認められる――。

それほどの権威ある雑誌であるから、いくら投書したって容易に載せられるものではなく、たいてい没書にきまって居る。僕も没書を覚悟で出したが、幸いにして採用され、その上白秋氏から賞讃の御言葉まで頂戴した。(「詩壇に出た頃」)
――という経過で、
朔太郎の詩は白秋主宰の雑誌「朱欒」に発表されました。

その最初の詩が「夜汽車」(はじめは「みちゆき」。後に改題)でした。

夜汽車

有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるき”にす”のにほひも
そこはかとなきはまきたばこの烟さへ
夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科(やましな)は過ぎずや
空氣まくらの口金(くちがね)をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外(そと)をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。

(三好達治選「萩原朔太郎詩集」岩波文庫、1990年11月15日第47刷発行より。傍点は” ”で示しました。編者。)

有明
しののめ
――といった時候の示し方。

みづがねのごとく
――の古風な比喩。(みづがねは、水銀のことでしょう。)

こちたし
――などの古語。(万葉や枕草子、源氏物語にも現われる!)

……など。

一読して文語基調の言葉遣いの中に、
つかれたる電燈
あまたるき”にす”
はまきたばこの烟
空氣まくら
――などに「時代」がにじみ出ていますね。

身にひきつめて嘆くらむ
――の「らむ」は人妻の気持ちを推し量る私(作者)の存在を示しますし
「身にひきつめて」はめずらしい用語で印象に残ります。

「若菜集」が明治のにおいならば
「夜汽車」は大正でしょうか。

それにもまして
中に「人妻」が現われ
タイトルが元は「みちゆき」だったことを知ると
朔太郎は白秋の恋を意識してこの詩を作ったのか
単なる偶然かと問いが生まれてきて
同時に驚きを禁じえません。

事実がどうであったかを知ることは
そんなに大きな問題ではありません。

偶然の一致であったとしても
この詩が歌っている内容を味わうことに影響しません。

おだまきの花は
静御前の故事をも想起させますが
そのような連想も読み手の自由の中にあることでしょう。

一組の男女の道行きを
この詩は男の側から歌っています。

そのことだけで詩ですし
そのほかはエピソードです。

エピソードを知って
詩を読むことも詩の楽しみの一つですが。

出発時、このような詩を
朔太郎は犀星と競うように作りました。

朔太郎の「愛憐詩篇」に、
犀星の「抒情小曲集」や「青き魚を釣る人」に
このような詩はいっぱい収められています。

今回はここまで。
現代表記を参考のために掲げます。

夜汽車

有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みずがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるき”にす”のにおいも
そこはかとなきはまきたばこの烟さえ
夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科(やましな)は過ぎずや
空気まくらの口金(くちがね)をゆるめて
そっと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外(そと)をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きていたるおだまきの花。

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2014年8月19日 (火)

犀星と朔太郎の出発/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

北原白秋が「朱欒」を発刊したのは1911年(明治44年)1月。

1913年(大正2年)6月に終刊になる間に
同年1月号には室生犀星が
同年5月号には萩原朔太郎が
「朱欒」にそれぞれ詩を発表しました。

二人ともこれが文学的出発となります。

犀星、朔太郎が「朱欒」に詩を発表していた頃
白秋は三浦三崎に俊子とともに移り住み
そこへ家業に行き詰った両親や弟ら家族も同居し
あらたに生計を立てるための事業をはじめましたが
まもなく失敗し東京にまた戻っていったというような
あわただしい日々を送っていました。

下獄事件のほとぼりがさめやらない上でのことながら
創作意欲は衰えず
第1歌集「桐の花」、第3詩集「東京景物詩及其他」を江湖に問う旺盛さを保っていました。

ずっと後になってからのこと(昭和9年)ですが
朔太郎は「詩壇に出た頃」という題でこの頃を回想し
「朱欒」へ投稿した経緯を綴っています。

(略)
学校を止してからは、音楽に熱中してギターなどばかり弾いて居たが、側ら小説や詩集などを読み始めた。

当時詩壇には、北原白秋、三木露風の両巨頭を初めとし、川路柳虹、高村光太郎、佐藤春夫、西条八十、富田砕花等の諸氏が名を成して威張って居り、福士幸次郎、山村墓鳥、加藤介春、生田春月等の諸氏も新進の元気で活躍して居た。

しかし当時の僕には、白秋以外の人は全く興味がなく、殆んどだれの詩も読んで居なかった。ただ白秋氏一人だけを愛読して居た。そこで僕の稀れに作る詩は、たいてい「思ひ出」の模倣みたいになってしまった。詩には自信をもつことができなかった。

(詩集「月に吠える」附録より。角川文庫、平成元年6月5日 改版8版発行。)

朔太郎の散文は
もったいぶったところが微塵(みじん)もなく
平明でわかりやすく書かれてあるのは
実は極めて意図的なことであることが伝わってくるような文体ですね。

それでも後には、もっと白秋氏の影響から脱し、多少自信のある詩が書けて来たので、当時白秋氏の出して居た雑誌「ザムボア」に投書した。

この雑誌には、前から室生犀星が詩を書いて居り、殆んど毎号掲載されて居た。白秋氏は室生君を非常に愛して居て、その詩を常に激賞し「現今詩壇の新しき俊才」と言って推薦されて居た。僕もまた室生君の詩が好きで、むしろ白秋氏の詩以上に愛読して居た。

尚この「ザムボア」には、室生君の外に最近死んだ大手拓次君が吉川惣一郎のペンネームで詩を書いて居た。
(略)

当時の詩壇では、この白秋氏の「ザムボア」と三木露風氏の「未来」とが並行する権威であって、1度この両雑誌に作を載せれば、直ちに詩人として認められるほどの権威を持って居た。

「白露時代」といわれるほど
北原白秋の名声は高まっていました。

俊子との恋がスキャンダルとして扱われるのを
吹き飛ばすかのように
白秋は「桐の花」に自己(内面)を曝(さら)け出しました。

詩の道、歌の道への
揺るぎない信念がそうさせたからでしょう。

「詩壇に出た頃」は続いて
朔太郎が「朱欒」に発表した詩について自己紹介しています。

「愛憐詩篇」の冒頭詩であるこの「夜汽車」を読んでみましょう。

夜汽車

有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるき”にす”のにほひも
そこはかとなきはまきたばこの烟さへ
夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科(やましな)は過ぎずや
空氣まくらの口金(くちがね)をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外(そと)をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。

(三好達治選「萩原朔太郎詩集」岩波文庫、1990年11月15日第47刷発行より。原詩の傍点は” ”で示しました。編者。)

今回はここまで。

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2014年8月18日 (月)

「桐の花」に刻まれた傷跡/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

白秋が出した歌集のうち
「桐の花」の巻末「哀傷篇」
「雲母集」
「雀の卵」の前半部
――に俊子と暮らした日々の感慨(苦悩や歓びや悲しみ)は歌われています。

新潮文庫版「北原白秋歌集」(北原隆太郎・木俣修編、昭和27年発行、昭和48年25刷)の
「桐の花」「哀傷篇」にざっと目を通しておきましょう。

この文庫版歌集は
白秋が刊行した全11冊の単刊歌集(総歌数8033首)から
1530首(約2割弱)が編者によって抄出されたもので
見出しの体裁なども
原本と異なるところがあります。

原本となった歌集は、
桐の花
雲母集
雀の卵
風隠集
海阪
白南風
夢殿
渓流唱

黒檜
牡丹の木
――の11冊です。

哀傷篇

Ⅰ 哀傷篇序歌

ひとすぢの香(かう)の煙のふたいろにうちなびきつつなげくわが恋

哀(かな)しくも君に思はれこの惜しくきよきいのちを投げやりにする

君と見て一期(いちご)の別れする時もダリヤは紅(あか)しダリヤは紅し

君がため一期(いちご)の迷ひする時は身のゆき暮れて飛ぶここちする

哀(かな)しければ君をこよなく打擲(ちやうちやく)すあまりにダリヤ紅(あか)くくるしき

紅(くれなゐ)の天竺牡丹ぢつと見て懐妊(みごも)りたりと泣きてけらずや

身の上の一大事とはなりにけり紅(あか)きダリヤよ紅きダリヤよ

Ⅱ 哀傷篇

     悲しき日苦しき日七月六日

鳴きほれて逃ぐるすべさへ知らぬ鳥その鳥のごと捕へられにけり

かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち馬車の軋(きし)みてゆく礫道(こいしみち)

     馬車霞が関を過ぐ

大空に円き日輪血のごとし禍(まが)つ監獄(ひとや)にわれ堕(お)ちてゆく

まざまざとこの黒馬車のかたすみに身を伏せて君の泣けるならずや

     向ふ通るは清十郎ぢやないか笠がよう似た菅笠が

夏祭わつしよわつしよとかつぎゆく街(まち)の神輿(みこし)が遠くきこゆる

うれしや監獄にも花はありけり草の中にも赤くちひさく

しみじみと涙して入る君とわれ監獄(ひとや)の庭の爪紅(つまぐれ)の花

     女はとく庭に下りて顫へゐたり、数珠つなぎの男らはその後より、ひとりひとりに踉けつつ匍ひいでて紅
     き爪紅のそばにうち顫へゐたり、われ最後に飛び下りんと身構へて、ふとをかしくなりぬ、帯に縄かけら
     れたれば前の奴のお尻がわが身体を強く曳く、面白きかな、悲しみ極まれるわが心、この時ふいと戯け
     てやつこらさのさといふ気になりぬ

やつこらさと飛んで下(お)りれば吾妹子(わがもこ)がいぢらしやじつと此方(こち)向いて居り

     同じく

編笠をすこしかたむけよき君はなほ紅(あか)き花に見入るなりけり

     監房の第一夜

この心いよよはだかとなりにけり涙ながるる涙ながるる

罪びとは罪びとゆゑになほいとしかなしいぢらしあきらめられず

どん底の底の監獄(ひとや)にさしきたる天(あま)つ光に身は濡れにけり

夕されば火のつくごとく君恋し命いとほしあきらめられず

     夕暮より夜にかけて

曇り日の桐の梢に飛び来り蜩(かなかな)鳴けば人の恋しき

市ケ谷の逢魔(あふま)が時となりにけりあかんぼの泣く梟の啼く

梟はいまか眼玉(めだま)を開くらむごろすけほうほうごろすけほうほう

     裁判の日、七月十六日

一列(ひとつら)に手錠はめられ十二人涙ながせば鳩ぽつぽ飛ぶ

鳩よ鳩よをかしからずや囚人(めしうど)の「三八七(さんはちしち)」が涙ながせる

     許されたり許されたり

監獄(ひとや)いでぬ重き木蓋(きぶた)をはねのけて林檎函よりをどるここちに

監獄(ひとや)いでてじつと顫へて噛む林檎林檎さくさく身に染(し)みわたる

Ⅲ 続哀傷篇

空見ると強く大きく見はりたるわが円(つぶ)ら眼に涙たまるも

烏羽玉の黒きダリヤにあまつさへ日の照りそそぐ日の照りそそぐ

やはらかにローオンテニスの球(たま)光る公園に来てけふもおもへる

     冬来る

十一月は冬の初めてきたるとき故国(くに)の朱欒(ザボン)の黄にみのるとき

喨々とひとすぢの水吹きいでたり冬の日比谷の鶴のくちばし

Ⅳ 哀傷終篇

かなしみに顫へ新たにはぢけちるわれはキヤベツの球(たま)ならなくに

     思ひ出のひとつふたつ

代々木の青(あを)檞(かし)がもとに飛びありく白栗鼠(しろりす)のごとく二人(ふたり)抱きし

春くれば白く小(ちひ)さき足の指かはゆしと君を抱きけるかな

     夜ふけて

”ぐろきしにあ”つかみつぶせばしみじみとから紅(くれなゐ)のいのち忍ばゆ

時計の針Ⅰ(いち)とⅠとに来(きた)るときするどく君をおもひつめにき

     母の云ふには

どれどれ春の支度にかかりませう紅(あか)い椿が咲いたぞなもし

     ひもじきかなひもじきかなわが心はいたしいたしするどにさみし

吾が心よ夕さりくれば蝋燭に火の點(つ)くごとしひもじかりけり

「桐の花」中の「哀傷篇」では
下獄前後を歌っていることがわかります。

新潮文庫版歌集が編纂されたとき
まだ「北原白秋全歌集」(岩波書店)は存在していなかったはずですから
初出の東雲堂書店版(1913年・大正2年1月25日発行)を原本としたのでしょう。

同文庫巻末の解説(木俣修)には
各歌集の抄出数が記録されています。

「桐の花」は原歌集歌数449首、抄出歌数182首とあります。

「桐の花」「哀傷篇」からは
2割弱の抄出どころではなく
4割近くが選ばれてある計算です。

この数に驚かされますが
事件の白秋に及ぼした傷跡の大きさを物語る以外のものではありません。

松下俊子との恋が
俗に「桐の花事件」と呼ばれる所以(ゆえん)です。

第2歌集「雲母集」は
三崎時代を詠んだ歌で埋まっています。

第3歌集「雀の卵」は前半部で
小笠原行き以後、俊子と離別するまでを歌っています。

今回はここまで。

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2014年8月17日 (日)

「城ヶ島の雨」のうす曇り/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

白秋と松下俊子との恋は
東京・原宿の家で「垣根越し」にはじまって以来
およそ4年を経て破綻に至るのですが
その間の歓びや苦悩や悲しみを
白秋は折に触れて表白しました。

国民的な愛唱歌として現在でも知らない日本人がいないほど
ポピュラーになった「城ヶ島の雨」にも
俊子と過ごしたやさしく悲しく切ない時間が反映していると読むのは自然なことでしょう。

城ヶ島の雨

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる

雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き

舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟

ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気

雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ

九州柳川の実家が営む海産物商が行き詰まり
一家をあげて白秋の住む三崎へ移り住んだ時には
一時は海産物の仲買をして糊口をしのいだこともあったようですが
これもうまくいきませんでした。

この詞に出て来る「舟」は
ですから漁船ということになります。

弟らが生計のために必死になって働いているのを
白秋は切歯扼腕(せっしやくわん)するしかなかったのでしょうか。

なにもできない自分に降る雨は
利休鼠に煙って見え
真珠、にも
夜明けの霧、にも
わたしの忍び泣き、にも見えたと歌うのは
三崎での暮らしの複雑な背景を映し出しているものに違いありません。

しかし、この寂しげな詞(ことば)の立ち上がりは
船頭さんの心意気を励まし(あるいは励まされ)
ポッと薄日の射す海を進んでいく情景で結ばれるのです。

ガンバレ!ガンバレ!と
身を乗り出してエールを送る詩人の姿が見えるようです。

「城ヶ島の雨」は
白秋の初めての童謡でした。

そういえば
先に読んだ「第二白金ノ独楽」中の「河童」にも
童心の芽生えがありましたね。

これをきっかけに白秋は多くの童謡を作り
それらが作曲され
歌曲として演奏されて
やがてはラジオを通じて全国津々浦々に広がっていくことになります。

三浦三崎から小笠原父島での暮らしは
貧乏のどん底にありました。

経済的な窮乏のみならず
下獄事件の精神的打撃は大きく
奈落の底のような暮らしから立ち直るための苦闘が続いていました。

そのプロセスの幾つかの局面が
詩では
「真珠抄」
「白金ノ独楽」
「畑の祭」
「第二白金ノ独楽」
――に歌われました。

短歌では
「桐の花」の一部
「雲母集」
「雀の卵」
――に刻まれました。

今回はここまで。

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2014年8月16日 (土)

「朱欒(ザンボア)」の縁/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

白秋が文芸雑誌「朱欒(ザンボア)」を発刊したのは
1911年(明治44年)のことで、
第2詩集「思い出」刊行のすぐ後でした。

この「朱欒」に萩原朔太郎が自作の短歌や詩を送ったことから
白秋と朔太郎の交友ははじまります。

朔太郎の「月に吠える」には
北原白秋の「序」と室生犀星の「跋(ばつ)」がありますが
この3人の関係が生まれた経緯については
「月に吠える」を解説している伊藤信吉の記述でみておきましょう。

(略)
萩原朔太郎が北原白秋編集の雑誌「朱欒(ザムボア)」に短歌を送り、ついで詩を送り、それが「朱欒」に掲載されて、二人のあいだに往来がはじまったのは大正元年(1912)末あたりのことであった。

また「朱欒」に掲載された抒情小曲を読んで感動し、萩原朔太郎が金沢在住の室生犀星に突然手紙を出し、その熱的な手紙のやりとりから、生涯を通じて渝(かわ)らぬ友となったその最初は大正2年春ころのことであった。

こうして東京の北原白秋、金沢の室生犀星、前橋の萩原朔太郎のあいだには、数年にわたって燃える虹のような浪漫(ろうまん)的交友がつづいた。このような交友と詩的交流からその序文と跋文が書かれたのである。
(略)

白秋が俊子との婚姻を解消したのは大正3年秋でした。

肺結核を患って久しい俊子は
三浦三崎、小笠原父島と白秋と暮らしをともにしてきましたが
北原家の家族の住まう東京麻布へ
白秋よりも先に帰ることになりました。

この帰京に至る俊子と白秋のあいだに
何があり何が話されたのか詳(つまび)らかではありませんが
俊子と白秋の家族との仲は悪化の道をたどったことは確かなようです。

あたかもそのあおりを食らって白秋との仲にも亀裂が走って
みるみるうちに俊子と白秋との関係は破綻してしまいます。

白秋は俊子が北原家を去って2年後の大正5年春ごろには
2人目の妻・江口章子(あやこ)と結婚します。
(以上、「ここ過ぎて」より。)

「月に吠える」への白秋の序文は
大正6年1月10日の日付を持っていますから
実生活では章子との暮らしの中で書かれたということになります。

今回はここまで。

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2014年8月15日 (金)

危機脱出後の白秋/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

大正3年春の「真珠抄」と同じ年の秋に
「白金之独楽」は出されました。

この詩集にも序があり
「白金ノ独楽序品」と題されて
冒頭に置かれています。

やや長いものですが
全文を読んでみましょう。

白金ノ独楽序品

ワレイマ法悦ノカギリヲ受ク、苦シミハ人間ヲ耀(カガヤ)カシム、空ヲ仰ゲバ魚天界ヲ飛ビ、山上ニ白金ノ耶蘇(ヤソ)豆ノ如シ。大海ノハテニ煙消エズ、地上ニ鳩白日交歓ノ礼ヲ成ス。林檎(リンゴ)ハジメテ音シ、木ハ常ニ流レテ真実一路ノ心ヲアヤマラズ。麗ラカナルカナ、十方法界。ワガ身ヲ周(メグ)ルハ摩羅(マラ)ヲ頭ニイタダク暹羅仏(シヤムブツ)、麦酒樽ヲコロガズ落日光ノ男。桶ノ中ニ光リツメタル天ノ不二、海上遥カニ光リ匍ヒユク赤子、或ハ又、大千世界ノ春ノ暮、空モ轟ニ耀キ墜ツル天魔ノ姿。善哉、帰命頂礼(キミヨウチヨウライ)、今コソワレハワガ手ノ独楽ヲ天ニササゲム、白金ノ独楽ヨ、光リ耀ケ、カガヤカニ、光リ澄メカシ、言モナク、光リ澄メカシ、音モナク。稽首再拝。
   大正三年十一月下院
                               著者識

十方法界(じっぽうほうかい)=あらゆる世界。
摩羅(まら)=悟りの妨げとなる煩悩(ぼんのう)。
暹羅仏(しゃむぶつ)=タイ王国の仏。
帰命頂礼(きみょうちょうらい)=「帰命」は仏の教えを深く信じ、身命を投げ出して帰依し従う厚い信心のこと。「頂礼」は頭を地につけてする礼。
……などの仏教語が現われること自体、
白秋の境地の変化を示すものでしょうか。

ワレイマ法悦ノカギリヲ受ク、苦シミハ人間ヲ耀(カガヤ)カシム
――というのは
いったんは牢獄に落ち、晴れて解放されて後の
海に囲まれた三浦三崎での新生活の充実ぶりを明かしているものでしょう。

今コソワレハワガ手ノ独楽ヲ天ニササゲム
=今こそわれはわが手の独楽(こま)を天に捧げむ
――と詩集「白金ノ独楽」の意図は述べられました。

ここには危機脱出の歓びと
何ものかへの感謝の気持ちが込められてあるようでもあります。

「白金ノ独楽」も短唱です。
三日三晩で書き上げた99篇は
すべてがカタカナ詩になりました。

詩集題と同じ、その一つ。

白金ノ独楽

感涙ナガレ 身ハ仏、
独楽ハ廻レリ、指尖ニ。

カガヤク指ハ天ヲ指シ、
極マル独楽ハ目ニ見エズ。

円転、無念無想界、
白金ノ独楽音モ澄ミワタル。

飾りは削ぎ落とされて
耀かしい世界がまっすぐに表出されます。

密教のたどりつく即身仏の法悦境を、白秋は、この瞬間確かにかいま覗たかと想像される
――と「ここ過ぎて」(新潮社、昭和59年発行)で瀬戸内晴美(現・寂聴)はこの詩に短い読みをほどこしています。

もう一つ。

他ト我

二人デ居タレドマダ淋シ、
一人ニナツタラナホ淋シ、
シンジツ二人ハ遣瀬ナシ、
シンジツ一人ハ堪ヘガタシ。

一度は死を考えたこともあるらしい。

恋は成就(じょうじゅ)したにもかかわらず
淋しく遣瀬ないと歌われます。

ほかに単行詩集にならなかった「畑の祭」と「第二白金ノ独楽」があります。
こちらは短唱ではありません。

「第二白金ノ独楽」からも一つ。

河童

麗(うら)らかな麗らかな、
何ともかともいへぬ麗らかな、
実に実に麗らかな、
瑠璃晴天の日のくれに。
河童がぽつんと立つた、との。

麗らかな漣は漣に、
照り光り、照り光り、いつまでも照り光り、
まだまんまるい月も出ず、暮れもやらず。

悩ましい、何ともかともいへぬ麗らかな、
瑠璃色ぞらの夕あかり、
大河のあちらこちらを漕ぐ舟の
ろかいの音もうつらうつらと消えもやらず。

河童がぽつんと、ただひとり。
はつと思へば、またひとり、
岸にひらりと手をかけて、つららつららと
躍りあがつた河童の子。

頭のお皿も青白く、
真実、れいろう、素つ裸。
こゑも立てねば音もせず。

河童はそつとうなづきあひ、
葦のそよ風に、
身をふるはし、
よりよちと歩きかねては、また眼をこすり、
もつれあひ、角力とり、まろびあひ、
倒れては起き、起きてはころび、
声も立てねば、音もなく、
れいろうとしてはてしもあらず。

麗らかな、麗らかな、
何ともかともいへぬうららかな、
瑠璃晴天の空あひに、
うかび出て、消えもやらぬ河童のお皿、
すすり泣けども人知らず。

麗らかな、麗らかな。
漣の漣の、照り光り、照り光り、
暮れもあへねば、月も出ず。

いつまでもあそぶ河童の子。
つららつららと河童の子。

(以上、神西清編「北原白秋詩集」新潮文庫、昭和48年4月30日 39刷より。)

童謡が芽生えたようです。

今回はここまで。

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