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カテゴリー「戦後詩の海へ/茨木のり子の案内で」の記事

2016年12月27日 (火)

新川和江・抒情の源流/詩人の来歴・その8/エッセイ集(散文)

 

 

詩人には

詩のほかに幾つかのエッセイ集(散文)があり

こちらが達意の文章家の面目躍如(めんもくやくじょ)としているのは

無闇に難解な現代詩創作への自戒から来ているように思えてなりません。

 

新全集の自筆略年譜から

新聞・雑誌などへ寄せた単独・連続の寄稿と

単行エッセイ集をひろいました。

 

個々のエッセイに連続性はありませんが

詩人の創作歴の流れの

その時々の呼吸のようなものがうっすらと伝わってくるでしょうか。

 

【散文・エッセイ集】

 

1957

エッセイ「近ごろの流行歌」執筆 朝日新聞

 

1968

若い人向けの詩と散文集「わたしの愛は…」 新書館

 

1970

竹取物語の現代語訳 小学生の日本古典文学全集 学燈社

 

1972

エッセイ集「草いちご」 サンリオ出版

 

1978

エッセイ集「愛がひとつの林檎なら」 大和書房

 

1981

「半秒おくれて言語はやってくる」執筆 現代詩手帖

 

1983

エッセイ集「花嫁の財布」 文化出版局

毎日新聞・詩欄へ執筆

ラ・メール創刊のことば「女流詩の流れを輝く川に」執筆 朝日新聞

「麦とレモン」執筆 東京新聞

「私の一冊―“檳榔樹”について」執筆 東京新聞

「文学との出会い」6回執筆 新潟日報

 

1984

エッセイ「美と言葉」執筆4回 東京新聞

エッセイ「不易と流行」執筆 毎日新聞

 

1985

エッセイ「女・無手勝流の詩群」執筆 毎日新聞

 

1986

エッセイ集「朝ごとに生まれよ、私」 海竜社

 

1988

「アクセント・アクセント」執筆 月刊日本語

ラ・メール独立について執筆 日本経済新聞

深尾須磨子選詩集「マダム・Xの春」編・解説 小沢書店

 

1989

「高田敏子さんの詩」執筆 読売新聞

 

1991

井上靖追悼文「沙棗の林の中に」執筆 現代詩手帖3月号

 

1992

「不思議の国の言葉たち・女の詩」選詩と解説を一部担当 「女性セブン」(小学館)

 

1993

ラ・メール終刊の挨拶を執筆

 

1994

安西均追悼文「きさらぎに逝く」執筆 産経新聞

 

1995

永瀬清子追悼文を「詩学」「黄薔薇」に執筆 

茨木のり子に関するエッセイ「若い素敵ないとこたちのような…」 現代詩手帖「櫂」特集

エッセイ「吉原さんの笑顔」 吉原幸子詩集「発光」が第3回萩原朔太郎賞受賞、その図録に執筆

 

1996

エッセイ「私の写真館」執筆 正論

 

1999

エッセイ集「わたしは、此処」 花神社

 

(以上、花神社「新川和江全詩集」巻末「自筆略年譜」より。)

 


 
なお、全詩集以後に

「詩の履歴書―『いのち』の詩学」(2006年、思潮社)

「詩が生まれるとき」(2009年、みすず書房)

――の2冊の単行本が出版されています。

 

この2冊ともに

自作詩が誕生した経緯(いきさつ)や理由を

胃がいっぱいになるように

胸がいっぱいになるように

丁寧に丁寧に綴(つづ)ってくれていて

座右の必需本ですし
達意の文章が堪能(たんのう)できる

散文の名品ばかりが集まっています。
 

 

途中ですが

今回はここまで。

2016年9月16日 (金)

滝口雅子を知っていますか?/詩集「蒼い馬」/「死と愛」の流れ・追補2

(前回からつづく)

 

 

 

 

死をみごもるというのは

死ぬということを意味しません。

 

その逆のことであることに

気づかねばならないでしょう。

 

 

未来があることを知るのは

未来に終わりがあることを知ることですし

未来には必ず死があることを知ることです。

 

「死と愛」の娘は

愛のさなかに

有限の未来を知ります。

 

それが

死をみごもるということの意味です。

 

そのようにして

娘は愛を生きはじめました。

 

 

詩集「蒼い馬」が

後半部(21番詩)にこの「死と愛」を置いた重大な意味が

ようやく分かりかけてきたようです。

 

10番詩「蒼い馬」の海の底から脱け出た

盲目の馬のその後(=現在)を

それは暗示しています。

 

 

詩集「蒼い馬」に多く収められた挽歌の

かすかな変化をここに見ることができるでしょう。

 

それは

13番詩「女の半身像」が

死んでしまった愛、忘れられた愛の

完全無比な愛のかたちを歌った流れから

1歩を出るような変化です。

 

「死と愛」は

過去の愛というよりも

今ここにある、生きている愛を歌いました。

 

現在進行中の

ぴっかぴかの愛。

 

憎しみに限りなく近い

男と女の愛。

 

シュンシュンと沸騰する

革命的な――。

 

 

死んでしまった愛を歌う流れは

消え去るということではなく

やがては第3詩集「窓ひらく」の「秋の接吻」などへ通じるものですが

この流れとは別に

男と女の愛や男の性を歌う流れが生れたのです。

 

この流れは

「蒼い馬」では前面に出ることはありませんが

やがて第2詩集「鋼鉄の足」(1960年)で表面に出てきます。

 

「男について」

「男S

「革命とは」

「若もの」

――といった傑作の数々です。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2016年9月14日 (水)

滝口雅子を知っていますか?/詩集「蒼い馬」/「死と愛」の流れ・追補

(前回からつづく)

 

 


 

 

娘は

青くやせて

すこやかに<死>をみごもった

 

――という「死と愛」の最終行は

滝口雅子という詩人の考え方の根っこが埋まっていて

これを放置したままでは前に進めない

心臓部のような詩行です。

 

ここには

感覚だけではとらえられないものがあって

それは思想とか哲学と呼んでよいものでしょう。

 

というわけですから

「死と愛」にもう少しこだわり

突っ込んだ解釈にトライしてみます。

 

 

といっても

詩をわざわざ散文に言い換える無理に

挑戦するものではありません。

 

ここでできるのは

ほかの詩(行)からヒントを見つけ出すほどのことです。

 

詩は詩の中にしかありません。

 

 

「死と愛」の次の次に置かれた「扉」は

死と愛とほぼ同じ意味で「生と死」を真正面で歌っています。

 

やや観念的な詩ですが

「死と愛」を読む強力なヒントになりそうです。

 

 

たとえば中に、

 

生は死の持っていない匂いのために

死は生の知らない匂いのために

お互いをひきつける

 

生は死を美しいと思い

死は生を美しいと思う

その二つは必ず誰にもあるもの

 

生きることがどういうことか

生は本当にはまだ知らない けれど

死にはわかっている

生きることも死ぬこともそれらが

どういうものだかを

 

――という詩行があります。

 

(「新編滝口雅子詩集」より。原詩に改行を加えました。編者。)

 

生は愛と同じもののはずですから

死と愛の関係を理解するヒントになる詩行です。

 

さらに、

 

友達であり自分自身である死の扉に

――という詩行もあり

めずらしく説明的で散文的ともいえる言葉遣いが

却って詩(人)の思想を明快にしています。

 

これらを

「死と愛」と関連づけて考えないという手はないはずです。

 

 

「扉」は現実の果てにあり

それが開くと

生と死が向き合っているという構図が示されていますが

この構図は

先に読んだ「窓」の

現実にはあり得ないような

トポロジカルな(位相幾何学的な)空間よりも

平明な感じがあります。

 

 

「扉」の次の次にある「女」には、

 

死の重みを生の重みに代えて

花のほころぶのにも似た 自然な

目覚めをするときの

――とあります。

 

これは、

 

すこやかに<死>をみごもる

――という思想が

別の詩語で語られていると読めそうなところです。

 

 

「死と愛」の二つ前に配置された「炎」は

透明な蝶の番(つがい)が

街灯の下を静かに並んで飛び

はげしく交わった後で

一方の蝶が死へ向って旅立っていく

(生命の)摂理のような

はかなさの象徴のようなものが歌われます。

 

ここに登場する2匹の蝶は

別々の個体と考えるよりも

1個の生命ととらえることが可能でしょう。

 

とすれば

死はここで生命と連続しています。

 

冒頭の2行に、

 

誰も住んだことのない時間

誰も行ったことのない道

――とあることから

蝶が飛んでいるのは

死の世界であるかのように読めますから

蝶が最後に飛び立ってゆく先は

生の世界であるというような

逆転があるのかもしれません。

 

死に向って飛び立つ果てに

生があるかのような

命の完結(はじまり)として。

 

 

この詩「炎」は

「死と愛」を読むヒントになるでしょうか。

 

とりわけ、

すこやかに<死>をみごもった

――という詩行を読むヒントになるでしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2016年9月 4日 (日)

滝口雅子を知っていますか?/詩集「蒼い馬」/「死と愛」の流れ・その2

(前回からつづく)

 

 

 

 

「死と愛」に死が現れることがあっても

愛は出てきません。

 

これは文字面(もじづら)のことですが、

それは何故だろう

――と問えば

この詩にもう少し近づくことができるでしょう。

 

 

死と愛

 

娘の腕はしびれた

ひとつのものをみつめて目が痛んだ

傷ぐちから光ったものは

憎しみを持った夜

上ってくる

足音が階段を上ってくる

 

葡萄酒の体臭

激しくまじり合うもののかなしい音

ゆれはじめる娘の部屋

 

あれは 誰だったか

絶望の手で抱きあげてくれたのは

重たい血の壺をゆすってみせたのは――

娘は

青くやせて

すこやかに<死>をみごもった

 

(土曜美術社出版販売「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

娘の腕はしびれた

ひとつのものをみつめて目が痛んだ

――の「しびれた」も「痛んだ」も

何事かの発端を示しているでしょう。

 

腕がしびれ、目が痛んだというのは

詩の主格である娘の経験(過去)と考えて間違いありませんから。

 

この経験が傷口を作り

この傷口が(今でも)光っているというのは

鮮烈な記憶として残っているということでしょうか。

 

憎しみを持った夜。

階段を上ってくる足音。

その記憶。

 

――という第1連。

 

 

足音はやがて葡萄酒の体臭として出現し

なんの前ぶれもなく性交がはじまり

部屋は揺れる。

 

相手の男は

暗闇の中で(?)

匂いでしか感知されません。

 

――という第2連。

 

ここまで読んでも

愛は現れません。

 

 

あれは誰だったか。

 

絶望の手で娘を抱きあげ

重たい血の壺をゆすってみせたのは

誰だったか。

 

最終連にきて

愛のようなものが歌われます。

 

発端がどうであれ

経過がどうであれ

(と言ってよいかどうか)

娘は抱き上げられ

娘の体内に血は流れはじめた――。

 

このような夜の出来事を

詩(人)は愛と呼んだのでしょうか?

 

憎しみの夜に

愛は生れたとでもいうのでしょうか?

 

憎しみと愛は

同じものでしょうか?

 

 

物質が燃焼するというのは

激しく酸化するということで

モノ=有機物が燃えれば

炭(スミ=無機物)になるように

ヒトの生命も激しく燃えれば(愛すれば)

死にいっそう近づくという――。

 

まるで

そのような化学変化を愛の奇跡であるとを類推させるような――。

 

あるいは「死と愛」は

愛の不可能の方程式を歌っているのでしょうか。

 

3段論法でもなく

序破急でもなく

因果律でもなく。

 

愛と憎しみの弁証法などでは

まったくなく。

 

 

すこやかに<死>をみごもる

――という詩行が

やはりこの詩を決定していると思えてくるのは

生存の不確かさ、あいまいさを

<死>が照らし出すからで

その<死>を身ごもって

娘は初めて生きるきっかけをつかまえたのだとすれば

憎しみの夜であろうと

暴力の夜であろうと

悲しかろうと

愛を見つけたと言えるのかもしれません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2016年9月 1日 (木)

滝口雅子を知っていますか?/詩集「蒼い馬」/「死と愛」の流れ

(前回からつづく)

 

 

 

「死の岬の水明り」が

窓をこえてひたひたと寄せるように

「女の半身像」が

死んでしまった愛を歌ったように

詩集「蒼い馬」には

死が現れる詩が

めっぽう多いことに気づきます。

 

 

3番詩「兵士たちは」は

戦場に消えていった兵士たちを悼んだもので

ここに死は詩語として明示されませんが

9番詩「夜の花」に、

“あるじ”は 自殺について考える
(※原文の傍点を“ ”で置き換えました。編者。)

――とあり、

12番詩「早春」に、

死者はくだけて 宇宙によって充たされる

風はまたあたらしい死を吹きつける

――とあり、

16番詩「言わせて下さい」に、

ひとが死んでいくとき

代りに死んであげることも

生きていながら 別の天体に移ることも

何もできないあたしですけれど

――とあり、

17番詩「人と海」に、

海の向うで声がする

死んだひとの声がする

とか

海の向うの光

生と死のぶつかる光

――とかとあり、

 

18番詩「死の岬の水明り」は

タイトルに死が現れ

19番詩「炎」に、

やがて 一羽は

死ぬために飛び立っていく

――とあり、

21番詩「死と愛」には

再びタイトルにズバリ死が現れ、

24番詩「扉」には、

開いた扉のところで

生と死が向き合う

とか

生は死の持っていない匂いのために

死は生の知らない匂いのために

とか

生は死を美しいと思い

死は生を美しいと思う

とか

この詩には多量の生と死が現れます。

 

26番詩「女」には、

死の重みを生の重みに代えて

――とあり

27番詩「影」には

死の世界にとどいた招待状

トオルさんは楽器の間をめぐって歩く

とか

死んだトオルさんを

なぜ人生が招待したのだろう

――とあります。

 

 

詩集をざっとめくってみただけで11篇あり

全詩29篇中の3割強に

死という語が刻まれていることになります。

 

このほかに暗喩や象徴として現れる死もあるかもしれませんから

詩集「蒼い馬」に

死(という言葉)は充満しているといえるほどです。

 

考えてみれば

タイトル詩「蒼い馬」が存在している海底が

死と隣り合わせの場所であることも

詩の前面に出てきませんが

暗示的です。

 

 

タイトルに死(という言葉)がある「死と愛」を読んでみましょう。

 

 

死と愛

 

娘の腕はしびれた

ひとつのものをみつめて目が痛んだ

傷ぐちから光ったものは

憎しみを持った夜

上ってくる

足音が階段を上ってくる

 

葡萄酒の体臭

激しくまじり合うもののかなしい音

ゆれはじめる娘の部屋

 

あれは 誰だったか

絶望の手で抱きあげてくれたのは

重たい血の壺をゆすってみせたのは――

娘は

青くやせて

すこやかに<死>をみごもった

 

(土曜美術社出版販売「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

3連仕立ての

比較的わかりやすい詩と言えるでしょうか。

 

わかりやすいというのは

3段論法とか

序破急とか

因果律とかを

補助線とすることが可能な詩であることをいいます。

 

とっかかりがあります。

 

とはいえ、

詩をただちにとらえられるほど

なまやさしくはありません。

 

 

第1連は、

娘が登場し

どうやら傷を負っているのですが

この傷こそ憎しみの夜に生じたらしい

愛の完全変態――。

 

夜、階段を上ってくる足音は

第2連、

葡萄酒臭い男として現れ

娘の部屋は

男女の激しい交わり(まじり合う)でゆれる

かなしい音――。

 

あれは、誰だったか?

(いまは忘れてしまった、とは書かれていませんが)

娘を抱きあげ

重たい血の壺(=女)を揺さぶったのは――。

 

 

娘は青くやせて

すこやかに<死>をみごもった

――という最終行は

パラフレーズしないほうがよいでしょう。

 

ここにこそ

詩の味わいどころはあります。

 

想像力を全開して

何度も何度も味わうべき詩行です。

 

ただでさえ

危険極まりない読み下しを

敢行しています。

 

この詩に「死と愛」というタイトルが必要だったことの

命がこの最終行にあります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

2016年8月28日 (日)

滝口雅子を知っていますか?/詩集「蒼い馬」/「窓」の役割

(前回からつづく)

 

 

 

 

 

詩集「蒼い馬」の6番詩は

ズバリ「窓」というタイトルの詩です。

 

「女の半身像」や「死の岬の水明り」に現れる詩語・窓と

この詩「窓」がつながるものかどうかわかりませんが

ここで読む価値は十分にあることでしょう。

 

 

 

窓はいつでも開かれていたけれど

誰も窓の中をのぞかなかった

窓から見られることをおそれて

向う側の道を通っていったりした

窓の内側にはテーブルやコーヒー茶碗や

猫や編みかけの毛糸の代りに

窓の外と同じ自然がひろがっていた

樹の間に見えかくれする泉があり

泉に倒れかかる樹木があった けれど

だれも窓をのぞいたものはなかったから

のぞいたことがないものには

窓の内側は存在しなかった

窓は外側に向いながら

ひとり内側で

さまざまな樹木の言葉にあふれた

太陽と風にすべてを相談しながら

 

(土曜美術社出版販売「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

擬人法とか

象徴主義とか……。

 

この詩を位置づけたがる前に

やはり何度も何度も繰り返して読んでいるうちに

だんだん親しみやすくなってくるなかで

量の質的な変換というものが起こり

不思議なことにも

これは認識論の詩だとか

詩のありかをめぐる詩であるとか

詩人の居場所を問うた詩であるとか

詩の方法の問題に触れた詩であるとか

やはりこの詩を解釈し位置づける流れに沿うのが

自然であることに気づきます。

 

この詩が

そのようにさせるからです。

 

この詩は

人間の悲しみとか喜びとかを

真正面で歌ったものではなく

思念をかき立てるようにできているからです。

 

とりわけ

窓をモチーフに

窓の外側と内側という二項対立を通じて

表現されているものが何であるか、

のぞいたことがないものには

存在しなかった窓の内側とは何であるか、

自然には泉があり倒れかかる樹木があるというのは何を言いたいのか、

樹木の言葉とは何か、

太陽と風に相談するのはどんな内容か、など。

 

これらの問いが呼び起こすのは

感情であるよりも

思念です。

 

窓とは何なのか?

――を考えさせるのです。

 

 

詩の中では

具体的に何かがが起こるわけではありません。

 

歌われているのは

窓のある家の風景のようでいて

風景を描写するものではありません。

 

窓があり

それは開かれていて

向こうには道があり

人も通るのですが

窓の内側をのぞくことはない

――という前半部は

風景の描写ではなく

この詩の存在を示すための導入部です。

 

こうして、

窓の内側にはテーブルやコーヒー茶碗や

猫や編みかけの毛糸の代りに

窓の外と同じ自然がひろがっていた

――という3行が現れます。

 

窓の内側にあるはずである「Home」の風景ではなく

内側にあるのは

窓の外側と同じ自然です。

 

 

窓の内側には

窓と外側と同じの自然がある――。

 

ここまで読んで

この詩があり得ない景色を歌っていることを知るのですが

ではこの自然とは何なのだろうという問いが生じ

この問いに向きあうところで

はじめてこの詩の内部に入り込んでいます。

 

 

前半部によって

この詩はしっかりした骨組みを現します。

 

では、この詩の自然とは何でしょう。

 

それは、

樹木の言葉であることにほかなりませんが

樹木の言葉が何であるか

もはや詩の言葉にされることはありません。


窓は

すでにシュールな姿を明きらかにしており

その必要がないからです。


 

途中ですが

今回はここまで。

 


2016年8月19日 (金)

滝口雅子を知っていますか?/「死の岬の水明り」と「女の半身像」の窓・その2

(前回からつづく)

 

 

 

窓という詩の言葉が

どのように使われているかを見るために

「女の半身像」を呼び出しましたが

この詩が

ハッと息を飲むような珠玉(しゅぎょく)であることを

期せずして知ることになります。

 

もう一度読んでみましょう。

 

 

女の半身像

 

白いからだ 白い胸

白い足のうら

折りまげた膝のうらにひそむ影

耳につるばらの花がかかり

口の切りこみにゆれる緑の葉

黒ずむ乳房

しなう腕はやがて折れおちて

とじられた目のうらに一つの窓がひらく

窓の下におちていく大理石の

女の半身像

 

幾世紀のむかし

ばらは さざ波をくぐって

窓の果てまで匂いを放ったが

闇に唇をひらいて燃えているのは

あれは 忘れられてしまった愛

今は 死んでしまった愛

 

(土曜美術社「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

白いからだ

白い胸

白い足のうら

ひざのうらにひそむ影

つるばらの花

緑の葉

黒ずむ乳房

大理石

ばら

燃えている

……

 

まず驚かされるのは

透明感のある色彩。

 

地中海の空気のような。

 

白、黒、緑。

 

闇に唇をひらいて燃えている

――とあるから

赤も鮮やかであり

さざ波もあるから

海の青も見えるようだし

みなぎる光線を感じることもできる……。

 

 

ここはどこだろう?

――という疑問は

この詩を味わうための入り口となることでしょう。

 

といって

ヴィーナスの大理石像が出土した

ギリシアのミロ島を想像するのは

あながち無駄なことではありません。

 

詩が自ずと解き放っている空気を感じ取ることは

詩を読む楽しみの一つですから。

 

 

白いからだ

――とこの詩(人)が書き出す女のからだは

はじめ、「外」から見られ

カメラがパンするように

白い胸へ

白い足のうらへ

膝の裏の影へ

耳にまつわるつるバラの花へ

口に咥えられた葉へ

黒ずんだ乳房へ

……と追われるのですが

しなう腕へきて、それは折れ落ち

同時に、

閉じられた目の裏に

一つの窓が開くのです。

 

開かれた窓の下に

落ちてゆくのは

いま見てきた大理石の女の半身像です。

 

目が閉じられた瞬間に

この詩は「内」の劇に転化します。

 

 

この、めまいのするような

空間のビジョン(=映像)は次に

一挙に時(とき)を遡行(そこう)して

遠い過去が目の前に現れます。

 

窓のした(それが海であることは容易に想像できます)に落ちていった女の半身像は

忘れられてしまった愛、

死んでしまった愛そのものであることが

このように歌われるのです。

 

 

見知らぬ愛の物語の中身について

詩はなんら歌いませんが

その物語への入り口の役を

窓が負います。

 

 

「死の岬の水明り」では

窓をこえて寄せてくるものは

人間のかなしみでしたが

「女の半身像」では

窓が

死んでしまった愛の物語のはじまりを告げるのです。

 

窓はともに

詩人の辿ってきた足跡(過去)から

センチメントやらイデオロギーやら観念やらの不要なものを削(そ)ぎ落とし

経験と呼べるものへと濾過し純化するための

篩(ふるい)のような装置として現れます。

 

ここで経験というのは

詩の源泉(もと)のことです。

 

あるいは

詩そのものと呼んでいいものかもしれません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

2016年8月16日 (火)

滝口雅子を知っていますか?/「死の岬の水明り」と「女の半身像」の窓

(前回からつづく)

 

 

 

 

 

<信じる>

この明るみだけ

――と「死の岬の水明り」前半連は歌い終わります。

 

この「明るみ」は

いったいどこからやってくるでしょうか。

 

この明るみは水明りに他なりませんが

死の岬に星か月かの光があったのでしょうか。

 

 

そうであってもおかしくはありませんが

この明るみは

自然の明るさを指すものではないでしょう。

 

この明るみは

多くの人の、その人たちのうしろの

窓の向こうの死の岬

――を見ている(詩人の)心の中の光です。

 

そして、この光は、

幾万のひると夜を

何が幸せで何が不幸だったかわからなくなっても

(雑草の)根っこにしがみついて(でも)

それ(=明るみ)を信ずる

――という断言をもたらします

 

この断言は

結びの連の5行につながっていきます。

 

 

あたらしい玉藻のように結球する

悔いることのない

人間の悲しみ。

 

キャベツが葉を巻いて大きくなっていくような

後悔する暇(ひま)もない。

 

(ここに、省略と飛躍と詩はあるでしょう!)

 

「かなしみ」を

照らし出すかのように

水明りは

窓を飛び越えて

ひたひたと押し寄せます。

 

 

何が幸せで何が不幸だったかわからないというほどのこと(経験)。

 

人間のかなしみ。

 

「ここ」からは

それらがよく見える、ということでしょうか。

 

 

それにしても

この詩には

暗さがないのは何故でしょう。

 

この詩人の詩に共通する

それは謎のようなことです。

 

この詩に現れる窓は

謎を読み解く

一つの手がかりです。

 

 

「蒼い馬」と「水炎」の間に置かれた

「女の半身像」にも窓が現れますから

なんらかのヒントがあるかもしれません。

 

 

女の半身像

 

白いからだ 白い胸

白い足のうら

折りまげた膝のうらにひそむ影

耳につるばらの花がかかり

口の切りこみにゆれる緑の葉

黒ずむ乳房

しなう腕はやがて折れおちて

とじられた目のうらに一つの窓がひらく

窓の下におちていく大理石の

女の半身像

 

幾世紀のむかし

ばらは さざ波をくぐって

窓の果てまで匂いを放ったが

闇に唇をひらいて燃えているのは

あれは 忘れられてしまった愛

今は 死んでしまった愛

 

(土曜美術社「新編滝口雅子詩集」より。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

 

 

2016年8月14日 (日)

滝口雅子を知っていますか?/「人と海」と「死の岬の水明り」

(前回からつづく)

 

 

 

 

 

「死の岬の水明り」は

「人と海」の次にあり

詩集「蒼い馬」全体では18番目の詩です。

 

「人と海」が

海底を抜け出て水平線の見える空を歌ったように

「死の岬の水明り」の「ここ」は

岬の見える陸(おか)です。

 

といっても

この陸は地上をストレートに指示しているものではなく

「窓」という象徴表現の向こうに見える陸(=岬)ですから

実際のシーンに置き換えるのは控えたほうがよいかもしれません。

 

 

二つの詩は

切り離して読めないような

密接なつながりがある関係にあります。

 

ペアとして読むと

互いを補完するような詩といってよいことでしょう。

 

 

死の岬の水明り

 

ここからはよく見える

多くの人の

かみしめると甘ずっぱくてにがい

雑草のこころが

その人たちのうしろの

窓の向うにみえるのは

蒼い氷河の横たわる死の岬

寒気がここにつたわって

夜がわたしたちに雫する

ひとりがひとつずつの草の根を持って

幾万のひると夜を抱いてきた

この世では 何が幸せで

何が不幸だったかわからなくなっても

ずりおちる根っこの土にしがみついて

 <信ずる>

この明るみだけ

 

岬の突端で

あたらしい玉藻のように結球する

悔いることのない 人間のかなしみ

死の岬の水明りは

窓をこえて ひたひたと寄せる

 

(土曜美術社「滝口雅子詩集」より。)

 

 

この詩が「ここ」ではじまるのは

この言葉以外に見当たらないほどの必然です。

 

海の底ではない場所であることを

詩(人)は示したのです。

 

「人と海」ではそこがどこであるのか

水平線や空の見える

海を遠くに見る場所ではありましたが

この詩では「近く」を表す指示代名詞「ここ」で示され

詩(人)は「死の岬」を見ています。

 

 

具体的特定の場所ではなく

「ここ」です。

 

海の底ではない「ここ」です。

 

その分、視界が開けたような明るさがありますが

希望が見えたというほどのことではないようなかすかな変化で

依然として

つぶやきは孤独な響きをもって

自身に向かって続けられます。

 

読み手はこうして

詩(人)のより近くに立つことになり

孤独なつぶやきをより近くで聞きます。

 

 

「ここ」からは

「多くの人」が見え

雑草のこころが見え

「その人たちのうしろ」には「窓」があり

「窓」の向うには「青い氷河の横たわる死の岬」が見えます。

 

 

この詩は

このように堅牢な骨組みを持つ詩であることを知っておくと

詩へ近づきやすくなるかもしれません。

 

 

では「死の岬」とは

どのような岬でしょうか?

 

ようやく詩の入り口にたどりつきますが

詩の中に入り込むのは

詩の骨組みをつかむことほどに容易ではありません。

 

多くの人

甘ずっぱくてにがい 雑草のこころ

青い氷河

寒気

草の根

幸せ

不幸せ

……。

 

そして、

この明るみ。

 

これらの詩語に

詩(人)が込めようとしているものが

たやすくは伝わって来ません。

 

 

「窓」の向こうに見える「死の岬」に

ひたひたと寄せるもの――。

 

それは

人間のかなしみ以外のものではないはずですが

詩はいっこうに

暗鬱な色調を帯びずに

却(かえ)って明るいのは

なぜでしょうか?

 

自然に、もう一度

「人と海」に向かうことになります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 


2016年8月 4日 (木)

滝口雅子を知っていますか?/「水炎」から「人と海」へ

(前回からつづく)

 

 

 

 

 

 

海藻が水の炎になって延びる

その海藻には、岩や小石がからんでいる

――というとき

海藻は何を示すメタファーなのか?

 

水は?

炎は?

岩や小石は?

 

 

「延びる」が海藻の述語であるなら

海藻は成長し増殖し

前へ先へ未来へと向かう前進的なエネルギー(存在)を指し

その海藻は、

水にさらされて

水に洗われて

水にもまれて

いつしか水と一体となり

水そのものになり

炎になっている。

 

 

海底の馬(=詩人)は

目を開けることができたのだ!

 

その目がとらえたのが

海藻(岩石や小石がからまっている)であり

水であり炎だった。

――ということになるのでしょうか。

――といってしまうと詩を見失ってしまうでしょうか。

 

 

爆発的な変化ではないけれど

詩(人)は、

生きた心地みたいなものを

ようやくつかんだような

何か脱け出たような領域に入った感じがあります。

 

 

海を扱ったほかの詩を

もう少し読んでみましょう。

 

「人と海」は

「水炎」の次の次に配置されています。

 

「水炎」とは異なる時間が流れています。

 

あきらかに時間は推移しています。

 

 

人と海

 

海の向うで声がする

死んだひとの声がする

生きているものまでが

海の向うから声をかける

 

寄せてきてひいていく海の言葉

孤独な海の言葉

たくさんの時間を呑みこんだ

さまざまな水温の層

海の向うの光

生と死のぶつかる光

光りのなかから湧くういういしいこころ

水平線を軸に静かにまわる空

 

海に向って進んでいく

生きているものの

ふるえやまない怖れと期待と

死んだものの呼びかけ

 

魚がかがやき跳ねる海のはて

生きているとき

ひとは何が云いたかったか――

過ぎていった幾つもの永い世紀

 

(土曜美術社「滝口雅子詩集」より。)

 

 

ここでは海は、

海底ではありません。

 

水平線の見えるところですから

地上のはずです。

 

海はここにあるのではなく

遠くにあり、

過ぎていった時のようであります。

 

 

詩(人)は

それを振り返っているようですから

ここ(=地上)はすでに

生地朝鮮ではなく

日本のどこかであるかもしれません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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