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カテゴリー「0001はじめての中原中也」の記事

2011年6月13日 (月)

<再読>時こそ今は……/彼女の時の時

「山羊の歌」の中の
「秋」の章を読み直しています。
「時こそ今は……」は
一度、読みましたが
わずかな修正を加えています。

  ◇

ボードレールのファンだから知る、か
上田敏を通じて知る、か
中原中也のこの詩を通じて知る、か

シャルル・ピエール・ボードレールの
「悪の華」の中の
「薄暮(くれがた)の曲」の上田敏訳を
中原中也は、
見事に受容しました。

それも
一人の女性、
長谷川泰子という
固有名を詩に登場させ
その女性への恋歌へと
作り直したのです。

花が芳香を放つ
その時の時の
花のシステム。

まるで香炉に
蜜が分泌され
次から次へと
溢れ出てくる
甘やかな香り
その様子が

時こそ今は花は香炉に打薫じ

と、歌われました。

やがて香りは
空気に広がり
立ちこめる。

こんな時だから
泰子よ
しずかに
一緒に過しましょう。

詩人の
求愛の声は悲痛ですが
諦めが交ざって
さめざめとした響きすらあります。

夏だろうか
秋だろうか
秋の章に入っているのだから
秋だろう、きっと。

では、花は、何の花なのか
百合ではないのか
などと想像するのは勝手ですが……

そこはかとない気配のする
水に濡れ、雫のしたたる花。

家路を急ぐ人々
遠くの空を飛ぶ鳥は
いたいけない
情にあふれている。

夕方のまがき
群青の空
と、あるから
ここは、
東京の閑静な住宅地ではないでしょうか。

こんな今こそ
泰子の髪の毛は
やわらかに揺れて
花が香りを発散するような
絶頂の時を迎えるのになあ。

花は芳香を放ち、
「、」で
この詩は終わりますが
「、」は、この詩の内部の時間が
終わらないことを示します。

ここでは
上田敏訳の「薄暮の曲」全4連の
第1連と第2連を載せておきます。

 時こそ今は水枝(みずえ)さす、こぬれに花の顫ふころ。
 花は薫じて追い風に、不断の香の炉に似たり。
 匂も音も夕空に、とうとうたらり、とうたらり、
 ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈(くるめき)よ、
 花は薫じて追い風に、不断の香の炉に似たり。
 痍(きず)に悩める胸もどき、ヸオロン楽(がく)の清掻(すががき)や、
 ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたれ眩暈(くるめき)よ、
 神輿(みこし)の台をさながらの雲悲みて艶(えん)だちぬ。

 (「角川新全集第1巻・詩Ⅰ本文篇」より)

 *

 時こそ今は……

時こそ今は花は香炉に打薫じ
       ボードレール

時こそ今は花は香炉に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはひです。
しほだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子、今こそは
しづかに一緒に、をりませう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青(ぐんじやう)の
空もしづかに流るころ。

いかに泰子、今こそは
おまへの髪毛(かみげ)なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年6月12日 (日)

<再読>生ひ立ちの歌/雪で綴るマイ・ヒストリー

「山羊の歌」の中の
「秋」の章を読み直しています。
「雪の宵」は
一度、読みましたが
わずかな修正を加えています。

  ◇

ここで詩人は
自己の履歴を
幾分かまとめて明らかにします。

詩人としてのスタンスを述べることを
中原中也は
折りあるごとに行ってきましたが
この詩もその流れのものでしょう。

自己の歴史を
「私の上に降る雪は」と
雪の形態・姿態の変容に結びつけて
回顧します。

雪のメタファー
とでもいうべきレトリックは
世間へ強い浸透力をもって広まった
「汚れつちまつた悲しみに……」もそうでした。

いや、レトリックなどという
技術の領域というより
雪は
中原中也の詩を形づくる
骨格とか血肉とかのようなものの
一つです。

第1章で
「私の上に降る雪」は
幼児期 真綿まわた
少年時 霙みぞれ
17~19 霰あられ
20~22 雹ひょう
23   吹雪ふぶき
と形容され、
24では、いとしめやかになりました……
と、落ち着きます。

第2章に入って
24歳以降の現在の雪の姿態をうたいますが。

ふと
この雪は
泰子のようである
長谷川泰子との時や場所の記憶……
と、自然に感じられてくる
仕掛けに気付きます。

1連
花びらのように
2連
いとなよびかになつかしく
3連
熱い額に落ちもくる
涙のやう
5連
いと貞潔で

ところで
第2章第4連は
私の上に降る雪に、と、
雪が主語でなく、
目的語になります。

雪は、感謝の対象になります。
いとねんごろに感謝して
じゅうぶんに感謝して
神様に
長生きしたいと祈りました
と、詩句にされないまでも
主語は私=詩人に変わります。

私が雪に感謝するのです。
雪とは
泰子以外にありません。

この詩のポイントは
ここにあります。

「雪の宵」や
「汚れつちまつた悲しみに……」の雪に
かすかにただよう甘やかさの元
そこに女性の存在があります。

 * 

 生ひ立ちの歌

   Ⅰ

    幼年時
私の上に降る雪は
真綿(まわた)のやうでありました

    少年時
私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のやうでありました

    十七―十九
私の上に降る雪は
霰(あられ)のやうに散りました

    二十―二十二
私の上に降る雪は
雹(ひよう)であるかと思はれた

    二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました

    二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのやうに降つてきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額に落ちもくる
涙のやうでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔でありました

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年6月11日 (土)

<再読>雪の宵/ひとり酒

「山羊の歌」の中の
「秋」の章を読み直しています。
「雪の宵」は
一度、読みましたが
わずかな修正を加えています。

  ◇

北原白秋の詩集「思い出」の中の作品
「青いソフトに」は
七五調の4行詩です。

 青いソフトに降る雪は
 過ぎしその手か、ささやきか、
 酒か、薄荷か、いつのまに
 消ゆる涙か、なつかしや。

中原中也は、
その冒頭の2行の中の
「青いソフト」を
「ホテルの屋根」と置き換えて
「雪の宵」の導入に使いました。

ホテルに降る雪ならば
かつての帝国ホテルのようなのが
昭和初期にはあったに違いありませんが
今、中也は、
ホテルを眼前にしているわけでもありません。

第6連
徐かに私は酒のんで
悔と悔とに身もそぞろ。
これが、詩人の現在なのです。

またしても
ひとり酒……。

いまごろどうしているのやら
いつかは帰ってくるのかなあ、と
酒をグイっとやっては
煙草をプカプカ……。
酔いが回るにつれ
つい、泰子への追憶にひたります。

「汚れつちまつた悲しみに……」の雪のように
ここでも、
雪はやわらかい。

ほのかな熱があり
冷たいだけの雪ではありません。

雪は冷たいのですが
なぜか、
冷たいだけの雪ではないのです。

その上

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

のですが……

ふかふか煙突も
赤い火の粉も
僕には遠く
僕の心は
凍える寒さの中にあるのです。

 *

 雪の宵

青いソフトに降る雪は
過ぎしその手か囁(ささや)きか  白秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか
  
  ふかふか煙突煙(けむ)吐いて、
  赤い火の粉も刎(は)ね上る。

今夜み空はまつ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのをんな、
  いまごろどうしてゐるのやら。

ほんにわかれたあのをんな、
いまに帰つてくるのやら

  徐(しづ)かに私は酒のんで
  悔と悔とに身もそぞろ。

しづかにしづかに酒のんで
いとしおもひにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年6月10日 (金)

<再読>修羅街輓歌/あばよ!外面(そとづら)だけの君たち

「山羊の歌」の中の
「秋」の章を読み直しています。
「修羅街輓歌」は
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

「中原中也全集」解説・詩Ⅰ(1967年10月)で
大岡昇平は、

(略)高森文夫の証言によれば最初に考えた題は
「修羅街輓歌」だったという。

と、「山羊の歌」という詩集名が、
はじめ「修羅街輓歌」だったことを
明らかにしています。

戦略的に
重要な位置にあった詩であるということです。
その詩にたどりつきました。
これも献呈されています。
相手は関口隆克です。

関口隆克は
後に、文部省大臣秘書課長を振り出しに
国立教育研究所長などを経て
開成学園中学、高校の校長となる人物で
1987年に亡くなります。

昭和3年(1928年)9月、中原中也は
豊多摩郡高井戸町(現杉並区)の関口の下宿に合流し
石田五郎と3人の共同生活を経験しました。

修羅は、
「春と修羅」(宮沢賢治)の修羅らしいのですが
修羅街としたところが中也です。

修羅街とは、東京のことでしょうか?
その街への挽歌とは
そもそも逆説でありましょうか。
それとも
あばよ!東京!
さよなら、グッバイ!
ストレートな
東京への離別宣言なのでしょうか。

詩集「在りし日の歌」の
後記の最終行
さらば東京! おゝ わが青春!へと、
まっしぐらに連なる意識が
すでにここに胚胎(はいたい)している
といえるのでしょうか。

いずれは
東京に別れを告げる詩人ですが
早くもこの時点での挽歌です。

4連に分けられたⅠは
「序の歌」。

のっけから激しく
暗い思い出が
消えてなくなることを望む
詩人の心情が吐き出されます。

なくなれ! と命令して
なくなるものではありませんが
命令するのです。

思い出したくもない
いまわしい思い出よ
消えてなくなれ!
そして、昔の
憐れみの感情と豊かな心よ
戻って来い!

こう思っている今日は
穏やかな日曜日です。
ときおり、少年時代が懐かしく
思い出されもするのです。

Ⅱは「酔生」と題されています。
ただちに「酔生夢死」という
四字熟語が浮かびます。

その「夢死」のほうが気になるのですが
題は「酔生」のほうが採られました。

僕の青春は過ぎていった。
――おお、この、寒い朝の鶏の鳴き声よ
しぼり出すような叫びよ。
ほんとのこと
前後も省みず
がむしゃらに生きてきたものだ。
僕はあまりにも陽気だった。
――無邪気な戦士だったなあ、僕のこころよ

それにしても僕は憎む
上辺(うわべ)をとりつくろい
対外意識だけで生きている人々を。
――なんと逆説的な人生であることよ。
いま、ここに傷つき果てて
――この、寒い朝の鶏鳴よ
しぼり出すような叫びよ
おお、霜に凍えている鶏鳴よ……

「しみらの」は、凍りつくこと。

Ⅲは「独語」。

器の中の水が揺れないように
器を持ち運ぶことは重要であり
そうであるならば、
大きなモーションで運ぶがいい。

しかしそうするために
もはや工夫することさえやめてしまうのは
いかんいかん。
そんなふうになるんだったら
心よ
謙虚に神の恵みを待つがいい。

Ⅳは、題なし。
文語調に転じます。

とてもとても淡い今日
雨がわびしげに降り注いでいる。

「雨蕭々と」は
「史記」「刺客列伝」の
風蕭々として易水寒し、
を意識しているのでしょうか。

空気は水よりも淡く
どこからか林の香りがしてくる。
ほんとに秋も深くなった今日は
石の響きのような
無機質な生気のない日になった。

思い出さえもないのに
夢なんてあるものか。
ほんとに僕は石のように
影のように生きてきた。

何かを語ろうとしたときには言葉がなく
空のように果てしなく
とらえどころなく
悲しい僕の心よ
理由もなく拳をあげて
誰を責めようとするのか。
ああ切ない切ない。

「あらぬがに」は、「ないのだが」の意。

 *

 修羅街輓歌
    関口隆克に

   序歌

忌(いま)はしい憶(おも)ひ出よ、
去れ! そしてむかしの
憐みの感情と
ゆたかな心よ、
返つて来い!

  今日は日曜日
  縁側には陽が当る。
  ――もういつぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買つてもらひたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかゞやかしかつた……

  忌はしい憶ひ出よ、
  去れ!
     去れ去れ!

  2 酔生

私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
私の青春も過ぎた。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあむまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おゝ、霜にしみらの鶏鳴よ……

   3 独語

器の中の水が揺れないやうに、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
さうでさへあるならば
モーションは大きい程いい。

しかしさうするために、
もはや工夫(くふう)を凝らす余地もないなら……
心よ、
謙抑にして神恵を待てよ。

   4

いといと淡き今日の日は
雨蕭々(せうせう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡(あは)き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如くなり。
思ひ出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いはれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

*ローマ数字は、アラビア数字に変えてあります。(編者)

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2011年6月 9日 (木)

<再読> 秋/黄色い蝶の行方

「山羊の歌」の中の
「秋」の章を読み直しています。
「秋」は
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

「みちこ」の章の次は
「秋」の章で、
5篇の作品が
配されています。

章と同じタイトルの「秋」という作品は
「死」を扱っていて
妙にリアルです。

「汚れつちまつた悲しみに……」第3連第4行の
「倦怠(けだい)のうちに死を夢む」が
ここに突如よみがえったかのようです。

そのイメージが具体化され……。
終わりでは蝶々が
詩集「在りし日の歌」の「一つのメルヘン」へ
続くかのように
草の上を飛んでゆきます。

死んでしまったぼくを
もう一人のぼくが見ている。
(「骨」の萌芽がここにあります)
見ているのはぼくのほかにもう一人
泰子らしき女性です。

二人が会話し
逝ったぼくを回顧する
そういう構造になっています。

第1連。
昨日まで灼熱の陽に燃えていた野原が
今日はぼおーっとして
曇り空の下に続いている。

一雨ごとに秋になるのだ
と世間の人は言う。
秋蝉が、すでにあちこちで鳴いている、
草原の、一本の木立ちの中でも鳴いている。

ぼくが煙草を吸うと
煙が澱んだ空気の中を揺られて昇ってゆく。

地平線は目を凝らしても見ることができない
陽炎の亡霊たちが
立ったり座ったりせわしないので
ぼくは、しゃがみ込んでしまう。

不気味なイメージに
中也独特のリアルさが滲みます。

空は、鈍い金色に曇っている
相変わらず!
とても高いので、ぼくはうつむいてしまう

ぼくは、倦怠(けだい)を観念して生きているんだよ
煙草の味は三通りほどあるのさ
死というやつも、そんなに遠いものじゃないかもしれない

第2連は会話。

それではさよなら、と言って
真鍮の光沢みたいな妙にはっきりした笑みをたたえて
あいつは
あのドアのところから立ち去って行ったんだよな
あの笑いからしてがどうも、
生きている者のようじゃなかったんだよ
あいつの目は
沼の水が澄んだ時かなんかのように
おそろしく冷たく光っていたよ
話している時も、他のことを考えているようだったさ
短く切って、ものを言う独特のクセがあったさ
つまらないことを、くどくど覚えていたよなあ

そうね
死ぬってこと分かっていたのよ
星を見ていると
星がぼくになるんだなんて言って
笑っていたわ
ついさっきのことよ

…………

ついさっきよ、
自分の下駄を、これはぼくのじゃないって言い張るのよ

第3連は女の独白。

草がちっとも揺れなかったのよ
その上を蝶々が飛んでいったのよ
浴衣を着て、あの人、縁側に立って、それを見ているのよ
あたしはこっちからあの人の様子を見てたの
あの人、じっと見てるのよ、黄色い蝶々を。
豆腐屋さんの笛が方々で聞こえていたわ
あの電信柱が、夕空にくっきり見えて
ぼく、って言って、あの人あたしの方を振り向くのよ
きのう30貫くらいある石をこじあげちゃった、って言うのよ
まあ、どうして? どこで?って、わたし聞いたのよ
するとね、あの人、あたしの目をじっと見るのよ
怒っているようなのよ、まあ
あたし、怖かった

死ぬ前って、変なものねえ……

 *

 秋

   1

昨日まで燃えてゐた野が
今日茫然として、曇つた空の下(もと)につづく。
一雨毎に秋になるのだ、と人は云ふ
秋蝉は、もはやかしこに鳴いてゐる、
草の中の、ひともとの木の中に。

僕は煙草を喫ふ。その煙が
澱(よど)んだ空気の中をくねりながら昇る。
地平線はみつめようにもみつめられない
陽炎(かげろふ)の亡霊達が起(た)つたり坐つたりしてゐるので、
――僕は蹲(しやが)んでしまふ。

鈍い金色を帯びて、空は曇つてゐる、――相変らずだ、――
とても高いので、僕は俯(うつむ)いてしまふ。
僕は倦怠を観念して生きてゐるのだよ、
煙草の味が三通りくらゐにする。
死ももう、とほくはないのかもしれない……

   2

『それではさよならといつて、
みように真鍮(しんちゆう)の光沢かなんぞのやうな笑(ゑみ)を湛(たた)へて彼奴(あ
いつ)は、
あのドアの所を立ち去つたのだつたあね。
あの笑ひがどうも、生きてる者のやうぢやあなかつたあね。
彼奴の目は、沼の水が澄んだ時かなんかのやうな色をしていたあね。
話してる時、ほかのことを考へてゐるやうだつたあね。
短く切つて、物を云ふくせがあつたあね。
つまらない事を、細かく覚えていたりしたあね。』

『ええさうよ。――死ぬつてことが分かつてゐたのだわ?
星をみてると、星が僕になるんだなんて笑つてたわよ、たつた先達(せんだつて)よ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
たつた先達よ、自分の下駄を、これあどうしても僕のぢやないつていふのよ。』

   3

草がちつともゆれなかつたのよ、
その上を蝶々がとんでゐたのよ。
浴衣(ゆかた)を着て、あの人縁側に立つてそれを見てるのよ。
あたしこつちからあの人の様子 見てたわよ。
あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。
お豆腐屋の笛が方々で聞えてゐたわ、
あの電信柱が、夕空にクッキリしてて、
――僕、つてあの人あたしの方を振向くのよ、
昨日三十貫くらゐある石をコジ起しちやつた、つてのよ。
――まあどうして、どこで?つてあたし訊(き)いたのよ。
するとね、あの人あたしの目をジッとみるのよ、
怒つてるやうなのよ、まあ……あたし怖かつたわ。

死ぬまへつてへんなものねえ……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年6月 7日 (火)

<再読> つみびとの歌/愛という名の支配

「山羊の歌」の中の
「みちこ」の章を読み直しています。
「つみびとの歌」は
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

献呈詩が続きます。
今度は、阿部六郎へ捧げます。
「三太郎の日記」の著者として有名な
哲学者・阿部次郎の弟の六郎への献呈です。

六郎は、同人誌「白痴群」のメンバーで、
大岡昇平のいう成城グループの一人です。

ぼくの生涯は
下手くそな植木師たちに
若いうちから、手を入れられ、
剪定されてしまった悲しさでいっぱい!

というわけで
ぼくの血の大部分は
頭にのぼり、煮え返り、たぎり、泡立つ
そういう方向に消費されます。

落ち着きがなく
焦ってばかりで
いつも外界に色々なことの答えを見い出そうとする
その行動は愚かなことばかり
その考えはだれの考えとも分かち合うことができない。

こうして、
この可愛そうな木は
粗くて硬い樹皮を、空と風に剥き出しにして
心はいつも、惜しがっている。
怠けていて、一貫した行いが出来ず
人には弱々しく、へつらい
こうして、
自分で思ったこともない愚行を仕出かしてしまう。

昭和3年(1928年)、
父謙助が亡くなります。
中也は、父の溺愛を受けて育ちました。
生家の近くの川で遊ぶことを禁じられたために
生涯、水泳が出来なかったのは
危険だからという理由で
自転車に乗ることを許されなかった
都会の子に似たところがあります。
今様に言えば、愛という名の支配。

訃報を聞いた中也は、
母フクに「帰らないでいい」と助言され
葬儀のためには帰郷しませんでした。

下手くそな植木師たちの筆頭に、
父謙助の名があげられても
仕方はないはずでした。

でも、
植木師は一人ではありません。
複数の植木師がいたのです。
「キミのためを思って言うんだよ」
といった類の助言、忠告……は
中也を窒息させるものでした。

阿部六郎よ
キミはこのことを理解するだろう
詩人は、そう感じていたに違いありません。



つみびとの歌
     阿部六郎に

わが生は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来わが血の大方は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地に、
つねに外界に索(もと)めんとする。
その行ひは愚かで、
その考へは分ち難い。

かくてこのあはれなる木は、
粗硬な樹皮を、空と風とに、
心はたえず、追惜のおもひに沈み、

懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草をもち、
人にむかつては心弱く、諂(へつら)ひがちに、かくて
われにもない、愚事のかぎりを仕出来(しでか)してしまふ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年6月 6日 (月)

<再読> 更くる夜/武蔵野の銭湯

「山羊の歌」の中の
「みちこ」の章を読み直しています。
「更くる夜」は
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

特定の個人に贈る詩を
献呈詩などと言ったり
誰それに捧ぐ、捧げる、とか
Dedicated to ~
Devoted to ~などと
付記することがあります。

詩集「山羊の歌」には、すでに
「ためいき」が、河上徹太郎への献呈詩でしたから
この「更くる夜」は2番目になり
内海誓一郎へ献呈されています。

この詩は
「白痴群」第6号に載りました。

内海誓一郎は、
音楽集団「スルヤ」のメンバーで
「白痴群」の同人にもなった人物ですし、
何よりも記憶されなけれならないのは
中原中也の詩「帰郷」「失せし希望」に
曲をつけた音楽家です。

この曲は
昭和5年(1930年)5月の「スルヤ」発表会で歌われました。
中也の喜びを想像するのは
難しいことではありません。
献呈には、感謝の意味が込められています。

そんなことを知りながら
詩を読んでいくと……

毎夜、深夜に、湯屋で水を使う音が聞こえてくる

湯屋とは銭湯のことです。
銭湯は深夜には営業を終えているはずですから
終業の掃除か、店の者だかが入浴しているのか……

排水溝のほうから湯気があがり
その向こうの夜空は真っ黒な闇が広がる
武蔵野の風景

月が輝いて
犬の遠吠えが聞こえてくる。

その頃になるときまって
ぼくは囲炉裏の前で
あえかな、弱々しい、
うっすらとした夢を見るのです。

今になっては、
欠けてしまって完全ではないのだけれど
やさしい心がまだあって
こんな夜にそれがだんだん膨らんできて
つぶやきはじめるのに
ぼくは感謝に満ちた気持ちで聞き入ります。

昭和初期の東京の
杉並とか中野とか世田谷とか渋谷とか
それらはみんな武蔵野の一角でしたから
これも特定する必要はありません。

囲炉裏があったか
たとえば昔の火鉢は
四角い、小さな囲炉裏のようでしたから
それを詩人は使っていたのかもしれません。

酒を飲んでいる風にも見えず
創作に向かうひとときか、合間か
しみじみと思いに耽る
詩人。

*
更くる夜
   内海誓一郎に

毎晩々々、夜が更(ふ)けると、近所の湯屋の
  水汲む音がきこえます。
流された残り湯が湯気となつて立ち、
  昔ながらの真つ黒い武蔵野の夜です。
おつとり霧も立罩(たちこ)めて
  その上に月が明るみます、
と、犬の遠吠がします。

その頃です、僕が囲炉裏(ゐろり)の前で、
  あえかな夢をみますのは。
随分……今では損はれてはゐるものの
  今でもやさしい心があつて、
こんな晩ではそれが徐(しづ)かに呟きだすのを、
  感謝にみちて聴きいるのです、
感謝にみちて聴きいるのです。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年6月 5日 (日)

<再読>「無題」/わいだめもない世

「山羊の歌」の中の
「みちこ」の章を読み直しています。
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

「無題」は
仮題ではなく
詩人によってつけられた
詩のタイトルです。

中原中也の詩としては長い作品です。
長詩とは言えませんが
他のいくつかの長編と並んで
広がり、深さなど
スケールが大きく
圧倒されます。

5章に分けられた1は
読んだ通りに理解できる
平易な言葉で作られています。
泰子と別れた後に
荒れ狂う詩人の
ストレートな立ち居振る舞いや心情が
そのまま明らかにされ
自ら嘆きます。
私がくだらない奴だと、自ら信ずる! のです

1章で「おまへ」と呼びかけていた相手が
2章では「彼女」になります。
距離をおいて、彼女をとらえます。

彼女はまっすぐな心で
乱雑な世の中を生きてきた
わきまえのない・めちゃくちゃな世の中を
(*「わいだめもない」は、「けじめのない」という意味)
つつましく生きている
時に、心は弱り、ふさいだりすることもあるが
最後の品位を失わない
美しい、賢い
やさしい心を求めて生きてきた彼女も
エゴイスティックで幼稚な
けものやガキどもとしか出会わなかった上に
人というものはみんなやくざと思うようになってしまった
いじけてしまったのだ
彼女はかわいそうだ

3章は文語へ転調します。
少しだけ、文語のボキャブラリーが要るけれど
むずかしいほどではありません。

このように悲しく生きなければならない世の中に
あなたの心が、頑かたくなに、
頑固になることをのぞまない
かたくなにしてあらしめな
頑ななままであってはならないよ

私のほうは、あなたに親しくしたいと願うばかりで
あなたの心が、頑ななままであってはほしくない
頑なにしていると
心で見ることがなくなり、魂にも
言葉の働くことがなくなりますし
和やかな時には、人はみな生まれながらに
佳い夢を見るものですが
そういう道理を受け取ることにもなるのです。

自分の心も魂も、
忘れ果て、捨て去り
悪酔いして、狂ったように美しいもののみを求める
この世の中、私が住んでいる世の中の
なんと悲しいことでしょうか。

自分の心の中に自ずと湧き上がってくる思いもなく
他人に勝とう勝とうとして焦るばかりの
熱病のような風景は
なんと悲しいことではありませんか。

4章は
1章の「こいびとよ」の距離もなく
近くで「おまえ」に呼びかけます。

現代語で
喋りかけていますから
だれにも分かる言葉ばかりです。
しかし、甘さはありません。
睦まじい恋人同士の囁きとは
全然異なる喋りです。

おまえを思っているのも
まるで自分を罪人であるかのように感じて
思うのです。
おまえを愛しているのも
身を捨てておまえに尽くそうと
思うからです。

そうすることが
幸福なんだ
尽くせるんだから
幸福なんだ

5章は、「幸福」の副題がついています。
実は、3章も、「詩友に」というタイトルがつけられ、
「白痴群」創刊号に掲載された
独立した詩でした。
それと同じことです。

幸福は馬屋の中にある
馬屋の藁の上にある
幸福は和やかな心にはたちまちにして感じられる
頑なな心は
不幸だ
幸福はゆっくり休むことを知っている
やるべきことを少しづつやり
理解に富んでいる
頑なな心は
理解に欠け
利に走り
意気消沈して
怒りやすく
人に嫌われ
自分も悲しい
だから人よ
まず人に従おうとしよう
従って、迎え入れてもらおうとするのではなく
従うことそのものを学んで
自分の品格を高め
品格の働きを豊かにさせるのだ

たとえ
寄せ集めであったとしても
一貫して流れるものがあります
詩句の切れ端を集めて
一つの山へと総合する力の
非凡さ。
タイトルをつけられなかった
のではなく
無題、
というタイトルをつけた詩人の思いに
じっと耳傾けてみましょう。

 *

 無題

   1

こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといつて正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
人の気持ちをみようとするやうなことはつひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のやうに我儘(わがまま)だつた!
目が覚めて、宿酔(ふつかよひ)の厭(いと)ふべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みづか)ら信ずる!

   2

彼女の心は真つ直い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲んでも
もらへない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真つ直いそしてぐらつかない。

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きてゐる。
あまりにわいだめもない世の渦のために、
折に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、
而(しか)もなほ、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめてゐたかは!
しかしいまではもう諦めてしまつてさへゐる。
我利々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、
彼女は出遇(であ)はなかつた。おまけに彼女はそれと識(し)らずに、
唯、人といふ人が、みんなやくざなんだと思つてゐる。
そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!

   3

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがへば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生(あ)れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂ひ心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがはしき
熱を病む風景ばかりかなしきはなし。

   4

私はおまへのことを思つてゐるよ。
いとほしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸つてゐるよ、
まるで自分を罪人ででもあるやうに感じて。

私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。

またさうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
さうすることは、私に幸福なんだ。

幸福なんだ、世の煩(わづら)ひのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまへに尽せるんだから幸福だ!

   5 幸福

幸福は厩(うまや)の中にゐる
藁(わら)の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。

幸福は、休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでゐる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈して、怒りやすく、
  人に嫌はれて、自らも悲しい。

されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。
従ひて、迎へられんとには非ず、
従ふことのみ学びとなるべく、学びて
汝が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年6月 3日 (金)

<再読>みちこ/肉体賛美

「山羊の歌」の中の
「みちこ」の章を読み直しています。
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

章題を「みちこ」として
5作品が選ばれましたが
なぜ
「みちこ」という章題なのか

「少年時」後半部で
過去の「心の歴史」と化した恋は
長谷川泰子との離別の歌であったからか
ふたたび
歌われるためには
「みちこ」でなければならなかったのでしょうか

「みちこ」は
女性崇拝とか
女性賛美とかいうより
肉体賛美の詩。

胸むね
目め・まなこ・ひとみ
額ひたい(顙ぬか)
項くびすじ・うなじ
腕かいな・うで
一つひとつを賛美しています。

肉体賛美は
中原中也の場合
当然、精神の賛美ですが
胸を賛美して海
目を賛美して空
額(ひたい)を賛美して牡牛……と

女性を賛美するのに
自然になぞらえたのです。
倫理的なるものや
思想的なるものを
賛美したのではありません。

すでに
失われてしまった恋であるか
遠い日の恋であるゆえにか
この賛美は完全です
人間くささがなく
透明感があります。

現実での話、この女性は
長谷川泰子ではなく
他の女性が推論されていますが
(「痴人の愛」(谷崎潤一郎)のモデルになった葉山三千子であることを大岡昇平が証言しています)

女性がだれそれと特定されなくともOK!
と言えるほどに
女性一般の美しさを
歌い上げていて
見事!です

どのような女性も
このように歌われる美点を
少なからず持ち合わせているものです。

あなたの胸はまるで海のようだ
大きく打ち寄せ打ち上がる。
遥かな空、青い波に
涼しい風が吹いて
磯が白々と続いているかのようだ

また、あなたの目は、あの空の
遠い果てをも映し
次々に並んでやって来る波の
とても速く移ろっていくのに似ている。

あなたの目は
見るともなしに
沖を行く舟をみている

また、あなたの額の美しいこと!
物音に驚いて
昼寝から目覚めた牡牛のように
あどけなく
軽やかでしとやかに
頭をもたげたかと見る間に
打ち臥して眠りに入る

しどけない、あなたの首筋は虹のようで
力なく、赤ん坊のような腕をして
絃いとうたあはせはやきふし
いとうたあわせはやきふし 
イトウタアワセハヤキフシ 
糸・唄・合わせ・速き・節。

弦楽器の弦の糸と歌、とは、
音曲とか歌曲ほどの意味でしょうか。

歌曲の速いフレーズに乗って
あなたが踊ると
海原は涙に濡れて金色の夕日を湛たたえ
沖の瀬は、とても遠く、
向こうの方に静かに潤うるおっている

空に、あなたの息が絶えようとする
その瞬間を
僕は見た。

みちこ
きれいだよ

 *
 みちこ

そなたの胸は海のやう
おほらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あをき浪、
涼しかぜさへ吹きそひて
松の梢をわたりつつ
磯白々とつづきけり。

またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしゐて
竝びくるなみ、渚(なぎさ)なみ、
いとすみやかにうつろひぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆
沖ゆく舟にみとれたる。

またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡の夢をさまされし
牡牛(をうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯しぬ。

しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かひな)して
絃(いと)うたあはせはやきふし、なれの踊れば、
海原はなみだぐましき金(きん)にして夕陽をたたへ
沖つ瀬は、いよとほく、かしこしづかにうるほへる
空になん、汝(な)の息絶ゆるとわれはながめぬ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年6月 2日 (木)

<再読>寒い夜の自我像/失われた恋

「山羊の歌」の中の
「少年時」を読み直しています。
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

「寒い夜の自我像」は
中原中也の詩が
初めて「活字」になったことで知られる
大変、有名な作品です。

この詩は
昭和4年(1929年)4月
「白痴群」の創刊号に発表されました。

小学校時代から
短歌に打ち込み
大正9年(1920年)、
中学入学前の12歳の時
幾つかの作品が
「婦人画報」や
地元・山口の「防長新聞」に掲載されたのを振り出しに
その後も、防長新聞への投稿は続けられ
中学3年、15歳の時には
私家版の歌集「末黒野(すぐるの)」を上級生らと
連名で発行したりしてきた詩人が
詩を活字にしたのは
この「白痴群」が初めてだったのです。

満22歳の誕生日が目前でした。
早熟だった詩人としては
遅いスタートといえるのですが
泰子と二人で東京に出てきて
その泰子との離別のドラマのただ中での
同人誌発行は
詩人にとって起死回生の場でもありました。

その創刊号に
「詩友に」という作品とともに発表したのが
「寒い夜の自我像」で
この2作品には
詩人の尋常でない意気込みが込められています。

「山羊の歌」に収められた
「寒い夜の自我像」は
「白痴群」に発表されたものと
ほぼ同じものですが
はじめは
3節からなる詩でした。
その第1節を独立させた詩が
広く知られる「寒い夜の自我像」です。

原形(第一次形態)から
第2節と第3節をカットした詩であるということ、
長い詩を短い詩にしたということ。
この改変には
詩人の戦略が込められたのですし
宣言が込められました。

その詩の第1連第7行

憧れに引廻される女等の鼻唄を

は、長谷川泰子のことを歌っています。

その恋は
現実では失われつつありました。
詩にはその反映があります。

だからといって
この詩は単なる失恋の詩
なのではありません。

失恋の詩でありながら
「志」を述べ
詩人のスタンスを宣言し
魂のありようを歌い
詩論を展開し
思想を語る……

同人詩創刊号の
巻頭詩の位置をしめるこの詩が
恋愛の詩であっても
恋愛だけに終わることのない詩になったのは
こうした背景があったからです。

色々なものを失って
詩人が拠り所とするのは
詩しかないという地点。

この一本の手綱
その志
静もりを保ち
儀文(=かたち)めいた心地をもつて
陽気で、
坦々として、
己を売らないわが魂

これらは
きらびやかにはなりようがないものです。

 *
 寒い夜の自我像

きらびやかでもないけれど
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志明らかなれば
冬の夜を我は嘆かず
人々の憔懆(せうさう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻される女等の鼻唄を
わが瑣細なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)かは儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諫(いさ)める
寒月の下を往きながら。

陽気で、坦々として、而(しか)も己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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