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中原中也を歌う(曲と歌:桜木うさこさん)

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カテゴリー「折りにふれて読む名作・選」の記事

2017年5月23日 (火)

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その19/「雪の宵」

 

 

恋は終わっても

思い出すといとしくてしかたない――。

 

 

今、目の前にあるのは

ホテルの煙突です。

 

そこに恋人はいません。

 

 

雪の宵

        青いソフトに降る雪は

        過ぎしその手か囁きか  白 秋

 

ホテルの屋根に降る雪は

過ぎしその手か、囁(ささや)きか

  

  ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、

  赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。

 

今夜み空はまっ暗で、

暗い空から降る雪は……

 

  ほんに別れたあのおんな、

  いまごろどうしているのやら。

 

ほんにわかれたあのおんな、

いまに帰ってくるのやら

 

  徐(しず)かに私は酒のんで

  悔(くい)と悔とに身もそぞろ。

 

しずかにしずかに酒のんで

いとしおもいにそそらるる……

 

  ホテルの屋根に降る雪は

  過ぎしその手か、囁きか

 

ふかふか煙突煙吐いて

赤い火の粉も刎ね上る。

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。)

 

 

 

ホテルの煙突が

ふかふかと煙を吐いて

赤い火の粉が跳ねる、という現在形。

 

恋は現在形の中に

思い出されるだけのものです。

 

過去のものです。

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その18/「秋 」

 

 

初期詩篇

少年時

みちこ

羊の歌

――で構成される「山羊の歌」中の恋の詩は

これらの章が変るにつれて

微妙な変化をこうむっていくようでありますが

さてではどんな変化かというと

明確に言い切ることができないような変化です。

 

 

「山羊の歌」中「秋」には

「秋」

「雪の宵」

「生い立ちの歌」

「時こそ今は……」

――の恋歌がありますが

章題と同じタイトルの「秋」では

僕は死の予感の中にあり(1)

恋人と死の直前にかわす会話が詩になり(2)

やがて死んだ時の様子が恋人に語られる(3)ことになります。

 

 

 

   1

 

昨日まで燃えていた野が

今日茫然として、曇った空の下につづく。

一雨毎(ひとあめごと)に秋になるのだ、と人は云(い)う

秋蝉(あきぜみ)は、もはやかしこに鳴いている、

草の中の、ひともとの木の中に。

 

僕は煙草(たばこ)を喫(す)う。その煙が

澱(よど)んだ空気の中をくねりながら昇る。

地平線はみつめようにもみつめられない

陽炎(かげろう)の亡霊達が起(た)ったり坐(すわ)ったりしているので、

――僕は蹲(しゃが)んでしまう。

 

鈍い金色を滞びて、空は曇っている、――相変らずだ、――

とても高いので、僕は俯(うつむ)いてしまう。

僕は倦怠(けんたい)を観念して生きているのだよ、

煙草の味が三通(みとお)りくらいにする。

死ももう、とおくはないのかもしれない……

 

    2

 

『それではさよならといって、

みょうに真鍮(しんちゅう)の光沢かなんぞのような笑(えみ)を湛(たた)えて彼奴(あいつ)は、

あのドアの所を立ち去ったのだったあね。

あの笑いがどうも、生きてる者のようじゃあなかったあね。

 

彼奴(あいつ)の目は、沼の水が澄(す)んだ時かなんかのような色をしてたあね。

話してる時、ほかのことを考えているようだったあね。

短く切って、物を云うくせがあったあね。

つまらない事を、細かく覚えていたりしたあね。』

 

『ええそうよ。――死ぬってことが分っていたのだわ?

星をみてると、星が僕になるんだなんて笑ってたわよ、たった先達(せんだって)よ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

たった先達よ、自分の下駄(げた)を、これあどうしても僕のじゃないっていうのよ。』

 

   3

 

草がちっともゆれなかったのよ、

その上を蝶々(ちょうちょう)がとんでいたのよ。

浴衣(ゆかた)を着て、あの人縁側に立ってそれを見てるのよ。

あたしこっちからあの人の様子 見てたわよ。

あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。

お豆腐屋の笛が方々(ほうぼう)で聞えていたわ、

あの電信柱が、夕空にクッキリしてて、

――僕、ってあの人あたしの方を振向(ふりむ)くのよ、

昨日三十貫(かん)くらいある石をコジ起しちゃった、ってのよ。

――まあどうして、どこで?ってあたし訊いたのよ。

するとね、あの人あたしの目をジッとみるのよ、

怒ってるようなのよ、まあ……あたし怖かったわ。

 

死ぬまえってへんなものねえ……

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。)

 

 

恋の季節は流れて

ぞくっとする秋風が吹いています。

 

恋人の語る言葉だけで

秋の訪れが歌われます。

 

2017年5月20日 (土)

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その17/「汚れっちまった悲しみに…… 」

 

 

「山羊の歌」の「みちこ」の章には

有名な「汚れっちまった悲しみに……」があり

これが「みちこ」と「無題」の間に配置されています。

 

「汚れっちまった悲しみに……」が

失恋を歌った詩であることも

疑うことはできませんが

失恋の歌以上の深みがあるゆえに

失恋の詩とわざわざ言わなくてよいかのように

愛唱されてきました。

 

 

汚れっちまった悲しみに……

 

汚れっちまった悲しみに

今日も小雪の降りかかる

汚れっちまった悲しみに

今日も風さえ吹きすぎる

 

汚れっちまった悲しみは

たとえば狐の革裘(かわごろも)

汚れっちまった悲しみは

小雪のかかってちぢこまる

 

汚れっちまった悲しみは

なにのぞむなくねがうなく

汚れっちまった悲しみは

倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

 

汚れっちまった悲しみに

いたいたしくも怖気(おじけ)づき

汚れっちまった悲しみに

なすところもなく日は暮れる……

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。)

 

 

悲しみのうえに汚れが重なっているということなら

泣きっ面に蜂の状態だ

――と言いかえただけで

失われる詩がありますから

その分を差し引いて感じ取ることが大事です。

 

「盲目の秋」がそうであったように

この詩が失恋を歌って

失恋以上を歌っていて

ではそれは何かと問いはじめると

詩を見失なってしまうので

自然、また歌を口ずさむと

詩が戻って来る

――というような循環が心地よい歌です。

 

2017年5月19日 (金)

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その16/「無題」

 

 

「無題」は

題が付けられなかった詩であるというよりも

「無題」という題の詩です。

 

題名を付けていない詩は

未完成であり

未発表ですが

「無題」は「無題」という詩で完成品ですし

発表された作品です。

 

現状(というのは最終形態である「山羊の歌」の中の詩)に至る

詩内容の変遷を知ることが

完成品を理解するのに役立つことでしょうが

まずは(最終的にも)

詩を読むことが「無題」という詩に近づく一番の近道となります。

 

 

無 題

 

   Ⅰ

 

こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、

私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、

酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝

目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら

私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。そして

正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、

品位もなく、かといって正直さもなく

私は私の幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る。

人の気持ちをみようとするようなことはついになく、

こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに

私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!

目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)うべき頭の中で、

戸の外の、寒い朝らしい気配(けはい)を感じながら

私はおまえのやさしさを思い、また毒づいた人を思い出す。

そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、

今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!

 

   Ⅱ

 

彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!

彼女は荒々しく育ち、

たよりもなく、心を汲(く)んでも

もらえない、乱雑な中に

生きてきたが、彼女の心は

私のより真っ直いそしてぐらつかない。

 

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に

彼女は賢くつつましく生きている。

あまりにわいだめもない世の渦(うず)のために、

折(おり)に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、

而(しか)もなお、最後の品位をなくしはしない

彼女は美しい、そして賢い!

 

甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめていたかは!

しかしいまではもう諦めてしまってさえいる。

我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、

彼女は出遇(であ)わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、

唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。

そして少しはいじけている。彼女は可哀想(かわいそう)だ!

 

   Ⅲ

 

かくは悲しく生きん世に、なが心

かたくなにしてあらしめな。

われはわが、したしさにはあらんとねがえば

なが心、かたくなにしてあらしめな。

 

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)

魂に、言葉のはたらきあとを絶つ

なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの

うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

 

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて

悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む

わが世のさまのかなしさや、

 

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、

人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき

熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。

 

   Ⅳ

 

私はおまえのことを思っているよ。

いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、

昼も夜も浸っているよ、

まるで自分を罪人ででもあるように感じて。

 

私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。

いろんなことが考えられもするが、考えられても

それはどうにもならないことだしするから、

私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。

 

またそうすることのほかには、私にはもはや

希望も目的も見出せないのだから

そうすることは、私に幸福なんだ。

 

幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、

いかなることとも知らないで、私は

おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!

  

    Ⅴ 幸福

 

幸福は厩(うまや)の中にいる

藁(わら)の上に。

幸福は

和(なご)める心には一挙にして分る。

 

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、

   せめてめまぐるしいものや

  数々のものに心を紛(まぎ)らす。

   そして益々(ますます)不幸だ。

 

幸福は、休んでいる

そして明らかになすべきことを

少しづつ持ち、

幸福は、理解に富んでいる。

 

  頑なの心は、理解に欠けて、

   なすべきをしらず、ただ利に走り、

   意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、

   人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。

 

されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。

従いて、迎えられんとには非ず、

従うことのみ学びとなるべく、学びて

汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

  

(「新編中原中也全集」第2巻より。現代かなに変えました。)

 

 

 

「無題」ははじめ

この詩の第3節「Ⅲ」だけの

「詩友に」という題の詩でした。

 

「詩友に」は4連の独立したソネット形式で

「白痴群」に発表されたのが 

昭和4年(1929年)4月1日付けの創刊号でした。

 

昭和5年(1930年)4月1日付け発行の

「白痴群」第6号は終刊号ですが

この号に発表されたときに「詩友に」は

「無題」の第3節に組み込まれ

「詩友に」という題は削除されました。

 

この「無題」とほぼ同じ内容が

「山羊の歌」に収録されました。

 

 

以上の経過が

「無題」の変遷ということになります。

 

 

「詩友に」の詩友たちは

言うまでもなく

「白痴群」の同人や

広く、詩を目指す人々を指していますが

この中に長谷川泰子が含まれているところに

「無題」というタイトルになった理由があります。

 

「無題」が恋の詩でもある理由も

ここにありますが

全体重をかけて歌った恋の詩に

恋のタイトルをつけることを無用とした

詩人のこころが見えてくるような詩でもあります。

 

2017年5月16日 (火)

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その15/「みちこ」

 

 

大きく捉えれば失恋の歌、片恋の歌と言えても

中原中也の恋の詩は

同じ調子の単旋律ではありません。

 

「山羊の歌」中の恋歌と「在りし日の歌」中の恋歌が

異なる響きを持つのは当然にしても

「山羊の歌」の中だけでも

恋の歌の旋律は色々に変化します。

 

 

みちこ

 

そなたの胸は海のよう

おおらかにこそうちあぐる。

はるかなる空、あおき浪、

涼しかぜさえ吹きそいて

松の梢(こずえ)をわたりつつ

磯白々(しらじら)とつづきけり。

 

またなが目にはかの空の

いやはてまでもうつしいて

竝(なら)びくるなみ、渚なみ、

いとすみやかにうつろいぬ。

みるとしもなく、ま帆片帆(ほかたほ)

沖ゆく舟にみとれたる。

 

またその顙(ぬか)のうつくしさ

ふと物音におどろきて

午睡(ごすい)の夢をさまされし

牡牛(おうし)のごとも、あどけなく

かろやかにまたしとやかに

もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。

 

しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして

ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して

絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、

海原(うなばら)はなみだぐましき金にして夕陽をたたえ

沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる

空になん、汝(な)の息絶(た)ゆるとわれはながめぬ。

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。)

 

 

詩に歌われている女性が

実在のモデルがあって

その女性を歌ったものであるかどうか。

 

「みちこ」が

長谷川泰子を歌った詩であるか

大岡昇平は別の女性の可能性を指摘していますが

これも特定できるものではなさそうです。

 

 

モデルの実証に心を奪われるよりも

中也の恋の詩をいくつか読んできて

この詩に巡り合うと

これまで読んで来た詩と異なる世界に降り立つようです。

 

この経験は

新しいコンチェルト(協奏曲)の名演奏を聴くときの

新鮮な気持ちに似ています。

2017年5月14日 (日)

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その14/「盲目の秋」

 

 

 

 

恋の歌とは

多くが破局の歌であり

別れの歌であり

失恋の歌であると言えるでしょうか。

 

これも断言できることではありませんが

「愛してる」「わたしもよ」

――だけの甘苦しい歌は

それを歌いたいあなただけに任せます

勝手にしなさい

――と言いたくなる人は多いことでしょう。

 

 

ここで

失恋の歌の白眉。

 

恋の詩の傑作。

 

ゲンダイシにも

なかなかお目にかかれない中也、渾身の名作です。

 

 

盲目の秋    

 

風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、

   無限の前に腕を振る。

 

その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、

   それもやがては潰(つぶ)れてしまう。

 

風が立ち、浪が騒ぎ、

   無限のまえに腕を振る。

 

もう永遠に帰らないことを思って

  酷薄(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……

 

私の青春はもはや堅い血管となり、

   その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

 

それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、

   去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、

   

 厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく

  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

 

      ああ、胸に残る……

 

風が立ち、浪が騒ぎ、

   無限のまえに腕を振る。

 

   Ⅱ

 

これがどうなろうと、あれがどうなろうと、

そんなことはどうでもいいのだ。

 

これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、

そんなことはなおさらどうだっていいのだ。

 

人には自恃(じじ)があればよい!

その余(あまり)はすべてなるままだ……

 

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、

ただそれだけが人の行(おこな)いを罪としない。

 

平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、

朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!

 

   Ⅲ

 

私の聖母(サンタ・マリヤ)!

   とにかく私は血を吐いた! ……

おまえが情けをうけてくれないので、

   とにかく私はまいってしまった……

 

それというのも私が素直(すなお)でなかったからでもあるが、

   それというのも私に意気地(いくじ)がなかったからでもあるが、

 私がおまえを愛することがごく自然だったので、

   おまえもわたしを愛していたのだが……

 

おお! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!

   いまさらどうしようもないことではあるが、

せめてこれだけ知るがいい――

 

ごく自然に、だが自然に愛せるということは、

   そんなにたびたびあることでなく、

そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。

 

   Ⅳ

 

せめて死の時には、

あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。

   その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、

   その時は白粧をつけていてはいや。

 

ただ静かにその胸を披いて、

 私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。

   何にも考えてくれてはいや、

   たとえ私のために考えてくれるのでもいや。

 

ただはららかにはららかに涙を含み、

あたたかく息づいていて下さい。

――もしも涙がながれてきたら、

 

いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、

それで私を殺してしまってもいい。

すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。)

 

 

この詩も

「白痴群」第6号に発表され

この号のために制作したとされていますから

1930年(昭和5年)の1、2月ですが

前年の作という推定もあります。

 

 

2017年5月13日 (土)

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その13/「わが喫煙」

 

 

傍(はた)から見れば

似合いのカップルでも

相手を不服に思うこころがあったり

破局が訪れている段階であったりするわけですが

この詩がどのような段階の恋であるのか。

 

 

わが喫煙

 

おまえのその、白い二本の脛(すね)が、

   夕暮(ゆうぐれ)、港の町の寒い夕暮、

にょきにょきと、ペエヴの上を歩むのだ。

   店々に灯(ひ)がついて、灯がついて、

 私がそれをみながら歩いていると、

   おまえが声をかけるのだ、

どっかにはいって憩(やす)みましょうよと。

 

そこで私は、橋や荷足を見残しながら、

   レストオランに這入(はい)るのだ――

わんわんいう喧騒(どよもし)、むっとするスチーム、

   さても此処(ここ)は別世界。

そこで私は、時宜(じぎ)にも合わないおまえの陽気な顔を眺め、

   かなしく煙草(たばこ)を吹かすのだ、

 

 一服(いっぷく)、一服、吹かすのだ……

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。)

 

 

絶頂を越えてしまった

恋であることは間違いなさそうです。

 

かなしく煙草をふかす詩人は

打つべき手がありません。

 

 

初出が「白痴群」第6号、

1930年(昭和5年)4月1日付けの発行です。

 

この年の1、2月もしくは前年の制作と推定されています。

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その12/「初恋集」

 

 

恋の思い出を思い出すことは

恋することよりも幸せなことだと言ったら

そりゃ思想の逆立(さかだ)ちだと笑われそうな

本末転倒でしょうか?

 

中也がどうであったかはわかりかねますが

「初恋集」を読んでいると

初恋したあの時よりも

思い出している今が

ずっと幸せな気持ちになっている自分があり

はっとして

その後、微笑がこぼれます。

 

 

初恋集  

 

すずえ

 

それは実際あったことでしょうか

それは実際あったことでしょうか

僕とあなたが嘗(かつ)ては愛した?

ああそんなことが、あったでしょうか。

 

あなたはその時十四でした

僕はその時十五でした

冬休み、親戚で二人は会って

ほんの一週間、一緒に暮した

 

ああそんなことがあったでしょうか

あったには、ちがいないけど

どうもほんとと、今は思えぬ

あなたの顔はおぼえているが

 

あなたはその後遠い国に

お嫁に行ったと僕は聞いた

それを話した男というのは

至極(しごく)普通の顔付していた

 

それを話した男というのは

至極普通の顔していたよう

子供も二人あるといった

亭主は会社に出てるといった

 

        (一九三五・一・一一)

 

むつよ

 

あなたは僕より年が一つ上で

あなたは何かと姉さんぶるのでしたが

実は僕のほうがしっかりしてると

僕は思っていたのでした

 

ほんに、思えば幼い恋でした

僕が十三で、あなたが十四だった。

その後、あなたは、僕を去ったが

僕は何時まで、あなたを思っていた……

 

それから暫(しばら)くしてからのこと、

野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあったのを

あなたは、それが家(うち)のだとしらずに、

それと、暫く遊んでいました

 

僕は背戸(せど)から、見ていたのでした。

僕がどんなに泣き笑いしたか、

野原の若草に、夕陽が斜めにあたって

それはそれは涙のような、きれいな夕方でそれはあった。

 

        (一九三五・一・一一)

 

終歌

 

噛(か)んでやれ。叩いてやれ。

吐(ほ)き出してやれ。

吐き出してやれ!

 

噛んでやれ。(マシマロやい。)

噛んでやれ。

吐き出してやれ!

 

(懐かしや。恨めしや。)

今度会ったら、

どうしよか?

 

噛んでやれ。噛んでやれ。

叩いて、叩いて、

叩いてやれ!

 

        (一九三五・一・一一)

 

(「新編中原中也全集」第2巻より。新かなに変えました。)

 

 

この詩を詩人が書く気になった胸のうちを思うと

なんだか心があたたまります。

 

あの時の幸せが

こちらにも乗り移ってきます。

 

2017年5月11日 (木)

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その11/「或る夜の幻想(1・3)」

 

 

「或る夜の幻想」は

「四季」昭和12年(1937年)3月号に

全6節の連作構成詩として発表されましたが

「在りし日の歌」には

第2節が「村の時計」として

第4、5、6節が「或る男の肖像」として収録され

第1節「彼女の部屋」と第3節「彼女」は削除されました。

 

ですから「或る夜の幻想」というタイトルの詩は

「四季」誌上でしか読むことはできません。

 

「新編中原中也全集」はこれを踏まえ

「或る夜の幻想」の削除された部分を

「或る夜の幻想(1・3)」のタイトルで

「生前発表詩篇」の中に分類して

読むことができるようにしています。

 

 

或る夜の幻想(1・3)

 

    1 彼女の部屋

 

彼女には

美しい洋服箪笥(ようふくだんす)があった

その箪笥は

かわたれどきの色をしていた

 

彼女には

書物や

其(そ)の他(ほか)色々のものもあった

が、どれもその箪笥(たんす)に比べては美しくもなかったので

彼女の部屋には箪笥だけがあった

 

  それで洋服箪笥の中は

  本でいっぱいだった

 

   3 彼 女

 

野原の一隅(ひとすみ)には杉林があった。

なかの一本がわけても聳(そび)えていた。

 

或(あ)る日彼女はそれにのぼった。

下りて来るのは大変なことだった。

 

それでも彼女は、媚態(びたい)を棄てなかった。

一つ一つの挙動(きょどう)は、まことみごとなうねりであった。

 

夢の中で、彼女の臍(おへそ)は、

背中にあった。

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。新かなに変えました。)

 

 

ここに登場する彼女は

長谷川泰子以外を想像することはできませんが

もはや長谷川泰子というモデルは

固有名詞である以上に

普遍性(永遠性)を有する存在になっているようで

なんとも不思議な感覚になります。

 

人によって受け止め方は違うのでしょうが

実在のモデルであることは変わりようがないのですが

詩の中に現われた途端に

何か血の流れる身体というよりも

どこかしら作り物めいた人工的なイメージさえするのは

詩に現れる女性が

もともとシュール(超現実的)に描かれているからでしょうか。

 

 

「四季」発表の1937年は

詩人の最晩年になります。

 

遠い日の恋を歌うパワーは

いまだ衰えを知らなかったのです。

2017年5月10日 (水)

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その10/「別離」

 

 

 

ここでこの詩を読むことが

適当であるのか

正しいのか正しくないのか

よくわからないままに

やはり読むことにします。


 

「青い瞳」や「追懐」と同様に

この詩にも謎めいた詩行があり

詩人はそれを意図的に

説明しようとしていないという意図を含んでいるような詩です。

 

 

 

別 離

 

 

 

さよなら、さよなら!

 

いろいろお世話になりました

 

いろいろお世話になりましたねえ

 

いろいろお世話になりました

 

 

さよなら、さよなら!

 

こんなに良いお天気の日に

 

お別れしてゆくのかと思うとほんとに辛い

 

こんなに良いお天気の日に

 

 

さよなら、さよなら!

 

僕、午睡(ひるね)から覚(さ)めてみると

 

みなさん家を空けておいでだった

 

あの時を妙に思い出します

 

 

さよなら、さよなら!

 

そして明日の今頃は

 

長の年月見馴れてる

 

故郷の土をば見ているのです

 

 

さよなら、さよなら!

 

あなたはそんなにパラソルを振る

 

僕にはあんまり眩(まぶ)しいのです

 

あなたはそんなにパラソルを振る

 

 

さよなら、さよなら!

 

さよなら、さよなら!

 

 

        (一九三四・一一・一三)

 

 

   2

 

 

僕、午睡から覚めてみると、

 

みなさん、家を空けておられた

 

あの時を、妙に、思い出します

 

 

日向ぼっこをしながらに、

 

爪摘(つめつ)んだ時のことも思い出します、

 

みんな、みんな、思い出します

 

 

芝庭のことも、思い出します

 

薄い陽の、物音のない昼下り

 

あの日、栗を食べたことも、思い出します

 

 

干された飯櫃(おひつ)がよく乾き

 

裏山に、烏(からす)が呑気(のんき)に啼いていた

 

ああ、あのときのこと、あのときのこと……

 

 

僕はなんでも思い出します

 

僕はなんでも思い出します

 

でも、わけても思い出すことは

 

 

わけても思い出すことは……

 

——いいえ、もうもう云えません

 

決して、それは、云わないでしょう

 

 

   3

 

 

忘れがたない、虹と花、

 

  忘れがたない、虹と花

 

  虹と花、虹と花

 

 

どこにまぎれてゆくのやら

 

  どこにまぎれてゆくのやら

 

  (そんなこと、考えるの馬鹿)

 

 

その手、その脣(くち)、その唇(くちびる)の、

 

いつかは、消えて、ゆくでしょう

 

(霙(みぞれ)とおんなじことですよ)

 

 

あなたは下を、向いている

 

向いている、向いている

 

さも殊勝(しゅしょう)らしく向いている

 

 

いいえ、こういったからといって

 

  なにも、怒(おこ)っているわけではないのです、

 

  怒っているわけではないのです

 

 

忘れがたない虹と花、

 

虹と花、虹と花、

 

(霙(みぞれ)とおんなじことですよ)

 

 

 

   4

 

 

何か、僕に、食べさして下さい。

 

何か、僕に、食べさして下さい。

 

きんとんでもよい、何でもよい、

 

何か、僕に食べさして下さい!

 

 

いいえ、これは、僕の無理だ、

 

  こんなに、野道を歩いていながら

 

  野道に、食物(たべもの)、ありはしない。

 

  ありません、ありはしません!

 

 

   5

 

 

向うに、水車が、見えています、

 

  苔むした、小屋の傍(そば)、

 

ではもう、此処(ここ)からお帰りなさい、お帰りなさい

 

  僕は一人で、行けます、行けます、

 

僕は、何を云ってるのでしょう

 

   いいえ、僕とて文明人らしく

 

もっと、他の話も、すれば出来た

 

  いいえ、やっぱり、出来ません出来ません

 

 

(「新編中原中也全集」第2巻所収「ノート小年時」より。新かなに変えました。原詩の傍点

は“ ”で示しました。編者。)

 


「1」に現われる「あの時」と

「2」に現われる「あの時」「あのとき」が

そもそも同じ時を示しているのか

異なる時なのか

「1」から「5」を通じる時間の流れが

一貫した時間であっても

同じ時であるかは不明ですし

別個の時間なのかもしれませんし

別離のさまざまな場面をコラージュしたのかもしれません。

 

 

「2」の末尾の3行、

わけても思い出すことは……

——いいえ、もうもう云えません

決して、それは、云わないでしょう

――は口が裂けても言えない秘密の存在を

意図的に匂わせるようで

そう匂わせたところで目的を達しているような詩の言葉なのかもしれず

そうならばその秘密は読者は知らなくてもよいことかもしれず

いずれにしてもじれったさが残ります。

 

 

別離は

家族、中でも、母親とのものも含まれたり

パラソルを振るところは

恋人のようにも受け取れますから

母親を恋人のように歌ったとも考えられますし

母親とは別の女性のイメージなのかもしれません。

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