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カテゴリー「三好達治の戦争詩」の記事

2015年1月29日 (木)

三好達治の戦争詩について/「ことのねたつな」のたおやめぶり

(前回からつづく)

 

「ことのねたつな」に

「馬」は出てきません。

 

戦場の馬も

銃後の馬も

現われません。

 

 

いとけなきなれがをゆびに

かいならすねはつたなけれ

そらにみつやまとことうた

ひとふしのしらべはさやけ

つまづきつとだえつするを

おいらくのちちはききつつ

いはれなきなみだをおぼゆ

かかるひのあさなあさなや

もののふはよものいくさを

たたかはすときとはいへど

そらにみつやまとのくにに

をとめらのことのねたつな

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。)

 

 

「おんたまを故山に迎ふ」「列外馬」とともに

戦争を歌った詩として

岩波文庫「三好達治詩集」(桑原武夫、大槻鉄男編)が明示しているのが

この詩「ことのねたつな」です。

 

 

「ことのねたつな」のどこに戦争が歌われているかといえば

もののふはよものいくさを(武士は四方の戦を)

たたかはすときとはいへど(戦わす時とは言えど)

――という詩行で理解できるのですが

歌われているのは前線の様子ではなく

琴の稽古にいそしむ乙女(おとめ)への励ましです。

 

 

「おんたまを故山に迎ふ」と「列外馬」は

「艸千里」(昭和14年)に収められていますが

「ことのねたつな」は

「寒柝(かんたく)」(昭和18年)という戦争詩ばかりを集めた詩集にあり

同文庫は「寒柝」からこの詩1篇だけを採録しています。

 

 

全行をひらがなにした意図がどこにあるのか。

 

目を凝らして単語の区切りを見分け

意味を受け取るという作業そのものに

集中と緊張を強いられ

詩世界へ没入すること自体にストレスを設けることによって

そのストレスを突破して詩世界へ入ることに異化作用を生じさせる狙いなのか。

 

ひらがなで示された言葉の意味を理解するのは

一種、クロスワードパズルを解くときのような

心地よさがあるといったら的外れでしょうか。

 

「ことのねたつな」は

「琴の音絶つな」です。



たおやめぶりに加えて

きっかりとした五七調が流麗感を演出しています。

 

 

では「寒柝」は

このような「たおやめぶり」ばかりの詩に満ちているかというと

そうではありません。

 

タイトルだけを

挙げてみましょう。

 

 

賊風料峭

征戦五閲月

乾盃

日本の子供

われら銃後の少國民

梅林小歌

皇軍頌歌(一、讐ありき 二、ふる里は 三、萬里の外 四、この日暁、五、勝而不傲)

父母の野

無償の寶玉

軍艦旗

こぞのこの朝

軍神加藤建夫少将

霜晨

起て仏蘭西!

半宵に声あり

青き海見つ

寒柝

黄の翼緑の翼

櫻花繚乱

寒駅の昼

桃の花

老松讃

群雀

一握の砂

さくら

撃ちてし止まむ

某造船所に於て

十柱の神

至上の戦旗

草奔私唱(※短歌連作)

草奔私唱 又

あだ一歩近く来れり

いざゆかせ

葉月のあした

ことのねたつな

 

(筑摩書房「三好達治全集第2巻」より。)

 


途中ですが

今回はここまで。

2015年1月28日 (水)

三好達治の戦争詩について/「艸千里浜」の思われ人

(前回からつづく)

 

「艸千里浜」に

「二十年(はたとせ)の月日と」とあるのは

この詩が作られたのが1939年であるとして

1920年(大正9年)以降の年月ということになります。

 

 

岩波文庫「三好達治詩集」巻末の年譜を見ると

大正9年の項には

陸軍士官学校に入学とあり

大正11年には中退とあるのですが

大正4年には大阪陸軍地方幼年学校に入学(15歳)

大正7年に同校を卒業と同時に

東京陸軍中央幼年学校本科に進学

大正8年には同幼年学校本科の課程を修了し

北朝鮮会寧の工兵第19大隊に赴任

――といった軍人への経歴を積んでいることがわかります。

 

 

駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)

 

「大阿蘇」の馬と違って

「艸干里浜」に現われる「駒」が遠景に退いたのは

20年前の友や思われ人が今やこの世に存在しないことの悲しみを意味するでしょう。

 

われをおきていずちゆきけむ

――は、わたくしを置いてどこへいってしまったのか


名もかなし

――には、愛(かな)しいのニュアンスがあります。

 

 

「大阿蘇」の馬は

雨の中に馬がたっている

馬は草をたべている

彼らは草をたべている

草をたべている

あるものはまた草もたべずに きょとんとしてうなじを垂れてたっている

馬は草をたべている

雨に洗われた青草を 彼らはいっしんにたべている

たべている

彼らはそこにみんな静かにたっている

ぐっしょりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集っている

――と、ひたすら立ち、食べ、集まっていることが描写されるだけで

そのことによって

「永遠の一瞬」という時間が捉えられました。

 

もしも百年が この一瞬の間にたったとしても 何の不思議もないだろう、と。

 

 

ただそれだけを歌うために現われた馬であることによって

その背後にある阿蘇山を大写しにした叙景詩でしたが

「艸千里浜」では人事が前面に歌われることになります。

 

 

「艸千里浜」の友や思われ人が

どのような人物を指しているのかを知れば

この詩はさらに近づいてくることでしょう。

 

そのことについて少しだけ触れておきます。

 

 

「艸千里」は

三好40歳の昭和14年(1939年)に刊行されました。

 

親友であった小説家、梶井基次郎が死んだのは

昭和7年(1932年)。

 

昭和11年(1936年)には「2.26事件」があり

陸軍幼年学校、陸軍士官学校で同志的存在だった西田税(みつぎ)が刑死しています。

 

「艸千里」の友や思われ人に

梶井基次郎や西田税らの面影があることは

間違いありません。

 

もちろんこのほかにも

三好の胸に去来した友や思われ人はあったかもしれませんが。

 

 

「大阿蘇」から「艸千里浜」へ

「艸千里浜」から「列外馬」へ。

 

「馬」というモチーフが接続してゆく流れは

この後どのようなうねりを見せるでしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

大阿蘇

 

雨の中に馬がたっている

一頭二頭仔馬をまじえた馬の群れが 雨の中にたっている

雨は蕭々(しょうしょう)と降っている

馬は草をたべている

尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐっしょりと濡れそぼって

彼らは草をたべている

草をたべている

あるものはまた草もたべずに きょとんとしてうなじを垂れてたっている

雨は降っている 蕭々と降っている 

山は煙をあげている

中嶽(なかだけ)の頂きから うすら黄ろい 重っ苦しい噴煙が濛々(もうもう)とあがっている

空いちめんの雨雲と

やがてそれはけじめもなしにつづいている

馬は草をたべている

艸千里浜のとある丘の

雨に洗われた青草を 彼らはいっしんにたべている

たべている

彼らはそこにみんな静かにたっている

ぐっしょりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集っている

もしも百年が この一瞬の間にたったとしても 何の不思議もないだろう

雨が降っている 雨が降っている

雨は蕭々と降っている

 

 

艸干里浜

 

われ嘗てこの国を旅せしことあり

昧爽(あけがた)のこの山上に われ嘗て立ちしことあり

肥(ひ)の国の大阿蘇(おおあそ)の山

裾野には青艸しげり

尾上には煙なびかう 山の姿は

そのかみの日にもかわらず

環(たまき)なす外輪山(そとがきやま)は

今日もかも

思出の藍にかげろう

うつつなき眺めなるかな

しかはあれ

若き日のわれの希望(のぞみ)と

二十年(はたとせ)の月日と 友と

われをおきていずちゆきけむ

そのかみの思われ人と

ゆく春のこの曇り日や

われひとり齢(よわい)かたむき

はるばると旅をまた来つ

杖により四方(よも)をし眺む

肥の国の大阿蘇の山

駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)

名もかなし艸千里浜(くさせんりはま)

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。現代表記に直しました。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年1月27日 (火)

三好達治の戦争詩について/「列外馬」と阿蘇平原の馬

(前回からつづく)

 

「列外馬」は口語散文詩ですから

新かな表記に直したほうが読みやすく

現代感がよみがえります。

 

旧かなでは

現代に通じるパワーが小さいのです。

 

 

この詩は

どこかで目にした記憶があり

「三好達治詩集」(岩波文庫)をめくってみると

霾(ばい)」の項があり

中に「大阿蘇」があり

もう少しめくっていると

千里」の中の「千里浜」も阿蘇平原の馬をモチーフに現われ

制作年次が異なる「阿蘇の馬」を歌った作品であることがわかります。

 

大阿蘇のカルデラ平原に降る雨の下に群なす馬は

徴用され戦場に駆り出されて

病を得て廃馬とされ

いまや阿蘇ならぬどこかの草地に捨てられています。

 

ここに連続を見られるかどうか

実証できるものではありませんが

無関係であると言い切れないことは確かです。

 

 

三好は昭和14年(1939年)に、

合本詩集「春の岬」と第6詩集「艸千里」の2冊の詩集を刊行します。

 

「春の岬」は

測量船」「霾」「南窗集」「閒花集」「山果集」の単行詩集を合本にしたもの。

1930年から1939年までの三好達治の初期作品が集められました。

 

 

「霾」は音読みで「ばい」、訓読みで「つちけむり」。

中国大陸北部の黄土が吹き上げられ

季節風にのって空を黄褐色に染める。

 

日本にも飛来し「黄砂」となることはよく知られていますが

「霾」は俳句で春を示す季語であり

俳句に通じる詩人の自然志向を示すものでしょう。

 

 

「霾」に収められた「大阿蘇」と

「艸千里」に収められた「艸千里浜」を読んでみましょう。

 

 

大阿蘇

 

雨の中に馬がたっている

一頭二頭仔馬をまじえた馬の群れが 雨の中にたっている

雨は蕭々(しょうしょう)と降っている

馬は草をたべている

尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐっしょりと濡れそぼって

彼らは草をたべている

草をたべている

あるものはまた草もたべずに きょとんとしてうなじを垂れてたっている

雨は降っている 蕭々と降っている 

山は煙をあげている

中嶽(なかだけ)の頂きから うすら黄ろい 重っ苦しい噴煙が濛々(もうもう)とあがっている

空いちめんの雨雲と

やがてそれはけじめもなしにつづいている

馬は草をたべている

艸千里浜のとある丘の

雨に洗われた青草を 彼らはいっしんにたべている

たべている

彼らはそこにみんな静かにたっている

ぐっしょりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集っている

もしも百年が この一瞬の間にたったとしても 何の不思議もないだろう

雨が降っている 雨が降っている

雨は蕭々と降っている

 

 

艸干里浜

 

われ嘗てこの国を旅せしことあり

昧爽(あけがた)のこの山上に われ嘗て立ちしことあり

肥(ひ)の国の大阿蘇(おおあそ)の山

裾野には青艸しげり

尾上には煙なびかう 山の姿は

そのかみの日にもかわらず

環(たまき)なす外輪山(そとがきやま)は

今日もかも

思出の藍にかげろう

うつつなき眺めなるかな

しかはあれ

若き日のわれの希望(のぞみ)と

二十年(はたとせ)の月日と 友と

われをおきていずちゆきけむ

そのかみの思われ人と

ゆく春のこの曇り日や

われひとり齢(よわい)かたむき

はるばると旅をまた来つ

杖により四方(よも)をし眺む

肥の国の大阿蘇の山

駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)

名もかなし艸千里浜(くさせんりはま)

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。現代表記に直しました。編者。)

 

 

「大阿蘇」は馬に焦点はあり

艸千里浜」は今は亡き友を偲ぶ歌のようですから

この二つの詩の馬には

主役(近景)と脇役(遠景)ほどの違いがあります。

 

この違いは

どこから来るものでしょうか?

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 


2015年1月26日 (月)

三好達治の戦争詩について/「列外馬」の背景

(前回からつづく)

 

「三好達治詩集」(岩波文庫、桑原武夫・大槻鉄男選、1971年第1刷発行)の解説で

「意味深い作品」として挙げられ

特別に収録された戦争詩は

「おんたまを故山に迎ふ」のほかに、

「列外馬」、「ことのねたつな」などがあります。

(※「など」とあるのは、戦争を歌った詩が明示されたこれら3作のほかにもあることを示しているようですが、それがどの詩であるのかは不明です。)

 

次に

「艸千里」にある散文詩「列外馬」を読んでみましょう。

 

 

列外馬

 

遠く砲声が轟(とどろ)いている。声もなく降りつづく雨の中に、遠く微かに、重砲の声が轟いている。1発また1発、間遠な間隔をおいて、漠然とした方角から、それは10里も向うから聞えてくる。灰一色(はいいっしょく)の空の下に、それは今朝から、いやそれは昨日からつづいている。雨は10日も降っている。広袤(こうぼう)無限の平野の上に、雨は蕭々と降りつづいている。

 

ここは泥濘(ぬかるみ)の路である。たわわに稔った水田の間を、路はまっ直ぐ走っている。黄熟した稲の穂は、空しく収穫の時期を逸して、風に打たれて既に向き向きに仆(たお)れている。見渡すかぎり路の左右にうちつづいた、その黄金色(こがねいろ)のほのかな反射の明るみは、密雲にとざされたこの日の太陽が、はや空の高みを渡り了って吊瓶(つるべ)落しに落ちてゆく。午後の時刻を示している。

 

今ここに一頭の馬――廃馬が佇んでいる。それは廃馬、すっかり馬具を取除かれて路の上に抛り出された列外馬である。それは蹄(ひづめ)を泥に没してきょとんとそこに立っている。それは今うな垂れた馬首を南の方へ向けている。恐らくそれは北の方から、今朝(それとも昨日……)この路の上を一群の仲間と共に南に向かって進軍を続けてきたものであろう。そうしてここで、その重い軛(くびき)から解き放たれて、

――とうとうこいつも駄目になった、いいから棄てて行け。

 

そんな言葉と一緒に、今彼の立っているその泥濘の上に、すっかり裸にされた上で抛り出されたものであろう。そうして間もなく、その時まで彼もまたその一員だったその一隊の軍隊は、再び南の方へと進軍を起して、やがて遠く彼の視界を越えて地平に没し去ったのであろう。

 

激しい掛け声も、容赦ない柏車(はくしゃ)も鞭打ちも、ついに彼を励まし促し立てることの出来なくなった時、彼はここに棄てられたのである。彼にも急速が与えられた。そうして最後に休息の与えられたその位置に、彼はいつまでも南を向いて立っている、立ちつくしている。尻尾一つ動かそうとするでもなく、ただぐったりと頭を垂れて。

 

見給え、その高く聳(そび)えた腰骨を、露わな助骨を、無慙な鞍傷を。膝のあたりを縛った繃帯にも既に黝ずんだ血糊がにじんでいるではないか。

 

たまたまそこへ1台の自動車が通りかかった。自動車はしきりに警笛の音をたてた。彼はそれにも無関心で、車の行手に立ち塞がったまま、ただその視線の落ちたところの路面をじっと見つめていた。車はしずかに彼をよけて通りすぎなければならなかった。

 

広漠とした平野の中の、彼はそうしていつまでも立ちつくしていた。勿論彼のためには飢えを満すべき一束の枯草も、風雨を避くべき厩舎もない。それらのものが今彼に与えられたところで、もはやそれが何にならう、彼には既に食慾もなく、いたわるべき感覚もなくなっていたに違いない。

 

それは既に馬ではなかった。ドラクロアの「病馬」よりも一層怪奇な姿をした、ぐっしょり雨に濡れたこの生き物は。この泥まみれの生き物は、生あるものの一切の意志を喪いつくして、そうしてそのことによって、影の影なるものの一種森厳な、神秘的な姿で、そこに淋しく佇んでいた。それは既に馬ではなかった、その覚束ない脚の上にわずかに自らを支えている、この憐れな、孤独な、平野の中の点景物は。

 

折からまた20人ばかりの小部隊が彼の傍らを過ぎていった。兵士達は彼の上に軍帽のかげから憐憫(れんびん)の一瞥(いちべつ)を投げ、何か短い言葉を口の中で呟いて、そうしてそのまま彼を見捨てて、もう一度彼の姿をふりかえろうともせず、蕭然と雨の中を進んでいた。

 

雨は声もなく降りつづいている、小止みもなく、雨は10日も降っている。

 

やがて時が来るだろう、その傷ついた膝を、その虔(つつ)ましい困憊(こんぱい)しきった両膝を泥の上に跪(ひざま)づいて、そうして彼がその労苦から彼自身をとり戻して、最後の憩いに就く時がやがて間もなく来るだろう。

 

遠く重砲の音、近く流弾の声。

 

(読みやすくするために、旧かなを新かなに変え、原詩の改行部に1行空きを加えました。適宜、漢数字を洋数字に改めました。編者。)

 

 

軍馬として用をなさなくなった廃馬が

軍列から離され

列の外に捨て去られるのを「列外馬」という。

 

聞きなれない言葉は

かつて陸軍士官学校を中退した詩人こそが知る専門語であったか。

 

一般人も普通に知っていたものか。

 

表意文字である漢字に親しい日本人なら

容易に意味を理解するところの言葉でしょうけれど

やはりこれは戦争の馬なのです。

 

 

比較的に長い詩ですが

きわめて分かりやすい内容なのは

1頭の馬が雨の降る平原に立っているという

それだけのことの描写とそのわずかな背景を歌っているからでしょうか。


 

馬の立っているところに

自動車が通り

重砲、銃弾の音が聞えるというのですから

この戦地は大陸のどこかのものなのでしょうか。


それとも、

市街地をひかえた

どこかの軍事基地か練兵場近辺の平原なのでしょうか。


ドラクロアの絵の引例がありますから

西欧の小説などから詩想を得たということもあるかもしれません。


いずれであっても

この馬はまた

日華事変や満州事変に由来するものなのでしょう。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2015年1月24日 (土)

三好達治の戦争詩について/「おんたまを故山に迎ふ」その3

(前回からつづく)


月また雲のたえまを駆け(=月が雲間に走るように見え隠れし)

さとおつる影のはだらに(=さっと落ちて影がまだら状になっている地上に)

ひるがへるしろきおん旌(はた)(=翻っている白い御旗)

われらがうたのほめうたのいざなくもがな(=われらが歌う褒め歌などないほうがよいがなあ)

ひとひらのものいはぬぬの(=一枚の物言わぬ布切れが)

いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる(=なんと心に迫るものか、ふるさとの夜風に踊る)

うへなきまひのてぶりかな(=極上の舞の手振りであることよ)



第5連に現われる「白い旗」は

われらがうたのほめうたのいざなくもがな

――と歌われるくだりが晦渋で

読み過ごせない重要なところですが

「いざなくもがな」に立ち止まざるを得ません。


「もがな」は願望を表わす終助詞で「……であってほしい」の意味であるなら

「なくもがな」は「……でなくありたい」になりますから

そこに「いざ」という感動詞が加えられても強調するくらいのことで

「さて、ないほうがよろしかろう」の意味になり、

「われらが歌う褒め歌などないほうがよい」と読めます。


こう読んでいいものか。



全7連構成のうちのこの連(第5連)のこの行は

さりげなく目立ちませんが

ひねり出したような言葉使いを感じさせ

この詩への詩人のたくらみ(技)があるところ(のよう)です。


死んだ兵士をいくら褒めたところで

それは空しい

――という詩人の心の声がひょっこり現われたところ(のよう)です。


月が雲の陰になり

また現われては地上にまだらの影を作る

そこに白い旗が風に靡(なび)くのは

あれはまるで

そこに死者が息づいているのを見ているようだ。


そのひと時に浸(ひた)っているだけで十分である。



「白い旗(旌)」は

棒切れに白い布をくくりつけたような粗末なものであったか

弔いのために村で用意してあるしっかりしたものであったか

どちらであっても

その旗は

物言わずに

折から吹き渡る夜風に揺れている様(さま)が

この上もなく(心のこもった)手振りの舞であると歌われるのです。



第6連そして最終連は、

かへる日をたのみたまはでありけらし(帰る日を願うこともないようでした)

――と出征していった兵士(第1連)が

思いのすべてを果たして

何物を余すというのか(何も余さず)

残すところもなく肉体を投げうって

遺骨ばかりがお帰りになった


二つとない祖国、二つとない命どころか

妻も子も親族までも捨てて

出征したあの兵士であることの

わずかな印だけである御骨(おほね)がお帰りになった

――と歌われるのですが

ここは詩のはじまりを繰り返すようでありながら

単なる繰り返し(ルフラン)を歌っているのではありません。


帰らないと誓った兵士は

骨になって無言で帰還したのですから。



この詩は

その悲しみに寄り添いその悲しみを歌い

村人たちのその悲しみを慰める歌であり

兵士の御霊(おんたま)を鎮(しず)める歌です。


その点に絞って(他意はないように)読むことができますが

それではこの詩は

この詩が書かれた時代や時局と無縁に成立したのでしょうか。


そんなはずはありません。



「おんたまを故山に迎ふ」は

昭和14年(1939年)に刊行された第6詩集「艸千里」に収められています。


ということは

この詩の戦争は

太平洋戦争や第2次世界大戦のことではありません。


それらへと続く時代のはじまりを告げた

満州事変とか日華事変とかの戦争のことです。


いずれにしても

抽象的、観念的な戦争なのではなく

実際にあったリアルな戦争の1局面(銃後などという言葉があります)を歌ったもので

そのことを離れて読んでは詩を遠ざけることになるでしょう。



「艸千里」を三好が刊行した昭和14年に

三好は40歳。


日華事変は2年前の昭和12年、

満州事変は昭和6年でした。



途中ですが

今回はここまで。



おんたまを故山に迎ふ



ふたつなき祖国のためと

ふたつなき命のみかは

妻も子もうからもすてて

いでまししかの兵(つは)ものは つゆほども

かへる日をたのみたまはでありけらし

はるばると海山こえて

げに

還る日もなくいでましし

かのつはものは


この日あきのかぜ蕭々と黝(くろず)みふく

ふるさとの海べのまちに

おんたまのかへりたまふを

よるふけてむかへまつると

ともしびの黄なるたづさへ

まちびとら しぐれふる闇のさなかに

まつほどし 潮騒(しほさゐ)のこゑとほどほに

雲はやく

月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々(しつしつ)と楽の音きこゆ


旅びとのたびのひと日を

ゆくりなく

われもまたひとにまじらひ

うばたまのいま夜のうち

楽の音はたえなんとして

しぬびかにうたひつぎつつ

すずろかにちかづくものの

荘厳のきはみのまへに

こころたへ

つつしみて

うなじうなだれ


国のしづめと今はなきひともうなゐの

遠き日はこの樹のかげに 閧(とき)つくり

讐(あだ)うつといさみたまひて

いくさあそびもしたまひけむ

おい松が根に

つらつらとものをこそおもへ


月また雲のたえまを駆け

さとおつる影のはだらに

ひるがへるしろきおん旌(はた)

われらがうたのほめうたのいざなくもがな

ひとひらのものいはぬぬの

いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる

うへなきまひのてぶりかな


かへらじといでましし日の

ちかひもせめもはたされて

なにをかあます

のこりなく身はなげうちて

おん骨はかへりたまひぬ


ふたつなき祖国のためと

ふたつなき命のみかは

妻も子もうからもすてて

いでまししかのつはものの

しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ


(岩波文庫「三好達治詩集」より。)

 

2015年1月23日 (金)

三好達治の戦争詩について/「おんたまを故山に迎ふ」その2

(前回からつづく)

 

「おんたま」とは

「御霊」か「御魂」のことか

 

「御霊=みたま」ならよく聞き

「たましい」に尊敬の意味を強めて使うのであろうことぐらいと

何かの折に自分でも使えるような気がしますが

「おんたま」となると

かしこまりすぎて

なかなか普段は使えるものでなく

一般人には遠い言葉です。

 

 

三好達治は

出征した兵士が遺骨となって帰郷した光景を

偶々(たまたま)通りかかった旅の途上で見たのでしょうか。

 

実際に見たものでないのかもしれませんが

帰還した御遺骨を迎えるどこかの村(人)に託して

自らの鎮魂歌としたのでしょうか。

 

はじまりは、たましい(魂)として登場し

終わりには、おほね(骨)として現われて

目に見えない魂が

やがてリアルな遺骨であることを歌った詩です。

 

そのような歌い方をされている詩です。

 

 

もう一度読んでみましょう。

 

 

おんたまを故山に迎ふ



ふたつなき祖国のためと

ふたつなき命のみかは

妻も子もうからもすてて

いでまししかの兵(つは)ものは つゆほども

かへる日をたのみたまはでありけらし

はるばると海山こえて

げに

還る日もなくいでましし

かのつはものは


この日あきのかぜ蕭々と黝(くろず)みふく

ふるさとの海べのまちに

おんたまのかへりたまふを

よるふけてむかへまつると

ともしびの黄なるたづさへ

まちびとら しぐれふる闇のさなかに

まつほどし 潮騒(しほさゐ)のこゑとほどほに

雲はやく

月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々(しつしつ)と楽の音きこゆ


旅びとのたびのひと日を

ゆくりなく

われもまたひとにまじらひ

うばたまのいま夜のうち

楽の音はたえなんとして

しぬびかにうたひつぎつつ

すずろかにちかづくものの

荘厳のきはみのまへに

こころたへ

つつしみて

うなじうなだれ


国のしづめと今はなきひともうなゐの

遠き日はこの樹のかげに 閧(とき)つくり

讐(あだ)うつといさみたまひて

いくさあそびもしたまひけむ

おい松が根に

つらつらとものをこそおもへ


月また雲のたえまを駆け

さとおつる影のはだらに

ひるがへるしろきおん旌(はた)

われらがうたのほめうたのいざなくもがな

ひとひらのものいはぬぬの

いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる

うへなきまひのてぶりかな


かへらじといでましし日の

ちかひもせめもはたされて

なにをかあます

のこりなく身はなげうちて

おん骨はかへりたまひぬ


ふたつなき祖国のためと

ふたつなき命のみかは

妻も子もうからもすてて

いでまししかのつはものの

しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。)

 

 

詩は

旅人の目で御霊の帰還をとらえますが

「おんたまを故山に迎ふ」のタイトルが示すように

この旅人は「迎える」主体でもあります。

 

秋風が蕭々と吹き

時雨降る闇

潮騒(しおさい)が聞える海辺

 

雲の流れは速く

月もそれに連れて飛び去っていく空の果てから

瑟々(しつしつ)と楽の音が聞えて来ます

 

村人の葬送の列が

笛太鼓(?)を演奏する音が

詩人に近づいているのでしょう

 

こころたへ

つつしみて

うなじうなだれ

 

――の主格は詩人その人でしょう。

 

 

死んでしまった兵士も

幼き日には

この老松の根元で遊び

「あだをうつぞー」と鬨の声をあげて

戦争ごっこに興じたことがあったであろう

――と故人を思い返す人になっています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 


2015年1月21日 (水)

三好達治の戦争詩について/「おんたまを故山に迎ふ」

(前回からつづく)

 

寺田透が朔太郎の戦争詩に言及したのですから

ここで三好達治の戦争詩についても

触れておくのは義務のようなことでしょう。

 

寺田がそれをやってくれれば文句はなかったのですが

そこまでは「管見」で展開されるはずはありませんでした。

 

 

ですからここで(このブログで)

少しだけそれに触れておきましょう。

 

「氷島」を読むきっかけは

そもそも三好の「氷島」否定の「解説」にありましたし

多量の戦争詩を書いた三好が

戦後も「朔太郎読み」では第一人者の位置にあり続け

一般読者向けの文庫本の解説者に起用され続けている(現在も!)ことに

異和感を覚えるからでもありましたし。

 

 

今年2015年は

三好達治没後50年ということで

(TPPの行方次第で危ういものがありますが)

三好の著作権の保護期間が終了する年ですし、

また戦後70年ということで

文学者の戦争責任への議論が活発になることも予想されますが

そういうこととは別にしても

三好達治の詩作品は

戦争と深く関っていますから

じっくりと読んでおきたいというのが

このブログのスタンスです。

 

 

といっても

文学とか評論とか批判とかをするつもりも余裕も力量もなく

あくまでも一読者の鑑賞メモほどのことであることに変わりありません。

 

 

岩波文庫の「三好達治詩集(桑原武夫・大槻鉄男選」」(1971年第1刷発行)は

解説を三好の三高時代の学友・桑原武夫が書いていますが

その末尾に、

 

戦争詩は収録しなかった。しかし「おんたまを故山に迎ふ」、「列外馬」、「ことのねたつな」などは

意味深い作品であるので、とくに採用した。

――とあるのは、

これらの詩が戦争詩であることをあきらかにした上で収録したという意味のはずです。

 

ここに挙げられている3作には

どうしてでも目を通しておかないわけにはいきません。

 

読むというより

まずは目を通しておくことからはじめてみます。

 

今回は「おんたまを故山に迎ふ」です。

 

 

おんたまを故山に迎ふ


ふたつなき祖国のためと

ふたつなき命のみかは

妻も子もうからもすてて

いでまししかの兵(つは)ものは つゆほども

かへる日をたのみたまはでありけらし

はるばると海山こえて

げに

還る日もなくいでましし

かのつはものは


この日あきのかぜ蕭々と黝(くろず)みふく

ふるさとの海べのまちに

おんたまのかへりたまふを

よるふけてむかへまつると

ともしびの黄なるたづさへ

まちびとら しぐれふる闇のさなかに

まつほどし 潮騒(しほさゐ)のこゑとほどほに

雲はやく

月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々(しつしつ)と楽の音きこゆ


旅びとのたびのひと日を

ゆくりなく

われもまたひとにまじらひ

うばたまのいま夜のうち

楽の音はたえなんとして

しぬびかにうたひつぎつつ

すずろかにちかづくものの

荘厳のきはみのまへに

こころたへ

つつしみて

うなじうなだれ


国のしづめと今はなきひともうなゐの

遠き日はこの樹のかげに 閧(とき)つくり

讐(あだ)うつといさみたまひて

いくさあそびもしたまひけむ

おい松が根に

つらつらとものをこそおもへ


月また雲のたえまを駆け

さとおつる影のはだらに

ひるがへるしろきおん旌(はた)

われらがうたのほめうたのいざなくもがな

ひとひらのものいはぬぬの

いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる

うへなきまひのてぶりかな


かへらじといでましし日の

ちかひもせめもはたされて

なにをかあます

のこりなく身はなげうちて

おん骨はかへりたまひぬ


ふたつなき祖国のためと

ふたつなき命のみかは

妻も子もうからもすてて

いでまししかのつはものの

しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。) 

 

 

とりあえずは

こんな詩であるという案内です。

 

 

文語詩であり、歴史的かな遣いであるのを

ここで現代かな遣いへ直すことをためらうのは

古語表現を敢えて現代表記に直す意味はうすいものと考えるからです。

 

文語詩を選択した時点で

現代人への浸透を狭めているという認識は

このブログのものでありますが

だからといって現代表記への変更を強行するものではありません。

 

 

ついでにここで言っておきますが

中原中也の詩や散文を案内するときに

極力、現代表記に直しているのは

そうすることで中也の作品が現代(人)に何ら異和感なく通じるものだからです。

 

 

もう一つついでに言っておきますが

目下読み込んでいる茨木のり子の評論集「うたの心に生きた人々」(ちくま文庫)は

与謝野晶子、高村光太郎、山乃口貘、金子光晴の4人の詩人を紹介していますが

「はじめに」で茨木が、

 

うた・詩は、ほとんどが旧かなづかいでしたので、

新かなづかいに変えて引用させていただいたことを、おことわりしておきます。

 

――と書いているのに遭遇して

あらためて意を強くしました。

 

 

今回はここまで。