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カテゴリー「057中原中也と「四季」」の記事

2017年2月 3日 (金)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/立原道造の「別離」という追悼

 

立原道造が「別離」を発表したのは

1938年「四季」6月号(5月20日発行)。

 

中原中也が急逝して半年ほど後のことでした。

 

 

ときどきむなしい景色が眼のまへにひらける。僕らはたいへんに雑沓にゐる。しかし、そのときにすら、だれもゐない、倦怠と氷との景色は二重にかさなつて眼のなかにさしこんでゐる。僕らは脅かされ、そして慰められる。「山羊の歌」といふ詩集の題は雑沓にはふさわしくなく、たいへんに素朴に美しい、しかしその詩集もまた雑沓のなかにゐる。詩人の傷ついた淨らかさと、ふかい昏睡と悲しみと幻想と。そのような言葉で名づけられるものを群衆はおそらくはじき去る。そのとき、この本が雑沓のなかにあること、これはイロニイである。山羊の歌はたいへんにむなしい。このイロニイのようなところで倦怠がうたつている。倦怠といふ心のあり方は、その心の上でかなしいリズムや踊りを噛みしめてゐる。

(筑摩書房「立原道造全集」第5巻より。)

 

 

これは、「別離」書き出しの1段落です。

 

歴史的仮名遣いがもどかしいほどに

言葉のモダンなトーンに驚く人は少なくないに違いありません。

 

誤解を恐れずに言えば

この文体は現代に通じています。

 

詩人の書いた散文という理由もあるかもしれませんが

言葉に宿る内的なもの――。

 

追悼の意味もあったのでしょうけれど

中也の内部の声に

語りかけているような

詩人の声(文体)が新鮮です。

 

別離を告げているにもかかわらず

一時(いっとき)、中也の心を撃ったような。

 

 

現代表記で読み直してみましょう。

 

 

ときどきむなしい景色が眼のまえにひらける。僕らはたいへんに雑沓にいる。しかし、そのときにすら、だれもいない、倦怠と氷との景色は二重にかさなって眼のなかにさしこんでいる。僕らは脅かされ、そして慰められる。

 

「山羊の歌」という詩集の題は雑沓にはふさわしくなく、たいへんに素朴に美しい、しかしその詩集もまた雑沓のなかにいる。詩人の傷ついた浄らかさと、ふかい昏睡と悲しみと幻想と。そのような言葉で名づけられるものを群衆はおそらくはじき去る。そのとき、この本が雑沓のなかにあること、これはイロニイである。

 

山羊の歌はたいへんにむなしい。このイロニイのようなところで倦怠がうたっている。倦怠という心のあり方は、その心の上でかなしいリズムや踊りを噛みしめている。

(同。改行を加えました。編者。)

 

 

立原道造が語っているのは

「山羊の歌」の詩人のようです。

 

その詩人の、傷ついた浄らかさ、深い昏睡と悲しみと幻想とが

雑沓に投げ出されてあり

雑沓の中では群衆に弾き返されてしまうであろうことの

イロニーを語りはじめる胸には

ふるえのようなものがあります。

 

都会の雑沓に育ち

幾分かそれを忌避して生きてきた詩人の眼差しは

イロニーのようなところで

倦怠を歌うことのむなしさを述べ

「別離」を語り出します。

 

 

三好達治が「詩集『在りし日の歌』」を著わし

少し遅れた追悼とした少し前に

「別離」を立原道造は書きました。

 

何かしら、先を急ぐような詩人のこころがただよう

このエッセイを読みましょう。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

 

2017年2月 1日 (水)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/三好達治の「在りし日の歌」批評・その3

 

三好達治の「詩集在りし日の歌』」というタイトルの批評文冒頭部の

後半部を読みましょう。

 

前半部で

中也の詩人としての出発に

ダダイズムの影響があったことが指摘されました。

 

ダダイズムは破調、破格も

一つの方法でしたが

三好達治は中也の詩にたびたび現れる破調、破格を

自己矛盾的な破壊作業と断じ

さらに断言は強い声調を帯びます

 

 

中原中也の詩歌のほとんどが

絶望と苦悩の、

聞き手もない淋しい孤独者の挽歌であった。

 

孤独なのは

思想が深遠なためでも、高邁(こうまい)なためでもなさそうである。

 

中原中也は、深遠とか、高邁とかを目ざして

自らを愛護し、発展させ成長させて高所に至った、というような詩人ではなかったのだから。

 

最初から、歌の外の一切を見失った詩人だった。

(歌にしか活路はなかった。)

 

出発当時を知らないから想像しがたいのだが

この詩人にはありきたりな変化や発展というものが起こりようがなかったのであろう。

(正統の学問をしなかったことを三好は言っているのだろうか?)

 

そのために30歳になっても20歳の日の「在りし日の歌」を歌い続けていた。

 

こうして中原中也の詩歌は

独自の、一種深沈たる趣をそなえて

成年者の悲哀と同時に壮年者のもの足りなさを含めた

奇妙な、そして奇妙ななりに確乎とした

抒情的詩境に達したのである。

 

 

独自で、深沈たる趣があり

成年者の悲哀も、壮年者のもの足りなさも(歌い込まれ)

奇妙であり確乎とした

抒情的詩境に達した

――というこのくだりは

中也詩の抒情の成立(過程)やありかを

三好が積極的に肯定している部分です。

 

こういうところで

三好は中也を認めざるを得なかったのですし

個々の詩を「根こそぎ否定する」わけにはいきませんでした。

 

そして続けます。

 

 

そうなのだ。

 

中原中也の詩の第一の魅力は

確乎とした、中原中也の主観にあり

悲哀の重量にある。

 

(この)一本調子の、単一な、

純粋な詩境を保持した

自信に満ちた詩人が存在したことは

驚異であり、称賛に値する。

 

中原中也は、自信を秘かに胸の奥に持っていたのだ。

 

それは生活の一挙一動、作品を見ればわかる。

 

(私が)不可解と先に言った

調子の破格、詩語の唐突な使用などは

この自信の結果であり

主我的な見解の偏狭さから生じているのかも知れない。

 

 

――と結んでいます。

 

三好には

エゴイスティック(主我的)なものの見方の狭さが受け入れがたく

何かしら「学問」みたいなもの

高度な教養みたいなものが

詩人には必要なのだと言いたくて仕方のないような

流れの結語です。

 

この流れの中に

幾分かは肯定的評価が含まれているところは

ほとんど相容れることのなかった二人の詩人に

響き合うものがあったことを示しますから

よろこばしいことと言うべきでしょう。
 

この結語が

なんとも迫力に欠けるものであるにしても。

 


 

個々の詩への

三好達治の親近の度合いが

この後、具体的に述べられたのは

先に読んできた通りです。
 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年1月30日 (月)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/三好達治の「在りし日の歌」批評・その2

 

 

間然とするところなし

 

――というのが

 

三好達治の最高の賛辞なのだとすれば

 

中原中也の詩の幾つかに見られる

 

破調、破格あるいは乱調までを含めた詩篇が

 

よい評価を受けることはあり得ないことでしょう。

 

 

 

中也詩のなかでも傑作の一つに違いのない「正午」は、

 

 

 

哀傷の詩魂が内に高まり顫動して、

 

外には温雅な詩語の美衣をまとった作風

 

――であるという理由で

 

「老いたる者をして」が非の打ちどころがないのに比べれば

 

劣っていると三好は考えました。

 

 

 

 

 

 

二つ(四つ)の詩を比較したのかどうか。

 

 

 

その点は断じることができませんが

 

この批評文の構成(流れ)から見て

 

やはり、比較して後の評価であると言うことはできるようです。

 

 

 

 

 

 

四つの詩の個々の鑑賞に入る前の

 

この批評文の書き出しには

 

すでに総論(詩人論)が置かれてあり

 

各論(四つの詩の鑑賞)は

 

それ自体が独立した形になっているとはいえ

 

この書き出しの流れの中にあります。

 

 

 

このフレーム(枠)の中で

 

各論は書かれています。

 

 

 

前後しましたが

 

総論の部分を読みましょう。

 

 

 

 

 

 

詩集「在りし日の歌」の紹介と

 

中原中也の詩風に就いて私見を述べるという前置きに続いて

 

本論に入ります。

 

 

 

本論は大きく前半と後半に分けることができます。

 

 

 

前半の冒頭では

 

ダダイストとして出発した中原中也の作品は

 

最後までダダイストの魂魄(こんぱく)に支配されたことが

 

結論的に指摘され

 

その理由が説明されます。

 

 

 

 

 

 

それ(=ダダイストの魂)は意識的であり

 

半ば無意識的であった。

 

 

 

中原式とも言えるもので

 

音数上の特異な調子ひとつを見ても

 

調子は意識と無意識が半分半分で

 

不意に中断されたり攪乱されたり

 

ついには壊されてしまう。

 

 

 

詩語の調子でしか詩想を繰り広げられなかった詩人が

 

どのような目的があって

 

こうした自己矛盾する破壊作業を作品の所々に仕掛けたのか。

 

 

 

作詞上の巧拙の問題ではなさそうだ。

 

 

 

そこに詩人の意図があったのだろうが

 

その意図は(私に)見えない。

 

 

 

言ってみれば

 

それは、中原中也という詩人が

 

全く孤独の世界に住んでいたからだろう。

 

 

 

 

 

 

詩の調子についてのこのような疑問は

 

詩語、そのうちの形容詞(の使い方)にも感じられるから

 

それは各論の中で言及しよう。

 

 

 

 

 

 

――というのが、総論の前半で述べられていることのあらましです。

 

 

 

詩語の調子を重んじた詩人が

 

破調を度々使うのを認めることはできない、

 

いまだにダダイズムを抜け切れていない

 

――と言いつづめることができるでしょう。

 

 

 

 

 

 

ここまでが

 

総論の前半部です。

 

 

 

 

 

 

途中ですが 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

2017年1月29日 (日)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/「老いたる者をして」/三好達治の否定と肯定・その4

 

「正午」批評の3番目のセンテンス(文)は

次の「老いたる者をして」の批評の導入部の副詞句に組み込まれます。

 

「かくも主題の露骨なるものよりも」と「正午」よりは

これから読む「老いたる者をして」のほうが好ましいことを述べるのです。

 

 

老いたる者をして

    ――「空しき秋」第十二――

 

老(お)いたる者をして静謐(せいひつ)の裡(うち)にあらしめよ

そは彼等(かれら)こころゆくまで悔(く)いんためなり

 

吾(われ)は悔いんことを欲(ほっ)す

こころゆくまで悔ゆるは洵(まこと)に魂(たま)を休むればなり

 

ああ はてしもなく涕(な)かんことこそ望ましけれ

父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて

 

東明(しののめ)の空の如(ごと)く丘々をわたりゆく夕べの風の如く

はたなびく小旗(こばた)の如く涕かんかな

 

或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入(い)り、野末(のずえ)にひびき

海の上(へ)の風にまじりてとことわに過ぎゆく如く……

 

   反 歌

 

ああ 吾等怯懦(われらきょうだ)のために長き間(あいだ)、いとも長き間

徒(あだ)なることにかからいて、涕くことを忘れいたりしよ、げに忘れいたりしよ……

 

〔空しき秋二十数篇は散佚(さんいつ)して今はなし。その第十二のみ、諸井三郎の作曲によりて残りしものなり。〕

 

 (「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。原文の「はたなびく」の傍点は で替えました。編者。)

 

 

哀傷の詩魂が内に高まり顫動して、

外には温雅な詩語の美衣をまとつた作風を最も喜ぶ

――と「老いたる者をして」に高得点をつけます。

 

「老いたる者をして」はよく知られるように

北沢時代の若き中也が

懐(ふところ)に入れて持ち歩き

友人知人に読ませたりしているうちに紛失してしまった20篇近くの連作詩の

一つだけ残った1篇です。

 

三好達治は

中也が紛失してしまった多くの詩篇のことを思い

中也にとってこの上もなく遺憾なことという感想を加えます。

 

取り上げた4篇の詩の中で

もっとも高く評価したのが

この「老いたる者をして」でした。

 

間然とするところのない出来栄えである

――と1行、断言して批評の結語とします。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

2017年1月28日 (土)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/「正午」/三好達治の否定と肯定・その3

 

3番目に三好達治が読むのは

「在りし日の歌」最終詩の二つ手前に配置された「正午」です。

 

 

正 午

       丸ビル風景

  

ああ12時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

月給取(げっきゅうとり)の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振って

あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口

空はひろびろ薄曇(うすぐも)り、薄曇り、埃(ほこ)りも少々立っている

ひょんな眼付(めつき)で見上げても、眼を落としても……

なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな

ああ12時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口

空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かな、洋数字に変えました。編者。)

 

 

いったい、三好達治は

ほめているのか、けなしているのか

よくわからないところがあるのですが

何度も何度もじっくり読んでいると

言わんとしていることが見えてくるのは

文体のせいでもあるようです。

 

そういう文体なのです。

 

一つの文(センテンス)が長いのは

「源氏物語」以来(?)の伝統の一方の峰(みね)ですから

そういう文体に慣れれば

それほど苦になりません。

 

根気よく読んでいきましょう。

 

「正午」については

三つのセンテンスで作品を読んでいます。

 

最後の一つは

次の「老いたる者をして」の読みの中にわずかに触れられるものですから

二つのセンテンスを読めば済みますし

この二つのうち、一つ目は単文構造ですから

意味明瞭です。

 

一つ目は次のような文です。

 

 

中原君の作品に一貫して繰かへされる絶望的な虚無感、居ても立ってもゐられない虚無的な哀傷感は、この作品などに最も露骨に現れてゐる。
 
(筑摩書房「三好達治全集」第5巻より。)

 

 

中也作品に一貫している虚無感、虚無的な哀傷感(=主語)が

この作品「正午」には露骨に現われている(=述語)

――という読みは

「正午」の核心をズバリ突いていて

寸分の狂いもないと言えるでしょうが

ここに「露骨に」という副詞が

次のセンテンスへの導きになっています。

 

三好は

露骨であることの過剰さみたいなことを

一つ目の文の中に匂わせているのです。

 

そして、次の文が続きます。

 

 

それは、一種諧謔的な手法で歌われてゐるかのやうに見うけられるが、常に彼の場合には、実はそれが大真面目の真骨頂以外のものでないのは、たとへば、最後の1行「空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな」の結語の余韻によって明であらう。

 

(同上書。)
 

 

それは=虚無的な哀傷感が露骨に現れていること

――を主語と取れば

述語は、「明であらう」です。

 

最後の1行「空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな」が放つ余韻が

それを明らかにしている

――と説明します。
 

 

この余韻が露骨であると

三好達治は感じたのでしょう。

 

それを、次に取り上げる「老いたる者をして」に触れる三つ目の文で
「かくも主題の露骨なるもの」と
明記していますし
二つ目の文でも

諧謔的な手法のようで(そうではなく)

実は大真面目の真骨頂、と述べているのです。

 

その感じ方に

鋭さがあり正確さがありますが。

 

 

「正午」という詩の魅力は

こういう感じ方、こういう読みで

損なわれるものではありません、よね。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年1月27日 (金)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/「湖上」/三好達治の否定と肯定・その2

 

 

詩集「在りし日の歌」の紹介をかねて

中原中也の詩風についての私見を述べる

――という意図で書かれた「詩集『在りし日の歌』」(文学界1938年9月号)で

三好達治が2番目に読むのは「湖上」です。

 

 

湖 上

 

ポッカリ月が出ましたら、

舟を浮べて出掛けましょう。

波はヒタヒタ打つでしょう、

風も少しはあるでしょう。

 

沖に出たらば暗いでしょう、

櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音(ね)は

昵懇(ちか)しいものに聞こえましょう、

――あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。

 

月は聴き耳立てるでしょう、

すこしは降りても来るでしょう、

われら接唇(くちづけ)する時に

月は頭上にあるでしょう。

 

あなたはなおも、語るでしょう、

よしないことや拗言(すねごと)や、

洩(も)らさず私は聴くでしょう、

――けれど漕(こ)ぐ手はやめないで。

 

ポッカリ月が出ましたら、

舟を浮べて出掛けましょう、

波はヒタヒタ打つでしょう、

風も少しはあるでしょう。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

この「湖上」については

わずかな感想をしか記しません。

 

それも、肯定の評価です。

 

評価というより

好きだ、と言っているだけのようです。

 

三好の言葉をそのまま引いておきます。

 

 

処々に稚拙なくだりは見つかるにしても、私はこのやうな作品を、彼の作品中でも特に愛誦するものである。

 

 

ここでは

稚拙な詩句(くだり)はあるにしても

口ずさんでみて楽しい、というほどの気持ちを述べて

作品論には踏み込みません。

 

安心して読んでいられる範囲である、というような

ニュアンスが感じられますが

愛誦されるというのは

詩にとって最高の賛辞であるとも言えますし
ここにイロニーは含まれていないのかもしれません。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

2017年1月26日 (木)

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/「六月の雨」/三好達治の否定と肯定

 

 

三好達治が「詩集『在りし日の歌』」で取り上げる詩は

六月の雨

湖上

正午

老いたる者をして――「空しき秋」第十二――

――の4作品。

 

その詩一つ一つの鑑賞に入る前に

中也作品への総論、詩人論が

否定的な論調の中に展開され

各個の詩は

この総論(詩論・詩人論)の実例として引き出されます。

 

個々の詩への批評は

この総論の中に囲われていくことになりますが

他愛のない、取るに足りないことばかりなのに

三好達治は

その他愛のないことを針小棒大にあげつらいます。

 

詩の調子の乱調とか破調とかの破壊、

同じように、使う詩語、形容詞の破壊について

それが中原中也が意図したものであっても

受け入れられないことを表明します。

 

まるで測量士ででもあるかのように

微細な誤差をも許容しません。

 

 

六月の雨

 

またひとしきり 午前の雨が

菖蒲(しょうぶ)のいろの みどりいろ

眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)

たちあらわれて 消えてゆく

 

たちあらわれて 消えゆけば

うれいに沈み しとしとと

畠(はたけ)の上に 落ちている

はてしもしれず 落ちている

 

       お太鼓(たいこ)叩(たた)いて 笛吹いて

       あどけない子が 日曜日

       畳の上で 遊びます

 

       お太鼓叩いて 笛吹いて

       遊んでいれば 雨が降る

       櫺子(れんじ)の外に 雨が降る

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

この詩は1936年(昭和11年)7月号の「文学界」誌上で発表になった

第6回文学界賞で選外1席となった作品として有名です。

 

岡本かの子の「鶴は病みき」が受賞し

中也の作品は2位でした。

 

 

この詩単体について

三好達治の指摘するところは

簡単明瞭ですし

むしろ肯定的な評価です。

 

この詩が発表された時には

いまだにこのようにナイーブな作品を書けている詩人の心情を羨ましく感じたし

この詩にはある時期のベルレーヌの作風に通じるものがあると看取したものが

継続されればよいと期待していたものが

今では空しくなった、と述べるのです。

 

そう言いながら

第1連第3行、

眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)

――を、一種奇妙な調子外れ、と評し

第2行、

菖蒲(しょうぶ)のいろの

――を、菖蒲の色は何も特別ないろではない、という理由で

形容詞の使い方が不可解であることを述べるのですが

それだけのことです。

 

それだけのことが

三好達治には気に入らなかったのですが

それだけのことです。

 

よく読めば

菖蒲(しょうぶ)のいろの みどりいろ

――と中也は歌っているのを理解しないだけです。
 

 

そのように詩語の使い方の不可解さを指摘しただけですが

第3連の、

畳の上で 遊びます

――を、

この作者ならではの、詩眼の特異さが仄見え

何の巧みを弄したわけでもないのに

不思議に切実な実感がある、と褒め上げています。

 

 

「六月の雨」は

眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)

――と

菖蒲(しょうぶ)のいろの

――とによって

三好達治にNGを出されるのですが

結語としては高評価が下されているということになり

これも意外な感じであり驚きです。

 

 

些細(ささい)と思われるようなところを

三好達治は執拗(しつよう)に過大に言う傾向があるようですが

それがスタイルでした。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

 

中原中也が「四季」に寄せた詩・番外編/三好達治の「在りし日の歌」批評

 

「文学界」1938年(昭和13年)9月号に載せた

三好達治の「詩集『在りし日の歌』」は

A5版9ページにおよぶやや本格的な批評文です。

 

小林秀雄が「文学界」の編集責任者のポストにありましたし

三好達治と仲のよかった河上徹太郎も編集の一員のはずでしたから

中原中也没後すぐに出された「文学界」の追悼号に書けなかった三好に

あらためて書き下しを依頼したものでしょう。

 

中也死去から「文学界」追悼号発行の間

三好達治は雑誌「改造」の仕事で

上海に滞在中でした。

 

冒頭で、そのあたりの事情とともに

中也との生前の交渉が述べられます。

 

 

昨年11月詩友中原中也君は忽然として急逝した。たまたま私は上海方面に旅行中だつたので、彼の病の革つたのも彼の逝去したのも全く知らずにゐた。12月になつて私は東京に帰つてきたが、つひに機会を失して今日まで私は彼のために一篇の追悼文も書かずにゐる。

 

さういふせいでもあらう、私には彼がこの世を去つたことが、どうにもぴつたりとした実感として認め難い。拙宅の廊下の隅には、彼に進呈する約束のステッキが1本残つてゐる。そのうちに気紛れな彼が、それを受取りにひよつくり訪ねてきさうな気持ちさへするのである。
 
(筑摩書房「三好達治全集」第5巻より。)

 

 

中也の日記にも三好を訪問したが外出中だったことなどが書かれていますから

会合の席などで言葉を交わすほかに

個人的な接触も二人の間にあったことがわかって

意外な感じがします。

 

小林秀雄や河上徹太郎らの交友圏に

中也は少しづつ進出していたからでしょうか。

 

足が不自由な中也を知っているのですから

鎌倉時代か、

頻繁に上京してはいませんから

新宿・谷町に住んでいたころの付き合いでしょうか。

 

 

私的な関係が批評文の冒頭に明かされるというのは

これが追悼文であったせいでしょうが

詩の鑑賞になると

三好の筆先は険しく硬くなります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年1月25日 (水)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「夏の夜に覚めて見た夢」/三好達治の否定・その2

 

「夏の夜に覚めて見た夢」は「四季」1935年(昭和10年)10月号に発表されましたが

三好達治が、帝国大学新聞1938年(昭和13年)5月23日号に載せた批評は

ボロクソの酷評でした。

 

「ぶつくさ」の題で掲載された

その一部を読みましょう。

 

 

こんな風のレアリズムを、主観のとぼけた対象への捕はれ方を、私はやはり非詩として、根こそぎの否定を以て否定しないではゐられない。

 

「在りし日の歌」の著者は、その異常な体質と、その異常に執拗な探究力とで、まことに奇異な詩的世界まで踏みこんだ詩人だつたが、彼にはつひに最後まで、極めて初歩的な認識不足――外部からは窺知しがたい宿命的な、それが彼の長所でもあつた不思議に執拗な独断に根ざした、その認識不足からつひに救はれずに終つたやうである。

 

(筑摩書房「三好達三全集」第4巻より。読みやすくするために、改行を加えてあります。編者。)

 

 

「夏の夜に目覚めて見た夢」が

このようなレアリズムで書かれ

(そのレアリズムは)

主観的であるだけの(一辺倒の)とぼけた(眼差し)の

対象への捕われ方は(およそレアリズムとは言えないし)

(そうならば)詩ではない、非詩であり

(私はこのような詩を)根こそぎ否定する

否定しないではいられない

――というような意味でしょうか。

 

三好達治の文章は

時に長文に及ぶことがあり

主述が見極めがたくなったり

主副の優劣関係が不明だったり

副詞句の中に本意が述べられていたりするので

パラフレーズすることは難しく

危険でもありますが

わかりやすくするためにこのように読んでみました。

 

次に続く文章はやや長文ですけれど

副詞句は主述を説明していて意味は明瞭です。

 

「在りし日の歌」の著者は=主

つひに救はれずに終つたやうである。=述

――という構文の中に

長い副詞句が挟められても

その副詞句は述部を詳しく説明しているに過ぎません。

 

 

その異常な体質

その異常に執拗な探究力

まことに奇異な詩的世界まで踏みこんだ詩人

最後まで、極めて初歩的な認識不足

それは外部からは窺知しがたい宿命的な、

それは彼の長所でもあつた

不思議に執拗な独断に根ざした

その認識不足

――が説明しているのは

認識不足という一事です。

 

一点だけ

長所とされているところがあり

ここは読み過ごせないところですが。

その異常な体質

その異常に執拗な探究力

まことに奇異な詩的世界

――というところも高評価と言えなくはなさそうですが

全体が否定の中に閉ざされます。

 

 

三好達治は「夏の夜に覚めて見た夢」の詩(人)を

認識不足の詩(人)

――と読んでいるのです。

 

だから、これは詩ではない、非詩である

根こそぎ否定せざるを得ない

――というのです。

 

 

これでは中也は救いようがありません。

夏の夜に目覚めて

その日の昼に見た(ラジオで聞いたか?)野球試合のシーンがよみがえるのですが

ゲームの終わった球場の怖いほどの静寂。

 

周辺のポプラの並木は青々として風にひるがえり

蝉しぐれはいっこうに止まない。

 

生命の饗宴(狂騒)はいつもながらで

やれやれという心は

リアルに生じるならいでしたが

その映像を夜の夜中に見たのでした。

 

 

……。

 

 

だが待てよ。

 

三好達治は

何か理解できないものの出現に驚き

ある種の怖れを抱いたのではあるまいか。

 

それを否定するために

根こそぎ否定しなければならなくなったのではないか。

――などと、善意に解釈することもできるかな、なんて思ってみますが。

 

やっぱり、「測量船」の詩人ですから

測らなければ済まない詩人だったのですから

少しでも計算できないものがあると

もはや計算不能として退けるしかなかったのか、なんて思い直します。

 

 

帝国大学新聞での発言は

中原中也没後のことですから

中也自身はこれを読んでいません。

 

同じく中也が生前手にすることのなかった

第2詩集「在りし日の歌」は丁度この頃発行されました。
(4月発行、6月再刊。)

 

三好達治は

「ぶつくさ」よりもずっとずっと丁寧な「在りし日の歌」の批評を

1938年(昭和13年)9月号「文学界」に寄せます。

 

 

途中ですが 

今回はここまで。

 

 

 

2017年1月23日 (月)

中原中也が「四季」に寄せた詩/「夏の夜に覚めて見た夢」/三好達治の否定

 

中原中也の日記に

三好達治が現われるのは

1936年(昭和11年)7月19日と

翌々日の7月21日との2回だけのようです。

 

 

7月19日

 

(略)

雑誌の編輯者どもが、ひどく俺を理解したような顔をする。そして、三好達治は無論俺より偉いとして、その上で俺をほめながら、俺によっぽど御利益でも与えたようなつもりになる。

(略)

 

 

7月21日

 

(略)

山本書店に行く。堀口大学を訪ねる、留守。山内義雄に会って山本書店の言付を伝える。三好達治の所へ寄る。一寸散歩に出ている、じきに帰るとのことであったがすぐに帰る。

(略)

 

(以上、「新編中原中也全集」第5巻・日記・書簡本文篇より。新かなに変えました。編者。)

 

 

これだけのことでは、なんのことか、なんにもわかりませんが、

記すことが詩人には必要であったことは確かなはずです。

 

中也は早くから「四季」を発表の場にしていたのでしたし

1935年年12月には同人入りし

毎号のように盛んに詩などを発表していましたし

三好達治は

季刊「四季」以来、編集中枢にあった先輩でした。

 

「俺より偉いとして」というのは

詩人としても

詩誌「四季」の創刊メンバーであることからしても

先輩である三好を

「世間(編輯者)が偉い(格上だ)と見なすのは当然だとして」というニュアンスでしょうか。

 

このころ付き合いのあった編集者への不満を述べた中に

三好達治が引き合いにされたのですが

引き合いになった具体的な理由はわかりません。

 

 

7月21日には

三好達治本人を訪問して会えなかったのですが

訪問するというのは

やはり「四季」のよしみということになるでしょう。

 

 

不発に終わったこの訪問よりおよそ2年前の

1935年(昭和10年)10月号「四季」に

中也は「夏の夜に覚めて見た夢」を発表しています。

 

 

夏の夜に覚めてみた夢

 

眠ろうとして目をば閉じると

真ッ暗なグランドの上に

その日昼みた野球のナインの

ユニホームばかりほのかに白く――

 

ナインは各々(おのおの)守備位置にあり

狡(ずる)そうなピッチャは相も変らず

お調子者のセカンドは

相も変らぬお調子ぶりの

 

扨(さて)、待っているヒットは出なく

やれやれと思っていると

ナインも打者も悉(ことごと)く消え

人ッ子一人いはしないグランドは

 

忽(たちま)ち暑い真昼(ひる)のグランド

グランド繞(めぐ)るポプラ竝木(なみき)は

蒼々(あおあお)として葉をひるがえし

ひときわつづく蝉しぐれ

やれやれと思っているうち……眠(ね)た

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

第2連、

狡(ずる)そうなピッチャは相も変らず

お調子者のセカンドは

――のこの2行を書く詩人の眼の

世間一般の人が感じていても口には出さないであろう

大胆さが光る詩です、よね。

 

口語的感性というか。

 

ゲームは

いつしか終わり

人っこ一人いない球場の静寂を

蝉しぐれが助長します。

 

やれやれ、は

倦怠のさみしさやむなしさや……。

 

ことによれば

自分への励ましをさえ含んでいるような。
 
夜の夢であるところの仕掛けも

わざとらしくないし。

 

起伏の大きい

口語自由詩の試みであるというのに。

 

 

この詩「夏の夜に覚めて見た夢」を

中也の死後に

三好達治が全面的に否定します。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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