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カテゴリー「現代詩の長女/茨木のり子の世界」の記事

2016年2月28日 (日)

折に触れて読む名作・選/茨木のり子「六月」

 

 

 

きっぱりと

竹を割ったような物言いを身上とする詩人は

それでも

押さえに押さえて

ようやく吐き出す「感情」があるようです。

 

 

六月    

                

どこかに美しい村はないか

一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒(ビール)

鍬(くわ)を立てかけ 籠を置き

男も女も大きなジョッキをかたむける

 

どこかに美しい街はないか

食べられる実をつけた街路樹が

どこまでも続き すみれいろした夕暮は

若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

 

どこかに美しい人と人の力はないか

同じ時代をともに生きる

したしさとおかしさとそうして怒りが

鋭い力となって たちあらわれる

 

(ちくま文庫「茨木のり子集 言の葉1」所収 詩集「見えない配達夫」より。)

 

 

ようやく。

 

最後まで言わず、

最後になって吐き出す。

 

その「感情」の名は怒りです。

2016年2月27日 (土)

折に触れて読む名作・選/茨木のり子「最上川岸」

 
 

 

「鯛」の次にありました。

 

目にとまり

そのまま終わりまで読んで

目が開かれる思い。

 


 
最上川岸

 

子孫のために美田を買わず

 

こんないい一行を持っていながら

男たちは美田を買うことに夢中だ

血統書つきの息子に

そっくり残してやるために

他人の息子なんか犬に喰われろ!

黒い血糊のこびりつく重たい鎖

父権制も 思えば長い

 

風吹けば

さわさわと鳴り

どこまでも続く稲の穂の波

かんばしい匂いをたてて熟れている

金いろの小さな実の群れ

<あれはなんという川ですか>

ことこと走る煤けた汽車の

まむかいに坐った青年は

やさしい訛(なまり)をかげらせて 短く答える

<最上川>

彼のひざの上に開かれているのは

古びた建築学の本だ

 

農夫の息子よ

あなたがそれを望まないのなら

先祖伝来の藁仕事なんか けとばすがいい

 

和菓子屋の長男よ

あなたがそれを望まないのなら

飴練るへらを空に投げろ

 

学者のあとつぎよ

あなたがそれを望まないのなら

ろくでもない蔵書の山なんぞ 叩き売れ

 

人間の仕事は一代かぎりのもの

伝統を受けつぎ 拡げる者は

その息子とは限らない

その娘とは限らない

 

世襲を怒れ

あまたの村々

世襲を断ち切れ

あらたに発って行く者たち

無数の村々の頂点には

一人の象徴の男さえ立っている

 

(ちくま文庫「茨木のり子集 言の葉1」所収 詩集「鎮魂歌」より。)

 

 

きっぱりと

こうまで言い切る。

 

「鯛」もそうでした。

 

 

血が噴き出すような

また、返り血を浴びたに違いない。

 

プロテストと呼びもしたい。

 

 

2016年2月26日 (金)

折に触れて読む名作・選/茨木のり子「鯛」

 
 
茨木のり子に動物をタイトルにした詩は

多くはありません。

 

そのことに意味があるのか

わかりませんが

「鯛」は

「鶴」の対極にあるような詩です。

 

というと誤解を招きます、か。

 

 

読んでみるのが

先決です。

 

 

 

早春の海に

船を出して

鯛をみた

 

いくばくかの銀貨をはたき

房州のちいさな入江を漕ぎ出して

蜜柑畠も霞む頃

波に餌をばらまくと

青い海底から ひらひらと色をみせて

飛びあがる鯛

珊瑚いろの閃き 波を蹴り

幾匹も 幾匹も 波を打ち

突然の花火のように燦きはなつ

魚族の群れ

 

老いたトラホームの漁師が

船ばた叩いて鯛を呼ぶ

そのなりわいもかなしいが

黒潮を思うぞんぶん泳ぎまわり

鍛えられた美しさを見せぬ

怠惰な鯛の ぶざまなまでの大きさも

なぜか私をぎょっとさせる

どうして泳ぎ出して行かないのだろう 遠くへ

どうして進路を取らないのだろう 未知の方角へ

 

偉い僧の生誕の地ゆえ

魚も取って喰われることのない禁漁区

法悦の入江

愛もまた奴隷への罠たりうるか

海のひろさ

水平線のはるかさ

日頃の思いがこの日も鳴る

愛もまたゆうに奴隷への罠たりうる

 

(ちくま文庫「茨木のり子集 言の葉1」所収 詩集「鎮魂歌」より。)

 

 

もしも、

「自由」を補助線に引いたらば

二つの詩は近づくのかもしれません。

 

 

末尾の、「日頃の思い」に

詩人の思念が偲(しの)ばれます。

2016年2月25日 (木)

折に触れて読む名作・選/茨木のり子「鶴」

鶴はいま、どうしているか?

もうとっくに

インドの平原に降り立っているだろうか。

 

オホーツクに流氷が見られ

ようやく網走の海に接岸したというニュースを聞いていて

ふとアネハヅルのヒマラヤ越えを思い出しました。

 

同時に

茨木のり子の「鶴」を読みたくなりました。

 

 

 

鶴が

ヒマラヤを越える

たった数日間だけの上昇気流を捉え

巻きあがり巻きあがりして

九千メートルに近い峨峨(がが)たるヒマラヤ山系を

越える

カウカウと鳴きかわしながら

どうやってリーダーを決めるのだろう

どうやって見事な隊列を組むのだろう

 

涼しい北で夏の繁殖を終え

育った雛もろとも

越冬地のインドへ命がけの旅

映像が捉えるまで

誰にも信じることができなかった

白皚皚(はくがいがい)のヒマラヤ山系

突き抜けるような蒼い空

遠目にもけんめいな羽ばたきが見える

 

なにかへの合図でもあるような

純白のハンカチ打ち振るような

清冽な羽ばたき

羽ばたいて

羽ばたいて

 

わたしのなかにわずかに残る

澄んだものが

はげしく反応して さざなみ立つ

今も

目をつむれば

まなかいを飛ぶ

アネハヅルの無垢ないのちの

無数のきらめき

 

    一九九三・一・四 NHK「世界の屋根・ネパール」

 

(ちくま文庫「茨木のり子集 言の葉3」所収 詩集「倚りかからず」より。)

 

 

大きな鳥が空を飛ぶのを

肉眼で見ることは

普通の人は

まずないことでしょう、一生の間にも。

 

今でこそ

You Tubeで容易に見られますが(→Demoiselle Crane or Mongolian Common Crane

1993年のNHKの映像を見た詩人は

残像の消えないうちに

この詩を作りました。

 

ドキドキする詩人の心臓の音が

刻まれたような言葉が

こちらにも響いてくるような。

 

 

 

 

 

2015年6月15日 (月)

茨木のり子の11歳と中原中也「蛙声」/同時代について

(前回からつづく)

 

茨木のり子が日中戦争の開始を知ったのは

小学校5年生の時で

始業前の校庭でドッジボールをしている最中のことでした。

 

「戦争がはじまったんだって。いやだねえ」

「ふうン、どこと?」

「支那とだが」

――という三河弁まじりの会話で「はたちが敗戦」というエッセイを書き出します。

 

昭和12年(1937年)のことでした。

この時の年齢は11歳。

 

 

盧溝橋事件にはじまった日支事変のニュースを

大人たちから聞き知ったのでしょうか

ラジオや新聞で知ったのでしょうか

校庭でドッジボールをする合間に交わした会話に耳がそばだつのは

この頃に中原中也が存命中であり

丁度、「ランボウ詩集」の翻訳を完成した時期であるからです。

 

中也が死んだ年に

茨木のり子は小学校5年生だったのですね!

 

中也は次に「在りし日の歌」の清書を終え

小林秀雄に原稿を託してまもなく

結核性の病気にかかってあっけなく死んでしまいますが

茨木のり子が小学校5年生だった時に

中原中也が旺盛な創作活動を行っていたという事実が

遠い日のことではないことを教えてくれて目が覚めるのです。

 

戦後70年の歳月ですが

なんだかちょっと前のことのようではないですか!

盧溝橋事件から

80年も経っていないのです。

 

 

昭和16年(1941年)に真珠湾攻撃があり太平洋戦争へ。

茨木のり子、この時、15歳。

 

昭和20年(1945年)の敗戦時に20歳(はたち)でした。

 

11歳から20歳の8年間を戦争下で暮らしたのですから

中原中也の生きた時間にまっすぐに繋がっている時代を

引き続いて茨木のり子は生きたのです。

 

 

「在りし日の歌」最終詩「蛙声」を

思い出してみましょう。

 

 


蛙声

 
天は地を蓋(おお)い、

そして、地には偶々(たまたま)池がある。

その池で今夜一(ひ)と夜(よ)さ蛙は鳴く……

――あれは、何を鳴いてるのであろう?

 

その声は、空より来(きた)り、

空へと去るのであろう?

天は地を蓋い、

そして蛙声(あせい)は水面に走る。

 

よし此(こ)の地方(くに)が湿潤(しつじゅん)に過ぎるとしても、

疲れたる我等(われら)が心のためには、

柱は猶(なお)、余りに乾いたものと感(おも)われ、

 

頭は重く、肩は凝(こ)るのだ。

さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、

その声は水面に走って暗雲(あんうん)に迫る。

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。新かなに変えてあります。編者。)

 

 

直接に関係ありませんが

中也がこの詩を歌った時代を

茨木のり子は呼吸していたのでした。

 

同時代を生きた時間があったのです。

 

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2015年2月20日 (金)

茨木のり子の「ですます調」その11・現代詩巨人への糸口

(前回からつづく)


茨木のり子が「うたの心に生きた人々」の山之口貘を案内する中で

金子光晴を何度も呼び出して

二人の詩人の「なさぬ仲」といってもよい関係を明らかにしますが

茨木本人の金子光晴との出会いも

詩という文学のフィールドばかりでなく

現実の生活の中での親交に及んだという点で特別です。



「うたの心に生きた人々」の中ではしかし

その親交について触れられることはありません。


あくまで金子光晴という詩人の詩心(うたの心)を追い

その生涯を追うにとどめ

私的な交流を記述しません。


そうすることによって

金子光晴という詩人を客観的に位置づけようとしたのでしょう。


詩人の評伝の輪郭(りんかく)を鮮明に保ちながら

詩人の「うたの心」に迫るために

茨木は私的交流を持ち出さなかったのです。



「うたの心に生きた人々」の金子光晴の章は、

1 風がわりな少年

2 中退の青春

3 山師のころ

4 第一回の外遊

5 詩集「こがね虫」

6 海外放浪の長い旅

7 むすこの徴兵をこばむ

8 戦後になって

――という構成で書かれていますが

この、日本現代詩の巨人といって過言ではない詩人の足跡を

ここで詳しく辿ることはできません。


その糸口になるようなことを探してみますと――。


山之口貘の章で

折につけて現れる詩人の妻・森三千代と光晴の

「ややこしいような」「超俗的な」関係を

茨木のり子はどのように記述しているかに焦点を絞って

読んでみることにしましょう。



今は巨大な詩塊(しかい)を前にして

その入口を見つけるような作業が必要ということなのですが

最終章「戦後になって」で触れられている

詩集「人間の悲劇」(1952年)を読むことができるには

このステップが役に立つことでしょう。



その前に

金子光晴の詩を一つでもよいから

目を通しておくことにしましょう。



金子光晴は

生涯にわたって色々な詩を残しましたが

戦後に書かれたこの詩集を

茨木のり子が金子光晴の項の終わりで紹介しているのは

特別の意味が込められていそうです。


それは「うたの心に生きた人々」の巻末でもありますし

この文庫の末尾に「人間の悲劇」の記述を置いたのには

茨木のり子のメッセージが込められたことが想像できます。


「――答辞に代えて奴隷根性の歌――」として

同書に引用された詩を読んでおきましょう。



奴隷(どれい)というものには、

ちょいと気のしれない心理がある。

じぶんはたえず空腹でいて

主人の豪華な献立のじまんをする。


奴隷たちの子孫は代々

背骨がまがってうまれてくる。

やつらはいう。

『四足(よつあし)で生れてもしかたがなかった』と


というのもやつらの祖先と神さまとの

約束ごとと信じこんでるからだ。

主人は、神さまの後裔(こうえい)で

奴隷は、狩犬の子や孫なのだ。


だから鎖でつながれても

靴で蹴られても当然なのだ。

口笛をきけば、ころころし

鞭の風には、目をつむって待つ。


どんな性悪(しょうわる)でも、飲んべでも

蔭口たたくわるものでも

はらの底では、主人がこわい。

土下座(どげざ)した根性は立ちあがれぬ。


くさった根につく

白い蛆(うじ)。

倒れるばかりの

大木のしたで。


いまや森のなかを雷鳴(らいめい)が走り

いなずまが沼地をあかるくするとき

『鎖を切るんだ。

自由になるんだ』と叫んでも、


やつらは、浮かない顔でためらって

『御主人のそばをはなれて

あすからどうして生きてゆくべ。

第一、申訳のねえこんだ』という。

         ――答辞に代えて奴隷根性の歌――


(「うたの心に生きた人々」(ちくま文庫)より。)



「奴隷」とは

忘れられてしまったような言葉のようですが

よく考えれば(よく考えなくとも!)

世の中に今も充満している現実ですよね。



今回はここまで。

 

2015年2月10日 (火)

茨木のり子の「ですます調」その8・戦後詩の出発

(前回からつづく)

 

読み終えてから

それが何を言いたかったかわからないということがない。

 

伝達しようとしていることが

すっきりくっきりはっきりしていて

そうだそうだと溜飲を下げてくれる文(や詩)が

茨木のり子の著作のほとんどです。

 

これは当たり前のようで

珍しいケースです。

 

 

代表作の「わたしが一番きれいだったとき」を読んでみましょう。

 

そのことを明確に理解することになるでしょう。

 

 

わたしが一番きれいだったとき


わたしが一番きれいだったとき

街々はがらがら崩れていって

とんでもないところから

青空なんかが見えたりした

 

わたしが一番きれいだったとき

まわりの人達が沢山死んだ

工場で 海で 名もない島で

わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった

 

わたしが一番きれいだったとき

だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった

男たちは挙手の礼しか知らなくて

きれいな眼差だけを残し皆発っていった


わたしが一番きれいだったとき

わたしの頭はからっぽで

わたしの心はかたくなで

手足ばかりが栗色に光った


わたしが一番きれいだったとき

わたしの国は戦争で負けた

そんな馬鹿なことってあるものか

ブラウスの腕をまくり卑屈な街をのし歩いた


わたしが一番きれいだったとき

ラジオからはジャズが溢れた

禁煙を破ったときのようにくらくらしながら

わたしは異国の甘い音楽をむさぼった


わたしが一番きれいだったとき

わたしはとてもふしあわせ

わたしはとてもとんちんかん

わたしはめっぽうさびしかった


だから決めた できれば長生きすることに

年とってから凄く美しい絵を描いた

フランスのルオー爺さんのように

                   ね

 

(筑摩書房「茨木のり子集 言の葉Ⅰ」所収「見えない配達夫」より。)

  

 

まずはこの詩に難解な言葉はひとつもなく

何が歌われているかがすんなりと読み手の心の中に落ちてきて

あ、これは戦争中に青春にさしかかった女性が

戦争が終わって開放的気分になったときの気持ちを歌った詩であることを知るでしょう。

 

これからは自由におもいっきり青春を謳歌できるとみなぎる気持ちの中には

もはや残り少なくなった青春の時間を振り返る気持ちもあり

それが戦争のために奪われてしまったという怒りとか嘆きとかがあるのですが

怒りや嘆きにとどまっているだけではなく

気を取り直してこれからの時間を命を大切に生きよう

画家ルオーが長生きして爺さんになって数々の傑作を残したように

自分も豊かに創造的な暮らしをして行こうと励まし

同じような目にあった女性たちへエールを送る

――という詩であることを理解します。

 

 

戦争をさらっと批判している感じです。

 

青春を台無しにされてしまったのに

恨みつらみをを述べるというよりも(もちろん、それはあるのですが)

最後にはこれからの暮らしを豊かにして行こうと

未来に向ける眼差しが歌われるのです。

 

 

失われた青春に足を引きずられているよりも

それと決別し

新たな出発を宣言している。

 

それもせわしなく生き急ごうとするでもなく

ルオーの生涯のような。

 

悠々として創造活動にいそしむような。

 

 

ここには

一人の女性詩人の出発が

歌われているのです。

 

それは戦後詩の出発を告げる

形の一つでもありました。

 

 

「わたしが一番きれいだったとき」の初出は1957年2月「詩文芸」で

それが1958年発行の第2詩集「見えない配達夫」に収録されています。

 

戦後10年少しして発表されたということですから

この10年の間に詩の言葉は磨かれたということもあるのでしょう。

 

怒りや嘆きは

直截さを弱められているのかもしれませんが

それにしても詩はまっすぐな感じはっきりした感じ。


輪郭があざやかです。

 

 

このあたりのことは

1963年発行の「現代詩人全集 第10巻 戦後Ⅱ」(角川文庫)の解説で

鮎川信夫が「純然たる戦後派」として何人かの詩人をあげる中で

「詩的意識のうえに戦争の影響をあまり受けていない詩人」の一人として

まっさきに茨木のり子の名を入れていることと関係していることでしょう。

 


途中ですが

今回はここまで。

 

2015年2月 1日 (日)

茨木のり子の「ですます調」その3・高村光太郎「伝」

(前回からつづく)

 

「うたの心に生きた人々」の中の「高村光太郎」の章は

 

1 高村光雲のむすこ

2 パリでの人間開眼(かいげん)

3 父と対立

4 『智恵子抄』の背景

5 日本人の「典型」

――という構成ですが、

 

 

「『智恵子抄』の背景」では、

光太郎と智恵子の出会いから

「上高地の恋」を経ての結婚

第一詩集「道程」の出版

そして智恵子が狂気を発症し死に至るまでを描きます。

 

その口ぶりの特徴あるところを

この流れにそってところどころ拾うと

こんなふうです。

 

 

智恵子はそんなことにはおかまいなく、純粋に光太郎の心の中めがけて、パッと飛びこんでしまったのです。

光太郎はびっくりし、たじろぎ、ショックでその不良性をさえ失ってしまいました。


「あの頃」という詩のなかで、



智恵子のまじめな純粋な

息をもつかない肉薄に

或日はっと気がついた。

わたくしの眼から珍しい涙がながれ、

わたくしはあらためて智恵子に向た。


智恵子はにこやかにわたくしを迎え、

その清浄な甘い香りでわたくしを包んだ。

わたくしはその甘美に酔て一切を忘れた。


わたくしの猛獣性をさえ物ともしない

この天の族なる一女性の不可思議力に

無頼(ぶらい)のわたくしは初めて自己の位置を知た。



と書いています。

 

 

光太郎と智恵子が、結婚に賭けた夢は、ひとりの彫刻家と、ひとりの画家が、共同生活をいとなみ、

それぞれの精進をつづけてゆくといった、永遠の学生生活のように若々しく意欲あふれるものでした。

 

 

智恵子はだれの目にも美人とうつる、いわば万人向きの美人ではなく、(略)



だれからも美人とみられるより、ひとりのひとによって発見された美のほうが、

よりすてきではないでしょうか。

 

 

昭和7年(1932)智恵子が47歳になったとき、とつぜん、睡眠薬アダリンを飲んで、

自殺未遂に終わるという事件が起こりました。

 

 

昭和9年は、父、光雲が83歳でなくなるという不幸があり、そのうえ、千葉県九十九里浜に療養させていた

智恵子の症状もますます悪化しました。

 

 

狂気の智恵子を考えるとき、たった一つの救いとなるものは、マニキュア用の小さなはさみで、

子どものように、無心に切って、じつに美しい紙絵をつくっていることです。

 

 

南品川のゼームス坂病院に入院していた、死の前年の、1年半くらいのあいだに、

千数百枚も切ったのでした。

 

 

光太郎がいくと、それはうれしそうな顔をして、そのひざに抱かれて、だれにも見せなかった紙絵を、

うやうやしく見せるのが、あわれでした。

光太郎がほめると、うれしそうに、はずかしそうに、何度も何度もおじぎをするのでした。

 

……等々。


(※読みやすくするために、改行をいれたり、洋数字に変えたりしてあります。編者。)

 

 

引きずり込まれ

引用がついつい長くなってしまいますが

これは抜粋(ばっすい)です。

 

原文を味わうものではありません。

 

 

うれしそうに、はずかしそうに、何度も何度もおじぎをするのでした。

――というところにさしかかっては

読み手のだれしもが書き手の茨木のり子の「こころ」と

直(じか)に触れるような共鳴をおぼえるにちがいありません。

 

光太郎と智恵子の結びつきが

まっすぐに伝わってきて

何度も読み返したくなるようなところですが

茨木の書き振りはむしろ控えめです。

 

 

夢中になって

書物を読み進めるこの感覚――。

 

それで思い出すのが

少年少女のための冒険物語とか偉人伝などの文体です。

 

エジソン伝とか

ナイチンゲールの物語とかが、

記憶の古層から

ふっと抜け出してくるのです。

 

茨木のり子が

偉人伝や冒険譚をイメージしていたかはわかりませんが。

 

 

このくだりにさしかかる頃、

この感覚とはまったく異なる

ある重要なことに気づき

思わず、あっと、息を飲みました。

 

中原中也の「山羊の歌」の表紙が

光太郎のこのような状況で制作されたことを思い出したからです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。



「智恵子抄」から

光太郎が智恵子とともに智恵子の故郷・福島県二本松を訪れたときの詩を読んでおきます。

 


樹下の二人

 

――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――


あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

うやって言葉すくなに座っていると、
うっとりねむるような頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでいるよろこびを、
下を見ているあの白い雲にかくすのは止しましょう。

あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
ああ、何という幽妙な愛の海ぞこに人を誘うことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負う私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののように捉えがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国(きたぐに)の木の香に満ちた空気を吸おう。
あなたそのもののようなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗おう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別個の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いています、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教えて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

(新潮文庫「高村光太郎詩集」より。新かな・新漢字に変えてあります。編者。)

2015年1月31日 (土)

茨木のり子の「ですます調」その2・伝達の意志

(前回からつづく)

 

意識してわかりやすくやさしく書こうとするもの、

ワクワクドキドキさせ飽きさせないもの。

――という狙いは

茨木のり子の詩作のポリシーでもあったようですが

そのポリシーは散文において

より著しく実現されているようです。

 

 

「うたの心に生きた人々」中の「与謝野晶子」の章では

たとえば、

 

東京へでてからの鉄幹はめざましい活躍をし、二十二歳のときには「亡国の音」という歌論を新聞に発表して、宮内省系の古くさい歌人をやっつけました。

 

――といった歯切れのよい文章によく出合います。

 

なんの変哲もない素朴な文章でありそうですが

この文の終わりの「やっつけました」という書き方なんか

なんの気取りもなく勿体(もったい)ぶらない

ぶっきらぼうでさえある口調が

はっきりきっぱりした輪郭を生み出しています。

 

 

このような文は

いくらでも見つけることができます。

 

 

大ぜいの子どもたちは、ときに垢じみ、ときにパリッとしていたのです。

 

家計も苦しく、バス代もお手伝いさんから借りてゆく日さえあったのに「お金なんかなんだ!」

という心の張りをもって、すこしも貧乏のかげや、“しみ”を見せませんでした。

 

すべて手仕事でしたから、一つのびょうぶを仕上げるにもたいへんなことだったのでしょう。

身なりなどかまっていられず、大奮闘でした。

 

シベリア鉄道は十四日間もかかり、ことばは通ぜず、列車ボーイからチップばかり請求され、

手ちがいもあってお金もとぼしくなり、パンとコーヒーだけで最後の二日を過ごし、

へとへとになってパリにたどりつきました。

 

まさしく黄金の釘を、はっしと打って去った人でした。

 

(いずれもちくま文庫「うたの心に生きた人々」(所収「与謝野晶子」より。)

 

――といった具合です。

 

 

ここに「技」は

あるのではないか。

 

 

言葉をひねくりだそうとしていない。

 

最適の言葉を選ぼうとしてひねくりだしそこね

ぼやかしてしまうことへの恐れや反発があり

そうならないように注意を払う意識を働かしているのではないか。

 

選びに選んだ言葉が

かえって表現を限定し

スルリと肝腎要(かんじんかなめ)をぼかしてしまうような言葉遣いが

たとえば「美しい日本語」などにはよく見られることで

それを「言葉の綾」などといって称揚する傾向があることを

茨木のり子は排撃するのです。

 

そうしようとして

後にもどってはじめに浮んだ言葉を

そのまま書くというようなことを

意識している術であるようにさえ思えてきます。

 

 

そういう文ばかりでないことは勿論ですが

やさしくわかりやすくはっきりくっきりした文章を書こうとするねらいは

入門書、案内書である場合ですから

特に目立つということなのかもしれませんが

明らかにターゲット(読者)への伝達の意志(配慮)があります。

 

伝達を表現より大事にしていることでもあります。

 

 

そしてターゲットは

言葉そのものの面白さに目が開きかかった

青少年男女であり

そうでなくとも

言葉そのものを熟読玩味しようとする成年や老年までをも含みますから

それはインテリゲンチャーばかりではないのです。

 

 

これを文体と呼ぶならそう呼んでいいのですが

「高村光太郎」章中の「『智恵子抄』の背景」の終わりでは

智恵子が狂気を発症し死に至るまでを描き

あいまいさをみじんも残さないこの文体が

光太郎の心をけざやかにくっきりと浮き彫りにする言葉遣いが

息をのむように迫ってきます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2015年1月30日 (金)

茨木のり子の「ですます調」その1・書物初体験の記憶

茨木のり子の「うたの心に生きた人々」が単刊発行されたのは

1967年11月、「さ・え・ら書房」からでした。

 

それが「ちくま文庫」として発行されたのが

1994年9月。

 

「倚りかからず」(ちくま文庫)の「茨木のり子著作目録」では

1955年「対話」(不知火社)

1958年「見えない配達夫」(飯塚書店)

1965年「鎮魂歌」(思潮社)

――に続く4番目の著作と記されています。


1967年は茨木のり子41歳の年です。

 

 

現在も増刷を繰り返しているということで

人気は衰える気配もありません。

 

その理由は

彼女の作品を

詩であれ散文であれ

読んでみればすぐにわかろうというものです。

 

そのような経験を一つ

紹介しておきましょう。

 

 

茨木のり子が書いた現代詩への入門書は

1979年発行の「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)がありますが

これより10年以上も前に

明治以後の詩人4人(与謝野晶子、高村光太郎、山之口貘、金子光晴)に絞った案内書がこの本で

ようやく最近になってここにたどり着き

夢中になって読んでいます。

 

その中で、

あ、これはどこかで覚えのある経験だなあ

なんだったかなあと自問するものがあり

なかなかその経験が思い出せないでいたところ

ふいに「少年少女○○物語」ってこういうのじゃなかったかな、と

懐かしくもよみがえってくる古い感情がありました。

 

 

赤胴鈴之助やまぼろし探偵やビリー・バックなどの紙の漫画本や

月光仮面や鉄腕アトムなどのテレビ番組より以前の

もっと古くて、ぼんやりかすんでしまった記憶の層にある

書物の初体験――。

 

それは少年画報とかの冒険活劇漫画だったのでしょうか。

 

漫画ではない

文字半分、挿絵半分の少年少女世界文学全集みたいなものだったのでしょうか。

 

記憶は混淆(こんこう)していて

錯綜(さくそう)していて

風化もしていますから定かではないのですが

茨木のり子の「ですます調」は

かなり古いこれらの書物体験の口ぶりを思い出させてくれたのです。

 

 

少年少女や青年男女向けに

意識してわかりやすくやさしく書こうとするもの、

ワクワクドキドキさせ飽きさせないものが

今読んでいる茨木のり子の「うた心に生きた人々」にありますし

かつて初めて読んだ「詩のこころを読む」にはありました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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