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カテゴリー「戦後詩の海へ/茨木のり子の案内で/高良留美子」の記事

2015年12月29日 (火)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子」/「生徒と鳥」の「公園で」

(前回からつづく)

(※茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

「白昼幻想」からそれほど遠くないであろう時に作られた

もう一つの「公園で」があります。

 

第3詩集「見えない地面の上で」中の詩と同題の

もう一つの「公園で」ですが

こちらは第1詩集「生徒と鳥」に収められてあり

1956年夏から翌57年2月のフランス旅行中に書かれたことを

詩人自ら記している詩です。

 

「抱かれている赤ん坊」

「風」

「パリ祭」

「昨日海から」

「冬」などと同じ時期に書かれたことを知っておくと

「生徒と鳥」を繙(ひもと)くときに役立つことでしょう。

 

同じ時期に

タイトル詩「生徒と鳥」などの一群の詩も書かれましたが

こちらが扱うのとはテーマが異なる系列の詩であることが述べられています。

 

(「三つの詩集のあとがき」)

 

もう一つの「公園で」を読みましょう。

 

 

公園で

 

 しのび足で、猫が人気ない公園の砂利の上を歩いている。かれは何かをねらっている。

しかしそこの地面には何もない。人の気配がする。猫は光る眼を上げる。鉄柵の向うから

見ていた男。四つの眼が合う。猫は出しかけた前肢をひっこめる。ちょっといらだった眼つ

きでねらっていたあたりの地面を眺めると、かれは向きをかえて走りだし、植込みのあいだ

を小走りにかけぬけて反対側の小道へ行く、また最初からはじめるために。

 

(思潮社「高良留美子詩集」所収「生徒と鳥」より。)

 

 

テーマとは何のことでしょうか。

 

ここには

公園で獲物を探している1匹の猫の

俊敏な動きがとらえられ

その様子をうかがっている男の眼が

猫の眼とかち合って猫は一目散に近くの植込みに逃げ込み

しばらくしてまた獲物を求めて公園を散策する

――という一連の経過が描かれます。

 

四つの眼ががっぷりよつになった瞬間の静かな緊張と

危険を感じた猫が踵(きびす)を返して逃げる様、

そして再び獲物のハンティングの姿勢をとる猫の

だるそうでありながら真剣な仕草が

詩人の眼によって

シンプルに過不足なくとらえられます。

 

都会のとある公園の昼下がりの一つの風景が

見事に鋭利な眼差しで切り取られたのですが

なぜこの詩がここにあるのでしょうか。

 

 

それがどうしたというのでしょうか。

 

都会の猫のきびしい生存の姿が描かれたのでしょうか。

 

メッセージ(意味)は

そのようなものではなさそうですが

邪魔が入って失敗したハンティングを

もう一度はじめる猫の

飢えた物腰に焦点が当てられているものではなさそうです。

 

焦点はそこにあるように見え

そこにメッセージが込められているとしても

そのようなメッセージを主張することに重心がある詩ではなさそうです。

 

 

やはり、ここでも

鉄柵の向うから見ていた男が気になります。

 

この男に重心があるものでもないのに

やはり、この男の登場が

この詩の肝(きも)のように作られていそうです。

 

男は鉄柵の向うから猫の動きをうかがっているだけで

意味を担(にな)って登場したとも言えないほどに

自然にそこに現われるのですが

ただの通行人にしては

ただならぬ存在感があるのはどこから生じるものでしょうか。

 

 

一服の清涼剤の詩のようでありながら

ここにも補助線のような

触媒のような

呼び水のような役割が負わされてはいないだろうか。

 

詩集を読むときに

類似(類型)を探し

相違を見い出すという作業を繰り返しているうちに

詩(集)と親しくなっているという経験を積んでいます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2015年12月27日 (日)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子」/初期詩篇から「白昼幻想」

(前回からつづく)

 

(※茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

高良留美子が

最も早い時期に作った詩篇の一つに「白昼幻想」があり

それが「高良留美子詩集」(思潮社)のトップに載っています。

 

「未刊詩篇(1)」は

「初期詩篇から」としてまとめられ

その冒頭に置かれているのですから

かなり早い時期の制作であることに間違いありません。

 

その「白昼幻想」こ出てくる男は

「集団疎開」や「公園で」に現われる年老いた男をすぐに思い起こさせる

元型のような存在です。

 

読んでみましょう。

 

 

白昼幻想

 

木々の濃い影を道に落して

住宅街は日射しの下で眠っていた

流しの水音が山奥の流れのように響き

黒猫は音をたてずに板塀の上を歩き

子供は 蠟石で道に機関車の絵を描いていた。

 

そのときだ あの男がやってきたのは

風のようにあらわれて 風のように立ち去った

母親はふと 表が静かなのに気づいて

裏口からのぞいてみる

どこを見ても 子供は影もない!

 

探し疲れた人びとがうなだれて

郊外の日暮れの道を戻ってくるとき

かれらは見るだろう 切通しの

赤土の壁に 頭から突き刺されている

さらわれた子供の二本の裸かの脚を。

 

(それらは瑞みずしい肌を風にさらし

いまこの世界に出現したばかりの毒茸のように

他の植物を枯らして成長し 土手や

丘を蔽いはじめるように思われた。

子供の胸に特有の柔らかさ その生命力――)

 

誰もその男を見なかった

誰もその足音を聞かなかった

だが人びとは互いに見合わせる眼のなかに

その男の憎しみに満ちた視線を

見たように思ったのだ。

 

五月のそよ風が家々のまわりを吹いていたが

窓をあけて挨拶を交す者はなくなった

かれらの背中に濃い影がひろがり

かれらは全身に喰いこん鉛のような影を

背負って歩いた。

 

かれらはしだいに思いはじめた 今までも

他人を愛したことなどなかったのだと

隣人の不幸を心から願っていたのだと

かれらはひそかにあの男を愛しはじめた

だがかれらは気がつかなかった あの男が

近づいてきた戦争の影だったことを。

 

(思潮社「高良留美子詩集」所収「初期詩篇から」より。)

 

 

この男は

戦争の比喩(直喩!)としてあらわれるのですから

戦争そのものですから

ある特定の人物像をイメージしても無駄なことでしょうが

戦争が人間の行うものであるから

人格みたいなものを持っていると見做すのは

無理なことではありません。

 

第3連に出てくる

殺された子供の裸の足――。

 

( )でくくられた第4連は、

詩(人)のモノローグでしょうが

生命力をみなぎらせて風を受けている死体が

世界に充満していくであろう未来を

じっと見ている眼差しには

感情のかけらも表明されません。

 

戦争のはじまりは

このように白日下の幻想のようだった――。

 

 

とんでもない思い違いでないかぎり

この男は

「集団疎開」や「公園で」を歩いている男へと

つながっていきます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2015年12月26日 (土)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「見えない地面の上で」その5「集団疎開」

(前回からつづく)


(※茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

「公園で」や「青物市場」で描写される現在に

過去(戦争)は溶け込んでいて

それは遠い日の出来事のいかにも風化した姿であるように登場します。

 

それらを叙述(描写)する詩(人)の眼差しは

「集団疎開」を回想する眼差しと

同一のものであるかのようです。

 

眼差しというより

眼差しの角度といったほうが正確か。

 

風景を見ている角度や距離感が

みなどこか同じであるかのような。

 

 

子供たちは一人 また一人と帰っていき

街角に群がっていた制服姿の女子中学生も

なにか相談事を済ませて分かれていった。

(公園で)

 

青物市場には四つの門がある。

(青物市場)

 

この二つの詩の歌い出しの眼差しは

「集団疎開」の

道は白く 北へ向かって延びている。

――と叙述する眼差しと同じもののように感じられるのです。

 

角度や距離感までもが

同じように歌われている感じがするのは

詩(人)のいる場所が同じところであるからでしょう。

 

 

このように読んでみると

「集団疎開」という詩のなかへ分け入るのは

容易なことになります。

 

 

集団疎開

 

 道は白く 北へ向かって延びている。夏の終りの光はまわりの田畑に降り注ぐ。その道を二列縦隊で

行く子どもたちの一隊。道端の陋(ろう)屋の乾いて崩れかかった板壁に打ちつけられている大学目薬

の広告――その青地に白文字の金属板だけが 風景のなかで鮮やかだ。


 松林と赤とんぼの群がかれらを迎える。かれらはまだなにも感じていない――遠足気分ではしゃいで

いる! 朝 かれらは昨夜の惨めな経験のあとをお互いの顔に見出してたじろぐ。そして自分たちが大

馬鹿だったことに気づく。

 

 だがもう遅い。歓声と旗に送られ 専用車輛でレールの継ぎ目を一つ一つ運ばれてきた時間を逆に戻

すことはできない。反乱は成功しない。検閲と飢えのなかにかれらは置き去りにされる 戦争が終るま

で。だが戦争はいつ終るのか?

 

(思潮社「高良留美子詩集」所収「見えない地面の上で」より。)

 

 

第1段落の風景が

東北地方のものであるかを

読者は知る由もないことでしょうが

作者である詩人は栃木県西那須野村へ集団疎開した経験があります。

 

「大学目薬」に懐かしさを感じる読者は

現在、70歳を越えている世代になるでしょうか。

 

田舎道を行進する子供たちの風景――。

 

第2段落、第3段落には

昨夜来の事件が子供たちの内面に引き起こしている衝撃が叙述されますが、

それは成功しなかった反乱であるらしいことくらいしか触れられません。

 

叙景(描写)は子供たちの感情に触れますが

いつしか「?」を感じる主体である詩人が現われるのです。

 

戦争はいつ終るのか? という疑問形の主格は

詩人本人に違いありません。

 

こうして詩は

叙景にとどまってはおらず

内面(の劇)が追いはじめられたのですが

結果は空しいものだったのです。



 

 

第5段落。

 

冬がくる。地平には雪に蔽われた山々が横たわる。かれらは電球のまわりでひびわれた手を暖めな

がら めいめい自分の汚れ物を洗う。こっそりと便所のなかで 隠しておいた食べ物を喰う。夜 かれら

は家族からきた手紙を何度も数える。

 

第6段落。

 

 戦争はかれらから遠のいている。だが春先の雨は遠い汽笛を 思いがけなく耳の近くまで運んでくる。

かれらは胸を絞めつけられるが 脱走する勇気が出ない。

 

(同上。)

 

 

現在の公園の風景を叙述するような穏やかなトーンが

この散文詩にも流れるようですが

歌われている現実(集団疎開)の苛烈さを逆に想像することができます。

 

 

このようにして

詩は読者にとば口を開いており

詩世界が近づいてくるのは

繰り返し何度も読むからであります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2015年12月23日 (水)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「見えない地面の上で」その4「青物市場」

(前回からつづく)

(※茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

「公園で」は

いつのことを歌ったものでしょうか?

 

現在のある日のことでしょうか?

 

どこかに、今もあるのでしょうか?

 

今は、すでにない過去のことなのでしょうか?

 

 

このように問うのは、詮(せん)無いことでしょうか?

 

 

公園で

 

子供たちは一人 また一人と帰っていき

街角に群がっていた制服姿の女子中学生も

なにか相談事を済ませて分かれていった。

コンクリートの小山のまわりで

水飲み場の方から移ってきた中学生の一人が

通りかかる友達にひと声罵声を浴びせている。

さっき女の子たちの散っていった塀の前

灰色の空の下を

一人の老年の男が肩を少しまるめ

重そうな鞄をさげて住宅街の方へ通り過ぎる。

 

(思潮社「高良留美子詩集」所収「見えない地面の上で」より。)

 

 

子供たち

街角

制服姿の女子中学生

……と読んでもわかりませんが、

コンクリートの小山が

公園に作られた遊具の山でありそうで

戦前には見かけられなかった風景のはずですから

これは現在(といってもこの詩が作られた1960年代)の風景であることを推定できます。

 

――と読んでよいのでしょうか。

 

確かにそう読んでよいのでしょうが

この詩が歌っているのは

戦後を25年近く経たどこかの(きっと東京の)公園の風景に過ぎないのでしょうか。

 

詩集を読んできた流れにある者は

そのように読むだけでは満足できないことを

だれもが気づくはずです。

 

 

重そうな鞄を下げて住宅街のほうへ通り過ぎる一人の老年の男

――。

 

この老年の男に似た男が

この詩の前にある「集団疎開」の末尾にも登場したばかりなのを

詩集の読者は記憶しています。

 

その男は次のように現われます。

 

「集団疎開」から一部を引きます。

 

 

 戦争はかれらから遠のいている。だが春先の雨は遠い汽笛を 思いがけなく耳の近くまで運んでくる。

かれらは胸を絞めつけられるが 脱走する勇気がでない。

 夜なかにサイレンが鳴り 南の空が染まるのを見た翌朝 かれらはついに帰ってくる。列車の窓から

かれらが最初に見たものは まだ煙を上げている廃墟にたたずむ人びとと 駅のプラットフォームを放

心したように歩いている 襤褸(ぼろ)を着て片手に焼けた薬鑵をさげた一人の男だ。

 

(思潮社「高良留美子詩集」所収「見えない地面の上で」より。)

 

 

「公園で」が歌う風景は

2015年現在でも

ごく普通に見られる風景に違いありません。

 

中学生がたまり

ひとしきり賑わいを見せていた公園から

人気が失せていった後に

老いた男が重そうな鞄を下げて通り過ぎて行くのが見えた

――というだけのいっときが叙述されたに過ぎない詩のようです。

 

それだけ取り出せば

「呼び水」のようなもの(役割)であるような。

 

触媒(しょくばい)であるような

補助線であるような

……。

 

この詩の次にある「青物市場」も

そのような役割を負って

配置されたようです。

 

 

青物市場

 

青物市場には四つの門がある。

人びとはその門をくぐって取引場へ行く。

大通りに面した東門の前には

つぶれたネギの葉っぱが散らばっている。

臨時駐車場は古いコンクリートの塀に囲まれ

「霊安室入り口→」というしるしが

いまもその角のところに残されている。

南門のそばの線路わきには

明け方から開いている食堂がある。

門のなかからは饐(す)えた野菜の匂いが漂ってくる。

住宅のある西門の前を過ぎ

北門をこえて行くと保育園がある。

夏の陽を浴びた葉むらのしたで

母親のあとを追いかけてきた女の子が

門の青い鉄柵にしがみついて泣いている。

 

(同上。)

 

 

戦争の影は

ここでは老いた男にではなく

「古いコンクリートの塀」であったり

「霊安室入り口→」という標識であったりします。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2015年12月21日 (月)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「見えない地面の上で」その3「公園で」

(前回からつづく)

 

(※茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

読みはじめて1か月半。

 

はじめは歯が立たなかった詩も

馴染みあるものになって

歯が立たないものは今も幾つもありますが

詩の中に少しは入り込めるようになりました。

 

今では、

1時間で26篇の詩の半分ほどを読み通せますし

集中すれば2時間で詩集の全篇を一巡できる計算です。

 

 

一つの詩集を初めて読むきっかけは

人さまざまでしょうが

何か一つでも馴染(なじ)みのある詩があれば

その詩を頼りにして

その詩の世界との類似を求めて(期待して)読み進めるというのが常道でしょう。

 

詩集「見えない地面の上で」を

「海鳴り」「木」を頼りに読みはじめたのは

茨木のり子の「詩のこころを読む」がきっかけでした。

 

 

振り返れば――。

 

1、

「海鳴り」を読む課程で未刊詩篇「水辺」「女」に飛び

「木」を読み、

タイトル詩「見えない地面の上で」を読み

 

2、

詩集の冒頭に立ち返り

「白木蓮」

「彼女」

「見えない地面の上で」

「地球の夜」を通して読み、

ここでは不消化感を残して

 

3、

「海鳴り」「木」につづく

「この一匹の犬と人間たちの一かたまりは」と

「ニュータウン」へ向かい

ここに現われる人間や女に親近感を抱き

 

4、

「夏の地獄」へ進んでは

ここに登場する彼女がゴキブリの姿で目覚めるシーンには衝撃を受けつつも

詩全体には歯が立たない感じがあったので

詩集中の最大作とチェックしておいて

後半部に目を配ることにし

 

5、

「友だち」へ至れば

光が射しはじめたところに心は動くのを感じ

次の「幼年期」から次の「帰ってきた人」への流れの不思議さに少しひっかかるものを感じ

ここらに詩(人)の企みを感じ

 

6、

「山鳩」にはじまる散文詩の自然に

目が開かれる思いになり

一気に最後まで読み通す意欲が生まれます。

 

7、

「雪」「地平」「淡雪」の行分け詩に至っては

自然はいっそう深みを増しますが

末尾の散文詩群へと

大きなカーブを切っていく流れに任せて

 

「挙式」

「居間」

「焼跡」

「県立女学校」

「集団疎開」

「公園で」

「青物市場」

「遊園地へ行く道」

「投票所まで」と一挙に読み終えました。

 

 

老人たちのたまり場になっている

昼下がりのドトールの喧騒ので繙(ひもと)くには

妙にバランスのとれた詩集のようです。

 

 

「夏の地獄」から「友だち」へ

「友だち」から「幼年期」へ、

そして「帰ってきた人」へという並びは

もう一つのカーブ。

というよりはヤマといったほうがよいでしょうか。

 

 

行分け詩と散文詩が混在する――。

 

それらが、相互に補完し、重層する――。

 

第1詩集「生徒と鳥」も

第2詩集「場所」も

同じつくりのようです。

 

散文詩は行分け詩を補完し

その逆の場合もあり

詩集の全体化(総合)が企まれている。

 

 

前半部から後半部への展開も

後半部から冒頭部への循環(への導き)も

おなじような全体化の運動を形づくっているようです。

 

個々の詩は

有機的な関係にあるため

遡行と前進と

どちらの読み(アプローチ)にも開かれてあります。

 

その中へ入っていきましょう。

 

 

「公園で」という詩は

散文詩群のなかにある行分け詩です。

 

清涼剤のような小品ですが

その前の「集団疎開」と「対」関係にあるようにも読める

詩(人)の意図が潜んだ(ヒントになる)詩です。

 

 

公園で

 

子供たちは一人 また一人と帰っていき

街角に群がっていた制服姿の女子中学生も

なにか相談事を済ませて分かれていった。

コンクリートの小山のまわりで

水飲み場の方から移ってきた中学生の一人が

通りかかる友達にひと声罵声を浴びせている。

さっき女の子たちの散っていった塀の前

灰色の空の下を

一人の老年の男が肩を少しまるめ

重そうな鞄をさげて住宅街の方へ通り過ぎる。

 

(思潮社「高良留美子詩集」所収「見えない地面の上で」より。)

 

 

この10行詩を流れる時間は

詩人の過去の時間でしょうか

それとも現在でしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2015年12月18日 (金)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「見えない地面の上で」その2

(前回からつづく)

 

(※茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

むずかしい詩が続くなあ

 

何が歌われているのかさえわからない

 

でも……

 

 

なかば辟易(へきえき)し

なかば退屈しつつも

詩のタイトルの妙なアンバランスが気がかりで

詩集の終わりを見届ける気持ちになります。

 

 

「見えない地面の上で」があり「地球の夜」があり

「海鳴り」「木」が続くという配置に

「これは何だろう」と戸惑ったのがはじまりでした。

 

「ニュータウン」から「夏の地獄」へ

「夏の地獄」から「友だち」「幼年期」へという並びにも

「何だろう、この不連続感は」と不審を明かしたい姿勢は生まれ

詩集編集の裏側(意図)をうかがう姿勢は生まれ

「帰ってきた人」から散文詩「山鳩」への流れでは

見覚えのある現実――というべきか

(時の流れに省略がない)物語――というべきか

普通の(3次元の)自然が現われて

読み手の頭脳に血が流れ出す感じになります(ました)が……。

 

次の「通夜」でまた

「さっぱりわからなくなる」世界に戻されてしまいます(ました)。

 

 

詩集を読み続ける意志が消失しないのは

どういう理由からでしょうか?

 

退屈であると感じたその時に

そこから立ち去れば済むものを

そうはしないのは

そこに何かの理由があり

そこに引き留める存在(魅力)があるからです。

 

 

たとえば「山鳩」の末行に、

 

道は深く 産道のように崖を穿っていて 時がきたら わたしもあの道を通って広場へ行くのだ。

――とあり

つづく「通夜」のはじまりは、

 

 三角形の土地の上には菱形の台所があって 絶えずそこから多面体の料理が選び出される。

――とある時に、

二つの詩の異なり具合に驚かされて当たり前のことでしょう。

 

「何なのだ、これは?」と不思議に思った時に

詩世界へ入り込んでいるのは必然というものです。

 

奇跡のようなことが

ここにはじまっています。

 

 

「通夜」の独断的な言葉使いは

「雪」「地平」「淡雪」「挙式」……にも

果てしなく続くかのようです。

 

詩のはじまりだけを幾つか読んでみます。

 

 

 

 雪はそのしたの地面を一層黒くする。地面から滲み出してくる熱気もまた その上に住むひとの

ものだ。死を所有したものは いつかそのことによって復讐される。

 (雪)

 

石つぶての浮き出してくる道の果て 

(地平)

 

 走っていく男の形態は 時間の先端に似ている。

(挙式)

 

 

得体の知れない言葉の列――。

ひとりよがりのような。

 

どうもひっかかる――。

無意識に使われている言葉ではないのに。

何なのだろう――。

 

終わりまで読めば

何かがわかるかも知れない――。

 

このように思えるようになったとき

詩は、辟易させ退屈であるにもかかわらず

近づいています。

 

近づいた途端に

遠ざかりながら

また近づいてきます。

 

 

「居間」には「挙式」の不可解さは消え失せて

幾分か人間臭くなり

「焼跡」へ

「県立女学校」へ

「集団疎開」へ

「公園で」へ

「青物市場」へ

「遊園地へ行く道」へ

「投票所まで」へと

「生活」の匂いがにじみ出る詩が並びます。

 

この末尾の詩群を一つひとつ読んでいく中に

奇跡のような経験が待ち構えていて

そこにはこの詩集を編んだ詩人の大いなる企(たくら)みが存在するのを知ったとき

奇跡は感動に変わります。

 

ここでは

冒頭行だけを読んでおきましょう。
 

 

「公園で」と「青物市場」以外は散文詩の形をしていますから

第1行は1字下げではじまっています。

 

 

 月は血を滲ませた傷口のように 焼跡の空にかかっている。 (焼跡)

 

 授業が終ると教室の前の廊下は 色の褪せたセーラー服のまま床に坐りこんだ女学生で一杯になる。 (県立女学校)

 

 道は白く 北へ向かって延びている。 (集団疎開)

 

子供たちは一人 また一人と帰っていき

街角に群がっていた制服姿の女子中学生も

なにか相談事を済ませて分かれていった。 (公園で)

 

青物市場には四つの門がある。 (青物市場)

 

 遊園地へ行く道に 五軒の木筋アパートと一軒の会社の寮が並んでいるところがある。 (遊園地へ行く道)

 

 入場券をポケットにつっこんで わたしは出かける。 (投票所まで)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2015年12月15日 (火)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「見えない地面の上で」

(前回からつづく)

 

(※茨木のり子の読みを離れています。編者。)

 

 

詩集「見えない地面の上で」が

とっつきにくい詩に満ちていても

驚くようなことではありません。

 

何度も何度も読んでいるうちに

「見えないもの」は少しづつ

見えてくるはずのものです。

 

 

「白木蓮」

「彼女」

「見えない地面の上で」

「地球の夜」

――と巻頭につづく詩の4作が4作ともに

最終連(行)へきてようやく

詩の企(たくら)みを明確にするかたちになっていることに気づくのも

その一つであることでしょう。

 

 

見えない地面の上で

 

見えない地面の上で

枯葉の擦れあう音は胸をうがち

やがて 斑(まだら)の悲しみとなって

空の彼方へと流れ出る。

 

冬日に戯れる仔犬の毛は

気短かな飢えに輝やく

土地は空しく養っている

ひきがえると 老いたやもりを。

 

置き忘れられた踏み台と移植ごて

閉ざされた古いガラス窓――

風はひび割れた敷石に

消えた足音を蘇(よみがえ)らせる。

 

空は碧さによって隔てられ

高みから わたしを襲う

残酷な未知の希望と

冴えわたるその嘲笑で。

 

青空の眼はわたしをつらぬく

狡猾な大地 豊穣な母

お前への わたしの欲求の傷痕(しるし)である

引き裂けたこの空虚な心を。

 

(思潮社「高良留美子詩集」より。)

 

 

詩集のタイトル詩であるこの詩の

親しみ難さは

どこからやってくるものでしょうか。

 

そもそも

「見えない地面」とはどのような地面なのでしょうか。

 

その地面で擦れ合う枯葉――。

その音は詩人の胸に穴を開け

やがて斑模様の悲しみになり

空の向こうへと流れ出て行く。

 

この情景が見えない地面であるならば

この情景を見ているのは詩人でしかありません。

 

詩人は

見えない地面の上を見ているのです。

 

 

さてでは、

第2連以降の詩行は

何を歌っているのでしょう。

 

冬日にじゃれる子犬は

枯葉舞う地面と連続する風景。

 

その子犬の毛が

空腹で息を荒げているために

横腹が波打っている、か。

 

この土地は

ひきがえると老いたやもり――のような古めかしい(アナクロニズムな)生き物を

空しく生きながらえさせている、か。

 

 

次の連も

同じようなメタファーの繰り返しでしょう。

 

置き忘れられた踏み台と移植ごては

遠い日の記憶でしょうか?

閉ざされた古い窓ガラスとともに。

 

風が吹いている、ひび割れた敷石の風景から

消えていった足音が立ちのぼってくる。

――という記憶、これも。

 

 

次の連は

わたし=詩人の現在(および過去)。

 

第1連に現われた空につながっています。

 

まったき青が

わたしにのしかかる(襲う)。

 

「残酷な未知の希望」も

「冴えわたるその嘲笑」も

希望の内容であり嘲笑の内容であるから

矛盾や不条理を孕(はら)んでいても

戸惑うことはありません。

 

青空が

わたし=詩人にそのように見えたのです。

 

 

そのように見えた青空が一つの眼になって

わたし(詩人)を射すのです。

 


青空の眼は

わたしをつらぬく 

狡猾な大地、豊饒な母(でもある)――。

 

お前(青空)に

わたしは求めたのだ、

その印(しるし)であるのさ、

この空虚な、引き裂かれた心は。

 

(この最終連は、ほかの読み方ができるかもしれません。)

 

 

それにしても

暗黒の霧の中を行くような詩世界を読み進んでいくと、

突然、清明な「海鳴り」が現われ

明快な「木」が現われるに至って、

この二つの詩のシンプルな作りに目が覚めるような衝撃を受ける仕組みは

意図されたものなのでしょうか。

 

 

つづく「この一匹の犬と人間たちの一かたまりは」には

戦争があり、

「有毒ガスのにおいのする この凍てついた空の下を」行く一行があり

いったいどこへこの人らは向かっているのか

暗澹とした景色が続きますが

「ニュータウン」は

わたしの知らない世界ではあっても

それがやってくることが確かな明るさを持ちはじめ

親しみが近づいた感じになるのです。


しかし「夏の地獄」に至って

また苦闘を強いられる大作となり

詩集のヤマが「地獄」を歌うのですから

「これは後で読もう。これも後にしよう」と尻込みすることになって

「友だち」へ

そして「幼年期」へ

「帰ってきた人」へと

前へ前へと分け入っていくことになります。

 

 

タイトル詩「見えない地面の上で」が歌っていた世界が

これでもかこれでもかと続いているのです。

 

そうして……。

 

詩集の末尾には

戦争下に「物ごころ」をつけていった詩人の経験が歌われる詩が

置かれているのに出会います。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

2015年12月 9日 (水)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「海鳴り」と「木」と

(前回からつづく)

 

女性が自分のからだ(の仕組み)に

心の底から贈った讃歌――。

 

これを

恋唄と呼ばないほうがおかしいということがわかってきました。

 

「海鳴り」のような詩は

2015年現在では

なんら珍しくはなさそうで

探せば幾つか類似した詩は見つかりますが

ざらにあるものではありません。

 

女性が作ってきた詩の歴史の上に

「海鳴り」は見つけるのが難しい稀有(けう)な詩です。

 

改めてそのように

気づかされるエポック・メーキングな詩です。

 

 

いにしえの恋歌は、

「わたしをもうお見限りなのね、あんまりですわ」というのが圧倒的に多い

――と茨木のり子が言う平安朝時代のものに比べれば

なんという違いでしょう!

 

 

「海鳴り」が収録されている詩集「見えない地面の上で」が作られたのが

1963年から6年間のことでした。

 

この6年間の詩作について

高良留美子自身が振りかえっている短章「三つの詩集のあとがき」を読んでおきましょう。

 

「見えない地面の上で」について書かれた

結びの部分には、

 

それはまた、日本の伝統的な自然や感性を新しい眼で見直すことともつながっていた。

 

私はいま、人びとの生活のなかに、これまで私の見過してきたきた多くの人間の行為が、

夢想が隠されているのを感じている。私はそれらの行為を、夢想を書きたいと思う。

(思潮社「高良留美子詩集」)

――と記されています。

 

 

この下りは直ちに

「海鳴り」の「月の満ち欠け」への眼差しを想起させることでしょう。

 

「海鳴り」は

歪められ、隠蔽されているものの奥底に潜んでいるものでありながら

世間に浸透し拡散している常識とか迷信とか習慣とかに

新たな生命を吹き込む(インスパイアする)ような

眼差しに貫かれていました。

 

 

いま目の前にある木が

木の真の価値(意味)を隠されたり

捻じ曲げられていたりするのを

もう一つの眼で眺めて

なにかもっと他のものであるかもしれない――。

 

この木は

飾り立てられ

埋(うず)もれ

見えなくされているものかもしれない――。

 

この木には

別の顔があるのかも知れない――。

 

「木」もそのように読んで

間違うことはないでしょう。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2015年12月 6日 (日)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「水辺」と「女」と

(前回からつづく)

 

茨木のり子が「木」について、

 

第1連の主題が、

つぎつぎ、別の物に姿をかえて、

第4連まで重層的に展開されてゆく、

知的な詩です。

(「詩のこころを読む」。改行を加えました。編者。)

――と記すのを読んで

この「重層的に展開され」た詩が

詩集の中のほかのところにも幾つか収められていることに気づきます。

 

「場所」以後・「未刊詩篇」(3)には

「水辺」があり

「女」があります。

 

 

 

それはどこか、井戸に似た存在で

ひとがそこにつるべを降ろすと

深い 不安な井戸があるのがわかる。

 

水は暗く柔らいでいて

彼女にはもう境界がない。

彼女はそこに自分を接ぎ木する。

 

だが 彼女が彼女であることは 水が

水であることよりも難しい

水が水を超えることが難しいように。

 

わたしと彼女とは

かつて裏切りあった相愛の友

たがいに映しあった二つの鏡だ。

 

わたしが彼女を逃れるとき わたしは絶えず

彼女にされる そして彼女と向きあうとき

わたしはむしろ “彼”になるのだ。

 

そして わたしのしたことはわたしだ。

自分のしたことが見えなかったとき

それだけのことしかしなかったから。

 

(思潮社「高良留美子詩集」より。原作の傍点は“ ”で置き換えました。編者。)

 

 

「木」や「水辺」よりも

重層の程度は複雑で錯綜しているように見えますが

じっくり読めば似ていることが理解できるでしょう。

 

「木」では

木の中の木

青空の中の青空

肉体の中の肉体

街の中の街

――というように。

 

「水辺」では

コスモスのなかのコスモス

河のなかの河

あなたのなかのあなた

――というように。

 

「もの」は拡散し水平的に広がりますが

「女」では

井戸のメタファーが水を呼び起こし

水と女(彼女)はほとんど同一化されたところで

今度は超えられぬものとして現われ

「もうひとりの」彼女である(に違いのない)わたしとの関係へ

わたしと水とが

かつて裏切りあい、互いに愛しあった鏡の関係へと跳躍します。

 

そしてさらに

彼女が水であることのメタファーを維持しながら

わたしが彼女から逃れる(=水でなくなる)ときには彼女にされ

わたしが彼女(つまり水)であろうとするときには「彼」になる

――という新たな局面(存在の出現)を迎えます。

 

 

“彼”がどのような存在であるかを

詩は語りませんが

ここに詩(人)の現在はあるらしく

このとき、

わたしのしたことはわたしだ。

――と歌われるのです。

 

 

この詩では

メタファーは垂直に深まるように見えながら

わたし・彼女・水(井戸)の関係。

 

そして最後には

「彼」も現われる複雑な関係へ広がるのです。

 

 

「水辺」や「女」から

それほど遠くはないときに

「海鳴り」は書かれ

「木」も書かれました。

 

 

茨木のり子が

「海鳴り」を「恋唄」の章に配置した意図が

少しは見えてきたでしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2015年12月 3日 (木)

茨木のり子厳選の恋愛詩・初めての高良留美子/「木」と「水辺」

(前回からつづく)

 

見えない地面

――というイメージは

いったいどのようなイメージでしょうか。

 

そう発語した詩人はいま

どこにいるのでしょうか。

 

地下にあって

地上をのぞんでいるのでしょうか。

 

天にあって

地上を眺めているのでしょうか。

 

 

詩(人)の眼差しは

どこかしら

「もの」の中にもぐり込んでいるように思えませんか?

 

 

「海鳴り」をひととおり読んでみると

「見えない地面」というテーマと

クロス(接続)するのがうっすら感知できます。

 

見えないのは

見えなくなっている状態ですし

見えなくされているからですし

見たいのかもしれませんし

見なければならないのかもしれないですし

実は

見えているのかもしれません。

 

見えなかった地面が

見えたのを

見えないと歌ったのかもしれません。

 

「海鳴り」は

見えなかったものが見えたという

発見であるかもしれません。

 

 

「木」という詩の構造が

「海鳴り」を読むヒントになることでしょう。

 

 

 

一本の木のなかに

まだない一本の木があって

その梢(こずえ)がいま

風にふるえている。

 

一枚の青空のなかに

まだない一枚の青空があって

その地平をいま

一羽の鳥が突っ切っていく。

 

一つの肉体のなかに

まだない一つの肉体があって

その宮がいま

新しい血を溜めている。


一つの街のなかに

まだない一つの街があって

その広場がいま

わたしの行く手で揺(ゆ)れている。



         ――詩集「見えない地面の上で」

 

(「詩のこころを読む」より。)

 

 

「木」は

詩集「見えない地面の上で」の中では

「海鳴り」の次に配置されています。

 

茨木のり子も

連続したこの二つの詩を取り上げました。

 

 

木のなかの木

青空のなかの青空

肉体のなかの肉体

街のなかの街

……

 

「海鳴り」の乳房は

メタファーを通じて砂地(=子宮)を導いていますが

少し複雑なだけで

詩の構造は「木」と同じです。

 

からだのなかのからだ。

同じからだ。

 

どちらも一つのものです。

 

 

ここで「木」と似たつくりの小品「水辺」に

目を通しておきましょう。

 

第2詩集「場所」以後に書かれ

第3詩集「見えない地面の上で」に配置しなかった詩が

「未刊詩篇」(3)として

「高良留美子詩集」(思潮社)に収められています。

 

その中の作品です。

 

 

水辺

 

コスモスは

コスモスのなかで

ゆれている。

 

河は

河のなかを

流れている。

 

水辺に釣糸をたれるひとよ

あなたは

あなたのなかで

眠っているの?

 

(思潮社「高良留美子詩集」より。)

 

 

コスモス

あなた

……。

 

これらの

「もの」を捉える詩(人)の眼差しは 

同じ手法(感性)です。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

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