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カテゴリー「戦後詩の海へ/茨木のり子の案内で/岸田衿子」の記事

2015年8月29日 (土)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子・4行詩の深み

(前回からつづく)

 

自分の結婚式に遅刻したというエピソードは

もちろんルースであることの比喩なのではありません。

 

それが世間離れした行動であって

のちに語り継がれて

天真爛漫さの伝説につながったというケースというのでもないことでしょう。

 

岸田衿子は

雲の上にすんでいるわけではありません。

 

 

書斎派とは無縁です。

子供を二人育てながら文筆で立っている

――と茨木のり子が記していますし

そちらの側面を見失っては

岸田衿子という人間の全体像を損なうことになります。

 

結婚式のエピソードからは

なぜそんなにいそがなければならないの?

――という声が聞こえてこなければなりません。

 

 

だれも いそがない村

 

あの丸木橋をわたると

だれもいそがない 村がある

まめのつるに まめのはな

こうしのつのに とまる雲

そのままで そのままで

かげぼうしになる 村のはなし

 

 北の大臣と南の酋長(しゅうちょう)が

 一日おきに けんかするって

 ほんとですか

 

あの丸木橋をわたると

だれもいそがない 村がある

まるい木の実に やすむかぜ

じゃんけんしてる こどもたち

そのままで そのままで

かげぼうしになる 村のはなし

 

 西でトラックが東でかもつせんが

 一日三かい しょうとつするって

 ほんとですか

 

(童話屋「いそがなくてもいいんだよ」より。)

 

 

岸田衿子が自然のなかで暮らすことは

生きるために必要なことなのでしたし

文字通り(実際にという意味を含めて)、

それは労働のようなものでした。

 

山小屋の暮らしは

創作の仕事に不可欠なものでしたし

ライフ&ワークバランスを実現するには

格好の環境であったのです。


それにしても

忙しかったのです。

 

 

「詩のこころを読む」に「生きるじたばた」の章があり

そのイントロ(導入)に岸田衿子の「くるあさごとに」を案内した

茨木のり子の意図は明確です。

 


くるあさごとに

 

くるあさごとに

くるくるしごと

くるなはぐるま

くるわばくるえ

 

 

岸田衿子は

大変忙しい暮らしを強いられていたのです!

 

文筆で生計を立てることでは同じ状況にあった茨木は

この詩を呪文替わりにしていることを明かしていますが

締め切りに追われる労働の切実さを想像できます。

 

 

この4行詩は

「言葉あそび」の詩の軽快さに感心させられますが

呪文のように何度も繰り返し読んでいると

深い含意が込められていることを発見する詩でもあります。

 

「マザーグース」のような。

 

茨木のり子は

「わらべうた」「民謡」に似ていると言っています。

 

 

アニメ主題歌

創作絵本・童話

そして半端じゃない翻訳の仕事――。

 

岸田衿子の仕事のはじまり(淵源)に

4行詩は位置しているということがわかろうというものです。

 

4行詩をいくつか読んでおきましょう。

 

 

夏の日の てのひらに

 

夏の日の てのひらに

つめたかった鳥の羽

雪のふる日には

ぬくもりがあった羽

 

(集英社「日本の詩26 現代詩集(二)」より。以下同。)

 

 

野生の鳥は

死んだのでしょうか?

 

かならずしも

そうではないかもしれないシーンは

色々なことを想像させますが

やはり鳥は死んだのだ

そして季節はめぐったのだと読むのが自然でしょう。

 

詩の世界に入った勢いで

次にぶつかるのはこんな詩――。

 

 

海の涯(はて)は 滝なのだ と

 

海の涯(はて)は 滝なのだ と

信じていた なつかしい人びと

海の底から とびおりると

空へ落下するのだ と

 

 

いい詩ですね。

 

かすかに

ノスタルジーを感じる読者があるかもしれないような

独特の宇宙というか。

 

岸田ワールドにいつしか入っています。

 

 

地球に 種子が落ちること

 

地球に 種子が落ちること

木の実がうれること

おちばがつもること

これも 空のできごとです

 

 

宇宙観とか

そんなこと考えなくってよいのでしょう。

 

4次元とか

シュールとかとも考えることはありません。

 

一瞬でありとも

この妙に逆立ちしたような時間に入り込み

迷うような感覚。

 

ここに詩はあります。

 

 

星はこれいじょう

 

星はこれいじょう

近くはならない

それで 地球の草と男の子は

いつも 背のびしている

 

 

草も男の子も

星ですらも

同じ世界内にあります。

 

 

鳥につばさのあることがふしぎだ

 

鳥につばさのあることがふしぎだ

卵から雛がかえる

親鳥になって卵をうむ

そんなことよりも

 

 

動物であることの同じ生育のプロセスよりも

決定的に異なるものへのまなざし。

 

憧憬に近いような。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2015年8月23日 (日)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子・結婚式に遅刻する

(前回からつづく)

 

「詩のこころを読む」を離れて

岸田衿子のプロフィールを見ておきましょう。

 

 

昭和4年(1929年)東京に生まれる。東京芸術大学美術部油絵科卒。デッサンを硲伊之助(はざま・いのすけ)、油絵を伊藤廉(れん)に師事。岡鹿之助にも個人的に画をみてもらっていた。ピエロ・デルラ・フランチェスカ、アンリ・ルソー等の絵に親しんだ。

 

在学中に呼吸器を患い、山小屋暮しをしながら詩作をはじめる。同人雑誌「櫂」に参加。幼友達の谷川俊太郎と書肆ユリイカの伊藤得夫にすすめられて、最初の詩集「忘れた秋」(昭和30年、書肆ユリイカ)を出した。

 

その後の詩集は「ライオン物語」(昭和32年/書肆ユリイカ)、「くれよんの歌」(昭和49年/サンリオ出版)、「あかるい日の歌」(昭和54年/青土社)がある。

 

童謡・絵本の作品も多く、「ジオジオのかんむり」「ジオジオのパンやさん」「ジオジオのたんじょうび」などジオジオシリーズをはじめ、「ひとこぶらくだがまっていた」、昭和37年と49年にそれぞれサンケイ児童出版文化賞を受賞した「かばくん」「かえってきたきつね」などがある。

 

ほかに童謡のレコードとして「動物の十二ヶ月の歌」「生まれたままのひとみで」、エッセイ集「風にいろをつけたひとだれ」がある。

 

 

このプロフィールは、

昭和54年(1979年)発行の

「日本の詩26 現代詩集(二)」(集英社)のものですから

平成23年(2011年)に亡くなった岸田衿子の前半期の創作活動になります。

 

編集責任者は「櫂」同人である大岡信でしたから

出発時のレア情報が記録されています。

 

 

テレビアニメ「世界名作劇場」が広い支持を得るのは

1970年代中ごろに放映された「ムーミン」あたりからですから

「現代詩集」の刊行と交差する時期でした。

 

「アルプスの少女ハイジ」

「フランダースの犬」

「あらいぐまラスカル」

「赤毛のアン」

……などと

岸田衿子の作った歌詞は世間に広く知られることになります。

 

「あー!この歌、岸田衿子という人が作詞したんだ。」と

名前は多くの視聴者に伝わっていきましたが

詩人(現代詩の作家)であることまでは十分には伝わっていません。

 

翻訳の仕事も絶え間なく続けていますが

これも絵本・童話の翻訳に集中しています。

 

妹の女優・今日子とのコラボで

中央のメディアにも登場することが何度かありましたが

ほとんどの時間を北軽井沢の山小屋で費やしました。

 

山小屋は

岸田衿子の暮しの場であり

仕事場であり

遊び場でした。

 

 

ここで

岸田今日子と衿子と谷川俊太郎の3人が

「山小屋の暮らし」を回想したおしゃべりから

ひろっておくことにしましょう。

 

そのおしゃべりは、

「ふたりの山小屋だより」(文春文庫)で読むことができます。

 

中に

岸田衿子が谷川俊太郎との結婚式の日に

遅刻したことが話題になっていて

茨木のり子が「詩のこころを読む」で案内したところとクロスオーバーしていて

思わずにんまりしてしまうところです。

 

 

 

(略)

今日子 結婚式のとき、三好達治さんがすごい酔っ払っちゃったの。なぜだか知ってる?

衿子  私が遅れたからでしょう。

谷川  三好さん、お仲人役してくれたんだよね。それで祝辞も読んでくださった。そこへ花嫁が大いに遅刻して現れた。

今日子 それまでに三好さんがグデングデンに酔っ払っちゃったていう(笑)、そういう話。

衿子  珍しく着物だったんでね。髪に巻く花を買ったり。

谷川  でも、普段でもだいたい遅れる人なんですよ(笑)。

(略)

 

 

衿子の言い訳が聞き入れられず

衿子本人も強弁していないところがほほえましい、というか――。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2015年8月22日 (土)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子「お話」のメタファー

(前回からつづく)

 

「詩のこころを読む」の最終章である「別れ」の末尾に

茨木のり子が案内したのは

岸田衿子の「アランブラ宮の壁の」でしたが

この詩が「別れ」をどのように歌っているのか

ややわかりにくいところです。

 

同じ詩人の「忘れた秋」という詩を補助線として引いてみると

あぶり絵のように見えてくるものがあります。

 

それは「アランブラ宮の壁の」という詩が

死を歌った詩であるとともに

生きることへの讃歌と読める詩でもあるからです。

 

 

「忘れた秋」が母の死を悼みながら

その死を受け入れる意味を持つのと同じようなことで

悲しみの言葉を刻むことが

鎮魂の役割を負うことになるのと似たようなものです。

 

 

茨木のり子はそのような背景を踏まえて

「詩のこころを読む」の「別れ」の章を終えたのではないでしょうか。

 

ここに余韻は生じます。

 

それまで読んできたページを

もう一度パラパラとめくって

余韻を確かめようとします。

 

岸田衿子の詩を

もっと読んでみたくなります。

 

 

お話

 

たしかに、むすめには、もう長い耳も、みじかい尻尾もありませんでした。

教会の中は、いつでもひっそりしていて、びわ色の日ざしが床や、縄張りの椅子にいろんなもようをえがいていました。

ここではよく、わたしはふしぎなめにであうのです。すときは初老のりすがざんげをしに来ていました。るりいろの羽のかけすの結婚式もみました。

牧師さんも、クワイヤーもいない、古いオルガンもなっていない……この日も、ひとりのむすめが、すわっているだけでした。

「わたしは、ここに、結婚式をあげにきたのです」むすめは、いうのでした。「このことは、まだラ・フォンテーヌさんにもしらせていません。わたしがひとりできたわけは」と、つづけるのでした。

「ひとりでこなければならなかったのには、事情があるのです。なぜなら、わたしをおよめにほしいといったのは、いっぽんの橡(とち)の木なのです」と、「彼は昔、霧の女と離婚してから、ずっと独身でした。わたしもいちど黒狐と同棲したことがあるのです」

それから、ちょっと溜息をついて、むすめは続けました。

「わたしは狐と別れてから、毎日湖のふちで魚とトランプばかりしてました。ある日トランプ占いをしていると、そろそろ身を固めよ、と出たのです。このとき一陣の凧(こがらし)がふいてきて、あっというまに、わたしは森の奥へはこばれていました。かたわらにりっぱな橡の木がそびえていて、ひくい声でわたしに話しかけたのです。この橡の紳士は、どうしてもわたしをおよめにほしいというのです。

ほんとに魅力的な枝ぶりと、心をとらえる声でした。この人にわたしはよばれたのです。

結婚するなら、この人だ、と、わたしはきめたのです。森のなかまは、みなよろこんでくれました。

耳のとおいわたしのお婆さんなどは、年ぱいの物わかりのいい橡の紳士ならば安心だといってくれました。

でも心配なことがあります。今まで木いちごやぐうすべりばかり好きだったわたしは、これから彼の好きなお料理を研究しなければなりません。あの人はいったいなにをたべるというのでしょう」

 

(集英社「日本の詩26 現代詩集(二)」より。)

 

 

こんな散文詩(物語詩)はいかがでしょうか。

 

この詩は「風の絵本」という連作詩の一部です。

 

 

岸田衿子には

動物も植物も人間も……

風も森も空も……

同じ世界に棲んでいる仲間であるようです。

 

人間の結婚が

こんなふうに自然界の出来事として歌われる詩の例を

あまり見かけることはできません。

 

これは絵本や童話やファンタジーの領域なのでしょうか。

 

 

否!

 

ここにはメタファー(暗喩)の高度な達成を見ることができるのです。

 

ここでは、

結婚の歓びと同時に

結婚への恐れ(あるいは喪失)が歌われています。

 

色々なことを考えさせ

想像させる作品になっています。

 

それが楽しい。

 

岸田衿子の詩の

顕著な特徴です。

 

 

途中ですが

今回はここまで。


 

 

 

2015年8月16日 (日)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子が見つめた死「忘れた秋」

(前回からつづく)

 

長い闘病生活を克服した人でもあるので、

死をみつめた時間も長かったろうと思います

――と茨木のり子が「別れ」の章の最後に記したのは

若き日の岸田衿子が

東京芸大油絵科へ進学したものの

胸部疾患で画家への道を断念せざるを得ず

詩や散文を書きはじめたという経歴を指していることは間違いありません。

 

芸大の同級生だった中丸千代子が絵を描き

岸田衿子が文を作ったコラボレーションで

絵本の名作を次々に世に送り出していったはじまりは広く知られたことです。

 

衿子は1929年(昭和4年)生まれで

1950年前後に大学生だったのですから

このコラボは芸大在学中にはじめられたか

卒業後のことか、

結果的には

早い時期での幸運な出発ではありました。

 

幸運の影には闘病生活があったということになります。

 

戦争が終わって

国中が復興の活気で満ちた時代でした。

 

(茨木のり子は1926年生まれです。)

 

 

「二十歳が敗戦」だった茨木のり子より

少し若い岸田衿子もまた

戦争によって青春を奪われた世代に属していますが

彼女にはもう一つの大きな悲しみの事件が

戦争中に起こりました。

 

母・秋子の死です。

 

 

忘れた秋

 

     母 秋子(ときこ)に

 

どうしてあの人はここにいるのだろう

私たちといっしょにこの夜明け

昨日より大きくなった月の下に

昨日と同じ寝床(ねどこ)の上に

 

なぜこの人はたった今

息をしなくなったのだろう

私たちがふと話しやんだ時のように

また昨日すやすや眠(ねむ)っていたように

 

もうあなたは話してはいけないと

誰がこの人に告げるのだろう

きっと私たちより早く知りたいのに

 

昨日よりもっと静かなこの人は

どうしてまだここにいるのだろう

私たちといっしょの月のいい晩に

 

(童話屋「いそがなくてもいいんだよ」より。原文のルビはパーレンで示しました。編者。)

 

 

この詩は

1955年発行の第1詩集「忘れた秋」(書肆ユリイカ)のタイトル詩です。

 

衿子の母・秋子は

1942年(昭和17年)に亡くなりました。

 

戦争の最中の死を

娘は初めて言葉にして悼んだもののようですが

作られたのが死の直後なのか

戦後のことなのか

詩集が発行されたころなのかわかりません。

 

詩の同人誌「櫂」への参加は

1965年でした。

 

幼なじみであった谷川俊太郎と結婚したのは1954年(から1956年まで)でしたから

谷川俊太郎との生別が

この詩の背後にあったことも考えられます。

 

 

秋子の死が

衿子が画家になる道を断念した背景にあったかどうかは明らかではありませんが

直接的な理由ではなくとも

何らか関わりがあったことも想像できることです。

 

このことはまた、

死をみつめた時間も長かったろう

――と茨木のり子が岸田衿子についてコメントしたとき

詩人本人が自らの死と対峙したという意味を超えて

秋子の死を視界に入れていたという想像へとつながってゆきます。



 

途中ですが

今回はここまで。



2015年8月11日 (火)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子の「知恵の木の実」

(前回からつづく)

 

茨木のり子は岸田衿子の詩を読みながら

時折、詩の背後にある詩人の生活や人となりに触れます。

 

それはできる得る限りプライバシーを侵さないよう心配りされたもので

そのことによって

一般読者が詩人の実生活を思い描くのをむずかしくしているようですが

にもかかわらず的確で核心をはずすことはありません。

 

もともと世離れして暮らす詩人であるようなところがあるのですが

茨木のり子はたとえば

「くるあさごとに」という4行詩を読みつつ、

 

この作者は「くるわばくるえ」を地(じ)でいっていて、まったく自由に生きています。

約束の時間、つまり人間のとりきめた時刻にあんまり従いませんし、

待ちぼうけをくわされることもしばしば。

たまにきっかり会えると異変が起こるのでは……と思えるほどです。

 

一緒に旅をしてもゆったりしていて、指定券を買った列車に乗れそうになく、

きちょうめんな私は心の中で「スケジュール、狂わば狂え」と叫び、

野宿するつもりならあわてることはないのだと言いきかせていると、

あわや、というところで乗れたりするのでした。

――と紹介しています。

(「詩のこころを読む」中「生きるじたばた」より。改行を加えてあります。編者。)

 

これは「詩のこころを読む」の中に

初めて岸田衿子が登場するところですが、

2度目に出てくる「峠」では

「小学校の椅子」と

「一生同じ歌を 歌い続けるのは」の二つの詩を読みながら

次のように述べています。

 

 

本も新聞も読まない人ですが、

知恵の木の実は、自然の野山から、人との交流から、

ふんだんに採(と)っていて書斎派(しょさいは)とは無縁です。

 

子供を二人育てながら文筆で立っていますが、

男の子の友達の、お父さんなる人が行商(ぎょうしょう)をやっているのについていって、

道ばたでイカノスミトリ器やホーキーという掃除具を一緒に売りさばきながら岩手県をさすらっていたり、

かと思うと、スイスの片田舎でパイをたべていたりします。

 

 

こんなふうに書かれる詩人であるうえに

「アルプスの少女ハイジ」のオープニングテーマ曲「おしえて」や

エンディングテーマ曲「まっててごらん」だとか

「赤毛のアン」の「きこえるかしら」(オープニング)、「さめない夢」(エンディング)だとかの

超ポピュラーなテレビアニメの主題歌の作詞者として有名になったり

童話や絵本の作家としての活動を主戦場としていった経歴が

現代詩(成人向けの詩)の領域での存在感を弱くしているきらいがあるのは気になるところです。


が……。

 

 

知恵の木の実は、

自然の野山から、人との交流から、

ふんだんに採(と)っていて書斎派(しょさいは)とは無縁です。

――と茨木のり子が記しているところはさすがです。

 

詩人は、雲の上の人なのではありませんから。

 

 

中原中也の、二者択一を迫るような息苦しさに比べて

「アランブラ宮の壁の」の、迷うことが好きだというメッセージは

茨木のり子を楽にさせたもののようで

どこか吹っ切れた感じになります。

 

トンネルから脱け出したような解放感を帯びて

死について語る茨木のり子の口ぶりに

軽快さ(安心感)みたいなものが戻ります。

 

死について歌うことは

詩人のテーマの大きな一つと考えてきた茨木のり子は

「櫂」の同人であり親しい友人でもあった岸田衿子の詩が

この時、あらためて親しいものに見えたのに違いありません。

 

この親しみのなかで

「アランブラ宮の壁の」は登場するのです。


別れの詩、死と生の歌として。


 

長い闘病生活を克服した岸田衿子のような詩人ゆえに

死を見つめた時間も長かったであろうと――。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2015年8月 5日 (水)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子「アランブラ宮の壁の」

(前回からつづく)

 

茨木のり子が

中原中也「羊の歌」の第1節「祈り」を読んだ勢いで

今度は岸田衿子の「アランブラ宮の壁の」に目を向けたのは

一見、計算をし尽くした末のことのように見えますが

それは計算というよりはほかのものであったようです。

 

それは必然的なものでしたが

ひらめきのようなものでしたし

偶然のようなことでしたが

あらかじめ決められていたようなものでした。


 

脅(おびや)かされるほどに

中也の「祈り」のいわば呪縛(じゅばく)にあった詩人は

そこから逃げ出すようにではなく

そこに真正面から向かう思索の中で

ひとまずは一つの答えを見出した。

 

――というような、それはひらめきでした。

 

それが「アランブラ宮の壁の」でしたし

岸田衿子という詩人でした。

 

 

アランブラ宮の壁の

 

アランブラ宮の壁の

いりくんだつるくさのように

わたしは迷うことが好きだ

出口から入って入り口をさがすことも

 

(岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」より。)

 

 

迷うというのは

目的(照準)の一歩手前でたゆたっている状態で

一か八か(二者択一)の、

深刻な決断(結論)をくだす前の状態といえるでしょうか。

 

ああだこうだと考え悩み

結論が出せない状態。

 

判断停止(エポケー)とか

モラトリアム(執行猶予)とかにも似ている。

 

 

わたしは迷うことが好きだ

――という1行にまず目を向けて

茨木のり子は

いいなあと思います

――とさりげなく感嘆し

たいていは迷いをふっきろうとして無理をするのに

「迷いも愉し」と言える心は強く

――とまたさりげなく賛嘆します。

 

迷うことが楽しいと言える心は強い

――というのが

茨木のり子が「アランブラ宮の壁の」という詩から読み取った

肝(きも)=ポイントのようなものです。

 

 

「アランブラ」は「アルハンブラ」の表記でお馴染みの

南スペイン、グラナダにある中世の宮殿。

 

セゴビヤの弾くギターで

「アルハンブラの思い出」を聴きながら

茨木のり子は想像の羽を広げます。

 

 

13世紀、ムーア人の王が建立した宮殿は

いわゆるアラビア建築の整然とした均衡美で静まり返っている

――というのは茨木のり子の想像ですが

その想像の中で、

岸田衿子は例によって

見物人の流れにはついて行かずに

一人、あちらこちらを出たり入ったりしてさ迷い歩いているのです。

 

 

出口から入って入り口をさがすことも(好きだ)

――の1行で茨木のり子が思い出すのは

子供の頃のお化け屋敷です。

 

お化け屋敷を

もし出口から入って入り口に向かったら……。

 

お化けのほうが面食らって

動けなくなってしまうのではないか、と想像した子供の頃を。

 

 

お化け屋敷の想像も茨木のり子のものですが

「アランブラ宮の壁の」の作者は

(お化け屋敷の)入り口を誕生、出口を死と考えて

自分のあまのじゃくぶりを面白がっているようなところがあると

もはや自他の境もなく詩の世界に入り込んでしまいます。


 

途中ですが

今回はここまで。


2015年8月 2日 (日)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子・アランブラへ

(前回からつづく)

 

中也の「羊の歌」の前に

永瀬清子の「悲しめる友よ」を読んだ茨木のり子は

詩のおもしろさは独断のおもしろさかもしれない

――と結んで序奏とします。

 

「羊の歌」の冒頭2行が

死の時には私が仰向かんことを!

この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!

――と、死の瞬間のポーズを歌っていることへの驚きを

少しでも緩和するかのように。

 

人が死ぬ間際の格好など

うつぶせであろうが、横向きであろうが

どっちでもいいじゃないかと言いそうになるのを踏みとどまり

仰向けで死にたいという詩人の強い願望に寄り添うのです。

 

独断(独りよがり)の匂いを感じながら

茨木のり子はそれを独断と言おうとはしません。

 

中也の私的祈りに過ぎないこの6行に

まるで死の核心をつかんでいるような

否定できない強烈さ

――を感じ取るのです。

 

 

茨木のり子は

ここで詩人、中原中也の人となりに触れ

その不羈奔放(ふきほんぽう)な生き方に触れるのですが

深くは突っ込もうとしないで(しかし簡潔に的確にとらえ)

「羊の歌」の第1節として歌われた「祈り」から離れず

その中の「感じ得なかったこと」にこだわります。

 

 

友人に意地悪したり罵倒(ばとう)したり、

人の気持を察しなかったり、

……

 

感じ得なかったというのは

そういうことへの後悔ばかりではなかったのよ、きっと。

 

もっと別のこと、なのよ。

 

 

別のこと、と言った矢先

茨木ははたとゆきづまり

ゆきづまることの必然を理解してしまいます。

 

「感じ得なかったこと」こそ

散文でときほぐせるものではなく

そこに詩があるからなのですが

しかし、

詩がその大テーマにからんで歌っているかぎり

詩人・茨木のり子もここで逃げるわけにはいかなくなって

「私的独白」を敢行するのです。

 

茨木は次のように記します。

 

 

「私が死ぬ瞬間、いくらかの時間があれば、

あなたの<祈り>という詩は、検証してみたいものの一つです。

そのとき、うなずくことになるのか、かぶりをふることになるのか……」

 

そういうスリルを伴った問いとして住みついていて、

何かの拍子にひょいと脅かしにくる一篇でもあります。

 

 

詩人が自らの死の時を想像して

その時には検証したいことの一つとまで言明するほどに

中也の「祈り」は

茨木のり子を「脅かしにくる」言葉であったのです。

 

そのことを真正面からとらえ

包み隠さずに感じているままが述べられているところです。

 

 

このような感想を述べて

茨木のり子が次に(そしてこの本の最後に)取り上げるのが

岸田衿子の「アランブラ宮の壁の」です。

 

「羊の歌」の「祈り」との応答は

永遠のモラトリアムの中に置かれたようでしたが

詩人の中(内部)には

これを書いた当時に(そして実際の死に面したときにもきっと)

くっきりと浮かんでいた死(そして生)のイメージが存在したようでした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。


2015年7月23日 (木)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子・「別れ」の流れ・続

(前回からつづく)

 

石垣りんから永瀬清子という流れは

実はすでに「峠」の章で見られました。

 

「峠」では

はじめに岸田衿子の「小学校の椅子」から入り

「一生おなじ歌を歌い続けるのは」を読み

安西均、吉野弘を読んだ後に

石垣りんの「その夜」と「くらし」を読み

永瀬清子の「諸国の天女」を読んで

河上肇で締めくくったのですが

石垣りんから永瀬清子への流れについては

先にこのブログでも読解を試みました。

 

 

はじめは気がつかなかったのですが

一通り読み通してみて

似通った風景があることを知り

ページをめくり返してみると

一度読んだ詩人が再び現れるというつくり(構造)がくっきりしてきたのです。

 

そこに茨木のり子の思い入れが

ないはずがありません。

 

すべての詩人がそうであるものではありませんから

そうと指摘できるのですが

本のページ順に従わないでも読めるのは

このような構成のためです。

 

この構成こそは茨木のり子のたくらみ(意図)にほかなりません。

 

 

「峠」では

石垣りん、永瀬清子の次に読むのは河上肇ですが

「別れ」では

石垣りん、永瀬清子の次には中原中也の「羊の歌」を読み

最後に岸田衿子の「アランブラ宮の壁に」を呼び出し

エンディングとします。

 

 

茨木のり子は中原中也の「羊の歌」をどう読んだか。

岸田衿子の「アランブラ宮の壁に」への流れを見るためにも

どうしてもそのところに触れないわけにはいきません。

 

 

「羊の歌」は

5節で構成される長詩ですが

茨木のり子が読むのは第1節に限ります。

 

ほかの節は駄作とし

一向に目をくれようともしません。


その第1節――。


羊の歌

        安原喜弘に

 

  祈 り

 

死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!

この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!

それよ、私は私が感じ得なかったことのために、

罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

 

ああ、その時私の仰向かんことを!

せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

 

(「詩のこころを読む」より。「新かな」に変えました。編者。)

 

 

茨木のり子が

この詩の最終行

せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

――に終始目を向けるのは

「感受性の詩」を歌った詩人ならではのこだわりであり

ジャストミートです。

 

ここでその詩を思い出してみましょう。

 

 

自分の感受性くらい

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

 

気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし

 

初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

 

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

 

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

 

(ちくま文庫「茨木のり子集 言の葉2」より。)

 

 

「感じる」と「感受性」は同じことでしょうから

同じことに関心を寄せていた詩人が

ここで火花を散らすことになります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。


2015年7月21日 (火)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子・「別れ」の流れ

(前回からつづく)

 

「詩のこころを読む」の最終章「別れ」は

石垣りんの「幻の花」

永瀬清子の「悲しめる友よ」

中原中也の「羊の歌」

岸田衿子の「アランブラ宮の壁の」

――の4作を読んで

エンディングとしています。

 

この流れが

絶妙の選択であることは

読んでみればわかることですが

その絶妙さをここで説明することは

不可能ではなくても

過剰であり無用なことでしょう。

 

 

石垣りんから永瀬清子へ

永瀬清子から中原中也へ

中原中也から岸田衿子へ。

 

「別れ」の章を

ほかの詩人の詩を選んで書くことができたはずなのに

この4人の詩で締めくくったのには

茨木のり子の「死」への思いが特別に込められた表れと見ることができるでしょう。

 

茨木のり子にしか書けない「別れ」がここに書かれたのでしょうし

茨木のり子だから書ける「別れ」が書かれたのでしょうし

茨木のり子ですら書くことが難しい「別れ」が書こうとされたのでしょう。

――というほどに未知の領域である死についての

一人の詩人の体重がかかっているような章です。

 

わかりやすく言えば

自ら経験することのできない死について

詩人は想像力を総動員して

この件(くだり)を書いたに違いないということです。

 

生と死に関する思いのすべて(死生観)が

そこに表われることになるでしょう。

 

 

「詩のこころを読む」を書いた1979年に

茨木のり子は52歳。

 

他界したのは2006年でした。

 

茨木のり子がどのような死を迎えたかを

すでに知っている読者は

「別れ」の章を読みながら

幾重にも重なる「死」へのイマジネーションを追体験します。

 

死後に発見され広く知られることになった遺書の言葉と

詩作品の言葉が

あたかもクロスするようなたくまれざる仕掛けに驚かされもします。

 

 

茨木のり子が2002年に発表した「行方不明の時間」を

ここで読んでみましょう。

 

この詩は

「茨木のり子集 言の葉」(筑摩書房)の刊行に合わせて

書き下ろされたものです。

 

 

行方不明の時間

 

人間には

行方不明の時間が必要です

なぜかはわからないけれど

そんなふうに囁(ささや)くものがあるのです

 

三十分であれ 一時間であれ

ポワンと一人

なにものからも離れて

うたたねにしろ

瞑想にしろ

不埒(ふらち)なことをいたすにしろ

 

遠野物語の寒戸(さむと)の婆のような

ながい不明は困るけれど

ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です

 

所在 所業 時間帯

日々アリバイを作るいわれもないのに

着信音が鳴れば

ただちに携帯を取る

道を歩いているときも

バスや電車の中でさえ

<すぐに戻れ>や<今 どこ?>に

答えるために

 

遭難のとき助かる率は高いだろうが

電池が切れていたり圏外であったりすれば

絶望はさらに深まるだろう

シャツ一枚 打ち振るよりも

 

私は家に居てさえ

ときどき行方不明になる

ベルが鳴っても出ない

電話が鳴っても出ない

今は居ないのです

 

目には見えないけれど

この世のいたる所に

透明な回転ドアが設置されている

無気味でもあり 素敵でもある 回転ドア

うっかり押したり

あるいは

不意に吸いこまれたり

一回転すれば あっという間に

あの世へとさまよい出る仕掛け

さすれば

もはや完全なる行方不明

残された一つの愉しみでもあって

その折は

あらゆる約束ごとも

すべては

チャラよ

 

(ちくま文庫「茨木のり子集 言の葉3」より。)

 

 

今という今、2015年現在。

 

茨木のり子との「別れ」を終えてしまった読者は

そのことをダブらせながら

「別れ」の章を読もうとしているのですし

この本を読み終えようとしています。

 

 

このようにして

茨木のり子の死と出会い

詩(生)と出会うことにもなるのです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。


2015年7月15日 (水)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子・誕生の風景その2

(前回からつづく)

 

関口隆克が「北沢時代以後」に記した共同生活については

関口自身が開成学園の生徒や教職員、父兄を前に話した講演でも触れられています。

同校の階段教室で1974年に行われたその講演が

録音されてあるのが幸いにも発見され

最近になってデジタル化されCDに収められています。

 

「関口隆克が語り歌う中原中也」とタイトルされたこのCDは

中原中也の終生の友人であった安原喜弘の子息・安原喜秀さんの編集で

日の目をみることになりました。

 

 

中也が関口らの住まいに引っ越してきた日のことが

面白おかしく懐かしく口述されている中に

岸田国士が散歩するシーンが語られるのですが

この散歩には国士の夫人が現れます。

 

「北沢時代以後」には現れなかった

国士の夫人・秋子(名前を持ち出しているものではありません)が

散歩に同道していたことが語られているのです。

 

1928年の春に

岸田国士が新妻とともに散歩している!

 

そこのところだけを

CDから起こしてみましょう。

 

 

(略)

それから奇妙な同棲生活がはじまった。ひばりが鳴くころでね、菜の花雲雀(ひばり)。

そういうような時期です。

岸田国士さんが奥さんと散歩しながら、しきりにフランス語の戯曲を日本語に直すという仕事とか、新しい戯曲を書いたりしてた。

灰田勝彦が、変な、ハワイ帰りなもんだから、変なウクレレなんか鳴らしちゃって、歌っているころです。

(略)

 

 

岸田国士は1927年に結婚。

 

衿子の誕生は1929年1月5日ですから

前年の、菜の花雲雀の季節には

新妻のお腹の中に新しい命が宿っていたことになり

それが衿子であることは確実でしょう。

 

 

さて――。

 

家の主である関口を残して

激論の続きに出かけた詩人と音楽家の卵二人の散歩は

もう一つの二人の散歩と鉢合わせすることはなかったのか?

 

 

音楽の音がどのように生成されるか。

 

諸井がとうとうと自説を述べると

中也は「名辞以前」を持ち出して応じ

果てしない議論を続ける二人の視界に

新妻の手を引く国士の姿が入る

 

しかし二人とも

男女がだれであるかを知る由もない

 

自ら吐き出す言葉にそそのかされるように

また言葉を紡ぎ出しては

相手に投げかける

 

見えている、聞こえている、のは

菜の花と雲雀。

 

――というようなことだったかもしれませんし

「スルヤ」発表演奏会にむけた段取りを練っていたのかもしれません。

 

 

中原中也は

菜の花や雲雀を好んで歌っています。

 

この散歩で目にした風景は

やがて「在りし日の歌」にある「春と赤ン坊」や「雲雀」へと結ばれていった

――ということも根も葉もないことではありません。

 

二つの詩に出てくる菜の花、雲雀は

どこでも見られる春の田園風景ですから

北沢周辺の武蔵野風景であっても不思議ではなく

中也がこれらを制作した時に

かつて刻んだそのイメージが混入したというのも自然なことのはずです。

 

 

春と赤ン坊

 

菜の花畑で眠っているのは……

菜の花畑で吹かれているのは……

赤ン坊ではないでしょうか?

 

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です

ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です

菜の花畑に眠っているのは、赤ン坊ですけど

 

走ってゆくのは、自転車々々々

向(むこ)うの道を、走ってゆくのは

薄桃色(うすももいろ)の、風を切って……

 

薄桃色の、風を切って

走ってゆくのは菜の花畑や空の白雲(しろくも)

――赤ン坊を畑に置いて

 

 

雲雀

 

ひねもす空で鳴りますは

ああ 電線だ、電線だ

ひねもす空で啼(な)きますは

ああ 雲の子だ、雲雀奴(ひばりめ)だ

 

碧(あーお)い 碧い空の中

ぐるぐるぐると 潜りこみ

ピーチクチクと啼きますは

ああ 雲の子だ、雲雀奴だ

 

歩いてゆくのは菜の花畑

地平の方へ、地平の方へ

歩いてゆくのはあの山この山

あーおい あーおい空の下

 

眠っているのは、菜の花畑に

菜の花畑に、眠っているのは

菜の花畑で風に吹かれて

眠っているのは赤ん坊だ? 

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変えてあります。編者。)

 

 

岸田衿子・ゼロ歳の風景。

 

――といえばオーバーイメージになりますが

つながっているものは痕跡のようなものながら

感じられようものです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

 

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