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カテゴリー「中原中也/生前発表詩篇」の記事

2010年12月 5日 (日)

生前発表詩篇を読む続編   <40>夏日静閑

「夏日静閑」は
カジツセイカンと読むのでしょうか
夏休みに入った街の風景と
所在なさげで
「倦怠(けだい)」の中にある詩人を歌った詩です
昭和12年(1937年)8月5日の制作日が
詩末尾に記されてあり確定できます

「生前発表詩篇」の最後の詩で
発表されたのは
「文芸汎論」の昭和12年10月特大号で
同年10月1日付けの発行です

ということは
町とは
このころ住んでいた
鎌倉の町のことでしょうか

隣りの家からピアノが聞こえ
散水車が陽を浴びて通り
たまに通る自動車には
白い服の紳士が乗り
買物に入った店では
いまどき何を買いに来たのって
怪訝に思われ
暖簾が揺れ
ビラが揺れ
写真店のウィンドーには
いつも飾ってある女性の顔のアップ
……

ガランとした
鎌倉の町の夏が
見えるようです

詩人は
ここ鎌倉へ
千葉の中村古峡療養所を退院してすぐの
2月下旬に引っ越してきました
年上の僚友・関口隆克のはからいもあって
寿福寺境内に建つ一軒家を
借りることができたのです

鎌倉には
小林秀雄
大岡昇平
佐藤正彰
今日出海ら旧知をはじめ

川端康成
林房雄
島木健作
深田久弥ら「文学界」同人らが住んでいましたし

文也亡き後に
文也と暮した市ヶ谷・谷町から
早く離れたかったからです

ということで
鎌倉で暮らして
およそ半年が経過して
はじめて迎える夏に
この詩は作られました

半年暮して
詩人は
鎌倉という土地柄へ順応し
各誌紙への発表も
おこたりなく続けていたようにみえますが
次第にストレスを貯めるようになり

たとえば
7月7日付け阿部六郎宛書簡には

「ほとほと肉感に乏しい関東の空の下にはくたびれました。それに去年子供に死なれてからといふものは、もうどんな詩情も湧きません。瀬戸内海の空の下にでもゐたならば、また息を吹返すかも知れないと思ひます。」

など記すようになりました
帰郷の意志を
このころには固めていたのです
小林秀雄に
「在りし日の歌」の原稿を託すのは
9月26日のことです

「夏」には

港の市の秋の日は、
大人しい発狂。
私はその日人生に、
椅子を失くした。
(「港市の秋」昭和4年8月制作)

と遠い昔に歌ったのと似た
疎外感がよみがえり
……

またもや
居場所をなくした詩人の嘆きが
倦怠=けだいの響きにくるまれて
流れているかのようです

 *
 夏日静閑

暑い日が毎日つづいた。
隣りのお嫁入前のお嬢さんの、
ピアノは毎日聞こえてゐた。
友達はみんな避暑地に出掛け、
僕だけが町に残つてゐた。
撒水車が陽に輝いて通るほか、
日中は人通りさへ殆(ほと)んど絶えた。
たまに通る自動車の中には
用務ありげな白服の紳士が乗つてゐた。
みんな僕とは関係がない。
偶々(たまたま)買物に這入(はい)つた店でも
怪訝(けげん)な顔をされるのだつた。
こんな暑さに、おまへはまた
何条買ひに来たものだ?
店々の暖簾(のれん)やビラが、
あるとしもない風に揺れ、
写真屋のショウヰンドーには
いつもながらの女の写真(かほ)。
                 一九三七、八、五

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年12月 4日 (土)

生前発表詩篇を読む続編   <39>初夏の夜に

「初夏の夜に」は
草稿が残っており
詩の末尾に「一九三七、五、一四」とあることから
昭和12年(1937年)5月14日の制作と確定されます
これが第一次形態の作品です

これを元に
同年8月8日に推敲(推定)
「四季」の昭和12年10月号(発行・同年9月20日付け)に発表されたのが
第二次形態の本作品ということになります

第一次形態では
タイトルが「初夏の夜に、おもへらく」となっていましたが
「四季」に送付した段階で改題されました

同じ月に発表された作品に
「正午」(文学界)
「夏日静閑」(文芸汎論)があります

オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か――

ではじまるこの詩が
蚊の飛ぶ音に
夏の訪れを知らされたことを歌うばかりでないことは
次の行

死んだ子供等は、彼(あ)の世の磧(かわら)から、此の世の僕等を看守(みまも)つてるんだ。

で明らかになります

蚊の音に
死んだ子どもらの思い出を誘発され
あの世の河原で
子どもらが
この世の僕らを見守ってくれていることを歌いますが……

ではこの詩は
死んだ子どもらへの追悼歌なのかというと
単にそうではなく
追悼歌にしては
あの世の中への「入り込み」が過度で
中原中也特有です

追悼というのは
死者があり
生者があり
両者の間には
深く大きな隔たりがあったうえで
生者が死者へ悲しみの言葉を贈るものですが
この詩は

行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。

なのです
生者に
あの世は遠くはなさそうに感じられているのです
そして

窓の彼方(かなた)の、
笹藪の此方(こちら)の、
月のない初夏の宵の、
空間……
其処(そこ)に、
死児等は茫然、
佇(たたず)み
僕等を見てる

のです

あの世は
そこにあり
笹薮のこちらに
死んだ子どもらは
たたずんで
僕らを見ているのです

「三歳」として出てくるのは
前年11月に
数え年3歳で亡くなった
詩人の長男・文也のことでありましょう
「十歳」は大正4年(1915年)に亡くなった
すぐ下の弟・亜郎のことでしょうか

この詩を書いたとき
長男・文也の死から
1年もたっていませんが
思い出せば
愛息を失った悲しみは
薄れようになく
子どもと一緒にいたい
子どものそばにいたいと思うあまり
「遠くはなさそうな」「そこ」へ
自ら参じたく思う心は
逸(はや)るのでした

詩人の死が
2か月後と迫っている時に
この詩は作られましたが
詩人は
自らの死を
夢にも思っていないはずでした

 *
 初夏の夜に

オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か――
死んだ子供等は、彼(あ)の世の磧(かわら)から、此の世の僕等を看守(みまも)つてるんだ。
彼の世の磧は何時でも初夏の夜、どうしても僕はさう想へるんだ。
行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。
窓の彼方(かなた)の、笹藪の此方(こちら)の、月のない初夏の宵の、空間……其処(そこ)に、
死児等は茫然、佇(たたず)み僕等を見てるが、何にも咎(とが)めはしない。
罪のない奴等が、咎めもせぬから、こつちは尚更、辛いこつた。
いつそほんとは、奴等に棒を与へ、なぐつて貰ひたいくらゐのもんだ。
それにしてもだ、奴等の中にも、十歳もゐれば、三歳もゐる。
奴等の間にも、競走心が、あるかどうか僕は全然知らぬが、
あるとしたらだ、何(いず)れにしてもが、やさしい奴等のことではあつても、
三歳の奴等は、十歳の奴等より、たしかに可哀想と僕は思ふ。
なにさま暗い、あの世の磧の、ことであるから小さい奴等は、
大きい奴等の、腕の下をば、すりぬけてどうにか、遊ぶとは想ふけれど、
それにしてもが、三歳の奴等は、十歳の奴等より、可哀想だ……
――オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か……
               (一九三七・五・一四)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年12月 2日 (木)

生前発表詩篇を読む続編   <38>夏(僕は卓子の上に)

「夏(僕は卓子の上に)」は
昭和12年8月に創刊された
タブロイド判の月刊新聞「詩報」の第2号に初出し
「文学界」の昭和12年12月号(同年12月1日付け発行)に
没後発表された作品

中原中也が死去後
遺稿を託された小林秀雄が
生前の発表を知らずに
「文学界」の「中原中也追悼号」に
「遺作集四篇」として掲載した作品の一つでもあります

「文学界」に発表されたのは
「無題」とされた本作のほかに
「桑名の駅」
「少女と雨」
「僕が知る」の4篇でした

「詩報」へ初出し
「文学界」へ再出したものの
制作日は
「文学界」再出作品のほうが
「詩報」初出作品よりも
早かったという経緯をもつ詩です

再出作品が第一次形態で
初出作品が第二次形態なのです

第二次形態「夏」の制作は
昭和12年8月下旬~9月4日と推定されていますから
10月22日の死亡日の
およそ2か月前に
歌われた詩ということになります

詩人が
自分の死を

思ひなく、日なく月なく時は過ぎ、

とある朝、僕は死んでゐた。

と歌うのをなぞっていると
予言というよりも
自分の死を
詩人は
肉眼で
見ていたのではないか、と
疑いたくなるような
リアルなものが感じられます

これは

ホラホラ、これが僕の骨だ、
(1934年4月28日制作の「骨」)

と同じものですが
これを歌って
約2か月して
実際に詩人が亡くなってしまうことを知れば
「これが僕の骨だ」にあった滑稽感はなくなり
詩人の死への畏怖が
否応もなく
重々しく
伝わってきます

ひるがえって
「骨」を読み返せば
この「夏」の3年以上前に作られた「骨」から
滑稽感は消えうせ
リアル感がかぶさってくるのですから
不思議といえば不思議
……

となれば

倦怠(けだい)のうちに死を夢む
(1930年1―2月制作推定の「汚れつちまつた悲しみに……」)

の「死」も
いま
ここに
よみがえってきて
ゾクゾクしてくるものがあります

 *
 夏(僕は卓子の上に)

僕は卓子(テーブル)の上に、
ペンとインキと原稿紙のほかになんにも載せないで、
毎日々々、いつまでもジッとしてゐた。

いや、そのほかにマッチと煙草と、
吸取紙くらゐは載つかつてゐた。
いや、時とするとビールを持つて来て、
飲んでゐることもあつた。

戸外(そと)では蝉がミンミン鳴いていた
風は岩にあたつて、ひんやりしたのがよく吹込んだ。
思ひなく、日なく月なく時は過ぎ、

とある朝、僕は死んでゐた。
卓子(テーブル)に載つてゐたわづかの品は、
やがて女中によつて瞬く間に片附けられた。
──さつぱりとした。さつぱりとした。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年12月 1日 (水)

生前発表詩篇を読む続編   <37>道化の臨終(Etude Dadaistique)

「生前発表詩篇」は
残り4篇となり
大作「道化の臨終(Etude Dadaistique)」に
たどりつきました

この作品については
かつて
「ダダのデザイン」のタイトルで
やや長々しい鑑賞を試みました

ここでは
それを引っ張り出して
一挙に再録することにしました
表記上の若干の修正を加えましたが
大意に変わるところはまったくありません

<以下再録>

ダダのデザイン<2>

道化の臨終(1)

中原中也が
「山羊の歌」の編集にかかったのは
1932年(昭和7年)4月
といわれていますから
ほとんどダダ詩が記された
「ノート1924」が
書き出された頃から7、8年
その間
詩人は
様々な経験をしました。

京都に住み
長谷川泰子と同棲
そして上京
詩人富永太郎との邂逅および死別
泰子の離反
小林秀雄と泰子をめぐる三角関係
音楽集団「スルヤ」との親交
「白痴群」創刊と廃刊
東京での孤絶した暮らし……

ダダイズムの詩「春の夕暮」は
詩人が経験したこれらの時代を経て
7、8年後に
詩集「山羊の歌」の編集をはじめた頃に
ふたたび
詩人によって
ピックアップされ

読者へ届けられるための
新たなデザインをほどこされて
「春の日の夕暮」として
再生しました。

「ノート1924」に書かれたこの作品は
この間
詩人によって
読み返されたことがあったのでしょうか
放りっぱなしにされていたのでしょうか
7、8年の間、眠っていたのでしょうか……

この疑問は
ただちに
ダダイズムは
中原中也の中で
どのような状態にあったのか
眠っていただけなのか
絶えず活動を続ける活火山のようではなかったにせよ
休火山のようなものだったのか
というような問いへと繋がっていきます

そこで
しばしば引き合いに出されるのが
1934年(昭和9年)年に作られた
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」です

タイトルを補足するかのように
「ダダイスティックな練習曲」
という意味の副題をつけられた
この作品は
中原中也のダダイズムのその後を探る
手がかりになる
重要な位置にあります。

(つづく)

道化の臨終(2)

大岡昇平が、

「道化の臨終」は、ダダ的なのであって、ダダそのものではない

と言ったからといって
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」が
ダダイズムの詩ではない
ということにはなりません

大岡昇平の考えるダダイズムと
中原中也の考えるダダイズムとは
同じモノであるとは言えないのですし
そもそも
大岡昇平は
なにを「ダダ的」と言い
なにを「ダダイズムそのもの」と言っているのか
あいまいなところがあります

中原中也は
この詩を
Etude Dadaistiqueと副題をつけたのですから
これを
ダダ風の練習曲
と訳すか
ダダの練習曲
と訳すのか
という問題ではなく、
この詩は
ダダの詩と解するのが自然です

中原中也は
この詩を
ダダの詩の練習曲と
「謙遜」して副題をつけたのだ
と積極的に解する方が自然です

「道化の臨終(Etude Dadaistique)」は
もはや
1924年ころのダダイズムの詩とは
かけ離れたものになっていますが
そのことは
1924年当時のダダイズムと
異なるダダイズムの詩であることを示しはするものの
1934年のダダイズムの詩であることを
否定するものではなく
それを
ダダイズムの詩であり、
その練習曲であったと
受け取れる作品と言っても
おかしくありません

とにかく
読んでみましょう

なにやら
物語を期待させる
はじまり……

君ら想はないか、夜毎何処(どこ)かの海の沖に
火を吹く龍がゐるかもしれぬと

火を吹くドラゴンが
海の沖に住んでいる
ということを、
キミ、想像してみたまえ

荒野の果てに
暮らしている姉妹のことを
思ってみたまえ

永遠の夜の海で
繰り返す波
そこで泣く
形のない生き物
そこで見開かれた形のない瞳……を
キミは、思ってみたことがあるか

心を揺する
ときめかす
嗚咽し哄笑し
肝に染みいる
このうえなく清浄な暗闇(くらやみ)、漆黒(しっこく)
暖かい紺碧のそら……を
想像してみたまえ!

これを語っているのは
道化です

(つづく)

道化の臨終(3)

序曲が終わり、
始まるのは、
第1章なのでしょうか

空の下には池があった。
池の周りには花々が咲き
風に揺らいでいた
空には香りがあふれ
遙かな向こうまでかすみがかかったようだ

今年も春がやってきて
土が鮮やかに色づいている
雲雀が空に舞いのぼり
子どもは池に落っこちた

穏やかな春の風景に
ドラマが突如生じます
子どもが池に落ちるのです

菜の花畑で眠つてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?
という
「春と赤ン坊」のモチーフと
どこか似ているのか
似ていないのか……

穏やかなものが
その頂点に達し破裂し……
ここに死のイメージが忍び込む……

子どもは、
池に仰向けになって
空を仰ぐように
池の縁を枕にして
あわあわあわてふためいて
空なんて見ていられなくなって
泣き出したよ

しかし
ここでテーマは
僕です
そして、僕とは
詩人のことでしょう
道化である僕であり
詩人である僕……
その心は、

残酷で
優しい
単に優しいというほどではなく
優婉な優しさで
涙も出さないで泣きました
空につむじを向けて
というのは、
さして意味を追わなくていいのですが
空の方には向かないで
一心に
紫色になるほど
赤黒い顔を作って
泣きました

泣きましたけれど
僕は何も言うことができない
発言できない
言おうとするのだけれど
ギリギリのところでできないのでした
来る日も来る日も
肘をついて
砂に照りつける陽光だの
風に吹かれて揺れる草だのを
じっと眺めているばかりでした

(つづく)

道化の臨終(4)

いよいよ
道化の僕が語り出します
第3章あたり
起承転結の転あたりから結へと進みます

どうぞ皆さん、という語りかけの口調は
これも
ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう
という「春日狂想」の
語り口調と同じものです

どうぞみなさん、僕という
バカやさしい、痴呆症とか
抑揚を知らない、母なし子とか
岬の浜の不死身貝とか……
その他にもいろいろ呼び名はありまして

お得意の地口(じぐち)が
しばらく続きます
あんまり意味はなさそうですが
設定が臨終ですから
人の命のはかなさについて
延々延々と

命題、反対命題の
トコトン、弁証し、止揚した場所とか
天下の「衛生無害」とか
昔ながらのバラの花とか
馬鹿げたものでございますが
どうぞ大目にみていただきたく……

このように申しますわけと言えばですが
泣くも笑うも、朝露の命でありまして
人の命ははかないものでありまして
星の中の、星の星の、その一つ
砂の中の、砂の砂の、その一つ
舌がもつれてしまいますな

浮くも沈むも
波間のヒョウタンみたいなもので
格別になにも必要としませんので
笛の中の、笛の笛の
段々、舌がもつれてきますね

至上至福の、
ご臨終の時、いまわの際を
いやはや、なんと申しましょうか
一番お世話になりながら
一番忘れていられるもの
あの、あれです、とかいっても
これじゃあ、どなたもピンとこないですよね
お分かりにならないですよね

じゃあ、忘恩を後悔する涙、とか?
ええ、まあ、それでもよいのですけれど……

では……、では……
えい、じれったいなあ
これやこれ、行くも帰るも
別れては、消える移り香(うつりが)
追い回して、くたびれて
秋の夜長に、目が覚めて
天井の板の木目に目を凝らし
ああ、と叫び声さえあげて
呆然と……昔のことを思い出し……

ああ、ここにも、
泰子さんが出てきましたねえ!

はっと、我に返りはするものの
野辺の草葉に、盗賊が
疲れて眠っていて、その腰に
インゲン豆の形をした刀が差してあって
こりゃあ、こりゃあ、何者ぞ
切るぞー、と声をあげると
戸の外に、丹下左膳がこちらを向いて

狂った心の仕業だからって
われながら何を言い出すことやら

そうかそうならば
人よ、あなたの永遠の命を
恋することが、もしないのだったら
シネマを見たからといってドッコイショノショ
ダンスをしたからといってドッコイショノショ
などと言ったら、笑われてしまって
ちっとも聞いてもらえない

そうならば僕
どうせ明日は死ぬ身
いまここに、要領を得ないままですが……
とにもかくにも、書き付けましたのは
これはほんとに、心の一部分です
どうぞ不備の点は、お許しお願いしたく
願わくは、僕、おどけおどけて
生き長らえてきた、小者(こもの)ですので
死んだら、冥福も大きいものと
神さまに、祈ってやってくださいませんか

(つづく)

道化の臨終<5>

「道化の臨終(Etude Dadaistique)」は
1934年(昭和9年)に作られ
1937年(昭和12年)「日本歌人」9月号に発表されました

制作された1934年は
中也27歳の年ですが
制作の年よりも
発表された1937年は
詩人が死去する年である
ということには
おやっと
思わずにいられないものがあります

世の中に向けて発表するということは
その作品が遠い過去に作られたものであっても
その作品の現在を示すものである以上
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」は
中原中也という詩人の
最晩年の作品に属するということなのですから……

ダダイズムの詩が
詩人の死去する3年前に作られ
死去するおよそ2か月前に発表された
ということは大変興味深いことです
詩人の死は
1937年10月22日です

大岡昇平は
やや驚愕気味に
この事実をもって
中原中也はダダイストであったか、どうか
という問いを自ら立て
中也評伝では最後になった「中原中也・1」を
1971年から書きはじめましたが
途中でプツンとやめてしまいました

この論考「中原中也・1」を所収している
「中原中也」(1974年初版、角川書店)のあとがきには
この間の経緯が次のように記されています

私は本巻五巻を通して解説を書き、また新しい観点を強いられる結果になりました。例えば『朝の歌』に「日本のダダイスムは中原がそこから出て来たも のとしてしか興味はない」と書きましたが、案外そこに中原の生に対する基本的態度があるのではないか、という疑問が生じました。そこで一九七一年から再出 発したのが「中原中也・1」ですが、ここで私の根気はぷっつり切れた感じになりました。

かくて、結論は出されずじまいになったのですが
「道化の臨終」について
「ダダ的ではあるが、ダダイズムそのものではない」と
書いたのはこの「中原中也・1」の中でのことでした

中也のダダイズムへの関わりについて
例によって
骨までしゃぶるような論究が展開されたのですが
「道化の臨終」については
(Etude Dadaistique)の
傍題があるにもかかわらず
最後まで
「ダダ的」とし
そのほかの「朝の歌」以降の作品についても
「ダダ的」とする以上の断言をしませんでした

(つづく)

道化の臨終<6>

中也が
「山羊の歌」の編集にかかったのは
1932年(昭和7年)4月
それから
丸3年
「白痴群」の盟友、安原喜弘の
献身的なサポートを得ながら
いくつかの出版社に原稿を持ち込みますが
OKの声は容易には聞けませんでした
しかし
1934年(昭和9年)
青山二郎の仲立ちもあり
文圃堂から
「山羊の歌」は出版されました

長男文也が誕生するのも
この頃で
ランボーの翻訳のために帰省し
辞書と首っ引きで
その詩世界と格闘
しばらく
東京の喧噪から遠ざかる生活を送るのも
この年ですし
「道化の臨終」が作られたのも
この年でした

詩人が詩人として世に立つためには
詩集を持つこと
詩集を発行することが大きな証となりますが
その第1詩集が
公刊されたこの年

1934年、昭和9年という年は
中原中也27歳
大きな区切りの年であるようでした

この節目の年に
中也の中で
ダダイズムはどのように生きていたのか
どのような形をとっていたのか……
その答が
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」にあります

「道化の臨終」は
中原中也という詩人の
ダダのデザインの実践の
1934年という時点の現在形ということになり
その核心にあるのは
道化という存在です

 *      
 道化の臨終(Etude Dadaistique)

   序 曲

君ら想はないか、夜毎何処(どこ)かの海の沖に、
火を吹く龍がゐるかもしれぬと。
君ら想はないか、曠野(こうや)の果に、
夜毎姉妹の灯ともしてゐると。

君等想はないか、永遠の夜(よる)の浪、
其処(そこ)に泣く無形(むぎやう)の生物(いきもの)、
其処に見開く無形(むぎやう)の瞳、
かの、かにかくに底の底……

心をゆすり、ときめかし、
嗚咽(おえつ)・哄笑一時(いつとき)に、肝に銘じて到るもの、
清浄こよなき漆黒のもの、
暖(だん)を忘れぬ紺碧(こんぺき)を……

     *     *
        *

空の下(もと)には 池があつた。
その池の めぐりに花は 咲きゆらぎ、
空はかほりと はるけくて、
今年も春は 土肥やし、
雲雀(ひばり)は空に 舞ひのぼり、
小児が池に 落つこつた。

小児は池に仰向(あおむ)けに、
池の縁〈ふち〉をば 枕にて、
あわあわあわと 吃驚(びつくり)し、
空もみないで 泣きだした。

僕の心は 残酷な、
僕の心は 優婉(ゆうえん)な、
僕の心は 優婉な、
僕の心は 残酷な、
涙も流さず 僕は泣き、
空に旋毛(つむじ)を 見せながら、
紫色に 泣きまする。

僕には何も 云はれない。
発言不能の 境界に、
僕は日も夜も 肘(ひじ)ついて、
僕は砂粒に 照る日影だの、
風に揺られる 雑草を、
ジツと瞶(みつ)めて をりました。

どうぞ皆さん僕といふ、
はてなくやさしい 痴呆症、
抑揚の神の 母無(おやな)し子(ご)、
岬の浜の 不死身貝、
そのほか色々 名はあれど、
命題・反対命題の、
能(あた)ふかぎりの 止揚場(しやうぢやう)、
天(あめ)が下なる 「衛生無害」、
昔ながらの薔薇(ばら)の花、
ばかげたものでも ござりませうが、
大目にあづかる 為体(ていたらく)。

かく申しまする 所以(ゆえん)のものは、
泣くも笑ふも 朝露の命、
星のうちなる 星の星……
砂のうちなる 砂の砂……
どうやら舌は 縺(もつ)れまするが、
浮くも沈むも 波間の瓢(ひさご)、
格別何も いりませぬ故、
笛のうちなる 笛の笛、
——次第に舌は 縺れてまゐる——
至上至福の 臨終(いまは)の時を、
いやいや なんといはうかい、
一番お世話になりながら、
一番忘れてゐられるもの……
あの あれを……といつて、
それでは誰方(どなた)も お分りがない……
では 忘恩悔ゆる涙とか?
えゝまあ それでもござりまするが……
では——
えイ、じれつたや
これやこの、ゆくもかへるも
別れては、消ゆる移り香、
追ひまはし、くたびれて、
秋の夜更に 目が覚めて、
天井板の 木理(もくめ)みて、
あなやと叫び 呆然(ぼうぜん)と……
さて われに返りはするものの、
野辺の草葉に 盗賊の、
疲れて眠る その腰に、
隠元豆の 刀あり、
これやこの 切れるぞえ、
と 戸の面(おもて)、丹下左膳がこつち向き、
——狂つた心としたことが、
何を云ひ出すことぢややら……
さはさりながら さらばとて、
正気の構へを とりもどし、
人よ汝(いまし)が「永遠」を、
恋することのなかりせば、
シネマみたとてドツコイシヨのシヨ、
ダンスしたとてドツコイシヨのシヨ。
なぞと云つたら 笑はれて、
ささも聴いては 貰へない、
さればわれ、明日は死ぬ身の、
今茲(ここ)に 不得要領……
かにかくに 書付けましたる、
ほんのこれ、心の片端〈はしくれ〉、
不備の点 恕(ゆる)され給ひて、
希(ねが)はくは お道化(どけ)お道化て、
ながらへし 小者にはあれ、
冥福の 多かれかしと、
神にはも 祈らせ給へ。
             (一九三四・六・二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月30日 (火)

生前発表詩篇を読む続編   <36>梅雨と弟

「梅雨と弟」は
「少女の友」の昭和12年8月号(同年8月1日付け発行)に発表された作品で
第一次形態と第二次形態があります

第一次形態は草稿として現存し
「梅雨二題」の題の詩篇の第2節にあたります
「梅雨二題」は
「少女と雨」と「梅雨と弟」で構成され
「梅雨と弟」が
「少女の友」の昭和12年8月号に発表されました

「少女と雨」は
同誌9月号に発表される予定だったものが
何かの事情で発表されず
したがって
生前未発表となりましたが
詩人没後に
「文学界」の中原中也追悼号(昭和12年12月)に
第二次形態が発表されました
(「少女と雨」はしたがって「未発表詩篇」に分類されます)

「梅雨と弟」の第一次形態
すなわち「梅雨二題」第2節は
昭和12年(1937年)の5月―6月の
制作と推定されていますから
「少女と雨」も
同時期の制作ということになります

「梅雨と弟」に現れる弟は
詩人の亡くなった弟
一人は
大正4年に死んだ次男の亜郎
一人は
昭和6年に死んだ三男の恰三が
すぐさまイメージされ
二人それぞれを回想している詩と
解釈するのは字義通りですので
いっこうにおかしくはありませんが

弟の死の上に
昨年(昭和11年)11月10日に亡くなった
長男文也のイメージが重ねられていると
受け取るのもまったく自然なことです

ならば
追悼というよりも
文也の死を
詩人は
作意(虚構)の中にとらえたということであり
「距離をおいて」
見ることができるようになったということになります

この詩の視点は
少女であるあたしにあり
詩人はあたしに託して
弟=長男・文也の思い出を歌っている
ということになります

(参考のために「少女と雨」も載せておきます)

 *
 梅雨と弟

毎日々々雨が降ります
去年の今頃梅の実を持って遊んだ弟は
去年の秋に亡くなつて
今年の梅雨(つゆ)にはゐませんのです

お母さまが おつしやいました
また今年も梅酒をこさはうね
そしたらまた来年の夏も飲物があるからね
あたしはお答へしませんでした
弟のことを思ひ出してゐましたので

去年梅酒をこしらふ時には
あたしがお手伝ひしてゐますと
弟が来て梅を放(つ)たり随分と邪魔をしました
あたしはにらんでやりましたが
あんなことをしなければよかつたと
今ではそれを悔んでをります……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 *
 少女と雨
少女がいま校庭の隅に佇(たたず)んだのは
其処(そこ)は花畑があつて菖蒲(しょうぶ)の花が咲いてるからです

菖蒲の花は雨に打たれて
音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはゐませんでした

しとしとと雨はあとからあとから降つて
花も葉も畑の土ももう諦めきつてゐます

その有様をジツと見てると
なんとも不思議な気がして来ます

山も校舎も空の下(もと)に
やがてしづかな回転をはじめ

花畑を除く一切のものは
みんなとつくに終つてしまつた 夢のやうな気がしてきます

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月29日 (月)

生前発表詩篇を読む続編   <35>渓流

「渓流」は
「都新聞」の昭和12年7月18日付け第1面に発表された
同年(1937年)7月15日制作の作品です

同紙第1面に「日曜詩」と題した企画欄があり
そこに掲載されたものですが
この欄に並んで
菊岡久利の評論「詩の動向とその半年表(二) 詩人十数氏の業績に就いて」があり
中で菊岡は

中原中也氏がいい詩をたくさん書いたけれども、愛児を失った断腸の歌であるために、われわれ友人は詩ばかり感心するわけにゆかず真に同情した

などと記していることが
新編全集第1巻「詩Ⅰ解題篇」に案内されています

詩篇末尾に
(一九三七・七・一五)とあることから
制作日は特定されていますが
近いところで3日前に
「夏と悲運」(未発表詩篇)が
同年(1937年)7月12日に制作されていますから
詩人の心境を知る
多少の手がかりになるかもしれません

「夏と悲運」は
とど、俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられない。
思へば小学校の頃からだ。
例へば夏休みも近づかうといふ暑い日に、
唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、
すると俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられなかつた。
格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑しいといふのではない、
起立して、先生の後から歌ふ生徒等が、可笑しいといふのでもない、
それどころか俺は大体、此の世に笑ふべきものが存在(ある)とは思つてもゐなかつた。
それなのに、とど、笑ひ出さずにやゐられない、
すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。
俺は風のよく通る廊下で、淋しい思ひをしたもんだ。
俺としてからが、どう解釈のしやうもなかつた。
別に邪魔になる程に、大声で笑つたわけでもなかつたし、
然(しか)し先生がカンカンになつてゐることも事実だつたし、
先生自身何をそんなに怒るのか知つてゐぬことも事実だつたし、
俺としたつて意地やふざけで笑つたわけではなかつたのだ。
俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思ふのだつた。
大人となつた今日でさへ、さうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すつかり自然と游離してゐるやうに感じだす。
すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。
格別俺は人生が、どうのかうのと云ふのではない。
理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。
孤高を以て任じてゐるなぞといふのでは尚更(なおさら)ない。
しかし俺としたことが、とど、笑ひ出さずにやゐられない。
どうしてそれがさうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。
しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやといふほど味はつてゐる。
                      (一九三七・七)

という詩ですが
これを作った3日後に
「渓流」は歌われました

このころの日記を
読んでおきます
文章の量が少なく
日付も飛び飛びの日記です

(7月1日) Jeudi
 田村重治著「中世欧州文学史」読了。

(7月2日) Vendredi
坊や二百日目
深田訪問。
高原来訪。

(7月4日) Diamanche
関口訪問。

(7月23日) 牧水紀行文集読了。

7月の日記は
これですべてです
4日間しかつけなかったのは
日常生活が忙しかったからでしょうか

「渓流」は
7月4日から23日の間に作られました
この間に
創作の時間の多くが割かれたのでしょうか

この間に
近辺の渓谷へ
遊んだのでしょうか

「夏と悲運」で
自身の悲運の原体験となった
小学校の唱歌の授業風景を思い出して
不覚にも笑ってしまった詩人が
渓流で冷やしたビールを
むさぼり飲んでいる詩人に
姿を変えます

2008年10月19日に
読んだ鑑賞記を
再録しておきます

渓流/悲しいビール

ここで、「生前発表詩篇」から
「渓流」を読んでおきます。
「たにがわ」と訓読みで読ませる意図が
詩人にはありました。

1937年(昭和12年)7月15日に作られ、
同7月18日付け「都新聞」に発表された作品です。
長男文也を前年11月10日に亡くし
半年以上の月日が流れました。
中也は、この頃、帰郷の意志を固め、
「在りし日の歌」原稿を小林秀雄に託すのは、9月です。
10月に発病、同月末に死亡する詩人です。

なんとも美しい響きの作品で、
多くのファンが、この詩を
一番だ! と支持する声が聞こえてきます。
現代詩壇を牽引した一人
鮎川信夫も、
この詩には参っています。

青春のやうに悲しかつた。
と、中原中也以外のだれが歌っても
違和感を感じるような……。
なかなか、こうは、歌えません

この、泣き入るやうに飲んだ。 なんて詩句は
ビールの1杯目を飲むときの
誰しもが抱く快感のリアリズムそのものです。
だから、誰にも、歌えそうですけれど……。
青春のやうに悲しかつた。 という詩句とともに、
やっぱり、誰にも、歌えません。
もし歌ったら、
テレビCMのキャッチコピーだなんて
言われてしまいそうです。

だから、
やはり、この詩が、よいのは、
最終連。

最終連があるから、
1、2、3連が生きている
中原中也の詩になっているから
よいのです。

これが
「三歳の記憶」を歌った詩人と
同じ詩人の作品です。

中也は、
実に様々な経験を積み
実に様々な詩を書いたのです。
一本調子を辿る
日本現代詩史の源流に
滔々(とうとう)と流れる多旋律を刻んだのです。

 *
 渓流

渓流(たにがわ)で冷やされたビールは、
青春のやうに悲しかつた。
峰を仰いで僕は、
泣き入るやうに飲んだ。

ビショビショに濡れて、とれさうになつてゐるレッテルも、
青春のやうに悲しかつた。
しかしみんなは、「実にいい」とばかり云つた。
僕も実は、さう云つたのだが。

湿つた苔も泡立つ水も、
日蔭も岩も悲しかつた。
やがてみんなは飲む手をやめた。
ビールはまだ、渓流(たにがわ)の中で冷やされてゐた。

水を透かして瓶の肌へをみてゐると、
僕はもう、この上歩きたいなぞとは思はなかつた。
独り失敬して、宿に行つて、
女中(ねえさん)と話をした。
    (一九三七・七・一五)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月28日 (日)

生前発表詩篇を読む続編   <34>子守唄よ

「子守唄よ」は
「新女苑」の昭和12年7月増大号に発表された作品
同号は同年7月1日付けの発行です
制作(推定)は同年(1937年)5月中旬

同じころ
「四季」7月号に
「蛙声」を発表しています

「子守唄よ」は
自選詩集「在りし日の歌」の
最終部に置かれた「蛙声」と
同じころに制作された作品ということになります

「新女苑」は
若い女性をターゲットにした雑誌で
中原中也は
すでに昭和12年2月号に
「月夜の浜辺」を発表しています

この雑誌への発表を仲立ちしたのが
小林秀雄か河上徹太郎であろうと推定されています

「月夜の浜辺」は
「在りし日の歌」にも収録され
「月夜の晩に、ボタンが一つ
波打ち際に、落ちてゐた。」の
歌いだしが馴染みやすいためか
広く一般に知られるようになるのですが
「新女苑」の読者向けに作られたことが
ありありと伝わってきますし
この「子守唄よ」も
女性の読者が意識されたことは明らかです

中原中也の詩が
女性ファンに多く支持されるのは
この詩のように
女性の心へ向けられた内容を持つ作品が
随所に散りばめられているからだと
あらためて気づかされる作品ですが……

「子守唄よ」は
母親が
声を限りに
一晩中歌う
子守唄の行方に
「?」を投げかけ

暗い
船もいる
夜の海を越えて行くのだろうけれど
いったい
だれがそれを聴き届けるのか
だれかがいるにはいるのだろうけれど
途中で消えてしまわないだろうか
波が荒くはなくとも
風はひどくなくとも
途中で消えてしまわないだろうか

きょうも
母親は
一晩中
声を限りに
子守唄を
唄っている

淋しい世の中で
それを聴くのは誰でしょう

ああ、
ぼくの
あの子は
もう
この世にいないのに
だれが
母親の
子守唄を
聴くのでしょうか
……

詩人は
母親に成り変って
子守唄を歌うのです

その歌が
夜の海を
渡っていく間に
途中で
消えてなくなりはしないかと
心配しながら
今日も
眠れ眠れと
静かに
歌うのです

子守唄よ、と
子守唄に呼びかけるのは
そのためです

詩人が歌う
歌=詩への思いを
込めているのです

 *
 子守唄よ

母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
然しその声は、どうなるのだらう?
たしかにその声は、海越えてゆくだらう?
暗い海を、船もゐる夜の海を
そして、その声を聴届けるのは誰だらう?
それは誰か、ゐるにはゐると思ふけれど
しかしその声は、途中で消えはしないだらうか?
たとへ浪は荒くはなくともたとへ風はひどくはなくとも
その声は、途中で消えはしないだらうか?

母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう?
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう?

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月27日 (土)

生前発表詩篇を読む続編   <33>雨の朝

「雨の朝」は
「ひからびた心」
「春日狂想」に続けて
昭和12年(1937年)4月に制作(推定)された作品で
これも新作書き起こしであり
なんらか長男・文也の死の影響が見られる内容をもちます

初出は「四季」の
昭和12年6月号(同年5月20日付け発行)で
同誌へのこの年(昭和12年)の
発表は最初のものになりました

Μ(ハイ、皆さん大きい声で、一々(いんいち)が一(いち)…)

(ハイ、皆さん御一緒に、一二(いんに)が二(に)……)

は「春日狂想」の最終行

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう

を直ちに連想させますし
二重パーレンの使用も
両作品に共通しています

「四季」の発行日(納本日)から逆算して
4月制作と推定される作品ですから
このころ詩人は
神奈川県・鎌倉に住みはじめて間もなくのことです

4月の日記を
めくってみましょう

(4月1日) Jeudi
 呉郎と鎌倉見物。江の島へも行く。長谷の観音はバラックの中にあつた。震災でいたんでからまだ修復相叶わぬのである。大仏様は、却々よいなれど、その周囲全く趣きなし。もつと周囲に広い園を要す。江の島は、想像せし通りの所。まことに俗人むきの所なり。

(4月2日) Vendredi
 呉郎再び東京に行く。

 家賃発送。

  「催眠術講義」読了。

 「近世変態心理学大観第十巻」(狂人の心理)読了。

 夜「沓掛時次郎」(新興キネマ)をみる。「豪快男」をもみる。

 トルストイ「芸術とは何ぞや」三分の二ばかり読んでもうあとは読みたくない。然し結論には賛成である。

(4月3日) Samedi
 床屋に行く。
 小林訪問。
 午後岡田訪ねたが留守。
 林もるす。
 川端はお通夜から帰つて今ねたばかりといふので会はず。帰途深田の奥さんと三〇分だべる。

(4月4日) Dimanche
 教会欠席。
 キップリング詩集(岩波文庫)読了。

 「ケーベル博士随筆集」(岩波文庫)読了。

 高原、野田、新顔(しんがほ)の橘谷といふ男と共に来訪。
 高原偶々馴れた所をやつてみせる。こいつ勝手な奴也、「いい子」になることばかり常に探してゐる。

 発熱就床。

(4月5日) Lundi
 就床。熱高し。
 田村定雄泊まる。

(4月6日) Mardi
 前日に仝じ。
 夜十一時の汽車にて田村京都に向ふ。

(4月7日) Mercredi
 正午頃漸く下熱。
 安さんに手紙。

(4月8日) Jeudi
 熱はなけれど、猶安静を要す。
 高原に絶交状を書こうかと思ふ。
 森田正馬著精神療法講義読了。
 Caspard de la nuit. 読了。

(4月9日) Vendredi
 就床。
 読書。

(4月10日) Samedi
 床上げ。
 小林の妻君来る。
 岡田来訪。
 
(4月11日) Dimanche
 古本屋行。教会行。
 関口来訪。
 安原来訪。

(4月12日) Lundi
 一二日(午後)高原来訪し。少し思う所を披瀝した。よく通じたかどうかは知らず。蓋し、通じたとしても、何れはそれを利害関係の点より観る男ののことだから、ほんとは何も云はず、会はないがいちばんよいのだ。思へば可哀想な文学青年なぞといふものは又横著な他の一面をも持つてゐるものなので、ほんとは同上に値しないのかもしれぬ。
 一二日夕刻 海東さんの小父さん来る。金時の人形を坊やに呉れる。
 その夜泊まる。

 小林夫妻来る。(午前)

(4月13日) Mardi
 海東爺と女房とねえやと江の島に赴く。小生病弱の故に留守番なり。独りあつてまことに静か。杉田玄白翁が蘭学事始を通読す。

(4月14日)
 一四日。雨降りていやな天気なり。本を売りにゆきしも、古本屋の親爺ゐず。蕪村全集を求めて帰る。

(4月15日) Jeudi
 島森に行き、岩波文庫を求む。古本屋にゆき、ブルックハルト伊太利文芸復興、其の他を求む。からこやにてドミノを求む。林屋にて空気銃を求む。空気銃を持つて出て、雨間もなく降りだしたので大岡の下宿へ寄り、うかうかと夜の九時過ぎまで話す。帰つてみると女房心配してゐた。空気銃を持つて出て夕飯にも帰らぬこと故、山の中に倒れゐるかと思ひいたるなり。無理もないことなり。夜思郎突然上京の途立寄る。

 (新編中原中也全集第5巻「日記・書簡」より)

以上は
4月15日までの半月分の日記です
毎日欠かさず
日記をつけていたことがわかります

「坊や」は
次男・愛雅(よしまさ)のことでしょう
この15日分の日記に
亡き文也のことは記されていません

「雨の朝」は
生地・山口の
少年時代の思い出が歌われています

冒頭の

(麦湯は麦を、よく焦がした方がいいよ。)
(毎日々々、よく降りますですねえ。)
(インキはインキを、使つたらあと、栓〈(せん)〉をしとかなけあいけない。)

は、家族か近辺に暮らしていただれかの言葉で
つられて
学校の授業の風景に
場面は移ります
……

じっと
古い記憶を呼び覚ましていると
詩人は
その時間の中に入り込んでしまって

――家(うち)ではお饅ぢうが蒸(ふ)かせただらうか?
ああ、今頃もう、家ではお饅ぢうが蒸かせただらうか?

となるのですが
前の行は、少年の時
後の行は、現在

授業中に
母さんや婆やたちが作ってくれている
お饅頭ができただろうかと
楽しい想像をする少年は
その当時を思い出し
今頃お饅頭が蒸し上がっただろうかと
回想する現在の詩人に成り変っています

いわば
現在の詩人は
少年に同化しているのですが
同じことが

(ハイ、皆さん大きい声で、一々(いんいち)が一(いち)…)

と大きな声で
生徒たちを指導している先生に
詩人が同化しているということがいえます

いんいちがいち
と九九(掛け算)を暗記する方法を
生徒たちに教える先生の姿は
現在の詩人が
自らに要求する姿でもありました

九九を暗記するようには
生きることの難問を乗り越えられると
詩人が考えたとは
到底思えませんが
繰り返し繰り返しやってくる
同じ問いに対峙するとき
詩人は
小学校の先生の口調を真似て
苦しみや悲しみの時間を
やり過ごしていたことは
想像のできることです

それは
「春日狂想」で歌った
詩人の生き方と同様の生き方です

 *       
 雨の朝

(麦湯は麦を、よく焦がした方がいいよ。)
(毎日々々、よく降りますですねえ。)
(インキはインキを、使つたらあと、栓〈(せん)〉をしとかなけあいけない。)
(ハイ、皆さん大きい声で、一々(いんいち)が一(いち)…)
         上草履は冷え、
         バケツは雀の声を追想し、
         雨は沛然〈(はいぜん)〉と降つてゐる。
(ハイ、皆さん御一緒に、一二(いんに)が二(に)……)
       校庭は煙雨〈けぶ〉つてゐる。
       ―——どうして学校といふものはこんなに静かなんだらう?
       ——―家(うち)ではお饅ぢうが蒸(ふ)かせただらうか?
       ああ、今頃もう、家ではお饅ぢうが蒸かせただらうか?
   
  *<編注> 原作では、ルビを示すパーレン以外のパーレンは二重になっています。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月25日 (木)

生前発表詩篇を読む続編   <32>ひからびた心

「ひからびた心」は
「文芸懇話会」の昭和12年4月号に発表された
昭和12年(1937年)3月16日制作の作品です

昭和12年3月16日の日記に
「文芸懇話会に原稿発送」とあることから
制作日が推定されたものですが
この日付が
中村古峡療養所を退院した日である
同年2月15日より後であり
四谷・市ヶ谷から鎌倉へ引っ越した
2月27日よりも後であることに心引かれます

長男・文也の死以降に
各誌へ発表した詩のほとんどが
旧作の改稿だったところ
この「ひからびた心」は
どうやら新作書き起こしらしいということが
分かってきたからです

「道修山夜曲」のように
最近発見された作品で
それが
新作書き起こしであったことが
最近になってわかったというケースもありますが
「ひからびた心」は
新作であるというその上に
文也の死に直接触れている内容を持つ点で
耳目をそばだてずにはいられないものがあります

つまり
単なる新作書き下ろしなのではありません

そもそも
中村古峡療養所へ入院を余儀なくされたのは
長男・文也の突然の死が原因でしたし
このころ各誌に発表していた作品が
新作ではなく
旧作を改めたものだった理由も
文也死亡の衝撃からでした

その衝撃のために
詩人は
詩を新たに創り出すエネルギーを
失っていたとさへいえる状態でしたが
いま、ここに
新作を作り
その中で
文也の死を歌おうと試みたのでした

はじめ

ひからびたおれの心は
そこに小鳥がきて啼き
其処(そこ)に小鳥が巣を作り
卵を生むに適してゐた


文也は
小鳥として
詩人に現れて

ひからびた詩人の心を
なぐさめるものとして
存在し

……

やがては
無の中に飛んでいって
そこで
案外安楽に暮せるかもしれない
と夢想するのは
詩人です

無の中に飛んでいく
とは
死ぬということ

自ら死ぬ
自殺するということを
意味しています

ここのところは
「春日狂想」の冒頭行の
「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」
につながっています

「春日狂想」は
「ひからびた心」が作られて
1週間後の3月23日に
作られました

 *
 ひからびた心

ひからびたおれの心は
そこに小鳥がきて啼き
其処(そこ)に小鳥が巣を作り
卵を生むに適してゐた

ひからびたおれの心は
小さなものの心の動きと
握ればつぶれてしまひさうなものの動きを
掌(てのひら)に感じてゐる必要があつた

ひからびたおれの心は
贅沢(ぜいたく)にもそのやうなものを要求し
贅沢にもそのやうなものを所持したために
小さきものにはまことすまないと思ふのであつた

ひからびたおれの心は
それゆゑに何はさて謙譲であり
小さきものをいとほしみいとほしみ
むしろその暴戻(ぼうれい)を快いこととするのであつた

そして私はえたいの知れない悲しみの日を味つたのだが
小さきものはやがて大きくなり
自分の幼時を忘れてしまひ
大きなものは次第に老いて

やがて死にゆくものであるから
季節は移りかはりゆくから
ひからびたおれの心は
ひからびた上にもひからびていつて

ひからびてひからびてひからびてひからびて
――いつそ干割(ひわ)れてしまへたら
無の中へ飛び行つて
そこで案外安楽に暮せらるのかも知れぬと思つた

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月24日 (水)

生前発表詩篇を読む続編   <31>道修山夜曲

「道修山夜曲」は
「未発表詩篇」にも収録されていますから
そちらで
一度読みました

療養中とはいえ
詩のお手本のような
詩法の見事な実践に出会います

一筆書き(いっぴつがき)でありながら
詩の技法のエキスがほとばしるような。

以下は
2010年4月9日の記事の再録です
あくまで第一次形態の詩についての案内であることをお断りしておきます
(※作品は、「黎明」掲載の第二次形態です)

「道修山夜曲」の道修山(どうしゅうざん)は
(丘の上サあがつて、丘の上サあがつて)の
「丘」と同一の丘陵のことで
療養所が建っていた場所です

末尾に(一九三七・二・二)の日付があり、
(丘の上サあがつて、丘の上サあがつて)が書かれて
3日後に制作されたことがわかります
詩人の回復はめざましく
閉鎖病棟の精神科から
開放病棟の神経科へ移った翌日の作品です

中原中也が
中村古峡療養所に入院中に
書き残したものは、
「療養日誌」のほかに
「千葉寺雑記」があり、
詩人自らが作ったこの雑記帳に
「道修山夜曲」は記されました

この詩は
「黎明」という、
療養所発行の月刊誌の
昭和12年4月号に掲載された
作品の第一次形態です
「生前発表詩篇」にも分類・所収されていますが、
両作品の違いは
句読点の有無だけの
わずかなものです

満天の星が降り注ぐ
快晴の日の夜だったのでしょう
道修山にあった松林に入り、
下草の生えるあたりにしゃがんで
耳を澄ませば
聞こえてくる汽車の音……

その他には
なにも聞こえてこない……
松には今夜風もなく、 
土はジツトリ湿つてる。 
遠く近くの笹の葉も、 
しづもりかへつてゐるばかり。
静かな夜でした

静かな夜を
たまたま通った汽車に
「外界」への思いを馳せたのですが
すぐさま
沈黙の世界が戻ります
ここは
道修山……
山の上なのです

しかし
それ以上のことを
詩人は歌いませんでした


 道修山夜曲

星の降るよな夜(よる)でした
松の林のその中に、
僕は蹲(しやが)んでをりました。

星の明りに照らされて
折しも通るあの汽車は、
今夜何処(どこ)までゆくのやら。

松には今夜風もなく
土はジツトリ湿つてる。
遠く近くの笹の葉も
しづもりかへつてゐるばかり。

星の降るよな夜でした、
松の林のその中に
僕は蹲んでをりました。
        ―― 一九三七、二、二――

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
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