(前回からつづく)
中原中也が昭和11年(1936年)6月30日付けで
中垣竹之助宛てに出した書簡の中垣は
長谷川泰子が結婚した相手(夫)のことで
中也は泰子が結婚して後も何らかの交際を続けていたことを示しています。
中垣竹之助の体調を気づかい
友人の鍼灸師・山之口貘を中也は仲介したのでした。
◇
中也も山之口貘も
互いに相手のことを書き残したのは
鍼(はり)とか灸(きゅう)のことばかりで
本職の詩に関するものはありません(見つかっていません)。
詩人の話や詩論や詩壇の状況や……
そんなことを話すこともあったのでしょうが
そんなことが一つも残されていないというのも
かえって中也と貘の交流の生地みたいなものが現われていて面白いことです。
中也は結局は
貘さんの鍼灸を施される前に亡くなってしまったようです。
◇
暗雲たれこめる列島を
二人の詩人はどのように見ていたのでしょうか。
中也が「誘蛾燈詠歌」を書いたのは
すでに昭和9年(1934年)のことで
それは「山羊の歌」刊行直後の帰省中のことでした。
◇
誘蛾燈詠歌
ほのかにほのかに、ともっているのは
これは一つの誘蛾燈(ゆうがとう)、稲田の中に
秋の夜長のこの夜さ一と夜、ともっているのは
誘蛾燈、ひときわ明るみひときわくらく
銀河も流るるこの夜さ一と夜、稲田の此処(ここ)に
ともっているのは誘蛾燈、だあれも来ない
稲田の中に、ともっているのは誘蛾燈
たまたま此処に来合せた者が、見れば明るく
ひときわ明るく、これより明るいものとてもない
夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない
銀河も流るる此の夜さ一と夜、此処にともるは誘蛾燈
2
と、つまり死なのです、死だけが解決なのです
それなのに人は子供を作り、子供を育て
ここもと此処(娑婆(しゃば))だけを一心に相手とするのです
却々(なかなか)義理堅いものともいえるし刹那的(せつなてき)とも考えられます
暗い暗い曠野(こうや)の中に、その一と所に灯(ともし)をばともして
ほのぼのと人は暮しをするのです、前後(あとさき)の思念もなく
扨(さて)ほのぼのと暮すその暮しの中に、皮肉もあれば意地悪もあり
虚栄もあれば衒(てら)い気もあるというのですから大したものです
ほのぼのと、此処だけ明るい光の中に、親と子とそのいとなみと
義理と人情と心労と希望とあるというのだからおおけなきものです
もともとはといえば終局の所は、案じあぐんでも分らない所から
此処は此処だけで一心になろうとしたものだかそれとも、
子供は子供で現に可愛いいから可愛がる、従って
その子はまたその子の子を可愛がるというふうになるうちに
入籍だの誕生の祝いだのと義理堅い制度や約束が生じたのか
その何れであるかは容易に分らず多分は後者の方であろうにしても
如何(いか)にも私如き男にはほのかにほのかに、ここばかり明(あか)る此の娑婆というものは
なにや分らずただいじらしく、夜べに聞く青年団の
喇叭(らっぱ)練習の音の往還(おうかん)に流れ消えゆくを
銀河思い合せて聞いてあるだに感じ強うて精一杯で
その上義務だのと云われてははや驚くのほかにすべなく
身を挙げて考えてのようやくのことが、
ほのぼのとほのぼのとここもと此処ばかり明る灯(ともし)ともして
人は案外義理堅く生活するということしか分らない
そして私は青年団練習の喇叭を聞いて思いそぞろになりながら
而(しか)も義理と人情との世のしきたりに引摺(ひきず)られつつびっくりしている
3
あおによし奈良の都の……
それではもう、僕は青とともに心中しましょうわい
くれないだのイエローなどと、こちゃ知らんことだわい
流れ流れつ空をみて赤児の脣(くち)よりなお淡(あわ)く
空に浮かれて死んでゆこか、みなさんや
どうか助けて下されい、流れ流れる気持より
何も分らぬわたくしは、少しばかりは人様なみに
生きていたいが業(ごう)のはじまり、かにかくにちょっぴりと働いては
酒をのみ、何やらかなしく、これこのようにぬけぬけと
まだ生きておりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や
いやもう難有(ありがと)って、耳ゴーと鳴って口きけませんだじゃい
4
やまとやまと、やまとはくにのまほろば……
何云いなはるか、え?
あんまり責めんといとくれやす
責めはったかてどないなるもんやなし、な
責めんといとくれやす、何も諛(へつら)いますのやないけど
あてこないな気持になるかて、あんたかて
こないな気持にならはることかてありますやろ、そやないか?
そらモダンもええどっしやろ、しかし柳腰(やなぎごし)もええもんどすえ?
(ああ、そやないかァ)
(ああ、そやないかァ)
5 メルヘン
寒い寒い雪の曠野の中でありました
静御前(しずかごぜん)と金時(きんとき)は親子の仲でありました
すげ笠は女の首にはあまりに大きいものでありました
雪の中ではおむつもとりかえられず
吹雪は瓦斯(ガス)の光の色をしておりました
×
或るおぼろぬくい春の夜でありました
平(たいら)の忠度(ただのり)は桜の木の下に駒をとめました
かぶとは少しく重過ぎるのでありました
そばのいささ流れで頭の汗を洗いました、サテ
花や今宵の主(あるじ)ならまし
(一九三四・一二・一六)
◇
この詩は未発表の草稿ですから
山之口貘が中也の生存中に目にすることはなかったはずですが
もしもこれを読んでいたなら
大いに共感したに違いないのは
金子光晴がもしこの詩を読んでいたなら
大いに共感したであろうことと同じ関係です。
◇
では「在りし日の歌」の最終詩「蛙声」を
山之口貘や金子光晴や高村光太郎や与謝野晶子が
目にすることはなかったのでしょうか?
可能性は大いにあったのですが
いずれにしてもそれは中也没後のことでした。
◇
山之口貘は
中也の詩について一言も触れることなく
鍼灸の思い出を追悼文の中に書き残しただけになりました。
しかし、「詩」はそこにないかというと
そういうことではなく
さすがに詩人の書くものであり
追悼文であるという理由でもあるためにか
味わい深いものになっているのです。
やや長めですが全文を読みましょう。
◇
中原中也のこと
暑い頃であった。その端書には、友人の細君が少々神経を悪くしているから、お灸をしてくれないかとあった。お灸のことで、二度ばかり中原から端書をもらった。
最初、僕は彼の楷書の書体を見て、それがよく彼の詩に似ているようなかんじを受けたのである。
書体は非常にほそかった。ひっぱった棒の先や、はねたりしてある部分などは、髪の毛のようになおほそく尖っているようであった。その行から受ける全体としてのかんじは不揃いなものではなかった。しかし、一行づつ見ると、こっちへ来てもよさそうな行が、読み下ろすと場所違いのところにながれて来ているような行もあったりした。僕など、ペン先には、たれそうになるほどインクをべっとりさせて物を書く習慣だが、中原のは、書くと同時に乾いていたらしいかんじのするものであった。
僕は、是非一度は、中原自身にも鍼か灸をしてやりたいと思っていた。が、いまは最早思っていただけになってしまった。もっとも、鍼か灸かで、中原を生かして置くことが出来たかどうかは、自信の限りではないとは言え、ほんの少しばかりの心得を持っているのであるから、中原を素通りしてしまったようでどうお具合がわるい。彼と僕との間には、別に個人的な往復はなく、お互いにそれを試みた覚えもなかったが、彼は病躯の蔭から僕の方を見ている様子であったし、僕は、艾(もぐさ)や鍼のむこうに時々中原のことを思うのであった。
いつ頃だったか季節は忘れたが、「歴程」の会合の時だった。中原は肩のコリで固まっていると言っていたが、その時は生憎、鍼を持っていなかったのでそのままになった。二度目の、矢張り歴程の会合の時だった。その時も僕は鍼の道具を持ってはいなかったが、彼の肩ノコリを思い出したので、鍼を打とうかと言ってみt。彼は見なおすゆにそういう僕の顔を見るのであったが、やがて、あたりまえの口調で、痛くはないかと言うのだった。お灸でもいいがと言うと、矢張りあたりまえの口調を以て、熱くはないかと言うだけのことだった。
そのあたりまえの口調と顔付とは、あたりまえの人の場合とは異なったものを持っていた。あたりまえの人の多くは、鍼でも打とうかと言えば、鍼ときいただけでも痛さがひびいたかのような表情をしたり、お灸と言えば直ぐに熱いとひびいたりして、芸術家並の顔になるのがあたりまえである。
それが中原にはなかった。僕はその彼の、概念にこだわらず小ざっぱりした味をよいと思った。
会の帰りに、草野心平と中原中也と僕の三人 新宿裏の何とかというおでん屋で、夜更まで飲んだ。その一寸前に彼は或る友人との間にはげしく亢奮していたことがあったので一杯飲んでさっぱりしたかったのであろう。僕らは、それっきりついに会う機会を持たなかった。
僕は先日、次のような言葉のある中原の詩を読んだ。
或る日僕は死んだ。とあった。そうして女中が机の上のものを片づけたという風なことがあって、最後には、さっぱりした さっぱりした。とあった。
(「新編中原中也全集」別巻(下)より。新かなに変え、改行・行空きを加えました。編者。)
◇
楷書のこと、鍼灸のこと、おでん屋で飲んだこと、
そして最後には、中也が死んでしまう詩の不思議でなんだかわかるような内容のことが
淡々と綴られています。
淡々としていますが
楷書のこと、鍼灸のこと、おでん屋でのこと、中也の詩――。
その全部のことが通じ合っています。
◇
詩人との出会いは
つまり詩との出会いですが
その出会いを記した追悼文も詩になっています。
◇
今回はここまで。
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