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カテゴリー「111戦後詩の海へ/茨木のり子の案内で/山之口貘」の記事

2015年3月 2日 (月)

茨木のり子の「ですます調」その17・山之口貘が読んだ中也の詩「夏」

(前回からつづく)

 

僕は先日、次のような言葉のある中原の詩を読んだ。

或る日僕は死んだ。とあった。そうして女中が机の上のものを片づけたという風なことがあって、最後には、さっぱりした さっぱりした。とあった。

――と山之口貘が中也追悼文の終わりに記した詩は
「夏」と題した生前発表詩です。

 

 

 

僕は卓子(テーブル)の上に、
ペンとインキと原稿紙のほかなんにも載(の)せないで、
毎日々々、いつまでもジッとしていた。

 

いや、そのほかにマッチと煙草(たばこ)と、
吸取紙(すいとりがみ)くらいは載っかっていた。
いや、時とするとビールを持って来て、
飲んでいることもあった。

 

戸外(そと)では蝉がミンミン鳴いた。
風は岩にあたって、ひんやりしたのがよく吹込(ふきこ)んだ。
思いなく、日なく月なく時は過ぎ、

 

とある朝、僕は死んでいた。
卓子(テーブル)に載っかっていたわずかの品は、
やがて女中によって瞬(またた)く間(ま)に片附(かだづ)けられた。
――さっぱりとした。さっぱりとした。

(「新編中原中也全集」第1巻 詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

「夏」は

昭和12年(1937年)8月に創刊された

タブロイド判の月刊新聞「詩報」の第2号に初出し

「文学界」の昭和12年12月号(同年12月1日付け発行)に発表されました。

 

原稿を託された小林秀雄が

生前の「詩報」への発表を知らずに

「文学界」の「中原中也追悼号」に

「遺作集四篇」として掲載した作品の一つでしたから

こちらは没後発表ということです。

 

 

山之口貘は

このどちらかを読んだものでしょうか。

 

生原稿を読む機会があったと考えられなくもありませんが

発表詩を読んだ可能性が高いでしょう。

 

 

前にこの詩を読んだ時の感想は

今でも筆者(合地)の中で変わりません。

 

その一部を引いておきましょう。

 

 

「夏」の制作は

昭和12年8月下旬~9月4日と推定されていますから

10月22日の死亡日の

およそ2か月前に

歌われた詩ということになります。

 

詩人が

自分の死を

 

思いなく、日なく月なく時は過ぎ、

 

とある朝、僕は死んでいた。

 

――と歌うのをなぞっていると

予言というよりも

自分の死を

詩人は肉眼で見ていたのではないかと

疑いたくなるような

リアルなものが感じられます。

 

これは

 

ホラホラ、これが僕の骨だ、

(1934年4月28日制作の「骨」)

 

――と同じものですが

これを歌って約2か月して

実際に詩人が亡くなってしまうことを知れば

「これが僕の骨だ」にあった滑稽感はなくなり

詩人の死への畏怖が

否応もなく重々しく伝わってきます。

 

ひるがえって

「骨」を読み返せば

この「夏」の3年以上前に作られた「骨」から

滑稽感は消えうせ

リアル感がかぶさってくるのですから

不思議といえば不思議

……。

 

となれば

 

倦怠(けだい)のうちに死を夢む

(1930年1~2月制作推定の「汚れつちまつた悲しみに……」)

 

――の「死」も

いまここによみがえってきて

ゾクゾクしてくるものがあります。

(※若干、体裁を変えてあります。編者。)

 

 

詩の中で

さっぱりしたと歌っている詩人は

死にたかったのではなく

さっぱりとした気持ちになりたかったことを歌った詩ですが

死は突然、詩人を襲ったのでした。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

2015年3月 1日 (日)

茨木のり子の「ですます調」その16・山之口貘の中也追悼文

(前回からつづく)



中原中也が昭和11年(1936年)6月30日付けで

中垣竹之助宛てに出した書簡の中垣は

長谷川泰子が結婚した相手(夫)のことで

中也は泰子が結婚して後も何らかの交際を続けていたことを示しています。



中垣竹之助の体調を気づかい

友人の鍼灸師・山之口貘を中也は仲介したのでした。



中也も山之口貘も

互いに相手のことを書き残したのは

鍼(はり)とか灸(きゅう)のことばかりで

本職の詩に関するものはありません(見つかっていません)。



詩人の話や詩論や詩壇の状況や……

そんなことを話すこともあったのでしょうが

そんなことが一つも残されていないというのも

かえって中也と貘の交流の生地みたいなものが現われていて面白いことです。


中也は結局は

貘さんの鍼灸を施される前に亡くなってしまったようです。



暗雲たれこめる列島を

二人の詩人はどのように見ていたのでしょうか。


中也が「誘蛾燈詠歌」を書いたのは

すでに昭和9年(1934年)のことで

それは「山羊の歌」刊行直後の帰省中のことでした。 



 

誘蛾燈詠歌

 

  

ほのかにほのかに、ともっているのは

 

これは一つの誘蛾燈(ゆうがとう)、稲田の中に

 

秋の夜長のこの夜さ一と夜、ともっているのは

 

誘蛾燈、ひときわ明るみひときわくらく

 

銀河も流るるこの夜さ一と夜、稲田の此処(ここ)に

 

ともっているのは誘蛾燈、だあれも来ない

 

稲田の中に、ともっているのは誘蛾燈

 

たまたま此処に来合せた者が、見れば明るく

 

ひときわ明るく、これより明るいものとてもない

 

夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない

 

銀河も流るる此の夜さ一と夜、此処にともるは誘蛾燈

 

 

   2

 

 

 

と、つまり死なのです、死だけが解決なのです

 

それなのに人は子供を作り、子供を育て

 

ここもと此処(娑婆(しゃば))だけを一心に相手とするのです

 

却々(なかなか)義理堅いものともいえるし刹那的(せつなてき)とも考えられます

 

暗い暗い曠野(こうや)の中に、その一と所に灯(ともし)をばともして

 

ほのぼのと人は暮しをするのです、前後(あとさき)の思念もなく

 

扨(さて)ほのぼのと暮すその暮しの中に、皮肉もあれば意地悪もあり

 

虚栄もあれば衒(てら)い気もあるというのですから大したものです

 

ほのぼのと、此処だけ明るい光の中に、親と子とそのいとなみと

 

義理と人情と心労と希望とあるというのだからおおけなきものです

 

もともとはといえば終局の所は、案じあぐんでも分らない所から

 

此処は此処だけで一心になろうとしたものだかそれとも、

 

子供は子供で現に可愛いいから可愛がる、従って

 

その子はまたその子の子を可愛がるというふうになるうちに

 

入籍だの誕生の祝いだのと義理堅い制度や約束が生じたのか

 

その何れであるかは容易に分らず多分は後者の方であろうにしても

 

如何(いか)にも私如き男にはほのかにほのかに、ここばかり明(あか)る此の娑婆というものは

 

なにや分らずただいじらしく、夜べに聞く青年団の

 

喇叭(らっぱ)練習の音の往還(おうかん)に流れ消えゆくを

 

銀河思い合せて聞いてあるだに感じ強うて精一杯で

 

その上義務だのと云われてははや驚くのほかにすべなく

 

身を挙げて考えてのようやくのことが、

 

ほのぼのとほのぼのとここもと此処ばかり明る灯(ともし)ともして

 

人は案外義理堅く生活するということしか分らない

 

そして私は青年団練習の喇叭を聞いて思いそぞろになりながら

 

而(しか)も義理と人情との世のしきたりに引摺(ひきず)られつつびっくりしている

 

 

   3

 

      あおによし奈良の都の……

 

 

それではもう、僕は青とともに心中しましょうわい

 

くれないだのイエローなどと、こちゃ知らんことだわい

 

流れ流れつ空をみて赤児の脣(くち)よりなお淡(あわ)く

 

空に浮かれて死んでゆこか、みなさんや

 

どうか助けて下されい、流れ流れる気持より

 

何も分らぬわたくしは、少しばかりは人様なみに

 

生きていたいが業(ごう)のはじまり、かにかくにちょっぴりと働いては

 

酒をのみ、何やらかなしく、これこのようにぬけぬけと

 

まだ生きておりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や

 

いやもう難有(ありがと)って、耳ゴーと鳴って口きけませんだじゃい

 

 

   4

 

      やまとやまと、やまとはくにのまほろば……

 

 

何云いなはるか、え? あんまり責めんといとくれやす

 

責めはったかてどないなるもんやなし、な

 

責めんといとくれやす、何も諛(へつら)いますのやないけど

 

あてこないな気持になるかて、あんたかて

 

こないな気持にならはることかてありますやろ、そやないか?

 

そらモダンもええどっしやろ、しかし柳腰(やなぎごし)もええもんどすえ?

 

(ああ、そやないかァ)

 

(ああ、そやないかァ)

 

 

   5 メルヘン

 

 

寒い寒い雪の曠野の中でありました

 

静御前(しずかごぜん)と金時(きんとき)は親子の仲でありました

 

すげ笠は女の首にはあまりに大きいものでありました

 

雪の中ではおむつもとりかえられず

 

吹雪は瓦斯(ガス)の光の色をしておりました

 

 

×

 

 

或るおぼろぬくい春の夜でありました

 

平(たいら)の忠度(ただのり)は桜の木の下に駒をとめました

 

かぶとは少しく重過ぎるのでありました

 

そばのいささ流れで頭の汗を洗いました、サテ

 

花や今宵の主(あるじ)ならまし

 

 

           (一九三四・一二・一六)

 

 


この詩は未発表の草稿ですから

山之口貘が中也の生存中に目にすることはなかったはずですが

もしもこれを読んでいたなら

大いに共感したに違いないのは

金子光晴がもしこの詩を読んでいたなら

大いに共感したであろうことと同じ関係です。



では「在りし日の歌」の最終詩「蛙声」を

山之口貘や金子光晴や高村光太郎や与謝野晶子が

目にすることはなかったのでしょうか?


可能性は大いにあったのですが

いずれにしてもそれは中也没後のことでした。



山之口貘は

中也の詩について一言も触れることなく

鍼灸の思い出を追悼文の中に書き残しただけになりました。


しかし、「詩」はそこにないかというと

そういうことではなく

さすがに詩人の書くものであり

追悼文であるという理由でもあるためにか

味わい深いものになっているのです。

 

やや長めですが全文を読みましょう。



中原中也のこと


 暑い頃であった。その端書には、友人の細君が少々神経を悪くしているから、お灸をしてくれないかとあった。お灸のことで、二度ばかり中原から端書をもらった。

 

 最初、僕は彼の楷書の書体を見て、それがよく彼の詩に似ているようなかんじを受けたのである。

 

 書体は非常にほそかった。ひっぱった棒の先や、はねたりしてある部分などは、髪の毛のようになおほそく尖っているようであった。その行から受ける全体としてのかんじは不揃いなものではなかった。しかし、一行づつ見ると、こっちへ来てもよさそうな行が、読み下ろすと場所違いのところにながれて来ているような行もあったりした。僕など、ペン先には、たれそうになるほどインクをべっとりさせて物を書く習慣だが、中原のは、書くと同時に乾いていたらしいかんじのするものであった。

 

 僕は、是非一度は、中原自身にも鍼か灸をしてやりたいと思っていた。が、いまは最早思っていただけになってしまった。もっとも、鍼か灸かで、中原を生かして置くことが出来たかどうかは、自信の限りではないとは言え、ほんの少しばかりの心得を持っているのであるから、中原を素通りしてしまったようでどうお具合がわるい。彼と僕との間には、別に個人的な往復はなく、お互いにそれを試みた覚えもなかったが、彼は病躯の蔭から僕の方を見ている様子であったし、僕は、艾(もぐさ)や鍼のむこうに時々中原のことを思うのであった。

 

 いつ頃だったか季節は忘れたが、「歴程」の会合の時だった。中原は肩のコリで固まっていると言っていたが、その時は生憎、鍼を持っていなかったのでそのままになった。二度目の、矢張り歴程の会合の時だった。その時も僕は鍼の道具を持ってはいなかったが、彼の肩ノコリを思い出したので、鍼を打とうかと言ってみt。彼は見なおすゆにそういう僕の顔を見るのであったが、やがて、あたりまえの口調で、痛くはないかと言うのだった。お灸でもいいがと言うと、矢張りあたりまえの口調を以て、熱くはないかと言うだけのことだった。


そのあたりまえの口調と顔付とは、あたりまえの人の場合とは異なったものを持っていた。あたりまえの人の多くは、鍼でも打とうかと言えば、鍼ときいただけでも痛さがひびいたかのような表情をしたり、お灸と言えば直ぐに熱いとひびいたりして、芸術家並の顔になるのがあたりまえである。


それが中原にはなかった。僕はその彼の、概念にこだわらず小ざっぱりした味をよいと思った。

 

 会の帰りに、草野心平と中原中也と僕の三人 新宿裏の何とかというおでん屋で、夜更まで飲んだ。その一寸前に彼は或る友人との間にはげしく亢奮していたことがあったので一杯飲んでさっぱりしたかったのであろう。僕らは、それっきりついに会う機会を持たなかった。



 僕は先日、次のような言葉のある中原の詩を読んだ。

 



 或る日僕は死んだ。とあった。そうして女中が机の上のものを片づけたという風なことがあって、最後には、さっぱりした さっぱりした。とあった。


(「新編中原中也全集」別巻(下)より。新かなに変え、改行・行空きを加えました。編者。)



楷書のこと、鍼灸のこと、おでん屋で飲んだこと、

そして最後には、中也が死んでしまう詩の不思議でなんだかわかるような内容のことが

淡々と綴られています。


淡々としていますが

楷書のこと、鍼灸のこと、おでん屋でのこと、中也の詩――。


その全部のことが通じ合っています。



詩人との出会いは

つまり詩との出会いですが

その出会いを記した追悼文も詩になっています。

 


今回はここまで。

 

2015年2月27日 (金)

茨木のり子の「ですます調」その15・中也と山之口貘の交流

(前回からつづく)

 

与謝野晶子 1878~1942年

高村光太郎 1883~1956年

山之口貘 1903~1963年

金子光晴 1895~1975年

中原中也 1907~1937年。

 

「うたの心に生きた人々」で茨木のり子が取りあげた4人の詩人は

すべてが中原中也が生きていた時間と重なっていた

――ということにいま気づきました。



2





 




中也の倍以上の時間を生きた人々ばかりで

あらためて中也の短命が悲しいかぎりですが

この4人のうち二人(光太郎とばく)と中也は面識があり

ほかの二人(晶子と光晴)を文壇・詩壇で活躍するのを知っていたはずですから

もう少し生きている時間があったならば

この二人とも面識を持つことがあったかもしれないのです。

 

仮定に意味はありませんが

中也がこの4人の詩人とはかなり近いところ(時・場所)に生きていたことは

記憶にとどめてよいことでしょう。

 

 

与謝野晶子は

ライフワークというべき「源氏物語」の現代語訳を完成し

1938年(昭和13年)に刊行を開始、翌1939年に全6巻本を完結させました。

 

高村光太郎は、昭和13年(1938年)に智恵子と死別しました。

 

山之口貘が第1詩集「思弁の苑」を出すのは昭和13年でした。

 

金子光晴は昭和12年8月に詩集「鮫」を発行しています。

 

 

中也が急逝したのが1937年10月22日ですから

「鮫」の発行を知っていた可能性はありますが

読んだとか詩集を手にしたとかいう記録はなく

確かなことはわかりません。

 

「山羊の歌」を発行した1934年(昭和9年)前後から

文壇・詩壇の情報を中也はかなり詳しく知る状況にありましたが。

 

 

山之口貘との交流も

詩誌「歴程」に同人として参加しているよしみから生じたようです。

 

草野心平、高村光太郎、貘の3人が写っている写真が残っていますから

そこに中也がいても不思議ではなかったほどなのですが、

中也が書いた手紙の中には山之口貘が登場するものが残りました。

 

昭和11年(1936年)6月30日付けで中垣竹之助に宛てた手紙です。

 

全文を読みましょう。

 

 

 先夜は大層失礼致しました。その節は結構な物頂戴致し難有く厚く御礼申上ます。扨、昨日より二度ばかり例のおきゅうの山之口に電話しましたがそのたびに出掛けていますので、只今ハガキにて御意向伝えておきましたから何卒お電話にてお話し下さいまし 当人は両国ビル内に住込んでいる由でございますから却て夜の九時頃が最も可能性が多いことと存じます おきゅうにても何にても早く御快癒の程祈ります

暑さに向います折柄何卒皆々様御健康の程祈ります。

 高橋に暇の時があったらたびたび遊びて(ママ)来られる様御伝え下さいまし。  怱々万々

 (山之口貘――本所区東両国両国ビル本所七、〇五七)

 

(※「新編中原中也全集」第5巻 日記・書簡篇より。新かなに変えてあります。編者。)

 

 

山之口貘はこの頃

鍼灸(しんきゅう)を生業(の一つ)としていたようです。

 

そのことは

貘が書いた中也追悼の一文でも窺い知ることができます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2015年2月17日 (火)

茨木のり子の「ですます調」その10・貘さんと金子光晴の交流

(前回からつづく)

 

山之口貘は昭和12年に見合い結婚しますが

仲人になったのが詩人の金子光晴と妻の森三千代でした。

 

 

南千住の泡盛屋「国吉真善(くによししんぜん)」で光晴と初めて会った昭和8年以来、

貘さんは終生、光晴を慕うようにして交流するのですが

この初対面の頃を茨木のり子は次のように記しています。

 

 

金子光晴はあとの章でくわしく書きますが、かれもまた、放浪詩人というにふさわしく、

ヨーロッパ・東南アジアを5年近くも無一文で歩きまわってきたばかりでした。

 

光晴は長い放浪の旅で、国籍だの学歴だの、そんなものがいかにくだらないかを骨身にしみてさとっていました。

 

かれはただ個人としてのはだかの人間しか認めようとしなかった人です。

 

光晴は、はじめて会った貘さんのなかに、よき人間、すぐれた詩人、

いわば「人間のなかの宝石」をひとめでまっすぐに見ぬいたのでした。

 

 

南千住にあった沖縄の酒、泡盛を飲ませる店。

そこで二人の詩人が「太陽光線のように」心を通わせたなれそめは

その場限りのものではありませんでした。

 

やがて貘さんの結婚の仲人を光晴が引き受けるほどの関係になり

昭和38年(1963年)にさんが59歳で亡くなるまで交友は続きます。

 

 

貘さんが金子と交流をはじめたころの様子を

茨木の記述でもう少し読んでおきましょう。

 

 

「遊びにこいよ」といわれて、初対面の日から1週間ばかりたってから、さんは、金子家をおとずれました。

 

金子家といっても、新宿の「竹田屋旅館」の間借り8じょう間で、世帯道具はなに一つない

ガランとした殺風景なへやでした。

 

光晴はさんを歓待したく思いましたが、なにぶん光晴も無一文に近いありさまだったので、

モーニングのしまのズボンを質屋に入れ、5円借りて、神楽坂の「白十字」という店でいっしょにご飯を食べました。

 

1円あれば、かなりの大ごちそうが食べられた時代でした。

 

 

それから、

両国の喫茶店での見合い

無一物に近い所帯を新宿に構えた新婚生活

結婚式も結婚旅行もない結婚披露宴

……と光晴夫妻のサポートが続き

茨木の筆致は面白おかしそうに展開しますが

それをここですべて案内できるものではありません。

 

 

さんが第1詩集「思弁の花」を出すのは

ようやく34歳になってからのことでした。

 

年に4、5篇くらいの詩しか作らなかったというのですから

詩を書きはじめて14、5年の詩を集めても

59篇にしかならないという詩集でした。

 

それだけに

さんの感慨も一入(ひとしお)で

後年、その感慨を詩に歌っています。

 

 

処女詩集

 

『思弁の苑』というのが

ぼくのはじめての詩集なのだ

その『思弁の苑』を出したとき

女房の前もかまわずに

こえはりあげて

ぼくは泣いたのだ

あれからすでに十五、六年も経ったろうか

このごろになってはまたそろそろ

詩集を出したくなったと

女房に話しかけてみたところ

あのときのことをおぼえていやがって

詩集を出したら

また泣きなと来たのだ


(ちくま文庫「うたの心に生きた人々」より。)

 

 

1964年に出した第2詩集「鮪に鰯」に

この詩は収録されました。

 

 

気の利いた詩語が並ぶわけでもない語り口調なのに

詩があふれるばかりの詩です。

 

詩ってこういうのを詩というんだ、と

ふと考えさせてくれて

うれしくなってくるような詩です。

 


途中ですが

今回はここまで。

 

2015年2月12日 (木)

茨木のり子の「ですます調」その9・胸のすく山之口貘の絶品

(前回からつづく)

 

茨木のり子という詩人は

戦後に出発したのですから

戦前から活動してきた詩人とは異なり

「純然たる戦後詩人」(鮎川信夫)ということになるようです。

 

これは言い換えれば

茨木のり子の詩を読むことは

戦後詩を読む出発点にもなるということですし

戦後70年の足跡を辿るということでもあります。

 

いっぽう戦前から活動を継続している戦後詩人もあるわけですから

出発点を戦前に求めてもよいのですが

戦後詩を読む糸口として

茨木のり子はわかりやすい目印になるということです。

 

茨木のり子のわかりやすさは

こんなところにもあります。

 

 

ここで1963年に発行(初版)された

「現代詩人全集 第10巻 戦後Ⅱ」(角川文庫)に収録された詩人を列挙してみましょう。

 

秋谷豊

藤富保男

長谷川龍生

堀川正美

茨木のり子

石川逸子

城侑

金井直

川崎洋

木島始

清岡卓行

黒田喜夫

牟礼慶子

中江俊夫

中村稔

澤村光博

関根弘

嶋岡晨

新藤千恵

生野幸吉

菅原克己

鈴木喜緑

高野喜久雄

滝口雅子

谷川雁

谷川俊太郎

寺山修司

富岡多恵子

山本太郎

安水稔和

吉野弘

吉岡実

 

以上の32人です。

 

 

「うたの心に生きた人々」で茨木のり子はいま

山之口の活動を追う戦前にいます。

 

その第3章「さんの詩のつくりかた」では

一つの詩が生まれるまでにどれほどの時間が費やされるか

その鬼のような推敲ぶりを案内します。

 

山之口貘が

短い詩を一つ作り出すために

200枚、300枚の原稿用紙を使うことはしょっちゅうで

一番ぴったりしたことばを求めて

原稿用紙を引き破り引きちぎり

出来上がったときには書き損じの反古(ほご)の中に埋まっていたというエピソードは

誇張とはいえないものがあったようです。



茨木のり子はそこのところを、

さんの詩は頭でこしらえたものではなく、自分の血で書いたものでした。

思想でも論理でも、自分の血からでたものしか書こうとしなかった人です。

――と捉えます。

 

次の短い詩が

そのような苦闘の後に生まれたものでることを伝える「ですます調」は冴えざえとして

山之口の詩心に迫ります。

 

 

博学と無学

 

あれを読んだか

これを読んだかと

さんざん無学にされてしまった揚句

ぼくはその人にいった

しかしヴァレリーさんでも

ぼくのなんぞ

読んでない筈だ

 

 

詩の鑑賞が

その詩の背景をなす多量の知識の多寡(たか)で決まるような

よくありがちな風景への

山之口、渾身の一撃!

 

これに加えた茨木のり子のコメントは、

博学をもって鳴ったフランスの詩人、ポウル・ヴァレリイでも、山之口の詩は読んではいまい。

だったらかれも無学といえるんじゃないか。

まことにさっそうとした、胸のすくような、絶品の詩です

――とピタリと決めて胸を刺します。


珍しくここでは「ですます調」を逸脱します。

 


途中ですが

今回はここまで。

 

2015年2月 7日 (土)

茨木のり子の「ですます調」その7・貘さんが乗り移る時!

(前回からつづく)

 

文章には流れというものがあって

たとえばそれは川の流れのようであって

時にゆっくりとゆったりと

滾々(こんこん)と滔々(とうとう)と

時に激しく波立ち

猛烈なスピードで

曲がったりまっすぐになったりひとつも休むことなく

時に清く

時に淀(よど)んで

時に気高く優しく

時に獰猛(どうもう)に怒り狂い

……。

 

長い文章の流れの

その一部が喚起(かんき)する

その時々の喜怒哀楽(感動)は

流れのはじまりからずっと辿(たど)ってきたからこそ得られるものですから

その一部を抜き出したところで

その感動を他人に伝えられるものではなく

同じような感動を伝えるというのは困難です。

 

 

茨木のり子の「ですます調」は

流れに乗って

やってきました。

 

さん一家は

空襲を避け

妻の故郷・茨城県のとある村に。

 

 

空襲もはげしくなってきて、あかんぼうを育てながらの東京生活は危険きわまりないものになってきたので、

昭和19年の暮れ、妻の実家のあった茨城県結城郡飯沼村の安田家へ疎開しました。

 

おばあさんは背中にくくりつけられたあかんぼうを見て、

「どれどれ、このやろ、きたのかこのやろ。」

といってよろこびました。

 

この地方ではなんでも「やろう」を下につけて呼び、ネズミもネコも、「ネズミやろう」「ネコやろう」となるのでした。

 

さん一家は、安田疎開と呼びすてにされましたが、そうしたなかでも泉はすくすくと大きくなり、

この地方のことばを習いおぼえて、さんに向かって、

「コノヤロ、バカヤロ。」

などという、はつらつとした女の子に育っていました。


(「うたの心に生きた人々」より。改行・行空きを加えてあります。)

 

 

ドレドレコノヤロキタノカコノヤロといって

あかんぼうは祝福されるのです。

 

コノヤロバカヤロといって

さんは

成長したあかんぼうから慕われるのです。

 

(笑)

 

 

茨木のり子の口ぶりは

さんの口ぶりになっています!

 

 

茨木のり子が「ですます調」で書いたのは

「うたの心に生きた人々」(1967年)や

「詩のこころを読む」(1979年)であり

比較的、初期の散文著作です。

 

ところが

後期の散文集である「一本の茎の上に」(1994年)の中にも

「山本安英の死」が1975年、

「おいてけぼり」が1976年、

「花一輪といえども」が1979年と、

70年代に書いたものがありますから

年代によって「ですます調」を使ったのではなく

内容によって使い分けたか

もしくは本にまとめる時点で

文体を整理し統一したということも考えられます。

 

初期散文を意識的に「ですます調」を使って書いたというより

結果的に初期散文に「ですます調」が多くなったということのようですが

後期の散文著作に「ですます調」があるのかないのか。

 

 

すこし調べてみましたら

やはり後期の散文に「ですます調」は見つけることはできませんでした。

 

 

「うたの心に生きた人々」と「詩のこころを読む」は

どちらも現代詩(人)への入門書という性格から

「ですます調」を使っているものと推察できますが

そうであっても(なくても)

茨木のり子の書くものが

わかりやすく、はきはきしていて

伝達することを第一にしていることは

「だ・である体」で書かれた「一本の茎の上で」を読んでいても

変わりがないようです。

 

 

そして――。

 

これらのことは

茨木のり子の詩についても

言えそうです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

 

2015年2月 6日 (金)

茨木のり子の「ですます調」その6・山之口貘のユーモア

(前回からつづく)

 

「うたの心に生きた人々」で高村光太郎の次には

ボヘミアン詩人・山之口が取り上げられます。

 

その章を読み進めていて

あるところに差し掛かって

ドーッと笑いが爆発してしまう記述がいくつもあり

これはもちろん素材である山之口獏という詩人のもつユーモア(人間味)のせいであるけれど

これを書いている茨木のり子という詩人のユーモアでもあるな、

と感心するところを紹介しましょう。

 

ここで「ですます調」であることが

この爆笑を誘い出すものとなんらかの関係がありそうでいて

そうと断言できるものでもなく

でも「だ・である体」では伝わらない秘密があるように思えてなりません。

 

 

山之口貘は

どのような詩を書いたのでしょうか。

 

茨木が紹介するのは

「自己紹介」という詩です。

 

 

自己紹介


ここに寄り集まった諸氏(しょし)よ

先ほどから諸氏の位置に就いて考えているうちに

考えている僕の姿に僕は気がついたのであります。

僕ですか?

これはまことに自惚(うぬぼ)れるようですが

びんぼうなのであります

 

 

第1詩集「思弁の苑」は

1938年、貘さん34歳のときに出版され

その中にあるのがこの「自己紹介」です。

 

ついでに「処女詩集」という題の作品も読んでおきましょう。

 

 

処女詩集

 

『思弁の苑』というのが

ぼくのはじめての詩集なのだ

その『思弁の苑』を出したとき

女房の前もかまわずに

こえはりあげて

ぼくは泣いたのだ

あれからすでに十五、六年も経っただろうか

このごろになってはまたそろそろ

詩集を出したくなったと

女房に話しかけてみたところ

あのときのことをおぼえていやがって

詩集を出したら

また泣きなと来たのだ

 

(「うたの心に生きた人々」より。)

 

 

なんの説明もいらない詩は

ただ味わわれることを待っているだけです。

 

 

山之口(1903~1963)は

沖縄出身の「貧乏詩人」として広く知られていますが

この詩は自らそれを宣言しアピールした詩ということになります。

 

貧乏であることを

人からあれやこれやと聞かれるまえに

どうせ聞かれることになるものなら

こちらから宣言しちゃったほうが後々スムーズにゆくだろう

――という幾分か諧謔(かいぎゃく)も混ざるような内容ですが。

 

 

茨木が追うのは

貧乏であることからくる苦労とか惨状とかであるよりも

「貘さん」として親しまれた詩人の精神性であることに違いはなく

それはつまりは

詩人・山之口獏の詩そのものにほかなりません。

 

詩人の生涯を追いかけながら

詩人の作る詩の生まれる根源(源泉)を探って

詩とは何かみたいなことも考えていきます。

 

 

1 ルンペン詩人

2 求婚の広告

3 貘さんの詩のつくりかた

4 ミミコの詩

5 沖縄へ帰る

6 精神の貴族

――という構成の内容を紹介できるものではありませんが

 

この詩「処女詩集」に登場する女房(貘さんの妻の静江さん)の実家に疎開したときのこと。

 

このときのことを記述する

茨木のり子の「ですます調」は

さんのユーモア(人間味)の呼吸が乗り移ったかのような口ぶりになり

さんの世界の中に没入したのか

さん自身が案内しているかのような面白みがあります。

 

 

昭和19年、生まれたばかりの長女に「泉」と命名

いつしか「ミミコ」と呼ばれるようになる赤ん坊を

はじめて見る貘さんの妻の家族。

 

その歓迎ぶり。

 

それを記述する茨木のり子の筆致――。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 


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