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カテゴリー「中原中也/「山羊の歌」の世界」の記事

2014年1月21日 (火)

きらきら「初期詩篇」の世界/「宿酔」その4

(前回からつづく)

「朝の歌」の喪失感や倦怠感と同じようなものが
「宿酔」にも流れていることは確かですが
同じような場面を歌って
孤独感・疎外感がくっきりしたのは「宿酔」のほうで
「椅子を失くした」と歌った「港市の秋」に近くなっています。

「朝の歌」は「文語ソネット」
「宿酔」は「口語2部形式」というのも決定的な違いです。

「宿酔」も定型への意識は崩していないものの
「照っていて」としないで「照ってて」とし
(「バスケットボールをする」としないで「バスケットボールする」とし)
行儀正しい言葉を排して会話体を選びましたし
「風がある」とぶっきらぼうなほどシンプルに仕立てたところなどに
「朝の歌」から離れようとする意志が感じられます。

宿 酔

朝、鈍(にぶ)い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

私は目をつむる、
  かなしい酔いだ。
もう不用になったストーヴが
  白っぽく銹(さ)びている。

朝、鈍い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「宿酔」というタイトルも
「しゅくすい」と音読みにするよりは
「ふつかよい」と日常使われている「音(おん)」で読ませたいはずですし
「ふつかよい」の方が
若々しく強く俗っぽいし
……

「初期詩篇」が
「春の思い出」
「秋の夜空」
「宿酔」の3作品で閉じられた意図も浮かび上がってきます。

「宿酔」は
「山羊の歌」の全ての詩の中で
「羊の歌」と「いのちの声」とともに
草稿と初出誌がない作品です。
(「新全集」詩Ⅰ・解題篇)

3作品は、この詩集が編まれる中で作られたことを示すものです。

「初期詩篇」の掉尾(とうび)を飾る作品として
「宿酔」が制作され配置されたということは
「羊の歌」「いのちの声」が
「山羊の歌」の最終詩として制作され配置されたことと
パラレルな位置にある(意味がある)ということになります。

詩人は後年(1936年、昭和11年)、「我が詩観」を書き
創作履歴「詩的履歴書」を添えています。

中に「朝の歌」について書いた一節があり、

大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最
初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった十四行書くために、こんなに手数
がかかるのではとガッカリす。

――と記しているのはよく知られたことです。

「山羊の歌」の編集時点から4年を経過しているときの記述ですが
この記述に「朝の歌」への評価への違和感が表明されていると感じられてなりません。

今回はここまで。

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2014年1月20日 (月)

きらきら「初期詩篇」の世界/「宿酔」その3

(前回からつづく)

千の天使が/バスケットボールする。
――というのは、「喩」ですから
空で実際に天使たちがバスケットボールしているのが見えたわけではありません。

宿 酔

朝、鈍(にぶ)い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

私は目をつむる、
  かなしい酔いだ。
もう不用になったストーヴが
  白っぽく銹(さ)びている。

朝、鈍い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

二日酔いの頭が「めまい」を覚えて
俗に、目がチカチカするといい
医学的には、
眼精疲労とか偏頭痛とか閃輝暗点(せんきあんてん)とかという状態になって
それをバスケットボールが弾んでいる情景に喩えたのでしょう。

それをジョーク気味に使ったものに過ぎず
詩的表現などと詩人は考えてもいなかったはずです。

それよりも
朝、鈍(にぶ)い日が照ってて/風がある。
――という2行の
何の変哲もないような言葉使い!

照ってて
――という舌足らずの意図的な使用!

風がある
――だけで、詩になってしまう!

この平凡な詩行が
「天使たちのバスケットボール」を際立たせています。

第2連の
目をつむると見えるかのようなストーブも
このマジックのような措辞(そじ)が生み出すものです。

部屋の片隅に
もう不用になったストーブが/白っぽく銹びている。
――のを、詩人は瞑目(めいもく)して見ます。

そこに厳然としてあるはずのストーブを
目をつむって見たかのような作りです。

かつて「朝の歌」で歌った場面と「宿酔」の場面は
似ているようで似ていません。

それは
「はなだ色の空」と「鈍い日が照ってる空」の違いばかりではないようです。

今回はここまで。

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2014年1月19日 (日)

きらきら「初期詩篇」の世界/「宿酔」その2

(前回からつづく)

「サーカス」の空中ブランコから
「秋の夜空」の夫人たちの宴、影祭りへ……。
こちらが夜空に浮かびあがるパノラマならば

「朝の歌」の「ひろごりてたいらかの空」は
きえてゆくうつくしき夢。

「宿酔」の朝は
鈍い日に吹き渡る風の中に
千の天使のバスケットボールを詩人に幻視させます。

宿 酔

朝、鈍(にぶ)い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

私は目をつむる、
  かなしい酔いだ。
もう不用になったストーヴが
  白っぽく銹(さ)びている。

朝、鈍い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「宿酔」に「初期詩篇」の掉尾(とうび)を飾らせたわけが
すこし見えてきたような気がします。

ここで、初期詩篇22篇を
歌っている内容の「時間帯」だけで分類してみましょう。
詩集の順序に沿って見てみます。

夕方、落日の歌なら
「春の日の夕暮」や「黄昏」「凄じき黄昏」「夕照」「春の思い出」

夜の歌なら
「月」「サーカス」「春の夜」「都会の夏の夜」「深夜の思い」「冬の雨の夜」「ためいき」「秋の夜空」

昼の歌なら
「帰郷」「逝く夏の歌」「夏の日の歌」

朝の歌なら
「朝の歌」「臨終」「秋の一日」「悲しき朝」「港市の秋」「宿酔」

――となるでしょうか。

この上に春夏秋冬が歌い分けられているのです。

それぞれの詩が扱う時間帯にはもちろん「幅」があります。
「帰郷」は朝か昼か夕方か判定しがたい作品です。
「ためいき」は夜から夜明け、翌日の昼までを歌います。

朝であれ昼であれ夕方であれ夜であれ
中也の詩には「空」が頻繁に現われます。

「宿酔」は
メッセージを強く打ち出した詩ではありません。

A―B―Aという「2部形式」ですから
第1連、第3連はまったく同一の詩行の繰り返し(ルフラン)で
ここには
鈍い日の照る「遅い朝」を迎えた詩人が
風の中に天使がバスケットボールをしているのを見るという
あり得ないイメージが「描写」されるだけです。

ここにメッセージはありません。

第2連は不思議な内容です。
目をつむると
むしろ「現実」が見えてきます。

ここは目をつむらなくとも見えるはずの景色なのに
目をつむるのです。

不用になったストーヴが/白っぽく銹(さ)びている。
――という景色は
詩人のいる部屋に見えるはずにもかかわらず。

ここにも
たくまれた「転倒」の技があり
メッセージはここに潜んでいます。

今回はここまで。

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きらきら「初期詩篇」の世界/「宿酔」

(前回からつづく)

「初期詩篇」は
「ためいき」の後に
「春の思い出」「秋の夜空」「宿酔」の3作を配置して閉じます。

これら3作は
まるで「ためいき」の反発から置かれたような作品です。

「秋の夜空」は
近景から遠景への視点移動であるために
事態をしばし把握しかねたその後に
星々(や月)の輝き競う様子が擬人化され
夫人たちの宴として幻想された世界であることを了解しました。

そのうえ遠近が倒置されていたようで
「理屈」でとらえようとすると分かりにくかったのですが
冒頭の1行のセリフに誘(いざな)われ
いきなり宴の中に立たされるので
すんなりと詩世界へなじむことができました。

これはマジックにあったようなことでした。

「宿酔」も
「秋の夜空」のマジックがきいているかのような詩です。

宿 酔

朝、鈍(にぶ)い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

私は目をつむる、
  かなしい酔いだ。
もう不用になったストーヴが
  白っぽく銹(さ)びている。

朝、鈍い日が照ってて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

4行×3連の構成。
第1連と第3連は全く同一の詩句、ルフランですから
全体はきわめてシンプルな作りです。

目前に見ている現実の風景(空)が
「喩(ゆ)」によって
一瞬にして天使のバスケットボールに変じるのは
「秋の夜空」が夫人たちの宴に変じるのと似ていますが
こちらの作りは単純です。

「喩」が見事に決まったために
こちらも詩の中に入るのに
抵抗感はまったくありません。

この詩もタイトルが
利いているのです。

「ふつかよい」か「しゅくすい」か――。

遅い朝を起き出した詩人が見ているのは
鈍い日。

快晴でもなく
曇天でもなく
ぼんやりと明るい空で
風だけが元気に活動しています。

昨夜の酒が残っていて
景色を観賞したり
もの思いにふけったりする以前の状態をとらえました。

風が
あたかも天使のバスケットボールに見えたのです。

今回はここまで。

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きらきら「初期詩篇」の世界/「ためいき」その5

(前回からつづく)

「空が曇ったら」という第4連への推移は
神様が気層の底の魚を獲っている(第3連)という喩(ゆ)を継ぐもので
魚はイナゴに変化します。

イナゴの瞳が砂土から覗くというのは
依然、荷車の音として聞えているためいきに威圧されて
イナゴが逃避する姿を表わすかのようです。

このような時にあって
遠くの町は石灰みたいに白く煙って見えます。

町(石灰)はみるみるうちに
ピョートル大帝の目玉の形になり
雲の中で光り輝いています。

イナゴの瞳とはまるで異なる強い目玉が
そこに屹立(きつりつ)しているのです。

ためいき
       河上徹太郎に 
 
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しょうき)の中で瞬(まばた)きをするであろう。
その瞬きは怨めしそうにながれながら、パチンと音をたてるだろう。
木々が若い学者仲間の、頸(くび)すじのようであるだろう。

夜が明けたら地平線に、窓が開くだろう。
荷車(にぐるま)を挽(ひ)いた百姓が、町の方へ行くだろう。
ためいきはなお深くして、
丘に響きあたる荷車の音のようであるだろう。

野原に突出(つきで)た山(やま)ノ端(は)の松が、私を看守(みまも)っているだろう。
それはあっさりしてても笑わない、叔父(おじ)さんのようであるだろう。
神様が気層(きそう)の底の、魚を捕っているようだ。

空が曇ったら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土(すなつち)の中に覗(のぞ)くだろう。
遠くに町が、石灰(せっかい)みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光っている。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

ためいきは
いつしかピョートル大帝の目玉となりました。

町へ町へ。

「ためいき」は
連続する時間を歌っています。

一途に前進する詩世界が開かれています。

この詩「ためいき」について
贈られた河上徹太郎は
チェホフあたりの風物を日本の風景に翻訳して得たものに違いない
――と自著「中原中也」の中で述べていますが
具体的な出所は見つかっていません。
(「新全集・詩Ⅰ 解題篇」)

今回はここまで。

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2014年1月18日 (土)

きらきら「初期詩篇」の世界/「ためいき」その4

(前回からつづく)

「ためいき」を時間の推移ということだけで読むと

夜が明けたら
空が曇ったら
――という三つの時間が設定されています。

詩(人)の視点(の移動)ということなら
夜の沼
(地平線が開ける)窓
町(百姓の荷車が向かう)
(山の端に突き出た松が「私」を見守る)野原(気層の底のよう)
砂土
町(遠くの)
雲の中
――という構図になり、
詩(人)の視点は定位置にあるようです。

視線が移動したとしても
定位置を基点とした
遠近法の世界が維持されています。

夜の沼へ行ったためいきは瞬きして
パチンと音を立てるのですが
夜が明けてさらに深まり
今度は荷車の音になって
丘に響きあたるのです。

夜の沼で瞬きしてパチンとはぜたためいきは
百姓の挽く荷車の音になるという連続!

ためいき
       河上徹太郎に 
 
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しょうき)の中で瞬(まばた)きをするであろう。
その瞬きは怨めしそうにながれながら、パチンと音をたてるだろう。
木々が若い学者仲間の、頸(くび)すじのようであるだろう。

夜が明けたら地平線に、窓が開くだろう。
荷車(にぐるま)を挽(ひ)いた百姓が、町の方へ行くだろう。
ためいきはなお深くして、
丘に響きあたる荷車の音のようであるだろう。

野原に突出(つきで)た山(やま)ノ端(は)の松が、私を看守(みまも)っているだろう。
それはあっさりしてても笑わない、叔父(おじ)さんのようであるだろう。
神様が気層(きそう)の底の、魚を捕っているようだ。

空が曇ったら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土(すなつち)の中に覗(のぞ)くだろう。
遠くに町が、石灰(せっかい)みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光っている。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

ためいきの深さが音として説明されますが
荷車をひくのは百姓ですから
百姓がためいきを吐いている関係になります。

荷車の音となると
ガタゴトとかギシギシとか……
さまざまでしょうが
丘に響くというのですから
とてつもなく巨大な反響音なのでしょう。

そのような音を聞いている百姓ですから
非常な苦難の道を歩んでいるということなのでしょうか
第3連ではいつしか「私」に変じて現われます。

巨大な音と化したためいきに圧し潰されないように
百姓である「私」は、
「野原に突出た山ノ端の松」に見守られることになります。

それ(松)は、
「あっさりしてても笑わない、叔父さん」のようです。

こうして、第3連の第1行と2行を受けるように
神様が気層の底の、魚を捕っているようだ
――と謎のような詩行が置かれるのですが……。

今回はここまで。

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2014年1月17日 (金)

きらきら「初期詩篇」の世界/「ためいき」その3

(前回からつづく)

おそらく「木々」は「学者仲間」の「頸すじ」の直喩でしょう。

それ以外はほとんどが暗喩であるのに
ここに詩の入り口を開けておかないことには
詩を読めなくなってしまいます。

では、
ためいきが夜の沼に行く
ためいきが瞬きする(瘴気の中で)
その瞬きがパチンと音をたてる(怨めしげにながれながら)
――にはどのような含意が込められているのでしょうか。

それは、詩の全体から
割り出していくほかにありません。

「ためいき」の一語さえ
「あーあ」という嘆息なのか
単なる「息」なのか
吐息(呼吸)なのか
わかりません。

それが「詩」のメタファーであることも
いまだ断定できないことです。

詩は繰り返し読まれなければ
理解することも
味わうこともできません。

ためいき
       河上徹太郎に 
 
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しょうき)の中で瞬(まばた)きをするであろう。
その瞬きは怨めしそうにながれながら、パチンと音をたてるだろう。
木々が若い学者仲間の、頸(くび)すじのようであるだろう。

夜が明けたら地平線に、窓が開くだろう。
荷車(にぐるま)を挽(ひ)いた百姓が、町の方へ行くだろう。
ためいきはなお深くして、
丘に響きあたる荷車の音のようであるだろう。

野原に突出(つきで)た山(やま)ノ端(は)の松が、私を看守(みまも)っているだろう。
それはあっさりしてても笑わない、叔父(おじ)さんのようであるだろう。
神様が気層(きそう)の底の、魚を捕っているようだ。

空が曇ったら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土(すなつち)の中に覗(のぞ)くだろう。
遠くに町が、石灰(せっかい)みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光っている。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

ためいきが一つ出た
そのためいきが夜の沼へ行った
――は、白い息が煙草の煙か何かのように目に見えて
それが近くの沼のほうに行った、という身体現象を歌っているものではないことが
まずは見えてきますね。

木々が若い学者仲間の首すじのようであるだろう
――という行を合わせると
第1連はどうやら、
日中取り交わした談論への
反論であるとか言い残した思いとかを
その時の情景を含みながら
述べているのかなあと
ほんのり見えてくるものがありますが……。

この詩は最終行とその前の1行を除いて
全行が「だろう」で終わっています。

よく読めば
最終行以外は
「ようであるだろう」や
「そうに」「ようだ」「みたいだ」と
断定を避けた表現ばかりです。

そのことによって
「私はこう思う」という詩人の思いを
逆に訴えているともいえますが
推量の(断言しない)詩行が引き出すのは
最終行の断言です。

ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光っている。
――は、この詩の結(論)といえるでしょう。

今回はここまで。

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2014年1月16日 (木)

きらきら「初期詩篇」の世界/「ためいき」その2

(前回からつづく)

昭和2年春、中也は小林秀雄の紹介で
河上徹太郎を知ります。

河上との交友が濃密に行われる中で
「スルヤ」の諸井三郎を知り
「スルヤ」メンバーの内海誓一郎を知り
今日出海を知り
関口隆克を知り
大岡昇平を知り
安原喜弘を知り
……と交友範囲を広げていきます。

河上を知った直後には
マグデブルグの半球を歌った「地極の天使」を送り
あわせて詩論を添えました。
ふだん盛んに戦わせていた表現論を
整理し河上に提示したものですが
これらの交流はやがて「白痴群」創刊(昭和4年4月)へと繋がっていきました。

「ためいき」ははじめ「白痴群」第2号に発表され
河上徹太郎への献呈詩とされたのは
昭和7年の「山羊の歌」編集時で
河上との距離は広がっていましたから
いわばメモリアルの意味もあったのでしょうか。

詩人が誕生し
詩集が生み落とされるために
河上徹太郎は出会わなければならなかった運命の一つでした。

ためいき
       河上徹太郎に 
 
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しょうき)の中で瞬(まばた)きをするであろう。
その瞬きは怨めしそうにながれながら、パチンと音をたてるだろう。
木々が若い学者仲間の、頸(くび)すじのようであるだろう。

夜が明けたら地平線に、窓が開くだろう。
荷車(にぐるま)を挽(ひ)いた百姓が、町の方へ行くだろう。
ためいきはなお深くして、
丘に響きあたる荷車の音のようであるだろう。

野原に突出(つきで)た山(やま)ノ端(は)の松が、私を看守(みまも)っているだろう。
それはあっさりしてても笑わない、叔父(おじ)さんのようであるだろう。
神様が気層(きそう)の底の、魚を捕っているようだ。

空が曇ったら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土(すなつち)の中に覗(のぞ)くだろう。
遠くに町が、石灰(せっかい)みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光っている。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

ためいきが夜の沼へ行き
瞬きし
パチンと音をたてる

瞬きするのは瘴気の中でのことで
パチンと音をたてるときには、怨めしげであり
――という立ち上がりの3行までは
なんとかついていけますが

なぜ木々が現れ
若い学者仲間が現われるのでしょうか?
なぜそれが、頸(くび)すじのようであるのでしょうか?

「献呈」は
これが男女の間であれば
ラブレターのようなものですから
他人(読者)が入り込む余地のない個的な経験が歌われることがあって
理解を超える部分を持つものです。

「学者仲間」が現われるのは
河上という人物の固有なキャラクター(属性)からで
詩人にとって
河上は学者といえるほどに
古今東西の教養に長けたインテリでした。

周辺の学生らも
一様に繊細(せんさい)で
品のよい首筋をしていたという観察が
「ためいき」の第1連に顔を出しました。

詩の中へすんなりと入って行くためには
「夜の沼」や「瘴気」や「怨めしげ」などの暗喩を読みながら
この「学者仲間」という1点を突破しないことには
前へ進めません。

今回はここまで。

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2014年1月13日 (月)

きらきら「初期詩篇」の世界/「ためいき」

(前回からつづく)

「夕照」の最終行で
腕拱(く)みながら歩み去る。
――と歌った詩人が
くっきりと見ていたものこそ「詩」にほかなりませんが
見えていたとしても
それを「詩の言葉」にすることは
容易なことではありませんでした。

それはそれであると思ったそばから
それでなくなり
それでないと思ったそばから
それでなくなり
永遠の問いを含むような
それでいて
永遠の答えでもあるような
言葉との格闘がはじまっていました。

昭和4年7月1日発行の「白痴群」第2号に発表された「旧稿五篇」は
どの詩も「詩についての詩」という側面をもっています。

「或る秋の日」(「山羊の歌」では「秋の一日」)
「深夜の思い」
「ためいき」
「凄じき黄昏」
「夕照」
――がその5篇です。
この5篇はすべてが「初期詩篇」へ配置されました。

「白痴群」から「初期詩篇」へ配置されたのは
このほかに「冬の雨の夜」(第5号発表)があるだけです。

中でも「ためいき」は
真正面から歌われた「詩についての詩」です。

ためいき
       河上徹太郎に 
 
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しょうき)の中で瞬(まばた)きをするであろう。
その瞬きは怨めしそうにながれながら、パチンと音をたてるだろう。
木々が若い学者仲間の、頸(くび)すじのようであるだろう。

夜が明けたら地平線に、窓が開くだろう。
荷車(にぐるま)を挽(ひ)いた百姓が、町の方へ行くだろう。
ためいきはなお深くして、
丘に響きあたる荷車の音のようであるだろう。

野原に突出(つきで)た山(やま)ノ端(は)の松が、私を看守(みまも)っているだろう。
それはあっさりしてても笑わない、叔父(おじ)さんのようであるだろう。
神様が気層(きそう)の底の、魚を捕っているようだ。

空が曇ったら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土(すなつち)の中に覗(のぞ)くだろう。
遠くに町が、石灰(せっかい)みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光っている。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「ためいき」は
河上徹太郎への献呈詩です。

上京後まもなく小林秀雄を介して知りあった二人は
「白痴群」を牽引(けんいん)する両輪となりますが
よく詩論を戦わしました。

その交流から生れたのが「ためいき」で
「山羊の歌」中の献呈詩で河上が最初に登場するのは
上京後の中也の最も早い時期の理解者(の一人)であったからでした。

今回はここまで。

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2014年1月12日 (日)

きらきら「初期詩篇」の世界/「夕照」その4

(前回からつづく)

丘々、落陽、原、山と自然を「描写」し
その中に「母」が祈り、子守唄を歌うかのようなイメージが現れる前半部は
第3連で、
かかる折しも……と繋がれますが
第4連の
かかるおりしも……は前の全3連を受けています。

「折」と「おり」と使い分けて
そのことは示されています。

このことによって
この詩の重心は
俄然、後半2連へと移動するかに見えます。

夕 照
 
丘々は、胸に手を当て
退(しりぞ)けり。
落陽(らくよう)は、慈愛(じあい)の色の
金のいろ。

原に草、
鄙唄(ひなうた)うたい
山に樹々(きぎ)、
老いてつましき心ばせ。

かかる折(おり)しも我(われ)ありぬ
少児(しょうに)に踏まれし
貝の肉。

かかるおりしも剛直(ごうちょく)の、
さあれゆかしきあきらめよ
腕拱(く)みながら歩み去る。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

貝の肉とは何なんでしょうか?
それも、小児に踏まれた――とは?

唐突に現われる
この謎めいたモノ。

近くは「凄じき黄昏」に現われた
汚れた歯を隠すニコチン――のような。

その謎を解き明かす
研究者の顔になるまでもありません。

この謎こそ
詩の原型です。

最終連の「かかるおり」が
この謎のヒントになっています。

剛直でありながら
ゆかしい(奥ゆかしい)諦め……。

こんなときであるからこそ
諦めが肝心だ。

腕拱(く)みながら歩み去る。
――は、

「黄昏」の最終行
なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩(あゆ)みだすばかりです

「帰郷」の最終行
ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云う
――などの相似形です。

歩み去った先に
見え隠れしているモノが
詩人にはくっきりと見えています。

そのモノ(原型)に促され
そのモノ(詩)へ
詩人の歩みは止まりません。

心は迸(ほとばし)ります。

今回はここまで。

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