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カテゴリー「018中原中也/「生活者」の詩群」の記事

2013年12月16日 (月)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「港市の秋」その2

(前回からつづく)

「山羊の歌」の中の「横浜もの」は
「臨終」
「秋の一日」
「港市の秋」
――の3作品です。

「都会の夏の夜」(初期詩篇)や
「冬の雨の夜」(初期詩篇)や
「わが喫煙」(少年時)なども
横浜っぽいイメージが描写されていますから
「横浜もの」に入れておかしくはないのですが
積み重ねられた研究では
そうとはみなされていません。

◇

「臨終」は
なじみの娼婦の死を悼んだ作品(大岡昇平)といわれ
彼女の死の「行く末」を思い
自らの魂(死)の行方を案じる詩人のこころが歌われます。

「秋の一日」は
「港市の秋」と同じく秋の朝を歌い
場所が異なる風景を歩きながら
その風景との距離を感じる詩人が
詩(の「切れ屑」)を探す決意を述べる詩です。

詩人が港町の風景を眺める眼差しは
嫌悪や侮蔑といったものではなく
かといって愛情あふれるものでもなく
「いまひとつ」なじめないものなのです。

にもかかわらず詩語は
その風景から拾います。

◇

「港市の秋」には
「秋の一日」にある晦渋さや
高踏的な言葉使いは後退しています。

会話が挿(はさ)まれるのは「秋の一日」と同じですが
平易な詩語に満ちているのは
制作が後だからでしょうか。

港町への懸隔感(けんかくかん)は
いっそう明確になり
「大人しすぎる町」に
詩人の座る椅子はありません。

椅子がないことに
詩人は気づいてしまったのです。

◇

港市の秋
 
石崖に、朝陽が射して
秋空は美しいかぎり。
むこうに見える港は、
蝸牛(かたつむり)の角(つの)でもあるのか

町では人々煙管(キセル)の掃除。
甍(いらか)は伸びをし
空は割れる。
役人の休み日――どてら姿だ。

『今度生れたら……』
海員が唄う。
『ぎーこたん、ばったりしょ……』
狸婆々(たぬきばば)がうたう。

  港(みなと)の市(まち)の秋の日は、
  大人しい発狂。
  私はその日人生に、
  椅子を失くした。

◇

今回はここまで。

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「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「港市の秋」

(前回からつづく)

「港市の秋」は
海の見える町を散策する詩人が
市井(しせい)の暮らしのあまりにも平和なたたずまいを見て
自身の暮らし(生き様)との隔絶感を歌った詩です。

◇

港市の秋
 
石崖に、朝陽が射して
秋空は美しいかぎり。
むこうに見える港は、
蝸牛(かたつむり)の角(つの)でもあるのか

町では人々煙管(キセル)の掃除。
甍(いらか)は伸びをし
空は割れる。
役人の休み日――どてら姿だ。

『今度生れたら……』
海員が唄う。
『ぎーこたん、ばったりしょ……』
狸婆々(たぬきばば)がうたう。

  港(みなと)の市(まち)の秋の日は、
  大人しい発狂。
  私はその日人生に、
  椅子を失くした。

◇

昭和4年に「生活者」第9号第10号に発表され
「山羊の歌」の「初期詩篇」に収録された詩は
これでお仕舞となります。

「生活者」発表の詩は「山羊の歌」ばかりでなく
「在りし日の歌」に「春」と「夏の夜」が収録されました。

詩人は「生活者」発表のすべての詩を未発表とせず
江湖(こうこ)に問うたことになります。

◇

「港市の秋」は
「横浜」を題材にした詩群の一つです。
これを「横浜もの」と呼びます。

「山羊の歌」には
「港市の秋」のほかに
「臨終」
「秋の一日」
「在りし日の歌」には
「むなしさ」
「未発表詩篇」には
「かの女」
「春と恋人」
――という「横浜もの」があります。

◇

横浜は
母フクが生まれ(明治12年)
7歳まで過ごした土地であった関係もあり
詩人はよく遊びました。

(略)横浜という所には、常なるさんざめける湍水の哀歓の音と、お母さんの少女時代の幻覚と、
謂わば歴史の純良性があるのだ。あんまりありがたいものではないが、同種療法さ。
――などと、友人の正岡忠三郎に宛てた大正15年1月の手紙に記しています。

◇

はじめは「むなしさ」が
「在りし日の歌」の冒頭詩であったことはよく知られたことです。

「横浜もの」に込めた詩人の思いは大きなものがありますが
「初期詩篇」に「港市の秋」「臨終」「秋の一日」の3作を配置していることも
それを物語っていることでしょう。

「港市の秋」は
「生活者」から「山羊の歌」へという流れを示す
唯一(ゆいつ)の詩です。

◇

「横浜もの」には
いずれも「孤独の影」のようなものが漂います。

◇

今回はここまで。

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2013年12月13日 (金)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「秋の夜空」その3

(前回からつづく)

秋の夜空に巨大スクリーンが浮かび出て
高貴な家柄の夫人たちが立食パティーに興じている
金色の灯りもまばゆく賑やかに……。

おやまあなんとおにぎわしいことと
思わず呟きのひとことも洩れ出る夜の宴。

やがて時は流れ
宴は遠い昔の影祭りへと変色し
人語も聞こえない遠景へ後退します……。

ほんのりあかるいだけの
静かな賑わしさに変わっています。

◇

夜空の星々を夫人に見立てた擬人法の詩だなどと
理屈っぽいことを言わないでも
あり得ない「夜空の宴」がくっきりと鮮やかに見えます。

上天界の宴の中に入り(近景でとらえ)
ぐるりと一周し(眺め回し)
下界から見上げる(遠景)

何度も読んでいるうちに
次第にピントが合ってくる映像詩――。

◇

近景から遠景への視点移動が逆であったら
もう少し分かりやすかったかもしれませんが
説明(描写)の順序をひっくりかえしたところに効果はあります。

◇

行末の不統一も
それほど「へんてこりん」とは思えなくなってくる
不思議な魅力のある詩です。

おにぎわしい=形容詞、現在形
いう=動詞、現在形
みやびさよ=名詞+感嘆詞
夫人たち=名詞(体言止め)
にぎわしさ=名詞
点いている=動詞、現在形
裳裾=名詞
です=助動詞現在形(ですます調)
あかるさよ=名詞+感嘆詞
上天界=名詞
影祭=名詞
賑わしさ=名詞
宴=名詞
退散した=動詞、過去形

この程度なら
ダダの「ハチャメチャ」を遠く離れています。

◇

秋の夜空に
ファンタジックな映像が見えるだけで
いいのです。

そういう詩を
遊んだのでしょうから。

◇

こんな詩の中に
あえて詩人を探そうとすれば
「字下げ」された行、

    下界(げかい)は秋の夜(よ)というに(第1連、第2連)
    私は下界で見ていたが(第3連)

――や、

それでもつれぬみやびさよ
椅子(いす)は一つもないのです。
知らないあいだに退散した。

――という「行」などに存在するのかもしれません。

そう読まないで
詩(人)の遊びを味わうのがよいのかもしれません。

◇

秋の夜空
 
これはまあ、おにぎわしい、
みんなてんでなことをいう
それでもつれぬみやびさよ
いずれ揃(そろ)って夫人たち。
    下界(げかい)は秋の夜(よ)というに
上天界(じょうてんかい)のにぎわしさ。

すべすべしている床の上、
金のカンテラ点(つ)いている。
小さな頭、長い裳裾(すそ)、
椅子(いす)は一つもないのです。
    下界は秋の夜というに
上天界のあかるさよ。

ほんのりあかるい上天界
遐(とお)き昔の影祭(かげまつり)、
しずかなしずかな賑(にぎ)わしさ
上天界の夜の宴。
    私は下界で見ていたが、
知らないあいだに退散した。

◇

今回はここまで。

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2013年12月12日 (木)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「秋の夜空」その2

(前回からつづく)

秋の夜空
 
これはまあ、おにぎわしい、
みんなてんでなことをいう
それでもつれぬみやびさよ
いずれ揃(そろ)って夫人たち。
    下界(げかい)は秋の夜(よ)というに
上天界(じょうてんかい)のにぎわしさ。

すべすべしている床の上、
金のカンテラ点(つ)いている。
小さな頭、長い裳裾(すそ)、
椅子(いす)は一つもないのです。
    下界は秋の夜というに
上天界のあかるさよ。

ほんのりあかるい上天界
遐(とお)き昔の影祭(かげまつり)、
しずかなしずかな賑(にぎ)わしさ
上天界の夜の宴。
    私は下界で見ていたが、
知らないあいだに退散した。

◇

「秋の夜空」が
上天界に集う夫人たちのお祭り(影祭)を歌った詩であることは
初めて読んだときには
最終連を読んで理解します。

2度目に読んだときには
第1連冒頭の
これはまあ、おにぎわしい
――というセリフが
お祭りの賑わいへの感想であることを理解します。

◇

ああ、夜空で夫人たちが宴に興じていて
おしゃべりをしているのだ
みんなてんでんばらばらなことを言っている
みやびやかだけどツンとしましたものだよ(第1連)

磨きのかかった床
金色に照明が輝いていて
小さな頭の八頭身美人たちが長い裾を引きずっているのだ
そこに椅子が一つも見当たりません。(第2連)

上天界はほんのりあかるく
遠い昔の影祭りだ
静かな賑わいだ
夜の宴なのだ。(第3連)

上天界の宴の様子だけを追えば
このようになります。

◇

この宴を下界からのぞき見ているのが
私=詩人です。

ひっそりと息をひそめて
上天界の影祭りを眺めているのですが
しばらくして私の知らない間にどこかへ退散してしまいました。(第3連)

◇

ここまで読み通して
「退散した」のは
夫人たちではなく私かもしれない、とか
これはまあ、おにぎわしい
――とまるで宴の中にいるようなセリフは
下界にいる詩人と辻褄があわない、とか

幾つか謎が出てきます。

そもそも
夜空の宴って何だろう、という疑問が生じてきます。

◇

今回はここまで。

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2013年12月11日 (水)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「秋の夜空」

(前回からつづく)

「秋の夜空」も「生活者」の昭和4年10月号に発表され
「山羊の歌」では「春の思い出」の次に配置されました。

秋の夜空で女性たちの宴(うたげ)が繰り広げられる様子が
ファンタジックに歌われた詩です。

「初期詩篇」の最後には「宿酔」が置かれていますから
「春の思い出」「秋の夜空」「宿酔」と
ファンタジックに仕立てられた(ファンタジックな表現を駆使した)
3作品が並んだことになります。

◇

秋の夜空
 
これはまあ、おにぎわしい、
みんなてんでなことをいう
それでもつれぬみやびさよ
いずれ揃(そろ)って夫人たち。
    下界(げかい)は秋の夜(よ)というに
上天界(じょうてんかい)のにぎわしさ。

すべすべしている床の上、
金のカンテラ点(つ)いている。
小さな頭、長い裳裾(すそ)、
椅子(いす)は一つもないのです。
    下界は秋の夜というに
上天界のあかるさよ。

ほんのりあかるい上天界
遐(とお)き昔の影祭(かげまつり)、
しずかなしずかな賑(にぎ)わしさ
上天界の夜の宴。
    私は下界で見ていたが、
知らないあいだに退散した。

◇

さーっと読めば
すんなりと宴会の風景がイメージできる不思議な詩です。

それはタイトルのせいでしょうか。
「秋の夜空」というタイトルを読んでから詩本文を読むと
夜空で宴が行われていても
違和感が生まれないからでしょうか。

それはなぜでしょうか。

◇

よく読むと
「へんてこりんな」言葉の使い方に驚かされます。

言葉使いだけでなく
矛盾だとか荒っぽさだとか
人を食ったような表現だとか
「美しい日本語」の顰蹙(ひんしゅく)を買うような
統一されない文法だとか
……が見えてきます。

◇

第一、いきなり
これはまあ、おにぎわしい、
みんなてんでなことをいう
――とは、だれか人間の台詞(セリフ)です。
劇の脚本のようなはじまりです。
これは誰がしゃべっている言葉なのでしょう。

次の、
それでもつれぬみやびさよ
いずれ揃(そろ)って夫人たち。
    下界(げかい)は秋の夜(よ)というに
上天界(じょうてんかい)のにぎわしさ。
――ではじめて「上天界」の賑わいが歌われ
「下界」は(静かな)秋の夜であることが示されているのが理解できます。

しかしこの賑わしさが第3連(最終連)では
しずかなしずかな賑わしさ
――に変わり
あかるさも
ほんのりあかるいものに変わってしまいます。

◇

第二に、
第1連の
おにぎわしい
みんなてんでなことをいう
それでもつれぬみやびさよ
――と語る人は
第2連で
椅子は一つもないのです。
――と「です(ます)調」で語る人と同一人物か、という謎。

同じく
第2連で
上天界のあかるさよ、と語る人と
第3連で退散した人物は
第1連で語る人と異なる人か同じ人か
……など。

◇

そもそも第1連に登場する「夫人たち」は何者なのか、とか。
第3連の下界で見ていた「私」に
なぜ上天界の言葉が聞えるのか、とか

おかしなこと、謎めいたことが
いっぱいあります。

◇

今回はここまで。

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2013年12月10日 (火)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「春の思い出」その2

(前回からつづく)

「春の思い出」第4連は
れんげ田で遊び呆(ほお)けた少年が
陽の落ちないうちに家に帰り着こうと走り
たどり着いた家の中が夢のような「幸福」につつまれていて
眩暈(めまい)を覚える……

……その次の瞬間、
突然、舞踏会の大光量の世界へ投げ出されて
スカートが揺れる世界を歌います。

◇

春の思い出

摘み溜(た)めしれんげの華を
  夕餉(ゆうげ)に帰る時刻となれば
立迷う春の暮靄(ぼあい)の
    土の上(へ)に叩きつけ

いまひとたびは未練で眺め
  さりげなく手を拍きつつ
路の上(へ)を走りてくれば
    (暮れのこる空よ!)

わが家(や)へと入りてみれば
  なごやかにうちまじりつつ
秋の日の夕陽の丘か炊煙(すいえん)か
    われを暈(くる)めかすもののあり

      古き代(よ)の富みし館(やかた)の
          カドリール ゆらゆるスカーツ
          カドリール ゆらゆるスカーツ
      何時(いつ)の日か絶(た)えんとはする カドリール!

◇

「字下げ」で歌われるのは
ほかの例と同じく
詩世界をもう一つの眼差しで歌う
「地(じ)」の詩人を登場させるという「詩法」によりますが。

もう一つに
それまで流れていた詩世界をよりいっそう鮮明にする
「舞台効果」のようなものを狙ったものです。

最終連で見せるこの「展開」は
起承転結に沿うよりも
「起承転転」に近く
第3連の強調・拡大といった趣(おもむき)を呈しています。

あるいは「序破急」の急を
第3連と最終連で展開している形です。

◇

この形をもつ
「夜の空」を舞台にしていてファンタジックな詩が
揃いました。

「サーカス」は
暗闇に浮き上がったサーカス小屋を歌いました。

「秋の夜空」は全篇がファンタジーです。
下界から上天界をのぞき上げる「私」を歌いました。

「春の思い出」の最終連も
少年の眼差しはいつしか
「遠いもの」を見ている詩人の眼差しになりファンタジックです。

見ているものは
やがて視界から消えてなくなるというのも同じです。

◇

「春の思い出」では
幸福の絶頂のような時間の中で
それがなくなってしまうことを少年は恐れました。
時間は止まってくれませんでした。

少年の時に抱いたこの喪失のおそれは
これを歌っている現在の詩人には
すでに失われた時です。

詩(人)はそれを振り返っているのです。
「思い出」を歌っているのです。

「思い出」を歌った詩を
詩人は幾つも残すことになります。
「春の思い出」はその初期のもので
原型のような作品です。

◇

今回はここまで。

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2013年12月 9日 (月)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「春の思い出」

(前回からつづく)

詩の結末部が
現実のものでないような
夢や幻のような幻想的な(ファンタジックな)
あるいは「超現実的な(シュール)もの」に作られている――。

その系譜にあるのが
「春の思い出」です。

この詩も「生活者」の
昭和4年10月号に発表されました。

◇

春の思い出

摘み溜(た)めしれんげの華を
  夕餉(ゆうげ)に帰る時刻となれば
立迷う春の暮靄(ぼあい)の
    土の上(へ)に叩きつけ

いまひとたびは未練で眺め
  さりげなく手を拍きつつ
路の上(へ)を走りてくれば
    (暮れのこる空よ!)

わが家(や)へと入りてみれば
  なごやかにうちまじりつつ
秋の日の夕陽の丘か炊煙(すいえん)か
    われを暈(くる)めかすもののあり

      古き代(よ)の富みし館(やかた)の
          カドリール ゆらゆるスカーツ
          カドリール ゆらゆるスカーツ
      何時(いつ)の日か絶(た)えんとはする カドリール!

◇

最終連は
第3連を受けているのですが
「わが家」はかつて富み栄えた時代の屋敷のような空間(館)に変じ
そこで催された舞踏会のシーンが呼び出されます。

◇

これは少年の日の思い出なのでしょう。

れんげの花の満開の季節。
紫紅色のはなびら一面の野原で遊んだ合間に摘み取った花束を
いざ帰る段になってはうとましくなって
道端に打ち捨てたあの時。

手の中にしおれはじめた花茎があわれで
あたりは暮れて靄(もや)っている土の上へ
せっかく採集した花の束を「叩きつけ」ました。

◇

第2連、

いまひとたびは未練で眺め
  さりげなく手を拍きつつ
路の上(へ)を走りてくれば
    (暮れのこる空よ!)

――は読みどころです。

土の上に叩きつけた花束を見て
少年は可哀想と感じつつ
その感傷を打ち消すように手払いし
家路へと走り去ったのでした。

◇

わが家へと帰り着いた少年は
和やかに家族親族うちまじり
「秋」の夕日の丘かご馳走を作るかまどの匂いか
めまいのしそうな「幸福」を見るのです。

◇

いつしかわが家は「古き代の富みし館」となり
そこで踊る老若男女
スカートがひるがえります
カドリールに興じる幸福なとき

ゆらゆらゆれるスカートが回りますが……

めくるめく「幸福」もいつかはなくなってしまう!
絶頂に際して
少年はそのはかなさを思いはじめるのでした。

この「幸福」は
「秋」でなければならないかのように歌われます。

◇

意味を追えばこうなりますが
第4連を「字下げ」としたのは
「サーカス」と同じであり
ここに「地」の詩人=作者がいます。

この部分が
ファンタジーのように仕立てられたのです。

◇

今回はここまで。

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2013年12月 7日 (土)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「サーカス」その3

(前回からつづく)

「幾時代かがありまして」とはじまり
「夜は劫々と更けまする」で閉じる
二つのナレーションの間に語られるドラマ――。

そのナレーションの眼差しには
幾分か道化(どうけ)の気分が混ざるのは
ドラマがサーカスであるからです。

ブランコは「見えるともない」ものですが
それを案内しながら演じるのは道化ですし
道化を演じるのは詩人です。
詩人はこの詩の作者でもあります。

◇

サーカス
 
幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
    今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁(はり)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(あたまさか)さに手を垂れて
  汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯(ひ)が
  安値(やす)いリボンと息を吐(は)き

観客様はみな鰯(いわし)
  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

      屋外は真ッ闇(くら) 闇の闇
      夜は劫々と更けまする
      落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと
      ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

◇

ドラマツルギーというほど大げさなものではなく
作者=詩人がドラマツルギーを意識していたかどうかも不明ですが
この詩がモノローグの要素を孕みながら
「見えるともない」空中ブランコを見ている観客の眼差しをもち
その観客を見渡している眼差しをももち
サーカス小屋の外の暗闇をも眺める現在の眼差しは
幾時代を経た後にやってきたものです。

詩(人)の眼差しは遍在し
壮大なスケールというほかにありません。

◇

時間、空間ともにスケールが大きいのですが
スケールを大きくしている仕掛けの一つが
第3連、
幾時代かがありまして
  今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
    今夜此処での一と殷盛り
――の「一と殷盛り」です。

「此処での一と殷盛り」の中に
空中ブランコが見えるともなく見えるのです。

見えるともなく見える、というのは
明らかに実際にサーカスを見ているのではなく
過去の経験を基にした「幻想」の類(たぐい)です。

幻想ですから
スケールは大きくなります。
幻想に小さいものはありません。

◇

にもかかわらず
いつしか今度は

頭倒(あたまさか)さに手を垂れ
汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)
近くの白い灯(ひ)
観客様はみな鰯
咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)
――などとリアルなサーカス(小屋)の描写に転じ
転じたところで「ゆあーんゆよーん」と
もののみごとにブランコが揺れ
サーカス小屋が揺れ
観客が揺れ
詩人の心が揺れているようなオノマトペです。

◇

この詩は最終連を「字下げ」にして
再びサーカス小屋の外の現実(リアル)にいる詩人が歌うのですが
そこは真っ暗な闇夜です。

サーカスの賑わいは微塵(みじん)もなく
ゆあーんゆよーんと
落下傘(のノスタルジー)が揺れ落ちています。

詩人がいるここは現実です。
見えているのは空中ブランコではなく落下傘で
この落下傘が茶色い戦争と遠く響き合います。

◇

今回はここまで。

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2013年12月 6日 (金)

「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「サーカス」その2

(前回からつづく)

「月」に「胸に残った戦車の地音」
「サーカス」に「茶色い戦争」「落下傘奴」
「朝の歌」に「鄙びたる軍楽の憶い」
……と戦争が歌われています。

そうとなれば
「春の日の夕暮」に「馬嘶くか」や「荷馬車の車輪」とあり
「春の夜」に「夢の裡なる隊商」とあり
「臨終」に「黒馬の瞳のひかり」とあるのも
戦争の匂いがしないでもなくなってきますが
そのように拡大解釈しなくても
「月」「サーカス」「朝の歌」には戦争が影を落としています。
前面に出ていなかったとしても。

◇

「サーカス」は「茶色い戦争」と
ズバリ「戦争」という言葉を「詩語」に使い
それをかつてあった戦争という意味で使い起こし
最後には目の前にある「ブランコ=落下傘=戦争」を暗示するかのように使います。

もちろん、戦争を文字通りに取ることもないのですが
戦争といったからには戦争で
戦争以外にない戦争のことです。
茶色であろうが黄色であろうが赤色であろうが
戦争は戦争です。

◇

中原中也は
来し方(こしかた)を振り返って戦争に喩(たと)え
その来し方は現在に至って今夜の酒=一と殷盛りとなって
サーカスを幻想するのですが
幻想の中にまた戦争が顔を出すのです。

そういう詩です。

◇

サーカス
 
幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
    今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁(はり)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(あたまさか)さに手を垂れて
  汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯(ひ)が
  安値(やす)いリボンと息を吐(は)き

観客様はみな鰯(いわし)
  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

      屋外は真ッ闇(くら) 闇の闇
      夜は劫々と更けまする
      落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと
      ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

◇

「一と殷盛り」を
酒宴としなくてもいいでしょう。

深夜の思索が高揚し
盛り上がったハイになった状態を
「殷賑(いんしん)を極める」の「殷」から取って
「一と殷盛り(ひとさかり)」としたのです。

◇

このひとさかりの幻想の戦争は
ゆあーんゆあーんと揺れるブランコに乗って現われ
サーカス小屋の中で
ゆあーんゆあーんと揺れ
観客も揺れて
小屋全体が揺れている状態です。

それが小屋の外へ
ゴーゴーと更ける真っ暗闇へと突破し
いつしか揺れるのは落下傘です。

落下傘のノスタルジーが揺れるのです
ゆあーんゆあーん、と。

◇

幾時代かがありまして――と
ナレーションのようにはじまった詩が
最終連は「字下げ」の形になって
「夜は劫々と更けまする」と
再びナレーションに戻った恰好で終わります。

これはまるでランボーのドラマツルギーです。

◇

今回はここまで。

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「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・「サーカス」

(前回からつづく)

「サーカス」は「生活者」(昭和4年10月号)に発表されたときには
「無題」というタイトルでした。

「無題」はタイトルをつけていない未完成の作品ではなく
完成作です。

やがて「サーカス」と改題されたのは
「山羊の歌」収録のときでした。

◇

「初期詩篇」では3番目にあり
かなり早い時期に作られたことが想像できますが
制作日時を断言できるものではなく
「山羊の歌」の編集方針にしたがって
詩集の冒頭部に配置されたことだけは確かなことです。

「春の日の夕暮」「月」「サーカス」……と並べたのは
どのような方針だったのでしょうか。
「未成熟」が意識されていたのでしょうか。

◇

サーカス
 
幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
    今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁(はり)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(あたまさか)さに手を垂れて
  汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯(ひ)が
  安値(やす)いリボンと息を吐(は)き

観客様はみな鰯(いわし)
  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

      屋外は真ッ闇(くら) 闇の闇
      夜は劫々と更けまする
      落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと
      ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

◇

一読して
行取り、連構成など自由な形ですし
内容もリアルとファンタジーが混ざり幻想的です。
ダダっぽさというよりシュールな感じがあり実験的です。

言葉の使い方に宮沢賢治や富永太郎らの影響もあることなどから
京都時代の制作であることも否定できませんが
ダダの影響をはなれ
新しい詩境を探っていた時期の作品であるならば
上京後の制作と考えるのが自然でしょう。

◇

独創的なオノマトペ「ゆあーんゆよーん」
そのルフラン(繰り返し)
「幾時代かがありまして」のルフランもあります。

ソネットなどの定型を志向していない
起承転結の「単調さ」がない
夢か現(うつつ)か、どちらにも受け取れるシュールな映像
「一と殷盛り」「屋蓋(やね)」など高踏的な言語使用
「真ッ闇(くら) 闇の闇」などは宮沢賢治の影響といわれています。

「サーカス」「ブランコ」というカタカナ語の鮮やかさ
音(オノマトペ)と映像(ブランコ)の融合
色彩の統制
遠大な時間が「今」に流れ込む感覚
……

つぶさに見てみると
色々と「進取的先験的な」試みが行われています。
ほかにも幾つか数え上げることができるでしょう。

破綻があるわけではなく
くっきりとしたイメージが結ばれて
現実的でもあり幻想的でもある詩世界が広がっています。

◇

「サーカス」は
詩人自らが好んで朗読し
近くにいた友人らに聞かせたり
ラジオの前の聴衆にも聞かせたりしたことで知られる詩です。

◇

今回はここまで。

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