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中原中也を歌う(曲と歌:桜木うさこさん)

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カテゴリー「さまざまな中也体験・中也論」の記事

2013年2月14日 (木)

詩人・佐々木幹郎、居酒屋で中原中也を大いに語る・最終回

読売オンライン

詩人で「新編中原中也全集」の編集委員の佐々木幹郎さんが、YOMIURI ONLINEの企画で、東京・大森の居酒屋「酒処いっこう」で中原中也を語る最終回。動画付き。

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2013年2月 6日 (水)

詩人・佐々木幹郎、居酒屋で中原中也を大いに語る・その4

YOMIURI ONLINE(読売オンライン)
詩人で「新編中原中也全集」の編集委員の佐々木幹郎さんが、YOMIURI ONLINEの企画で、東京・大森の居酒屋「酒処いっこう」で中原中也を語る第4回。動画付き。

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2013年2月 3日 (日)

詩人・佐々木幹郎、居酒屋で中原中也を大いに語る・第3回

YOMIURI ONLINE(読売オンライン)

詩人で「新編中原中也全集」の編集委員の佐々木幹郎さんが、YOMIURI ONLINEの企画で、東京・大森の居酒屋「酒処いっこう」で中原中也を語る第3回。動画付き。

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2013年1月23日 (水)

詩人・佐々木幹郎、居酒屋で中原中也を大いに語る・第2回

YOMIURI ONLINE(読売オンライン)

詩人で「新編中原中也全集」の編集委員の佐々木幹郎さんが、YOMIURI ONLINEの企画で、東京・大森の居酒屋「酒処いっこう」で中原中也を語る第2回。動画付き。

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2013年1月16日 (水)

詩人・佐々木幹郎、居酒屋で中原中也を大いに語る

YOMIURI ONLINE(読売オンライン)

詩人で「新編中原中也全集」の編集委員の佐々木幹郎さんが、YOMIURI ONLINEの企画で、東京・大森の居酒屋「酒処いっこう」で中原中也を語っています。ウイスキーを片手に、中也の詩について存分に語るという連続企画の第1回。動画付きなので、「汚れっちまった悲しみに……」を朗読するシーンも見られます。

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2012年10月 2日 (火)

中原中也に出会った詩人たち・ひとまず終りに

作品が発表された、その時点その時点で
一般読者の中に中原中也と出会った人々が生まれてきました。
出会った人とは
言い方を変えれば、一人のファンになったということでもあります。
一般読者ではなく
プロフェショナルの、学者、詩人、批評家の出会いも
各所に記述されました。

黒田三郎(1919~1980)
平井啓之(1921~1992)
中村稔(1927~)
秋山駿(1930~)
大岡信(1931~)
北川透(1935~)
長田弘(1939~)
清水昶(1940~2011)

これらの人々は
中原中也ファンのラインアップといって過言ではありません。

格別に意識したわけではないのですが
中原中也とのさまざまな出会いを
同時代者(中原中也と面識のある無しに関係なく)ではなく
中原中也没後に詩作品を通じて出会った人の発言を
手近にある書物をめくってランダムにひろっていると
このようになりました。

ほかに、
「わたしは、このようにして中原中也と出会った」と
直接的に表現しないプロフェショナルがあまた存在します。
作品論・作品批評や詩的言語を通じてしか
個人的経験、私的体験としての出会いを記述しない傾向が普通なのです。

ですから、これらはほんの一部の例です。
「派」とか「世代」とかと見出しをつけましたが
それも便宜的なものです。

そもそも、世代によって
中原中也との出会いが異なるのかどうかもわかりませんし
特徴があるのかどうかもわかりません。

仮に、詩を読む行為が
世代別に特徴をもつものであったとしても
それは、傾向に過ぎず
個々の出会いは個々以外のものではないに違いありません。

にもかかわらず
詩の読まれ方には
時代の空気や状況などの
個々の体験以外のものが反映されていることも
見てきた通りです。

戦無派とか団塊世代とかの戦後生まれの
中原中也との出会いはどのようだったのでしょうか?

新人類といわれた世代は?
団塊ジュニアたちは?
ゼロ年代は?
……

そして
現代の中学生たちは
どのように中原中也と出会うのでしょうか?
出会っているのでしょうか?

とりわけ
インターネットとともに育っている世代が
中原中也とどのように出会うのかが
興味深いものです。

詩的履歴書。――大正4年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなつた弟を歌つたのが抑々(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行(まさつら)が御暇乞(おいとまごひ)の所、「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。
大正7年、詩の好きな教生に遇(あ)ふ。恩師なり。その頃地方の新聞に短歌欄あり、短歌を投書す。
大正9年、露西亜詩人ベールィの作を雑誌で見かけて破格語法なぞといふことは、随分先から行なはれてゐることなんだなと安心す。
大正10年友人と「末黒野」なる歌集を印刷する。少しは売れた。

大正12年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。
大正13年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正14年の11月に死んだ。懐かしく思ふ。
同年秋詩の宣言を書く。「人間が不幸になつたのは、最初の反省が不可なかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかつたにしろ、政治的動物になるにはなつちまつたんだ。私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎めはしない悲嘆者なんだ。」といふのがその書き出しである。

大正14年、小林に紹介さる。
大正14年8月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。
大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた14行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす。

昭和2年春、河上に紹介さる。その頃アテネに通ふ。
同年11月、諸井三郎を訪ぬ。
昭和3年、父を失ふ。ウソついて日大に行ってるとて実は行つてなかつたのが母に知れる。母心配す。然しこつちは寧(むし)ろウソが明白にされたので過去三ケ年半の可なり辛(つら)自責感を去る。
同年5月、「朝の歌」及「臨終」諸井三郎の作曲にて発表さる。
昭和4年。同人雑誌「白痴群」出す。
昭和5年、6号が出た後廃刊となる。以後雌伏。

昭和7年、「四季」第二輯(しふ)夏号に詩3篇を掲載。
昭和8年5月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。
同年12月、結婚。
昭和9年4月、「紀元」脱退。
昭和9年12月、「ランボウ学校時代の詩」を三笠書房より刊行。
昭和10年6月、ジイド全集に「暦」を訳す。
同年10月、男児を得。
同年12月、「山羊の歌」刊行。
昭和11年6月、「ランボウ詩抄」(山本文庫)刊行。

大正4年より現今迄の制作詩篇約700。内500破棄。
大正12年より昭和8年迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の12時頃迄歩くなり。

※「新編中原中也全集」第4巻・評論・小説より。
※読みやすくするため、改行(行空き)を加え、洋数字に変更してあります。編者。

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2012年10月 1日 (月)

内向派が読んだ中原中也・秋山駿の場合

私が初めて中原中也に出会ったのは、昭和22年夏、創元社版の『中原中也全集』によってである。

――と、「出会い」という言葉を使って、
明確に中原中也を読みはじめた体験を語るのは
「知れざる炎 評伝中原中也」の著者・秋山駿です。

同書で秋山駿は続けて記します。

その頃、敗戦時の少年として、たった一人きりの生存という生に直面させられ、だからといってその不安な意識に映ずる自分も遠く、世界も遠く、生存は不可解であり、一人の人間であるということが何を意味するかも知らぬ者にとっては、彼の言葉はずいぶん優しく身に染みたが、本当は、詩集を求めたのはそういう良い動機からではなかった。

どんな詩人なのかと思って頁をパラパラめくっているうちに、年譜に「文学に耽りて落第す」とあるのを見出して、それで求めてきたのだ。そのとき私も、自分の全局面に亙ってすべてを怠けようと思っていた。

創元社版「中原中也全集」は
戦後すぐに大岡昇平編集で出された
全集という名がついた初めてのもので
簡易なものながら年譜付きでした。
この年譜の中に
略自伝である「詩的履歴書」にある
「文学に耽りて落第す」という一節が記されているのでしょう。
秋山駿はこれを読んで心に留めたのでした。

中原中也の詩は
昭和9年の「山羊の歌」、
昭和12年の「在りし日の歌」の自選詩集をはじめ
諸々の雑誌・新聞などに発表した作品群で
一般の読者にも読めるものでしたが、
没後にも、
昭和14年「現代詩集Ⅰ」に29篇、
昭和15年「昭和詩抄」に5篇、
昭和16年「歴程詩集」に7篇、
昭和17年「日本海詩集」に3篇といった具合に収録されるなど
非常時下にも細々とながら着実に紹介(評価)され続け
昭和22年に、大岡昇平編集の全集発行に至るまで
読者が維持されてきたという歴史があります。

秋山駿は1930年生まれですから
これまでここで取り上げてきたケースの中では
大岡信と中村稔の間に生まれた世代で
終戦時点でミドル・ティーンになっていますから
戦中世代といっておかしくはないのですが
「内部の人間」などの著作活動から
内向派世代ということにしておきましょう。

(つづく)

「詩的履歴書」は「我が詩観」と題する未発表評論の末尾に書かれたものです。
全文を引用しておきます。

詩的履歴書。――大正4年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなつた弟を歌つたのが抑々(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行(まさつら)が御暇乞(おいとまごひ)の所、「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。
大正7年、詩の好きな教生に遇(あ)ふ。恩師なり。その頃地方の新聞に短歌欄あり、短歌を投書す。
大正9年、露西亜詩人ベールィの作を雑誌で見かけて破格語法なぞといふことは、随分先から行なはれてゐることなんだなと安心す。
大正10年友人と「末黒野」なる歌集を印刷する。少しは売れた。

大正12年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。
大正13年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正14年の11月に死んだ。懐かしく思ふ。
同年秋詩の宣言を書く。「人間が不幸になつたのは、最初の反省が不可なかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかつたにしろ、政治的動物になるにはなつちまつたんだ。私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎めはしない悲嘆者なんだ。」といふのがその書き出しである。

大正14年、小林に紹介さる。
大正14年8月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。
大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた14行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす。

昭和2年春、河上に紹介さる。その頃アテネに通ふ。
同年11月、諸井三郎を訪ぬ。
昭和3年、父を失ふ。ウソついて日大に行ってるとて実は行つてなかつたのが母に知れる。母心配す。然しこつちは寧(むし)ろウソが明白にされたので過去三ケ年半の可なり辛(つら)自責感を去る。
同年5月、「朝の歌」及「臨終」諸井三郎の作曲にて発表さる。
昭和4年。同人雑誌「白痴群」出す。
昭和5年、6号が出た後廃刊となる。以後雌伏。

昭和7年、「四季」第二輯(しふ)夏号に詩3篇を掲載。
昭和8年5月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。
同年12月、結婚。
昭和9年4月、「紀元」脱退。
昭和9年12月、「ランボウ学校時代の詩」を三笠書房より刊行。
昭和10年6月、ジイド全集に「暦」を訳す。
同年10月、男児を得。
同年12月、「山羊の歌」刊行。
昭和11年6月、「ランボウ詩抄」(山本文庫)刊行。

大正4年より現今迄の制作詩篇約700。内500破棄。
大正12年より昭和8年迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の12時頃迄歩くなり。

※「新編中原中也全集」第4巻・評論・小説より。
※読みやすくするため、改行(行空き)を加え、洋数字に変更してあります。編者。

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2012年9月30日 (日)

全共闘世代が読んだ中原中也・清水昶の場合

わたしは中原中也のあまり良い読者ではない。好きになれなかった。中也の好きなひとびとは熱病のように彼の作品に憑かれるらしいが、たとえば「汚れつちまつた悲しみに」のような作品にみられる教科書的な感傷性をどうにもわたしには受け容れる余地がなかったのである。

――と、「アウトサイダーの悲哀・中原中也試論」を書き出すのは
1940年生まれの詩人・清水昶(しみず・あきら)です。

2011年に亡くなりましたが
学生の頃、全共闘運動の現場にいたことがよく知られている詩人で
終戦時、学齢に達していない世代です。

長田弘より1歳若いということですから
幼少期に焼け跡で遊んだという意味では同じですが
詩を発信しはじめたのが学生時代ということで
全共闘世代の詩人ということにしておきます。

清水昶は、

中也には朔太郎のような病的にとぎすまされた感性にも静雄のような浪漫的なはげしさしも光太郎のような剛直さにも、どこか欠けていて、妙に才気走った言葉への感覚が宙に浮いたまま流れているようで、そんな中也の作品から永く遠ざけていた。

――と先の文に続けた後で、
「しかしながら中也に関して一度だけ、びっくりさせられたことがある。」として、

60年代前半、京都で学生であった頃、暇潰しに裕次郎と浅岡ルリ子のでる日活の恋愛映画をみていたら、その映画に突然、中也の作品「骨」が登場したのである。たしか裕次郎がピアノを弾きながら歌っていた。裕次郎と中也の唐突な結びつき、それに中也の詩が「唄」になるということは、わたしには驚きであった。

後にレコード化されたので、わざわざ、わたしは買い求めたが、大衆娯楽映画のなかに、あえて中也の詩を引用する熱烈な「中也党」のシナリオライターがいるということは、わたしに中也の詩の読者への根強い浸透力を、あらためて感じさせたのである。

――と記します。

60年代前半に、日活の恋愛映画を見ていたというのは
その後の60年代後半に、高倉健の「網走番外地シリーズ」などを見て
学生運動の合間にエア抜きをするような流れの中にあったことを示していて
いかにも全共闘世代らしいですね。

全共闘世代はビートルズ世代ともいえるし、
雑多な関心、自由な暮らしぶり、多様な文化の洗礼を受けている……などの特徴がありますから
中原中也との邂逅(かいこう)は必然であったように見えます。

その詩人は、
裕次郎の歌唱に促されて「骨」を発見したといっているようですが
これは発見というよりは
それまで気づかないでいたものの再発見
といったほうが近い出会いだったに違いありません。

そこのところを清水は、

永くわたしを中也の作品から遠ざけていたものは、いわば、中也に対する近親憎悪のような感覚であったと、いまのわたしは考えている。

――と述べています。

いま、というのは
「アウトサイダーの悲哀」が初出した
「ユリイカ」1974年9月号の時点を指します。

石原裕次郎の歌う「骨」が
You Tubeで聴けます。

石原裕次郎の「骨」


 骨
ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖(さき)。

それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑(をか)しい。

ホラホラ、これが僕の骨——
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?

故郷(ふるさと)の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて、
見てゐるのは、——僕?
恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。

※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。

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2012年9月28日 (金)

焼け跡世代が読んだ中原中也・長田弘の場合2

1939年生まれの詩人・長田弘が
中原中也の「月の光」(一、二)に出会ったのは
同じ詩人である吉野弘(1926~)が書いた文章の中でのことでした。

それがどのような文章だったか
タイトルも書かれていないのですが
「わたしたちの初めての子どもが生まれるまえに死んでしまうという」
「きついできごと」の最中のことで
「そのときじぶんにもっともひつような労働歌のフレーズのように」
思い出したのが吉野弘が案内していた「月の光」だったそうです。

吉野弘がどのようなことを書いていたのかは問題ではなく
中原中也の「月の光」が
「きついできごと」の中でビリビリと感じ取られたということなのでしょう。

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

森の中では死んだ子が
蛍(ほたる)のやうに蹲(しやが)んでる

「月の光 その二」の最終の2連を引いて
長田弘は

こうした詩がわたしにはまず労働歌のようにやってきたということがわたしにとっての中原中也の詩のはじまりはあり、それがどれほど唐突にまた奇矯にみえようと、このようにはじまったわたしなりの中原の詩とのつきあいかたというものを、わたしは大事にしてゆきたいとおもう。

――と述べています。
そして、次のように続けます。

中原の詩における「死児」のイメージはまさに独特のものであるが、それは究極のところ、わたしたち生きているものの言葉が、わたしたちじしんの死児たちが「蛍の蹲んでるとても黒々とした森」を背後にもつべき言葉であることを、鋭く告知する原像なのではないだろうか?

――と「?」をつけて、投げかけます。

そして、このような問いに
自らこたえるかのように

ようやくいま、中原中也の詩を賑わしい伝説も惑いにみちた陶酔もなしに読みはじめたばかりだ。

――と、中原中也の世界の入り口に立ったことを述べて、この文章を結んでいます。

こうした出会いを
稀有なものといえるでしょうか?

中原中也との出会いの多くは
このように個人的な体験を通じて
偶然のように
必然のように行われて
普通であるとはいえないでしょうか?

「賑わしい伝説も惑いにみちた陶酔」もなくというのは
「まっさらで」とか「ゼロの状態で」というものではなく
「偏見なしに」くらいの意味で受け取るとよく
人はいつしか詩を読みはじめることがある、ということを示すものなのでしょう。


 *
 月の光 その一

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  お庭の隅の草叢(くさむら)に
  隠れてゐるのは死んだ児だ

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた

 *

 月の光 その二

おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

ほんに今夜は春の宵(よひ)
なまあつたかい靄(もや)もある

月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる

ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない

芝生のむかふは森でして
とても黒々してゐます

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲(しやが)んでる

※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。

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2012年9月27日 (木)

焼け跡世代が読んだ中原中也・長田弘の場合

長田弘は1939年生まれですから
北川透(1935~)よりもさらに4年ほど若い世代になります。
いわゆる「焼け跡世代」に属しますが
中原中也を30歳を過ぎて初めて読み
30歳以前に初めて中原中也を読んだ人との違いを強く意識する詩人です。

わたしは、戦後現代詩を読むことからはじめて、詩への具体的な希望とかかわりを否応なく択びとってきたひとりだ。つまり、中原中也についていえば、わたしは中原中也から詩に‘入学’したのではなかったから、中原中也を‘卒業’することがなかった。

そのためにかえって、かつてはおれも中原はよく読んだものだよ、というふうな口ぶりで中原中也を‘卒業’したもののように語る世俗の前垂れのかかった文章に、わたしはいまどのようにもなじむことができない。

そして実際わたしは、ひとがその青春期を脱けだすことによって中原の詩を‘卒業’してゆくことを自称するのとすれちがうように、むしろじぶんじしんの青春との訣れにおいてはじめて中原中也の詩を読んだのであった。

角川書店版「中原中也全集」(いわゆる旧全集)の「月報Ⅵ」にこのように記された
自分自身の青春との訣れ「において」というのは
「の中で」や「と共に」というのよりも
もっと密接な関係を示していて
青春との訣別「と同時に起こった」
個人的体験であったことを示しているようです。

長田弘は
以上の記述に続けます。

わたしの場合、青春との訣れ(もしそう名ざせるものがあれば、としてだが)は、わたしたちの初めての子どもが生まれるまえに死んでしまうという、ごくささやかではあるが、きついできごとのかたちをとった。

この個人的な体験のにがい重量をとにもかくにもじぶんたちだけで息をつめるようにしてじっともちこたえねばならなかったときに、わたしは、ずっと以前に吉野弘の文章のなかでみつけたある短かい詩のフレーズを、そのときじぶんにもっともひつような労働歌のフレーズのように突然おもいだしたのだ。中原中也の「月の光」一、二である。

「死児の歌」と題されたこの文の由来が
ここにきて明らかになります。

「月報Ⅵ」の発行日は
昭和46年(1971年)5月20日です。

(つづく)


 *
 月の光 その一

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  お庭の隅の草叢(くさむら)に
  隠れてゐるのは死んだ児だ

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた

 *

 月の光 その二

おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

ほんに今夜は春の宵(よひ)
なまあつたかい靄(もや)もある

月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる

ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない

芝生のむかふは森でして
とても黒々してゐます

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲(しやが)んでる

※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。

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