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カテゴリー「新川和江・抒情の源流その後/現代詩そぞろ歩き」の記事

2017年12月30日 (土)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之の「利根川」その2

 

 

「愛と死の数え唄」を冒頭から順に読んでくると

はじめて固有の名(地名)が現われるのが

「利根川」です。

 

これまでに、ノアとか、イヴとかが出てきますが

これは固有名でありながらも

一般化され比喩的に使われていますから

すでに固有名であることの意味をほぼ失っています。

 

「利根川」で初めて固有名が使われたのには

詩人の意図があるはずです。

 

どのような意図でしょうか。

 

なぜ利根川なのでしょうか。

 

 

巻末の「自己『半年譜』次第(抄)」を

ざっと読んで二つの記述が見つかります。

 

一つは、

昭和11年(1936)34歳の項。

 

3月半ばすぎに、疲労が出て社を休んだりしていたが、ある朝血痰が少し混っていた。菊

池社長に話したところしばらく休養するといい、というので、早速内房の佐貫の海岸へ出か

けた。

――などとあるところで

 

もう一つは、

昭和13年(1938)36歳の項に、

約1年近く房州のあちこちで過した。何篇かの詩を書く。

――とあるところ。

 

これよりずっと前の

大正12年(1923)21歳の項には

前橋の高橋元吉の住まいに食客となり

萩原朔太郎に師事した過去があり

前橋を流れる利根川上流に遊んだことが想像されるところですが

「利根川」には

直接、この前橋時代の利根川をイメージさせるものはありません。

 

いま目前にしているのは

広い川幅の利根川下流域ですが

だからといって

上流域の利根川が無縁のものであるといえば

即物的に過ぎることでしょう。

 

詩人が初めて上京したのは

そもそも砂村(現・葛飾区砂町)であり

この地は東京の東端に位置し

利根川が河口に入る房総圏に親近する地域です。

 

 

利根川は佐原のあたりで川幅がひろがつている

十月も終りにちかくなると水の色が薄くひかつて

一日中芦の影がふるえている

ふるえながらなおも流れる水に縋ろうとする

 

第4連のこの風景は

上流から流れ来たった川のイメージを

ぷんぷんと匂わせています。

 

第1連の、

そのはての茫茫とかすんでいる中流を一艘の舟が下つている

――や

その舟で遠く運ばれているのだろう

――にも

同じことが言えるでしょう。

 

はるばるとした

遠大な時間を孕(はら)んで

茫茫の

光と影の世界。

 

 

こうして、

人間は影が夢みる夢である

――と

ピンダロスを呼び出した詩(人)の意図を

それほど唐突には受け止めなくてよい姿勢になります。

 

人間は影

影が夢みる

夢みる夢。

 

この同義反覆と

茫茫と霞む利根川の流れを下っている一つの舟。

 

ピンダロスの引用は

この詩の作り(構造)を明かしています。

 

「人間は影が夢みる夢である」ように

目前の利根川は流れている

一艘の舟が河口へと下っている

ぼくたちは運ばれている。

 

「利根川」で詩人は

自らの生存の影を、影のような生存を振り返りながら

同行する女性との来し方そして行く末を

このように考える夢のような時間のなかにあります。

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年12月29日 (金)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之の「利根川」その1

 

ここ数日、「利根川」と格闘していることに

ハッと気づきます。

 

なぜ「「利根川」かを解こうとする問いが

頭のなかに巣食い

日中はさして深まらない(ように感じる)思考は

夜の睡眠のなかで活発になり

早朝、夢告としてパッと幾つかの答えが出てくるという状態。

 

ピンダロスも

ほどけてきたような感じがあります。

 

 

利根川

 

利根川はなかばまで芦がひろがつている

女のことを考えながら歩いた

オフフエリアはとうとう気が狂つたが

さてぼくたちはどちらだろう

一日一日色あせていくおもいを

そのはての茫茫とかすんでいる中流を一艘の舟が下つている

それをとどめようとしたのは間違いだつたかも知れない

とどめようとしたぼくたちが

その舟で遠く運ばれているのだろう

 

――人間は影が夢みる夢である

と言って

ピンダロスはその他のことは何も言っていない

あの勝者にかずかずの頌歌をささげたピンダロスが

アテナイの神殿をのぼる若者にひそかにその影を見ていたのだろう

 

利根川は佐原のあたりで川幅がひろがつている

十月も終りにちかくなると水の色が薄くひかつて

一日中芦の影がふるえている

ふるえながらなおも流れる水に縋ろうとする

 

きれぎれになつた倖せを 不倖せを

いまはどうつなぎ合せようがあろう

川しもへ遠ざかつた舟は罌粟粒ほどに小さくなつている

やがて空へ消えようと

心に消えようと

その上を利根川は流れつづけるだろう

 

(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」所収「愛と死の数え唄」より。)

 

 

利根川は朔太郎、元吉の生地・前橋を

直接に指すものではなく

遠く反響するものではあっても

ここでは下流域の、広い川です。

 

第3連に佐原とあり

そのあたりの芦の群生地を近景に

一艘の舟がゆっくりと海の方向へ下って行く遠景を配し

ぼくたちが

利根川の流れとともにあります。

 

流れとともにあるといっても

舟の中に乗る客ではなく

利根川を見晴るかす土手にいる位置ですが

そもそもこの詩が風景描写を意図しているものではないので

茫洋とした眼差しが捉える景色になります。

 

この眼差しは詩(人)の

明晰な意識に映し出されるもので

意識が茫洋としているものではありません。

 

 

この詩「利根川」は

*(わたしは水を通わせよう……)

*(女を愛するとは)

*(小さな時を)

*(とどまりたい 心の上に)

――とつづく詩のイントロダクション(導入)であり

包括的な役割を負っています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年12月27日 (水)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「*(わたしは水を通わせようとおもう)」

 

 

 

*(わたしは水を通わせようとおもう)

 

わたしは水を通わせようとおもう

愛する女の方へひとすじの流れをつくつて

多くのひとの心のそばを通らせながら

そのとき透明な小きざみで流れるようにしよう

うねうねとのぼつていく針鰻のむれを水の上に浮かべよう

その縁で蛙はやさしく飛び跳ね

その岸で翡翠(かわせみ)は嘴を水に浸すようにしよう

ここの水辺は

まだだれも歩いたものがないのだから

ひと知れず愛する女をそこに立たせよう

もし女が小さな声で唄いはじめたら

わたしは安心して蝉の啼いている水源地へ歩いていこう



(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」の「愛と死の数え唄」より。)

 

 

この詩は

現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」の「愛と死の数え唄」では

「利根川」の部分ですが

元は「水辺」のタイトルの独立した詩でした。

 

ということが

詩篇部末尾の編者注でわかります。

 

このアンソロジーでは

第5詩集「OB抒情歌」の編集意図を踏襲して

「水辺」のタイトルを外し

「利根川」の部分詩であるように

編者、吉田加南子により構成されたものです。

 

「水辺」の独立性を排除して

「利根川」のなかに組み入れた格好です。

 

その意図を

思いめぐらしながら読むことになります。

 

 

詩篇の再構成により

詩の読み方、読め方が変ってくるのかもしれませんが

詩集「愛と死の数え唄」を順に読んで来て

ここで初めて利根川という固有名が現れたことが

なんだか懐かしいような

いちだんと詩が近づいたようなのが

新鮮な驚きでもあります。

 

なぜ利根川なのでしょうか。

 

親しみの感覚とともに

まっさきにこの疑問が生れます。

 

 

詩人の経歴のなかに

利根川を探すとなれば

ただちに萩原朔太郎、高橋元吉の生地・前橋と

詩人とのつながりに思い至りますから

詩は前橋の利根川にもはや飛んだということになり

「愛と死の数え唄」の詩群を

あらためて睥睨(へいげい)するような感覚に立たされます。

 

あらためて

詩集のかかえる時の遠大と

詩(人)の自在な時間意識(感覚)に思いを馳せることになります。

 

そうなると

これまで読んで来た詩を

より大きな時の流れのなかで組み立て直さなければならないかもしれません。

 

いっそう詩を読むことを促されます。

 

 

この詩単体は

「水辺」のタイトルであった通り

愛する女との暮らしを水辺に擬して

これまでよりいっそうなのか

これから初めてそうしようとするのか

この水辺がだれも歩いたことのない唯一無二のものであるのだから

色とりどりの生きものが心地よく生息する新天地にしようという

詩人の願望を述べた歌のようです。

 

それ自体は

詩人が描いた美しい幸福の形です。

 

ところがこの詩を

「利根川」の流れの部分として読む時

この幸福の形は空しくなります。

 

そうなれば

詩の味わいを深めると言えるのかもしれません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年12月26日 (火)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「洪水」

 

 

現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」の「愛と死の数え唄」では

「声」の次の次に置かれてあるのが「洪水」です。

 

12番目の詩になります。

 

このあたりまでは

詩に一つひとつ題名がつけられてあり

詩を数えることができます。

 

 

洪水

 

時時刻刻に不幸の水嵩が増した

渦巻く濁流はもうとつくに魂の堤防を越えている

はるかな町の方へつづいているコンクリートの堤防は

昨日までふたりの愛に沿うて延びていた

ある時はそこへ遠廻りしてその日が豊かになつた

いま凄まじい水勢で堤防は寸断されている

そしてふたりは自分の上に離ればなれに立つている

その小さな足場もいつ水に押しながされるかわからない

ぼくたちは同じ恐怖に戦いて

大声で喚(わめ)き叫んでいる

そのあげくのはてにふたりの姿は

大きな波のひと呑みになつて見えなくなつた

 

(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」所収「愛と死の数え唄」より。)

 

 

どれほどの時間が流れたのでしょうか。

 

不幸が刻々と増大しているという時のなかに

ふたりはあります。

 

ふたりの間に

何が起きたのかなどということは

一つもことあげされません。

 

ここに出てくるふたりが

「声」に現われたふたりと同一ではないと考えるのは

気休めにすぎないことでしょう。

 

 

濁流は魂(たましい)の堤防をとおに越え

町につづいているコンクリートの堤防は

昨日までふたりの愛を結んでいたけれど

いまは寸断されている

 

ふたりは離れ離れに立っていて

その足場にいつ水が押し寄せるかわからない

 

ぼくたちは

同じ恐怖におののいて

大声でわめき

さけび

大きな波に飲み込まれて

見えなくなった――。

 

ふたりからぼくたちという

主格の変化がドラマの進行を暗示しています。

 

ぼくたちの内部に起因する愛の崩壊なのではない

何か大きな現象(波)が

ふたりの姿を消し去ってしまう

――と

ふたりの愛そのものの崩壊というより

あくまで外的な、巨大な力を歌うかのようですが……。

 

そうではなく

やはりここに、

ぼくたちは同じ恐怖に戦いて

大声で喚(わめ)き叫んでいる

――の2行が歌われてあるところを見逃してはならないことでしょう。



ぼくたちという主体が

危機に瀕していたことは確かなことでした。

 

 

いつ起きたことを

いつ書いたのかを知ることができませんが

この詩が書かれた時には

歴史的現在を書いているはずなのですから

ドラマはこの時(書いた時)

詩人のなかに生きて存在していたことを想像できます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

2017年12月24日 (日)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「声」

 

 

嵯峨信之の第1詩集「愛と死の数え唄」は1957年に発行されたものですから

55歳の発表ということですが

いったいそれぞれの詩が

いつごろに制作されたものであるのか

戦前なのか戦後なのか

見当をつけることが容易ではないので

内容から推測するしかないのには

ある種不安のようなものが残る時があります。

 

何らかの手がかりを

詩に見つけようとしますが

やすやすとは詩人の来歴や経験と結びつくものでもなく

時代の匂いさえわからないこともあり

それが逆に時を超えた詩に対座する習慣を身につけさせもします。

 

 

そうであるとはいえ

詩集には自ずと流れる「時」が存在し

まれにドラマらしきものさえ見えてくることもあります。

 

そのドラマを想像する楽しみさえ

あるといえばあります。

 

 

 

大凪の海で知りあつたのだから

ふたりは

どこの港からも遠い

 

櫂は

心のなかにしまつておいても

夜中になるとひとりでに水面をぴちやぴちやたたいている

 

ふたりは話し合うのに

はじめて自分の声をつかつた

生れたときのままの真裸の声を

 

やがてふたりは港にはいるだろう

あれほどの深い時をありふれた幸福にかえるために

ふたたびめぐり合うことのない自分を海の上に残して

 

(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」所収「愛と死の数え唄」より。)

 

 

大凪の海で知り合ったふたり――。

 

ここにドラマを読むことは

不自然ではないでしょう。

 

長い孤独の詩人に

変化が訪れたことを想像させるのは

ここに「ふたり」が現われるからです。

 

ふたりが

男と女であることを疑う余地はありません。

 

あれほどの深い時をありふれた幸福にかえるために

ふたたびめぐり合うことのない自分を海の上に残して

――という2行は

そのことを確信させるに足りるでしょう。

 

あれほどの深い時は

ありふれた幸福にかえるに値したものでした、

たとえその時をふたたび経験することがないことを知っていても。

 

 

ふたりとはだれのこと? と問うことは必要でしょうか。

 

そう問い返しても

その相手を特定することなどできるものでもありませんし

答は出てくるものでもありませんし。

 

詩に

そのことが書かれていないのですから

そのことを追求する意味ははじめからありません。

 

詩集の流れが

ここに来てたどった変化だけを受け入れれば

この詩を読むことは可能なはずです。

 

 

この詩「声」は

現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」では

「愛と死の数え唄」の10番目にありますから

これも初期作品であることでしょう。

 

孤独の色が濃い初期詩篇のなかに

その孤独をこじあけるような存在が現れます。

 

「孤独者」

「心性」

「ノアの方舟」

「別離」

「イヴ以前の女」

「時」

「夜」

「火」

「死」

――と続いてきた詩篇の中には

かすかな兆しかなかった幸福が

ここで突如現われるのです。

 

「ふたり」とともに。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年12月21日 (木)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「留守居」

 

 

 

留守居

 

ある日の午後を

じつとひとりで留守居をしている

子供の眼にうつる高い梢

その梢は遠い並木のはずれになつていて

たれも帰つてこない道がはるかにつづいている

子供はいつのまにか

たえがたい白い眠りにつつまれて

その羽根のながれのなかを漂う

きまつてくる夕がたの雨はまだこない

少し風が出てさわさわと芭蕉の葉が重くゆれる

そして子供のたましいに

どこかの遠い島がだんだん近づいてくる

                     ――都城旧居

 

(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」所収「愛と死の数え唄」より。)

 

 

この詩も第1詩集「愛と死の数え唄」にあるものです。

 

末尾にある都城は詩人出生の地ですから

上京する以前の記憶をたどって

戦後に書かれたものでしょうか。

 

孤独がここにも歌われ

それは子供のこころへ

詩への旅立ちの誘(いざな)いを生みます。

 

遠い島がだんだん近づいてくる

――は

まさしく詩への目覚めを暗示しているものですし

その目覚めの記憶をたどっての思い出(回想)と読めますし

後年、生地を訪れての確認の記録とも読めるでしょう。

 

孤独のうちに

次第に大きくかたまってくるものは

まだ遠い島でしたが

それが遠い島でなくなって後にも

詩人は宮崎に幾たびか足を運んだでしょうか。

 

 

前回読んだ「孤独者」で

促音便「つ」を小文字にしていないことを

歴史的表記と案内しましたが

これは戦後の一時期の癖ではなく

嵯峨信之、生涯にわたっての習慣であることがわかりました。

 

歴史的かな遣いへの信奉とか

むかしのものへの敬意とかというよりも

詩へのこだわりの形跡(歴史)でしょうか。

 

この詩では

「じつと」「なつていて」「帰つてこない」「きまつてくる」にあり

ほかの詩もことごとく

促音便を小文字にしていないことを知るとき

それは詩人が意識的に残したし形跡であり

形見のようなものに見えてきます。

 

 

現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」巻末の「自己『半自伝』次第(抄)」は

大正6年(1917年※1918年とあるのは誤植でしょうか)15歳の項を

東京生活も半歳になったが、

――と書き出しますから

昔の旧制中学を東京で送ったことがわかりますが

この年に単身、満州へ行き

翌1918年(大正7年、16歳)4月には宮崎へ帰ったのですから

宮崎への帰省はこの時が初めてのことになります。

 

生涯、詩人が宮崎に帰ったのが何度ほどだったか。

 

16歳の時のこの帰省が

詩人の魂に刻んだものの大きさを想像できます。

 

詩心は

この頃、湧くようでした。

 

孤独とアンニュイ。

――と書きつけたのも

この帰省を記した続きでした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年12月18日 (月)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「孤独者」

 

 

嵯峨信之の第1詩集「愛と死の数え唄」は

1957年4月に、詩学社から発行されました。

 

詩人、55歳の年でした。

 

 

孤独者

 

よく熟れた広い麦ばたけを

あらしがきて根こそぎ薙ぎ倒していつた

一瞬 ばらばらになつた金いろの麦よ

ある種のこの解放 そして私的な死

すでにおだやかな夕凪がひとびとを充たしはじめたときに

このレパートリイから一人たち去つていく者に路を開けよ

 

(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」所収「愛と死の数え唄」より。)

 

 

この詩は

現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」の一番目に置かれた作品です。

 

「愛と死の数え唄」抄の一番目ですから

冒頭詩であるかどうかは確言できませんが

いずれにしても

かなり初期の作品であることでしょう。

 

よく見ると、促音便「つ」を小字にせず

歴史的表記が残っています。

 

 

自然災害だか人事に関わる事件だか

何か困難な経験に巻き込まれ

それが収まった時に

その場を離れて新生へと向かう

大きな経験を記録している詩でしょうか。

 

新しく生きようとする私に

道を開けてくれ! と訴える叫びが

静かな口調で歌われます。

 

実際にそれがどんな経験だったのか

明らかにされませんが

その出発の詩タイトルが孤独者であることには

特別な意味がありそうです。

 

 

自己「半年譜」大正7年(1918)16歳の項に、

 

孤独とアンニュイ。それは文学が目覚める領土とは言えないだろうか。

 

――とあるのに関係するでしょうか。

 

波乱の多い生涯の半分ほどを記した伝記の

始まりに近い部分に

詩人が記した「孤独」の1語と

この孤独者は通じていることでしょうか。

 

この前年来、

詩人は一時、満州に住みます。

 

10月に東京千葉を襲った東京湾台風の被害を受け

父親の経営する砂村の家禽家畜研究所の見通しが困難になったためで

安奉線橋頭というところの木炭の集積出張所へ住んだあと

大連の銃砲店日満商会へ移り住みますが

およそ1年して引き揚げることになります。

 

目まぐるしく変化する

青春真っただ中の生活環境――。

 

こうした環境が

詩人に孤独とアンニュイを強いたのですが

それを想像するのは困難なことではありません。

 

この詩「孤独者」が

16歳のこの経験に基づいていることを示す

何ものもありませんが。

 

 

現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」は

吉田加南子の編集で作られ

「愛と死の数え唄」

「魂の中の死」(1966)

「時刻表」(1984)

「開かれる日、閉ざされる日」(1980)

「土地の名~人間の名」(1986)

「OB抒情歌」(1988)

――の6詩集からの抄出詩篇で構成されています。

 

(※1995年に出した詩集「小詩無辺」を最後に、詩人は1997年12月に亡くなります。)

 

ほぼ制作順の配列と思われますが

目次に*を付して、( )内に冒頭行を記してあるのは

最新詩集「OB抒情歌」の意図を汲んだ吉田加南子の編集によります。

 

1988年発行の「OB抒情歌」は

未発表詩篇と先行詩集への既発表作品で構成されていますが

このうちの既発表作品はすべてがタイトルを外され(無題とされ)

さらにこの既発表作品は先行詩集への発表形と異なるものが多いという

この詩集の意図を生かして

詩人の現在(現代詩文庫発行時点である1989年)の意図としたものでしょう。

 

先行詩集にあった詩のタイトルは

巻末の編者注に列挙されています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

2017年12月17日 (日)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/「ミンダの店」へ・続

 

 

「シュペルヴィエルの馬」が

誰もまだ見たことのないものを見たというのは

何だったのでしょうか?

 

何を見たというのでしょうか?

 

それは新川和江が引用した原典にあたってみないとわからないことですが

そう言ってしまっては身も蓋もないことになりますし

それがはっきりとはわからなくても

引用の目的は達成されていると受け取ることは可能のはずです。

 

そうでないと

原典にあたらなければ済まなくなります。

 

というわけで

詩をじっくりと読むことになります。

 

 

すると

「ミンダの店」のなかにそっと差しはさまれている、

 

言葉にすると嘘ばかりがふくらんで

奇妙な果実のお化けになる

――という2行に行き当たります。

 

さりげないようなこの2行ですが

この2行が

「ミンダの店」という詩の中でも

かなりの技巧を凝らさないと作れない詩行であることに気づかされます。

 

ここに奇妙な果実のお化けとあるので

果物のお店の話なのですから

自然な流れのように見えますが、

 

言葉にすると嘘ばかりがふくらんで

――という詩行は

ミンダが身を乗りだして待っている果物とは

まったく無縁のものです。

 

いつのまにか

ミンダが探しているものが

奇妙な果実のお化けと同列の存在(=言葉)に

この2行で成り変わっているような錯覚に陥りそうになりますが

ミンダが探しているのは

やはりなんらかの果実でなければならないはずです。

 

詩(人)はそのことを意識していながら

この2行を紡いだわけですから

ミンダが探しているものは

嘘で膨らんでいない言葉でもあるのです。
 

この矛盾したような流れを
いかにも自然な流れにしてしまう技術――。

 

この2行にあのエピグラフ、

その馬はうしろをふりむいて

誰もまだ見たことのないものを見た

――とが響き合っているのを見ることができるのではないでしょうか。

 

 

「ミンダの店」のミンダが探しているものは

きっと詩人が探している言葉ですが

その言葉は生半可に見つかるものではないようです。

 

毎日毎日それがやってくるであろう彼方(かなた)に

身を乗りだし

身体をよじっているために

身の半分の骨身が剥き出しになるような作業であることまでをも

含んでいるような。

 

ゾッとするような。

ゾクゾクするような。

わくわくするような。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年12月16日 (土)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/「ミンダの店」へ






神さまが吃るように書け、とシュペリヴィエルも言っているよ

――と新川和江に漏らした嵯峨信之の意図が

どのようなことであったかを正確に理解することはできないことかもしれませんし

新川和江がその言葉をどのように受け止めたかも

はっきりとはわかりません。



「ミンダの店」という新川和江の詩が

嵯峨信之の意図と直接的に関係していることではないかもかもしれません。



嵯峨信之のアドバイスと新川和江の「ミンダの店」に現われるシュペルヴィエルは

単にシュペルヴィエルという詩人の名前だけでつながっているのですが

新川和江がこの詩のエピグラフにシュペルヴィエルの言葉を引用したからには

なんらかの意図があり

それも明確な意図があるわけですから

無関係であるとも断言できません。



何か手がかりがあるのではないかということで

本道を外れるようですが

急がば回れで

「ミンダの店」をここで読んでみましょう。







ミンダの店



   ――その馬はうしろをふりむいて

      誰もまだ見たことのないものを見た

                   J・シュペルヴィエル



いろいろ果実はならべたが

店いっぱいにならべたが

ミンダはふっと思ってしまう

<なにかが足りない>

そうだ たしかになにかが足りない



たちどころに

レモンが腐る パイナップルが腐る バナナが腐る

金銭登録機(レジ)が腐る 風が腐る 広場の大時計が腐る



来るだろうか

仕入れ口に立って

ミンダは道のほうを見る

来るだろうか それを載せた配達車は?



西洋の貴婦人たちも 東洋の王も

たえて久しく味わったことのない珍果

いやいや そういうものではないな

橋の下の乞食のこどもが

汚れた指で

ある日むいたちっぽけな蜜柑

いやいや そういうものでもないな

言葉にすると嘘ばかりがふくらんで

奇妙な果実のお化けになる



ともあれミンダは

ふっと思ってしまったのだ



それ以来

片身をそがれた魚のように

はんしん骨をさらした姿勢で

ミンダは道のほうばかり見ている

それが来なければ

りんごも いちじくも 死んだまま

歴史も 絵はがきも

水道の蛇口も 死んだまま



(花神社「新川和江全詩集」所収 「ひとつの夏 たくさんの夏」より。)







「ミンダの店」は

1963年発行の第3詩集「ひとつの夏 たくさんの夏」(地球社)に収録されています。







日常のなかによく見かける場面であるような

些細であるような一瞬をとらえた映像が浮かんできます。



何かが足りないと思うこの得体の知れない欠落感は

ふっとした時にミンダが胸の中に思ってしまったところではじまり

それは次第に膨らんでいき

来る日も来る日もその不安はやむことがなく

やがてミンダは片身をそがれた魚のように

半身の骨をさらした姿勢で道のほうをずっと見ていることになり

そうして……



どうなってしまうのでしょうか。



どうにもならないで

また翌日店をあけると

このようにふっと思ってしまい

ふっと思ってしまったが最後

半身をよじって骨身をさらして(!)

また道の向うのほうを見つめている……



かならずそのようなポーズをとるという

習慣の繰り返しのおかしさを捉えたものでもありますが

そうばかりではなくて

ミンダの肉体をザクリと割るような

なにかもっと残酷で不気味な事態が起きているようでもあります。



不条理といえるような。



言葉にすると

こんなふうに嘘っぽくなり

奇妙な果実のお化けになってしまうのは

詩行にもある通り

言語表現の困難さを訴えているからかもしれません。



このように読むそばからしかし

ミンダが探しているものは

ますます遠ざかっていくものであることを訴えているのかもしれません。



あるいはミンダはこの世に存在しないものの到来を

待っているのかもしれません。



存在しないものを

永遠に待っているのかもしれません。







途中ですが

今回はここまで。


2017年12月14日 (木)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/「詩学」の詩人・嵯峨信之

 

 

木原孝一が初めて秋谷豊を知ったのは

戦時下行われていた交書会の場だったでしょうか。

 

実際にどのような言葉を交わしたのか

さだかではありませんが、

 

(略)月に1回くらい、B29の爆撃のなかを集まっては、交書会というのをやっていた。おた

がいの古本を持ち寄ってそれぞれが入札して交換し合うもので、これは空襲がはげしく

なってもつづけられた。

 

現在「詩学」の発行者である城左門は、もんぺをはき着物姿で焼跡の会場にやってきて、

憲兵やお巡りにつかまったという話もあったりしました。

 

若い詩人では中桐、木原、私など。木原は硫黄島から帰還したばかりでした。

 

――などと秋谷豊は書き残しています。

 

(「戦後詩の出発――『純粋詩』創刊の周辺」より。改行を加えました。編者。)

 

 

秋谷豊は「純粋詩」を経て「ゆうとぴあ」へ行き

やがて「地球」創刊にこぎつけるのですが

木原孝一は「荒地」に属しながら

「詩学」の編集者になります。

 

「ゆうとぴあ」が改題して「詩学」になり

その「詩学」の編集者に木原孝一がなったのですから

木原孝一は秋谷豊のあたかも後継者のような関係といえば正確さを欠きますが

後任の仕事に就いたことは確かなことでした。

 

「ゆうとぴあ」は第6号(1947年5月)で終刊になり、

第7号から「詩学」に改題しこれを創刊号としますが

この創刊号から「文芸春秋」編集者の経歴がある嵯峨信之が編集長になりました。

 

こうして嵯峨信之、木原孝一による「詩学」の

編集体制が出発します。

 

 

新川和江が第1詩集「睡り椅子」を出したのは1953年、

直後に秋谷豊の「地球」に参加します。

 

「詩学」が「睡り椅子」を広告(という言葉を新川和江は使っています)するというので

詩学社を訪れて木原孝一と会ったのもこの頃でした。

 

おそらくこの時に嵯峨信之との面識を得たはずですから

その後の交流もはじまったことでしょう。

 

新川和江24歳。

木原孝一31歳。

嵯峨信之51歳。

 

嵯峨信之は1902年生まれですから

新川和江や木原孝一のずっと上になります。

 

ちなみに中原中也は1907年生まれで

嵯峨信之が中也の年上になります。

 

 

旅情

 

ぼくにはゆるされないことだつた

かりそめの愛でしばしの時をみたすことは

それは椅子を少しそのひとに近づけるだけでいいのに

ほんとうにそんな他愛もないことなのに

 

二人が越えてきたところにゆるやかな残雪の峰々があつた

そこから山かげのしずかな水車小屋の横へ下りてきた

小屋よりも大きな水車が山桜の枝をはじきはじき

時のなかにひそかに何か充実させていた

 

ぼくたちは大きく廻る水車をいつまでもあきずに見あげた

いわば一つの不安が整然とめぐり実るのを

落ちこんだ自らのなかからまた頂きにのぼりつめるのを

 

あのひとは爽やかな重さで腰かけている

ぼくは聞くともなく遠い雲雀のさえずりに耳をかたむけている

いつのまにか旅の終りはまた新しい旅の始めだと考えはじめている

 

(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」より。)

 

 

この詩は「日本の詩歌27現代詩集」(中央公論社)に収められてある

嵯峨信之の作品。

 

初めて読んだときに

静かな調べのなかにある強固な意思みたいなものを感じたものですが

もっともっと他の詩を読んでみたくなったのは

新川和江の「ミンダの店」のエピグラフに

ジュール・シュペルヴィエルが引用されているからでありました。

 

神さまが吃るように書け、とシュペリヴィエルも言っているよ

――と新川和江に教えたのは嵯峨信之であって

そのことが嶋岡晨の新川和江論「新川和江の<詩論>」に案内されていて

シュペルヴィエルという詩人が気になっていたのですが

そのシュペルヴィエルが新川和江の詩に引用されてあったのです。

 

その引用部は、

その馬はうしろをふりむいて

誰もまだ見たことのないものを見た

――というなぞに満ちた詩行でした。

 

以来、「シュペルヴィエルの馬」は頭を離れないまま

シュペルヴィエルを熱心に読むこともないのに

なぞのまま残り続けています。

 

どうやら嵯峨信之という詩人が

新川和江とシュペルヴィエルとともに

インプットされてしまったようでした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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