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カテゴリー「041中原中也/未発表詩篇のすべて」の記事

2010年10月 9日 (土)

ノート翻訳詩1933年<9>  孟夏谿行

「孟夏谿行」は
「モウカケイコウ」と音読みし
「孟夏」は、初夏のことで
「猛烈な夏」のことではありません
夏の早い時期に渓谷に遊んだ記録を
短歌4首に残しました
昭和8年(1933年)5―8月の制作(推定)です

渓谷は
東京近辺のものではなく
山口県のどこかのものでしょうか

この年の8月
詩人は神経衰弱状態に陥り
下宿先である高森文夫の伯母が心配して
詩人の実家に報せると
故郷から弟の思郎が急遽上京して
詩人を連れ帰ったという事件が起こります

角川文庫版「中原中也全詩集」所収の年譜の
昭和8年(1933年)の項では
この件を記録していませんが
この帰郷の期間中に
湯田温泉近くの渓流へ
足を運んだことは
容易に想像されることですが

8月は孟夏ではなく盛夏ですから
この帰郷で作られた歌の可能性は低く
いったいこの「谿」は
どこにあるのだろう
いつ行ったのだろう
という疑問は残り続けます

中原中也の詩の朗読を
40年以上も続けている
歌人・福島泰樹は
「誰も語らなかった中原中也」の中で
「孟夏谿行」は
宮崎県東臼杵の高森文夫の実家を訪ねた
昭和7年(1932年)8月の旅から生まれた、
という推論を押しすすめ
ついには
中原中也が特定できないある時
この地を再訪したことがあるのではないか
という想像にまで発展させています

想像の羽は
自由に飛んでいきます

宮崎県は
歌人、若山牧水の生地でもあります
有名な

幾山河 越えさり行かば 寂しさの終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく

は、明治40年(1907年)
早稲田大学生だった牧水が
故郷宮崎への帰途
岡山県北部の哲西町にある二本松峠で
詠んだ歌といわれています

山口と岡山は
中国山地で繋がっていますから
山並みに似ているところがあった
と想像するのは無謀すぎることでしょうか

宮崎県東臼杵の山並みと
岡山県の中国山地の景色と
山口県の山並みと……

牧水の「幾山河」と
「孟夏谿行」の最終歌の「山竝」が
たとえ同じ景色を歌ったものでなかったしても
極めて近い風景であるとする想像を
だれも止め立てすることはできません

「事件」に近かった
昭和8年8月の帰郷は
2週間に満たない短いものでしたが
この4か月後に
詩人は再び帰郷し
上野孝子と見合い結婚します

 *
 孟夏谿行

この水は、いづれに行くや夏の日の、
山は繁れり、しずもりかへる

瀬の音は、とほに消えゆき
乗れる馬車、馬車の音のみ聞こえゐるかも

この橋は、土橋、木橋か、石橋か、
蹄の音に耳傾くる

山竝は、しだいにあまた、移りゆく
展望のたびにあらたなるかも

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月 5日 (火)

ノート翻訳詩1933年<8>  Qu'est-ce que c'est?

「Qu'est-ce que c'est?」は
「ケ ス クセ?」と発音する
フランス語で「それは何?」の意味です
英語の「What is it?」に相当します

昭和8年(1933年)5―8月制作(推定)で
前3作に続いて
「ノート翻訳詩」の中で蛙を歌った詩の
最後の作品になります

フランス語の修得をはじめてから
何年ほどの月日を経たのでしょうか
詩人は
この詩を書いた年
昭和8年(1933年)の3月に
東京外国語専修科(仏語)を修了しました
同校への入学は昭和6年(1931年)4月でした

前年昭和7年(1932年)5月ころからは
自宅でフランス語の個人教授をはじめています
その前々年の昭和5年(1930年)秋には
阿部六郎の家に寄宿していた吉田秀和を知り
フランス語を教えた
という有名な話もあります

昭和4年(1929年)夏には
彫刻家・高田博厚を知りますが
その高田が渡仏するのは昭和6年(1931年)2月で
このことで詩人は
フランス行きの願望をいやましに募らせました

古くは
京都で富永太郎らに
フランス象徴詩の存在を教わったのにはじまります

上京後は富永を通じて知った
小林秀雄をはじめ
当時、東大仏文科の学生であり
のちに文学、学術、文化、芸術、政治……
各方面で活躍することになる
錚々(そうそう)たる顔ぶれとも接点をもち
学生のみならず辰野隆、阿部六郎ら
教授との交流も広めます

音楽集団「スルヤ」も
文学同人誌「白痴群」も
知的文化的エリートの集まりでした

上京翌年の大正15年・昭和元年(1926年)9月には
日本大学予科へ入学
すぐに退学してしまいますが
またすぐにアテネ・フランセへ通いはじめ
河上徹太郎を知るのもこのころですし
ベルレーヌの翻訳の発表は
昭和4年(1929年)にはじめています

この詩「Qu'est-ce que c'est?」を作ったころには
同人誌などに盛んに翻訳を発表
12月には
「ランボオ詩集(学校時代の詩)」(三笠書房)を刊行します

おおざっぱに見ても
詩人のフランス熱は
思いつきといったものではなく
詩を書くことと
直に結びついていました

詩人として生きていく経歴の中で
詩作だけでは生業(なりわい)が成り立たないことを
骨身にしみて感じ続けた詩人ですから
フランス(フランス語)は
生きる糧(かて)になり得るという
希望のようなものでした

さて
「Qu'est-ce que c'est?」という
蛙を歌ったはずの詩は
いま
蛙の声が喚起する「何か」について
言い及んでいます

その「何か」とは

蛙が鳴くこと
月が空を泳ぐこと
僕がかうして何時までも立つてゐること
黒々と森が彼方(かなた)にあること
……

のような
常住坐臥(じょうじゅうざが)のこととも異なる
もっと違う何かです

詩人という存在
というよりも
詩人が、人間が、
生きているということの
核心にあるものへ
触れてくる何かのことのようです

名づけ得ないその「何か」は
Qu'est-ce que c'est?と
フランス語で問うしかないほどに
遠くにあるような
近くにあるような……
とらえがたいもの? こと?

 *
 Qu'est-ce que c'est?

蛙が鳴くことも、
月が空を泳ぐことも、
僕がかうして何時までも立つてゐることも、
黒々と森が彼方(かなた)にあることも、
これはみんな暗がりでとある時出つくはす、
見知越(みしりご)しであるやうな初見であるやうな、
あの歯の抜けた妖婆(ようば)のやうに、
それはのつぴきならぬことでまた
逃れようと思へば何時でも逃れてゐられる
さういふふうなことなんだ、あゝさうだと思つて、
坐臥常住の常識観に、
僕はすばらしい籐椅子にでも倚つかゝるやうに倚つかゝり、
とにかくまづ羞恥の感を押鎮(おしし)づめ、
ともかくも和やかに誰彼のへだてもなくお辞儀を致すことを覚え、
なに、平和にはやつてゐるが、
蛙の声を聞く時は、
何かを僕はおもひ出す。何か、何かを、
おもひだす。

Qu'est-ce que c'est?

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月 4日 (月)

ノート翻訳詩1933年<7>  (蛙等が、どんなに鳴かうと)

(蛙等が、どんなに鳴かうと)も
(蛙等は月を見ない)に続いて
蛙を歌いますから
「蛙声(郊外では)」にはじまる蛙の歌の3番手の詩になります
制作も昭和8年(1933年)5―8月の推定

前作(蛙等は月を見ない)は
4行3連ですが
(蛙等が、どんなに鳴かうと)は
5行3連の詩ですから
新たに独立した詩が作られたということになります

前作で
詩人はいったいどこにいるのだろうかとの
疑問が湧きましたが
その答えのヒントになるかのように

第3連の

僕はどちらかといふと蛙であるか
どちらかといへば月であるか
沼をにらむ僕こそ狂人

という、抹消された詩句を読みましたが
この詩句を引き受けるように
(蛙等が、どんなに鳴かうと)で
詩人は
蛙も月も忘れようと述べ
もっと営々としたいとなみが
どこかにあるような気がすると
蛙でも月でもない世界のスタンスを
歌い出すのです

しかし
営々と働きたい仕事が
どんな仕事であるのか
どのようにすれば見つかるのか
いっこうに分かりません

蛙の尽きるともない合唱を聴き
月を眺め
月の前を通りすぎてゆく雲を眺めて
僕はいつまでも立っているのです

いつかは営々と働くことのできる
甲斐のある仕事があるだろうという
あいまいな気持ちを抱えたまま……。

 *
 (蛙等が、どんなに鳴かうと)

蛙等が、どんなに鳴かうと
月が、どんなに空の遊泳術に秀でてゐようと、
僕はそれらを忘れたいものと思つてゐる
もつと営々と、営々といとなみたいいとなみが
もつとどこかにあるといふやうな気がしてゐる。

月が、どんなに空の遊泳術に秀でてゐようと、
蛙等がどんなに鳴かうと、
僕は営々と、もつと営々と働きたいと思つてゐる。
それが何の仕事か、どうしてみつけたものか、
僕はいつかうに知らないでゐる

僕は蛙を聴き
月を見、月の前を過ぎる雲を見て、
僕は立つてゐる、何時までも立つてゐる。
そして自分にも、何時かは仕事が、
甲斐のある仕事があるだらうといふやうな気持がしてゐる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月 3日 (日)

ノート翻訳詩1933年<6>  (蛙等は月を見ない)

(蛙等は月を見ない)は
「ノート翻訳詩」中の
蛙を歌った詩では2番手の作品で
昭和8年(1933)5―8月制作(推定)

蛙(沼)
月(雲)
僕=詩人

この3者の関係が
くっきりと
詩の構造を形づくる
わかりやすい詩ですが……

僕=詩人がいる此処は月(雲)の世界であり
僕は月と雲のどちらでもなく
どちらかでもありそうで
でも、月そのものではなく
雲そのものでもなく

僕が此処にいるのを
蛙等は
知りもしないで
ただ蛙同志で鳴いている

ということを歌っているのは分かりますが
蛙(沼)に託されたメタファーは何か
月(雲)に託されたメタファーは何か
ということが疑問として残ります

イソップの
「蟻とキリギリス」の物語を思わせもしますが
こちらは物語とまではなっていないし
蛙等と月(雲)と僕の位置を描写しているだけだから
存在論とか関係論とかの範囲なのかなあと
考えてしまうところですですが……

詩人はどこにいるのかと
読み直してみると
雲なのかと思えもしますが
やがて月ではないかと見えてきます

月は
蛙等の存在など思ってみたこともなく
美しく着飾り
真っ直ぐな姿勢を保ち
歌うのにいそがしいのですから
これは詩人のスタンスのようですが……
いやそうではなくて

月と雲がある世界に
詩人はいるのは確かですが
月でも雲でもない存在で
僕と月と雲は同じ仲間であっても
相容れない異なる存在なのです

そうして
此処=月も雲もあるところにいる詩人=僕を
地上の沼にいる蛙等は知らないで
いっせいに鳴いているのです

だからどうしたの?
と問うことは
この詩にとって無意味なことのはずですが
もしそう問えば
一つのヒントとして
「ノート翻訳詩」に書かれたこの詩篇への
詩人本人による加筆訂正の跡が
答えてくれるかもしれません

第3連には

僕はどちらかといふと蛙であるか
どちらかといへば月であるか
沼をにらむ僕こそ狂人

という詩句が書かれ
推敲段階で抹消されているそうです
(新全集第2巻・解題篇)

ということは
これまでの推論をひっくり返すようですが
詩人は蛙に自身を投影する心をも
持ち合わせていたということになります

 *
 (蛙等は月を見ない)

蛙等は月を見ない
恐らく月の存在を知らない
彼等は彼等同志暗い沼の上で
蛙同志いつせいに鳴いてゐる。

月は彼等を知らない
恐らく彼等の存在を思つてみたこともない
月は緞子(どんす)の着物を着て
姿勢を正し、月は長嘯(ちょうしょう)に忙がしい。

月は雲にかくれ、月は雲をわけてあらはれ、
雲と雲とは離れ、雲と雲とは近づくものを、
僕はゐる、此処(ここ)にゐるのを、彼等は、
いつせいに、蛙等は蛙同志で鳴いてゐる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

*長嘯(ちょうしょう) 声を長く引いて詩や歌を吟ずること。

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2010年10月 2日 (土)

ノート翻訳詩1933年<5> 蛙声(郊外では)

「蛙声(郊外では)」は
カワズゴエか
カエルゴエか
アセイか
読み方についての詩人本人の指示はなく
どう読んでいいのか
確定できません

(「井の蛙、大海を知らず」ということわざがあり、見聞の狭い人をあざける意味がありますが、井の中の蛙を「井蛙=セイア」といいます。「蛙」は音読みで「ア」ですから、蛙声は「アセイ」と読めますが、中原中也がそう読ませたかったのかは分かりません)

「在りし日の歌」の最終詩篇に
同名タイトル「蛙声」で
「天は地を蓋ひ、そして、地には偶々池がある。」と
はじまる有名な作品があり
「その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いているのであらう?」と
蛙が登場することも広く知られたことです
(「四季」昭和12年7月号初出)

「桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ鳴いてゐた」と
3回のルフランで歌われる
「桑名の駅」の蛙も心に残ります
(「文学界」昭和12年12月号発表、
昭和12年8月12日制作)

蛙が現れる詩は
ほかにもあるかもしれませんが
「ノート翻訳詩」中にも
(蛙等は月を見ない)
(蛙等が、どんなに鳴かうと)
「Qu'est-ce que c'est?」
の3篇があり
この「蛙声(郊外では)」に続きますが
これら4篇すべてが
昭和8年(1933年)5―8月の制作(推定)という点は
大変、興味を引かれるところです

蛙の鳴く声が
特別に詩想を掻き立てる理由があったのでしょうか
詩人は
蛙をモチーフにした詩を
集中して4篇も歌ったのです
その1番手が
「蛙声(郊外に)」ですが
はじめですから

夜の沼のような野原で
蛙が鳴くのを
毎年の
残酷な
夏の宿命のような
月のある晩もない晩も
儀式のように
義務のように
地の果てにまで
月の中にまでしみこめとばかり
廃墟礼賛の唱歌のように
蛙は鳴く

と遠景で蛙をとらえ
外側から蛙にアプローチしていきます

この作品には
「在りし日の歌」の「後記」の前に置かれ
詩集の最終詩篇である「蛙声」の
沈鬱さはありませんが
やがてはそこに通じていく
序奏のような響きが流れています

 *
 蛙声(郊外では)

郊外では、
夜は沼のやうに見える野原の中に、
蛙が鳴く。

それは残酷な、
消極も積極もない夏の夜の宿命のやうに、
毎年のことだ。

郊外では、
毎年のことだ今時分になると沼のやうな野原の中に、
蛙が鳴く。

月のある晩もない晩も、
いちやうに厳かな儀式のやうに義務のやうに、
地平の果にまで、

月の中にまで、
しみこめとばかりに廃墟礼讃の唱歌のやうに、
蛙が鳴く。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月 1日 (金)

ノート翻訳詩1933年<4> 小景

「小景」は
ここに至る3作品が
太字用ペン、黒インクで書かれていたのと異なり
太字用ペン、ブルーブラックのインクで書かれ
筆跡は同じながら
文字が小ぶりになり
以後、「ノート翻訳詩」の未発表詩篇は
すべてこれと同様の書かれ方になります

ということが
角川新旧全集編集委員会の考証で
判明しているのです

ペンを複数持っていたのか
インクだけ取り替えることができたのか
詩人が
インクの色を変える作業をしている姿が
目に浮びます

インクを変えて
作られた詩は
さて、どこの景色なのでしょうか

第1連第3行の「荷足」は
「荷足り船(にたりぶね)」のことで
関東の河川や江戸湾で
小荷物の運搬に使われた
小形の和船を指します
船という字が省略されて
「荷足=にたり」といえば
「荷足り船」を指すことが多かったようです

この詩を書いた当時
詩人は
荏原郡馬込町北千束に住んでいましたから
東京湾方面へ足を運んだことが
あったに違いなく
そこで荷足り船を見かけたのでしょうか

あるいは
隅田川方面への散策で
運河を通行する
荷足り船を
目撃したのでしょうか

詩人の眼差しは
そのときに見た
「船頭」へと向けられてゆくのが
いかにも詩人好みのモチーフにつながり
「荷足」は実は
船頭を登場させるための
動機にほかならないことが後で分かってきます

船頭が単身で船を操る動きを
詩人は追いかけます

周到で
細心で
大胆で
軽妙で
権力的で
ずるがしそうでもあり
誠実そうでもあり
ゆるぎない
……

詩人に
どこか似ているものをも
見つけたのでしょうか
船頭の動きを見る眼には
人間を観察する眼があります

 *
 小景

河の水は濁つて
夕陽を映して錆色をしてゐる。
荷足(にたり)はしづしづとやつて来る。
竿さしてやつて来る。
その船頭の足の皮は、
乾いた舟板の上を往つたり来たりする。

荷足はしづしづと下つてゆく。
竿さして下つてゆく。
船頭は時偶(ときたま)一寸(ちょっと)よそ見して、
竿さすことは忘れない。
船頭は竿さしてゆく。
船頭は、夕焼のそらさして下る。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

*第3行「しづしづ」の原文は、前の「しづ」に2倍文字の繰り返し記号「く」が連なった表記です。(編者)

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2010年9月30日 (木)

ノート翻訳詩1933年<3> (卓子に、俯いてする夢想にも倦きると)

(卓子に、俯いてする夢想にも倦きると)は
(僕の夢は破れて、其処に血を流した)と
(土を見るがいい)の2篇とともに
連続して作られたことが分かっている作品で
昭和8年(1933年)5―8月制作と推定されています

2字下げとか
同一漢字の繰り返しとか
詩の視覚的な形へのこだわりなど
ダダを思わせる手法が現れて
若き日の詩人を
思い出させる作品です

むろん
ダダそのものへ回帰したとはいえませんが
時折このように
ダダは顔をもたげ
詩に豊な表情を与えます

「逐(お)ひやらる、小さな雲」に
詩人が投影されている
と読んで
間違いはないでしょう

ああでもない
こうでもない、と
希望に満ちたばかりでもない
夢想に耽る深夜
くたびれて窓を開けると
東京の空にも
星がまたたき
星の向こうには
漆黒の蒼穹が張りつき
風が雲を追いやっています

しばらくして
窓を閉めても
詩人の脳裏には
星がまたたく漆黒の空が
残ります

その星の空? 否、否、否、
否 否 否 否 否 否 否 否 否否否否否否否否

は、その星の空が
冷たく光るだけの
無機質な「否定」としか映らない
詩人のこの日の気持ちを
明らかにし
詩人を
受け入れるものではありません

星の空は
言葉を持ちません
言葉を話しません

 *
 (卓子に、俯いてする夢想にも倦きると)

卓子(テーブル)に、俯(うつむ)いてする夢想にも倦(あ)きると、
僕は窓を開けて僕はみるのだ

  星とその、背後の空と、
  石盤の、冷たさに似て、
  吹く風と、逐(お)ひやらる、小さな雲と

窓を閉めれば星の空、その星の空
その星の空? 否、否、否、
否 否 否 否 否 否 否 否 否否否否否否否否

《星は、何を、話したがつてゐたのだらう?》
《星はなんにも語らうとしてはゐない。》

《では、あれは、何を語らうとしてゐたのだらう?》
《なんにも、語らうと、してはゐない。》

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
※原作の二重パーレンは《 》で代用しています。(編者)

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2010年9月29日 (水)

ノート翻訳詩1933年<2>(土を見るがいい)

(土を見るがいい)は
(僕の夢は破れて、其処に血を流した)と
(卓子に、俯いてする夢想にも倦きると)ともに
同じインク、同じ筆跡であることから
連続して書かれたと推定され
昭和8年(1933年)5月―8月制作と
推定される作品です

このころ
詩人が住んでいたのは
荏原郡馬込町北千束621淵江方で
淵江は
前年1932年(昭和7年)末に知り合った
年下の詩人・高森文夫の伯母の姓です

このころの詩人の活動を
年譜でたどっておきます

昭和7年(1932年) 25歳

4月、「山羊の歌」の編集を始める。
5月頃から自宅でフランス語の個人教授を始める。
6月、「山羊の歌」予約募集の通知を出し、10名程の申し込みがあった。
7月に第2回の予約募集を行うが結果は変わらなかった。
8月、宮崎の高森文夫宅へ行き、高森とともに青島、天草、長崎へ旅行する。この後、馬込町北千の高森文夫の伯母の淵江方に転居。高森とその弟の淳夫が同居。
9月、祖母スエ(フクの実母)が死去、74歳。母からもらった300円で「山羊の歌」の印刷にかかるが、本文を印刷しただけで資金が続かず、印刷し終えた本文と紙型を安原喜弘に預ける。
12月、「ゴッホ」(玉川大学出版部)を刊行。著者名義は安原喜弘。
このころ、高森の伯母を通じて酒場ウィンゾアーの女給洋子(坂本睦子)に結婚を申し込むが断られる。
このころ、神経衰弱が極限に達する。高森の伯母が心配して年末フクに手紙を出す。

「白痴群」の僚友・安原喜弘が
「魂の最大の惑乱時代がやがて始まる」
と記すのは
昭和7年8月23日付け中也発安原宛の書簡への
コメントの中においてであります

昭和8年(1933年) 26歳

3月、東京外国語学校専修科仏語修了。
4月、「山羊の歌」を芝書店に持ち込むが断られる。
5月、牧野信一、坂口安吾の紹介で同人雑誌「紀元」に加わる。
6月、「春の日の夕暮」を「半仙戯」に発表。同誌に翻訳などの発表続く。
7月、「帰郷」他2篇を「四季」に発表。
同月、読売新聞の懸賞小説「東京祭」に応募したが落選。
9月頃、江川書房から「山羊の歌」を刊行する予定だったが実現しなかった。
同月、「紀元」創刊号に「凄まじき黄昏」「秋」。以降定期的に詩、翻訳を同誌に発表。
12月、遠縁の上野孝子と結婚(結婚式は湯田温泉の西村屋旅館)。四谷の花園アパートに新居を構える。同アパートには青山二郎が住んでいた。青山の部屋には小林秀雄・河上徹太郎ら文学仲間が集まり、「青山学院」と称された。
同月、三笠書房より『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を刊行。

「魂の最大の惑乱時代」は
旺盛な詩人としての活動と
ウラハラのようでした。
年末には
突然のように
結婚します。

(土を見るがいい)に登場する葱は
葱畑に生育する葱で
昭和8年当時
東京にも農家があり
農家でなくとも
民家の路地には
葱を栽培する風景が見られたはずです

その葱の揺れ方は赤ン坊の脛(はぎ)に似てゐる。

は、「葱坊主(ねぎぼうず)」からの連想ではなく
詩人の独創らしいのですが
葱の揺れ方が
赤ン坊の脛=赤ん坊のふくらはぎに似ているとは
絶妙です
ステロタイプな表現への
繊細な否定が
ここにあります

1連6行の2連の作品は
小品のうちに入るでしょうが
ピリリとひきしまった
緊張感がただよって
名品です

 *
 (土を見るがいい)

土を見るがいい、
土は水を含むで黒く
のつかつてる石ころだけは夜目にも白く、
風は吹き、頸に寒く
風は吹き、雨雲を呼び、
にぢられた草にはつらく、

風は吹き、樹の葉をそよぎ
風は吹き、黒々と吹き
葱(ねぎ)はすつぽりと立つてゐる
その葱を吹き、
その葱の揺れ方は赤ン坊の脛(はぎ)に似てゐる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月28日 (火)

ノート翻訳詩1933年<1>(僕の夢は破れて、其処に血を流した)

(僕の夢は破れて、其処に血を流した)は
昭和8年(1933年)5―8月制作(推定)とされ
(土を見るがいい)
(卓子に、俯いてする夢にも倦きると)とともに
連続して作られたらしいことが分かっている作品です

3篇ともに
「雲」が登場し
苦悩のシンボルのように
月を隠したり
雨雲になったり
星を追いやる小さな雲として現れたりします

「白痴群」の廃刊・解散は
詩人を苦境に立たせ
3年の歳月が流れています

前年1932年春に編集し終わった
第一詩集「山羊の歌」の出版交渉は
何度も何度も
頓挫しそうになります

僕の夢は破れて、其処に血を流した

この1行は
かなりリアルに近い状況でした

ひどい苦境にあるとき
ふっと
自分の姿を一歩引いて眺めてみる
というようなことが
起こるものといってよいでしょうか

笑えてしまいそうなくらい
泣き出しそうな自分に

《泣かないな、
俺は泣いてゐないな》

と呟いてみる瞬間を
人は人知れず
味わうことがある
といってよいでしょうか

そんなときに
おまけのように
何かの拍子に(?)
机の角にぶっつけでもして(?)
鼻血まで出してしまう
泣きっ面に蜂……

人からは
そのようにしか見えない
苦悩……

 *
 (僕の夢は破れて、其処に血を流した)

僕の夢は破れて、其処(そこ)に血を流した。
あとにはキラキラ、星が光つてゐた。

雲は流れ
月は隠され、
声はほのぼのと芒(すすき)の穂にまつはりついた。

《泣かないな、
俺は泣いてゐないな》

僕はさういつてみるのであつた。

涙も出なかつた。鼻血も出た。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月27日 (月)

ノート翻訳詩(1933年)について

「ノート翻訳詩」は
中原中也が使っていた
「ノート小年時」と同種のノートで
表表紙に詩人の筆跡で
「翻訳詩」と書かれてあるため
このノートの名を角川版編者そう呼び
広く通用しているものです

このノートには
ランボーやネルヴァルらの翻訳詩14篇のほかに
未発表詩篇8篇と
「孟夏谿行」と題された短歌4首
および断片が記されましたが
翻訳詩14篇は「翻訳」に分類され
断片は「評論・小説」に分類されるため
「未発表詩篇」には収録されません

「未発表詩篇」に
「ノート翻訳詩」として収録されるのは
これらの未発表詩篇と短歌4首だけで
いずれも昭和8年の制作と推定されますから
「ノート翻訳詩(1933年)」と表記されます

ややこしい話ですが
「ノート翻訳詩(1933年)」には
翻訳詩は収録されないのです

「ノート翻訳詩(1933年)」に
収録されている作品の内訳をみると

(僕の夢は破れて、其処に血を流した)
(土を見るがいい)
(卓子に、俯いてする夢想にも倦きると)
小景
蛙声(郊外では)
(蛙等は月を見ない)
(蛙等が、どんなに鳴かうと)
Qu'est-ce que c'est?
孟夏谿行(短歌4首)

というラインナップになります

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